第三節 宇宙の上位にある者の放課後 その2
「なぜここに来なければならないのだ!」
「部活でしょ」
ガリガリ君を入手した二人は、なぜか旧校舎の二階の薄汚い教室にいた。
ちなみに、アイス二つ分の代金は光安が支払っている。不思議なことに、彼はあれだけ文句を言いながらも、自分が支払うことには何ら異議を唱えなかった。いや、賢明な読者ならば、全く不思議ではないだろうが。
店に到着してから買い物を終えるまでの間、例によって光安と裕美は恋人同士になっていた。可愛い彼女に、彼は得意げにスウィーツをおごり、彼女はますます彼に夢中になる……という設定だった。ガリガリ君で夢中になる彼女というのもどうかと思うが、そこはあくまで設定なので深く追求しても仕方がない。
もちろん現在はそんな設定ではなく、昨日現れた迷惑な魔女と、いじられっぱなしのバカに戻っている。光安が嘆いたり怒り出す気配はない。そしてこの教室が、授業に使われているような気配もない。
広さは普通の教室と同じぐらいだが、机も椅子もメチャクチャに並んでいる。いや、並んでいる、という表現はふさわしくない。その上には何やら厚紙やコピーの束や教科書らしき物体が、ほこりをかぶって見え隠れしている。物置と呼んで全く差し支えない……というか、物置では美化しすぎである。
「非常に汚い部屋だわ」
「当たり前だ! ……だいたい、鍵かかってただろ」
「鍵は開けるためにあるのよ」
光安の言うように、ここは基本的に開かずの間であった。なので彼自身も一度も中を見たことはないし、その存在すら忘れていた。だから裕美がわざわざこの教室の前に立った時点でも、彼はまだ、何かの冗談だと思っていたのである。
しかし裕美は扉を開けてしまった。鍵は確かにかかっていたようだが、彼女が扉に手をかけて力を入れると、何事もなく開いた。よほど注意しなければ、そもそも魔法で鍵を解除したこと自体が分からないほど、ごく自然な動作だった。
「とりあえずアンタ、電気つけて」
「……この状況で何をしたいんだ」
至極真っ当な意見を吐いた光安は、不機嫌そうな顔のまま、どうにか電灯のスイッチに手をのばす。教室だけあって、スイッチの位置はほぼ予想通りの場所だった。
そして、彼はようやく気付いたようだ。いったいなぜこんな部屋に踏み込んだのか? そもそも裕美は、それを秘密になどしていなかったが、彼の頭脳が理解するまでには時間がかかった。
そう。実はここが将棋部の部室であった。
将棋部は歴史のある文化系の部活だが、二十年以上前に廃部となり、その十年後に復活したという。ただし復活といっても、はじめから幽霊部であった。この高校では、生徒全員が何らかの部活に所属しなければならないため、帰宅部志望の人間向けに再興されたのである。
なので部室はあってもなくても同じだが、形式的にはこの教室が割り当てられている。ここなら、活動中の部とは絶対にかぶらないからである。
「………付けなさいよ」
「スイッチなら押したぞ!」
「あっそ」
蛍光灯はすべて切れているらしく、光安がスイッチを押しても、何の変化もなかった。よく見ると、半分以上はそもそもソケットだけで、光らせようがない。どれほど長い間、ここが廃墟であり続けたかを雄弁に物語っている。
しかし裕美が一言つぶやいた瞬間に、すべての蛍光灯が光り出した。なかったはずのソケットにもちゃんと刺さっていて、蛍光灯とは思えないほどの強い光を放っている。あまりにまぶしくて、ついた瞬間は光安の視界が真っ白になったほどだ。
「やっぱり今時ならLEDかな。エコポイントはなくなっても、学校はエコじゃないとね」
「無駄な明かりを付けない方がよっぽどエコだろ」
「じゃあ食べましょ」
「………」
光安の台詞はなかなか良かった。決まっていた。しかし裕美には何事もなく無視された。あからさまに不満な顔で、ガリガリ君を囓り始める彼は、少しだけ哀れである。
とはいえ彼は、たとえ不満そうな顔でもガリガリ君を食べることはやめなかった、と表現する方が正確だ。自分の金で買ったことに気付いていないにも関わらず、与えられた食糧に対しては、ただひたすらに誠実であろうとする光安。つまりは世に言う貧乏性に他ならない。
九月末にしては涼しくないとはいえ、もうアイスの季節は終わろうとしている。どうせなら高級アイスで食べ納めでもすれば良いのに、なぜガリガリ君なんだ……と私なら思うが、この様子では高級アイスクリームなど食べたこともなさそうだ。非常に哀れである。
「まだ怒ってんの?」
「怒ってるわけじゃない。ここで食うのが不満なだけだ」
「部活って感じがするでしょ」
「するかよ」
念のために断っておく。現在、若い男女が、学校の誰もが存在を忘れているという教室にいる。周りに人の気配はない。そして二人っきりの男女は同級生で、何でも話し合える仲だ。少なくとも男は、女に対して何も隠し事がないほどに親密だ。見事に不純異性交遊の条件を満たしている。危険な香りが漂う。十六歳の男女の物語が十八禁になりそうである。
……冗談はさておき、既に暑いというほどでもない夕方だったので、食べ終わる頃には身体が冷え始めたらしい。わずかに身体を縮こまらせながら、それでも光安は黙々と最後まで食べた。そして食べ終えて、残った棒を律儀にも袋に入れ直して、裕美の方に向き直った。
ちなみにその間の裕美は、今し方の「部活って感じ」以外は全くの無言だった。もちろん魔女とはいってもガリガリ君の食べ方に違いはないので、あまりしゃべれなかったのかも知れないが……。
「冷たくて、甘ったるいわ」
「当たり前だろ。何言ってんだ、食べたことねぇのかよ」
「ない」
「………」
食べ終わると裕美は言葉を発したが、そのやりとりは光安を少しだけ困惑させた。
中高生の国民食と呼んだら過言だが、抜群の知名度を誇るアイスである。だいいち、銘柄指定して「食べよう」と言い出したのは裕美なのだ。あり得ない発言だった。
「お前のような魔女には低級過ぎるという意味か」
「言ってる意味が分からないんだけど」
「ぐ……」
さすがにバカの思いつきは軽く突っぱねられ、彼は落ち込んだ。
裕美がガリガリ君を知らないという事実に変わりはなかったが、話題はそのまま途切れた。せっかくの発見をどうしようもない発言でフイにしてしまう光安は、やはり愚か者である。
「で、アンタは将棋部なんでしょ?」
「……一応、ルールなら知っている」
「じゃあ部活しよう」
裕美が笑顔でそう言うと、手前にあった机が二つ、教室の空いたスペースに移動した。魔法少女ものの王道といった感じで、ちゃんと宙を浮いて動いたことに、光安は感心した様子だった。感心してる場合なのか?
薄汚れていた机はすぐにきれいになり、その上にどこからともなく将棋盤が出現した。残念ながら将棋盤は折りたたみ式の安物だったが、高級な脚付きの盤を机に置くと、位置が高すぎて将棋が打てないという配慮かも知れない。
「こんな感じでいい?」
「……まぁ、いい…だろう」
「では一局」
自分の座る椅子だけふかふかのソファーに変えて、裕美は偉そうに腰を下ろした。それを見ていた光安は複雑な表情だったが、手前の椅子に座る。彼の座った椅子は、汚れは取れているがただの学校の椅子である。
座った後も、光安はまだ困惑していた。
それは別に、いきなりの将棋部という「部活」が嫌だったわけではない。既に知っている事実とはいえ、魔女としての裕美の姿を自分の目で確かめることに、彼はまだ慣れていないのだ。空中を移動する机の境遇がさっきの自分と重なってしまい、同情の念を抱いたとしても、決して不思議ではないのだ。いや、それは不思議か。
「裕美はルール知ってんのか?」
「アンタには負ける気がしないなー」
「俺だって勝てる気はしない」
ともあれ夕方の教室で、なぜか将棋部の活動が始まった。
二人は黙って駒を並べ、光安の先攻で動かし始める。もちろんそこには魔法も何もなく、ただ二人は将棋盤を見つめながら、駒を動かしていた。
「はい王手」
「………」
「これで角はいただき…っと」
「う……」
それから五分も経つと、もう光安は追い詰められていた。
彼はただの素人なので、裕美の強さは測りようがない。とりあえずこの場においては、宣言通りに彼女が勝ちをおさめそうな雰囲気である。
「これでおしまい」
「……………」
「いくら考えたって無理」
「ぐあぁ、だから俺はルール知ってるだけだって言ったんだ!」
「何騒いでるのよ」
光安が切れてわめいたのは、開始から八分後であった。負けて言い訳をする彼は、相当にみっともない人間であると言わざるをえない。
しかしその雰囲気は、まるで部活だった。
伝統ある将棋部がここに復活した!、とテロップが流れても不思議ではないほど、彼は自然に将棋を打ち、負けたのだった。
「もう一局いく?」
「いや、今日はやらん。このままでは永遠に勝てない」
「何百回やったって勝てないと思うけどなー」
「そんなことはない! お前が不正をはたらかない限り、必ず俺はやる!」
「アンタごときに魔法使うわけないでしょ」
自信満々の裕美は、とても楽しそうだった。1300年生きていても、彼女はもしかしたら部活動をしたことがなかったのかも知れない。
もちろん1300歳とは自己申告で、今のところその証拠はどこにもない。光安がバカなのをいいことに、騙し続けている高校生に過ぎない可能性はある。とはいえ、ただの高校生ではないという証拠だけは山のようにあるから、判断が難しい。
「はい、じゃあお片付け」
「うわっ」
光安の目の前で将棋盤が宙に浮き、折りたたまれて消えた。机も元の位置に戻っていく。戻った先を見ると、乱雑に積み上がっているのは同じだったが、堆積した綿ゴミの類はきれいになくなっていた。つまり、不法投棄のゴミ捨て場のような物置から、物置のような教室へと進化を遂げたのである。元の姿に近づいた、ともいう。
「なぁ、……将棋盤はどこへ行ったんだ」
「消した」
立ち上がって窓際に移動した光安は、そんな非日常的な光景をぼんやり眺めていた。
さっきまで彼が座っていた椅子は、まるで人間の脚になったようにノソノソと自力で歩いている。そして、彼がもたれかかろうとして、汚れに気付いて躊躇した窓枠の辺りも、次の瞬間にはきれいになっていた。裕美は気が利く女であった。
「消したって、どこか別の部屋にでも移動させたのか?」
「移動も何も、消したの。この世界から」
「………」
すっかり掃除が終わった時、光安は貧乏揺すりを始めていた。恐らくは何か思うところがあっての行動であって、今さらのようにアイスで身体が冷えたせいではなさそうだ。
私のおすすめは、恐怖に震えることだ。
お前も蝋人形にしてやろうか……ではない。お前も将棋盤のように消去してやろうか、ということだぞ。
「裕美の………、この魔力ってのはなんなんだ?」
「ずいぶんストレートに来たわね」
そこで光安が発したのは、ほれぼれするほどシンプルな質問であった。常にイヤミを忘れない裕美ですら、ひねりのない返事をするしかないほどに。
もっとも、彼にとってはこれ以外に聞きようがなかったのも確かだろう。昨日の夕方から現在まで、光安の周りの出来事はあまりに非常識過ぎたのだ。むしろ、恐怖にかられた表情をしていない点をほめてやらねばなるまい。
「仕方ねぇだろ、俺はバカだからな」
「そうね」
「……いや」
しかし、ほめるのは時期尚早のようだ。
今の台詞は謙遜のつもりだったのだろう。ただし、誰もがそう思っていることを口にしても、謙遜にはならない。そんなことも分からないからバカなのだ。
ともかく調子を崩された彼は、困った様子で貧乏揺すりを止めて、窓ガラスを指でなぞり始めた。
「つまりだな、何か呪文を唱えるとか、何か地面に書くとかあるだろ、普通」
「アンタの言うことはいちいち曖昧ね」
指先で文字を書こうとしているようにも見えるが、窓ガラスはあり得ないほどピカピカで、指紋の一つすら残らない。数度なぞって、彼は手を離した。あきらめたようである。
「しょーがねーだろ、こんなこと真面目に考えるかって」
「じゃあ私も何か何かって答えればいいのね」
「う………、すまん」
「今のところ、アンタの唯一の取り柄は素直なことねー」
裕美はまた笑った。
もう何度か繰り返しているが、この魔女の笑顔には、一撃で男を堕とす威力がある。なぜ光安が平気なのか不思議でならない。恐怖心もなく、魅せられもしない彼は、いわゆる感情のない生物というヤツか? その割には昨日から怒りまくっているではないか。
「答える前に質問しておくわ」
「俺に答えられることなんてねぇだろ」
「答えられそうにない質問をするほどバカじゃないけど」
「……さっさと聞けよ」
ふてくされつつも、光安は裕美が評する通りに素直である。
これだけの状況で、いつもと変わらない間抜けな話っぷりの彼は、もしかしたらバカではなく何かすごい奴なのかも知れない。
すまない。彼につられて曖昧になってしまった。
「はいはい。じゃあ質問。アンタはその、ナンマイダーとか呪文を唱える魔女に会ったことがあるの?」
「あ、あるわけねーだろ!」
裕美が光安をどれだけバカにしているか、今の喩えで分かっただろう。
もちろんそれは、単に彼をバカにしただけではない。魔法使いというイメージ自体を、彼女はコケにするつもりのようだ。自ら魔女と名乗っておきながら。
「じゃあさっきの「普通」って何?」
「そりゃあお前、なんだその……、アニメとかマンガじゃねぇか」
言いながら光安は裕美から顔を背けた。
私に言わせれば、彼は甘い。いったい何を照れているのか分からない。まさか、フィクションと現実を比べるなと責められている気分なのか? これだからバカだと言われるんだ貴様は!
いいか光安よ! お前の前にいる女は「現実」ではない! お前が底知れないバカなのを利用して騙しているだけなのだ……とでも思え! ああ聞こえないのがもどかしい。
「まぁいいわ。答えてあげるけど聞きたい?」
「……俺が質問したんだ」
「で、聞きたい?」
「だから…」
「聞きたい!?」
「はい、聞きたいです聞きたいです!」
「さっさと答えなさいバカ」
「………」
語り手が取り乱してしまい、申し訳ない。所詮、生身の人間の話術ですら負けている彼に、多くを求めるのは間違いだった。私は反省している。
今は幸い、裕美が自ら秘密を明かそうとする局面だ。乗せられるしか能のない光安は、せめてうまく会話に乗ってほしいと願うばかりだ。