エピローグ ふたたび、魔女とバカの日々
「お兄ちゃん、おはよう!」
「おう、おはよう曜子」
バカの一日は、今日も妹との会話で始まる。
昨夜はとんでもない出自が明らかにされた「妹」だが、一夜明けて朝になれば、何もなかったように話しかけてくる。対する兄の様子もいつも通り。普通の地球人類はここまで簡単に割り切れないのではないかと思うが、この兄は青原光安だから問題ない。彼は妹を大切にするのだ。
「いってきまーす」
「お兄ちゃん、いってらっしゃーい」
いつも通りに家を出て、学校へ向かう。
すっかり寒くなった街で、黒い薄手のコートを羽織った彼の姿は、緑色の消えかかった景色にとけ込んでいる。
やがて交差点を折れると、彼の前後には似たような格好の生徒が目立つようになる。もちろんそれも、いつもと同じ景色。同じと言ってもたった三年の内に入れ替わってしまうし、彼の姿もいずれ消えるだろうが。
………。
消えるといえば、彼はやがて「空き地」の近くを通り過ぎた。そこは枯れ草に覆われた、誰も関心をもつ者のいない空間である。光安もやはり関心を示さず、そのまま通過した。
そうだ。
彼女には家族がいて、住む家がある。
宇宙の上位にある者だろうが、地球で生まれ育ったのなら当たり前の事実。つまり、彼女はもう空き地の「家」から通ったりはしないのだ。通学路で待ち伏せされることも、恐らくはないのである。
「よぉ荒瀬」
「喰らえっ!」
「うぐぉ!」
昇降口で荒瀬を見かけて声をかけると、いきなり顔面に内履きをかぶせられて悶絶する。いつもは彼が友人を毒牙にかけているが、今日は逆襲に遭ったようだ。相変わらず実況のしがいのない連中だ。
「いつまでも変わらねぇ俺と思うなよ!」
「バカの下って何だろうな」
「そっちじゃねぇ!」
昨日とほぼ変わらない体重の荒瀬は、自らの些細な変身を誇るように廊下を大股で歩く。最近は大相撲も先行き不透明だから、減量して他の道を選ぼうというのかも知れない。うむ。彼が相撲取りを目指した事実は存在しないな。
ともかく二人は教室になだれ込んだ。
「相変わらず遅いぞ、貴様ら」
「サラエボマン2でも書いたか?」
「サラエボって何だ!」
三バカの三人目も、いつも通りのバカっぷりを披露している。
彼はしばらく、サラエボマンと呼ばれる可能性が高い。ちなみにこれは根拠のない予測である。私には未来を予知する能力などない。ともかく三バカは今日も集合し、そして速やかに別れた。朝の教室は、トリオ漫才の稽古ができるほど暇ではない。
「おはようごぜーます。今日も肌の色つやも良くてお美し…」
「アンタのニキビにタバスコ振ってやろうか?」
「奴も不幸だな。こんな暴力女のストーカー行為に悩まされて」
「ストーカーって言うな、バカ!」
自分の席にカバンを下ろしながら、斜め前の女子生徒と楽しげに会話を交わす。
この瞬間にも、二バカは遠くからうらやんでいるかも知れない。お美しい女子と抜け駆けしやがって…とか、歯ぎしりしているかも知れない。いや、実際にはどう見ても無関心だが、その辺はこのどうでもいい朝の教室を盛り上げる嘘、大げさ、紛らわしいネタなので勘弁してもらいたい。
そして彼は、ようやく自分の席に腰を下ろす。
椅子の感触を確かめるように何度かポジションを変えながら、彼は視線だけ右方向に移動させた。
正確に言えば、隣の席に向けた。
「ゆうちゃん、まだ休むのかなぁ」
「えっ?」
自身は当たり前の表情で席を見たくせに、入船がその名前を口にした瞬間、びくっと身体が揺れる。
おかしな話だ。
「何か驚くようなこと言った?」
「い、いや別に…。もう来るんじゃねーの?」
席の主は、しばらく風邪をひいて学校を休んでいる。入船だけでなく、クラスの全員には、そのような認識が与えられているようだ。もちろん光安も、そういう設定らしいという知識を与えられている。彼が驚く理由はない。
強いて言うなら、風邪が長引くというあまりに非現実的な言い訳にツッコミを入れるべきである。ずる休みの定番ではないか。
…………。
残念なことに、私には彼の違和感を我がことのように理解することができる。
彼はまだ受け入れていないのだ。隣の席の主が、これまでとは別の経路で学校に通うことを。その家がどこにあるのか、登校にどれほどの時間がかかるのか、彼は何も知らない。だから今、隣の席の主が歩いているのか自転車に乗っているかすら想像できないのだ。そんなことが想像できなくて困る奴はいないと思うが、違和感など所詮は勝手な思いこみでしかないのだから、彼を責めないでほしい。
なお、昨夜は彼の家の前まで二人で歩いた後、彼一人を部屋の中に瞬間移動させている。従って、その後に隣の席の主がどこに向かったかを、彼は全く知らない。というか、その時の彼は、自宅への潜入を試みずに済んだことに安堵するだけだった。
「あ!」
チャイムが鳴る約三分前。開きっぱなしの扉の向こうから、やがて話題の主が現れた。
律儀な入船はちゃんと大声を上げて、周囲に知らせてくれる。結果として、必要以上に注目を集めた彼女は、自分の席にたどり着くのに少し時間がかかった。
もっとも、時間がかかった理由は、それだけではないだろう。
「お、おはよう」
表向きは、久々の教室。さすがの彼女でも、緊張することはあった。
まるで、どこにでもいる病み上がりの女子高校生のように。
「ゆうちゃんおはよう! 大丈夫? 風邪治った?」
「あ、うん。……もう大丈夫」
だけどその緊張は一瞬に過ぎなかった。
いなかったはずの教室に突然現れたという、偽造された過去に比べれば、全く大したことはない。あくまで彼女は、しばらく休んだ学校に戻っただけなのだ。
「おはよう、…光安くん」
そして彼女は、たった一人だけ彼女の秘密を知る、この宇宙の代弁者の元へたどり着いた。
「おはよう。……って、気持ち悪いな」
「そんな気分なのよ。…なんとなくね」
そう言って彼女は笑い、同級生への挨拶回りを続ける。宇宙の上位にある者が人類の病気で長期欠席するなんて、マグロが海で溺れるぐらいあり得ない話である。もう少し現実的な理由はないものか…と光安は呆れているかも知れない。まぁ彼が呆れるだけなら、この宇宙は平和だ。
やがてチャイムが鳴り、いつも通りの授業が始まる。
三十七人の生徒と一人の教師で、息苦しくもやもやした時間が流れていく。青原光安が取り戻したかったものは、こんなに退屈だった。
「ねぇお船ちゃん、今日の体育は何するの?」
「えーとねー、先週でバスケは終わったから、たぶん外で走る」
「ふーん」
最初の授業が終わった頃には、教室の空気もいつも通りに戻っている。入船としゃべる彼女の様子も、全くいつも通りだ。
もっとも……、この「いつも通り」は消滅のプログラムがもたらした副作用でもあった。
消える決心がついたから、クラスのみんなと交わる勇気を得た魔女。デタラメ情報通の入船は、そんなオマケの時間の中で、簡単にはほどけないしがらみを造っていた。
「一度ぐらいゆうちゃんに勝ちたいなぁ」
「バレーなら負けるじゃない。お船ちゃんは本職だし」
もちろん入船は、ただ後ろの席の彼女と仲良くなりたかっただけだろう。
目立ちすぎるほど目立つ、同い年の女の子と。
「とぼけないでよ。このスナイパーお船には全部まるっとお見通しだから。ゆうちゃんがいれば全国優勝だって夢じゃないもん」
「スナイパーか探偵かどっちかにしてよ」
全国優勝の根拠には、もちろん約194cmという身長も含まれていたはずだ。しかし、そのアドバンテージが8cm分失われても、入船の自信は揺らぐ気配がない。
まぁここだけの秘密だが、見た目がどうだろうと身体能力は変わらないらしいので、スナイパー探偵の予想は間違っていない。というか、本当にデビューした日には、その大会は大混乱に陥るだろう。
……と、こんな感じでいつも通りにしゃべっていた入船は、突然周囲をきょろきょろ見まわし始める。
斎藤さんは自分の席で予習をしている。
光安は……、曽根の席にいた。たぶんノートの写し合いだろう。バカのノートをバカが写す。愚かなループである。
「それにしても、ゆうちゃん」
「何?」
今度はまっすぐに魔女の顔を見つめる入船。
妙な迫力に気押されはしないものの、見つめられた側はきょとんとした表情で応じる。
「考え直すなら今のうちよ。光安はバカ。本物のバカ。そこら辺、分かってる?」
「………うん」
熱い友情から発せられた言葉に、少し間をおいて大きくうなづく彼女。
残念だが私も、入船の発言には大きくうなづかざるをえない。彼がどうしようもないバカであること。それはこの宇宙の深淵でも何でもない簡単な真理である。
「よーーっく、分かってる」
だからこそ、この女神の微笑みを、あんなバカのために消費させて良いものかと疑問は残る。
残るのだが、最早その疑問には意味がない。
願わくは、その笑顔がいつまでも続くものであることを。なぁ光安。
「なぁ荒瀬」
「ん?」
「荒瀬は何で肌だけきれいなんだ?」
「ぁあ!?」
昼休みの教室では、今日も無意味なやりとりが繰り返される。
荒瀬の肌のツヤなど、いったい誰が気にするだろうか。
「こういうもの食わねぇからな」
「ぐぁ! 俺のトンカツ」
今日の光安の質問は、もしかしたら純粋な疑問に過ぎなかったかも知れない。しかし荒瀬は挑発と受け取ったらしい。いや、挑発と受け取る口実にされただけか。
「さすがの俺さまも、ちょっとばかり荒れてしまうぜ」
「やかましい! 貴様など、顔じゅう蓮の実のようになるがいい!」
これが和やかな食事風景というのだから呆れるが、三バカは所詮は毛が生えた中学生なのだ。彼らが大人の階段を昇る日は、まだ遠いのだろう。
……とはいえ、うち一名は一気に駆け上がってしまうのかも知れないな。ついでに言えば、毛が生えた中学生ってのも何だか卑猥だな。
「た、高橋さん」
「本間さん、お久しぶりね~」
「あ…、うん」
楽しい弁当タイムが終わると、魔女とバカの二人は、久々に旧校舎への渡り廊下に足を運ぶことになった。そして、先に教室を出た魔女は、もう一人の曜子に出会う。
たかが同級生と廊下ですれ違うだけの出来事を、大げさに言いすぎか?
「どう? ……うまくいってる?」
「え?」
「………」
「ま、まぁ。それなりに」
「良かった」
じっと視線を投げかけられた本間曜子は、身体をもぞもぞ動かしながら小さな声で答える。渋谷とは、正式につきあい始めているわけではないが、友だち以上の関係は維持しているようだ。
穏やかな笑顔で祝福する彼女は、キューピット役でもあり、呪いの言葉を吐いた女でもあった。曖昧に続くその後の関係を知って、どのように考えているのかなど、私には分からない。まぁ、まさか今すぐ別れてほしいわけじゃないだろうが。
時間差で教室を出た光安は、そんな二人の様子を、少し離れて見つめている。
彼はまだ本間曜子が気になるのか? 決してそうではない。これは断言してもいい。
ならば何を注視しているかって? 言うまでもないことだ。
「渋谷くんにもよろしく」
「う、うん」
あのデートの日の後、「消滅」プログラムが発動すると、本間曜子も渋谷も、あっさりとこのキューピット役を忘れてしまった。そしてデートの手柄はすべて、光安のものとなった。おかげで彼は一時、片想いに悩む男子生徒の希望の星になりかかった。何の能力もないにも関わらず。
ともかく、本間曜子がこうならば、渋谷も似たようなものだろう。光安はようやく安心して、それでも慎重に距離を保ち続けた。
「アンタも当事者なんだから、追いつけば良かったのに」
「俺は面倒な会話は苦手だ」
「へぇ」
人通りのない渡り廊下で、予定通りに落ち合う二人。
ちなみに、一応は今回も時間差で集合したわけだが、以前とは状況が大きく違っている。ほんの一ヶ月前までは、女子生徒のほぼ全員にとって、光安は単なる教室の景色でしかなかった。しかし入船との関係をきっかけに、数人の女子生徒は「会えば話すこともある」知り合いへと変化している。しかも、相手は存在そのものが目立つ、帰ってきた教室の女神なのだ。
「まぁいいわ。で、曜子ちゃんには、ちゃんと謝ったからね」
「そうか。喜んでただろ?」
「うん」
結果として、入船はもちろん、女子生徒の半数には勘づかれてしまった。バカの知らないところで注目の的だったのだ。
その気になれば状況を変えることもできた魔女は、何の手も打っていない。恐らく彼女は、こうなることを望んでいるのだ。華麗なる裏切りだ。
「でもね」
「………何だよ」
例によって窓の外の景色を見れば、異様にゆっくり空を駈けるトンビが見える。少ない昼休みを有効活用するために、時間を遅らせているらしい。
その事実にバカが気付いているかは、これも例によって定かでない。まぁ知っても知らなくてもどうでもいいのだが。
「いつかは離れていくの。曜子ちゃんは」
「…い、いつなんだよ」
「それは彼女が決めること。でも……、そう遠くないんじゃないかな」
「ふぅん…」
新たに発せられた呪いの言葉に、彼は顔をこわばらせる。
妹曜子の将来は、人類の常識の外側にある。従って、兄の光安にできることは、何があろうと黙って受け入れるだけだろう。
「もしかしたら、人間として生まれるかもね」
「人間?」
「そう。彼女は生まれることを恐れていた。それはたぶん、十六年前の私と同じ」
「じゃ、じゃあ…」
それでも、一つの可能性が示されれば、慌てて問いただす。
彼は兄なのだ。バカバカしいほどに妹想いの兄なのだ。
「曜子がお前みたいな魔女になっちゃうのか?」
「なんでそうなるの?」
「いや……」
ただしバカバカしいだけではなく、彼はバカである。
だからその発想は、時には魔女すらも凌駕する。
「というか、私みたいな魔女になったら困るの?」
「俺が困るというか……、曜子が生き辛いだろ」
もちろん、いつでもバカは愛されるバカというわけではない。
昨日まで渦中にあったというのに、あからさまな失言。この愚かさな男が人類の代弁者となっていいのか、やはり疑問を抱かざるを得ない。
「ふぅん。私は生き辛いのか。そうですか…」
「いや、だからその…、あの」
「ふーん」
「…………」
これ見よがしに拗ねてみる彼女。妹のこととなると盲目な光安は、なかなか気付かなかったが、ようやく事態を悟って口をつぐむ。
「………」
「…………ごめん」
「……………」
「悪かった。その、だから…」
「心配しなくても、曜子ちゃんは普通の女の子」
「そ、そうなのか?」
慌てて繕おうとしたが、そんなことができるなら最初から失言はしないのである。素直に謝って、どうにか最悪の事態は回避した。いや、彼女の側にそれほどの深刻さはなかったが、この際しっかり反省すべきである。
にも関わらず、早くも妹の話題に戻ってしまっているのは、いったいどういうことだ。やっぱりヘンだよ青原光安。
「ただし、アンタという兄がいたなんてことは忘れちゃう」
「それは…、しょうがない。曜子が幸せなら」
「アンタの兄妹愛には呆れるわ」
…もっとも、「消滅」を取りやめる決断の重さに比べれば、この程度の失言などかすり傷にもならないのかも知れない。この魔女はバカの本性を、私などより遙かに深く理解している。その上で、それでもいいと言うのだ。いや、彼でなければいけないというのだ。
ともかく曜子の話題が一段落して、彼女は何となく渡り廊下の壁を見上げた。そこには推薦入試で合格が決まった生徒の名前が貼り出されている。二人にとっても二年後に訪れるはずの出来事だ。
なのに彼女はまるで関心がなさそうに、すぐに視線を変えた。光安に至っては、貼り出されていること自体に気付いていない。高校生にとって二年の時は永遠に等しいほどに遠い未来のようだ。
「それでね、光安くん」
「な、なんだよ」
既に壁の貼り紙など忘れたように、魔女は悪戯っぽく笑う。
朝に続いて「くん」付けで呼ばれた光安は、全身から警戒の色を漂わせる。
どう考えても、何か良からぬことが待っている、そんな空気だ。
「曜子ちゃんの機嫌もなおって、アンタにさらなる試練が!」
「そ、その試練ってのは、曜子と何か関係あるのか?」
「ない」
「…………」
あくまでおどけた調子の彼女は、ゆっくりと窓に手を触れる。するとその手は窓ガラスをすり抜け、一瞬バランスを崩した彼女は、姿勢を正して向き直った。
一度、大きくため息をついたその顔は、少し紅潮している。
珍しく魔女が失態をみせたことを恥じている? それもあるにはあるだろう。
「ヒント。アンタはもう経験済み……みたいなことです」
「みたいなこと?」
「制限時間は五秒間。ちっちっちっ…」
意味もなく秒数を数え始めた彼女の背後には、いつの間にか校舎の屋上らしき景色が広がっている。どうやら渡り廊下の空間が歪んでいるらしい。さらっと説明してしまったが、かなり危険な状況である。今ごろ世界は大混乱に陥っている可能性が高い。
「分かるかよ、それで」
「ぶぶー」
そんなちょっとした魔力の暴走と、必要以上にふざけたやりとり。いや、「ちょっとした」という形容は間違っているが、ともかくこれらの現象は、言うまでもなく彼女なりの動揺と照れ隠しである。
まぁ、こんなことを口にする私も恥ずかしいぞ。仮に私が、この青原光安のお目付役になろうと、な。
「正解は、今日の放課後に私の家に行く、です」
「え!?」
「母がね、アンタに謝りたいってさ」
「………なんで?」
宇宙の上位にあるほどの者が、柄にもなく照れてまで出した問題の答えは、確かに光安にとって試練といえるものだ。昨日まであった空き地の「家」ならともかく、家族の前に引き出されるという状況は、ある種の拷問である。
なお、現時点で光安の背後には水族館のゲートが見えている。世界の混乱は予想通り深刻を極めているようだ。
「想像ついたと思うけど、母が主犯」
そうして彼女は、かなりの重要事実をあっさり白状した。
私も今知ったが、冷静に考えれば身内しかあり得ないのだから、今さら驚くには値しない。宇宙の上位の者とはいえ、それだけの能力を発揮していたわけでもない彼女の「消滅」に、どこかの組織が絡むはずはない。所詮は私的な問題でしかないのだ。
「主犯って…、別に犯罪じゃねーだろ」
「ふふーん」
「な、何だよ気持ち悪いな」
「アンタなら許してくれると思ったわ」
「………そ、そうか」
それにしても、光安の落ち着きぶりには驚かされる。世界の混乱には気付いていないから褒める価値もないが、母親の件は他人事ではない。
彼もまた、この答えを予期していたわけのだろうか? いや、それはなさそうだ。
そもそも彼は、最初から犯人捜しなどしていなかった。目の前の彼女が思いとどまって、今日も明日も目の前にいてくれれば、それ以上の難しい問題は無視できるのだ。たぶんな。
「しかし、別に謝られても、なぁ…」
「きっと品定めされるわよー」
「品定めって…」
嫁入りダンスの中身をチェックする神経質な姑すら連想してしまう、彼女の古めかしい言い回し。これも照れのなせる業なのだろうが、昼ドラですら未経験の男子高校生は、なぜかしっかり慌てている。それはバカの乏しい知識でも、置き換えがきく範囲のことらしい。
結局、難しいことはぴんと来ないから、想像できる範囲で反応するだけなのだ。
ともかく、考えなしに起こした「消滅」阻止の代償を、彼は払わなければならない。
「もう逃げられないってこと。アンタの将来は決まってるの」
「な、何言ってんだ」
その瞬間、いつか聞いたことのある音が流れ始める。耳に届くだけで人を歯がゆくさせる、百分の一倍速のチャイム。しかしその読経のような重低音は、彼の感覚で数秒ぐらいしか響かなかった。邪魔だと思った魔女が、音だけを消去したらしい。ついでに、空間の歪みもすべて一瞬で解消させたようだ。相変わらずのデタラメな力。
無音に戻った瞬間に、彼は諦めただろうか。
もはや気を散らせて先送りすることすら許されないのだ、と。
「心配ないわ。宇宙の上位にある私がついてるんだから。ね」
「心配だらけだろ。だいいち、俺のプライバシーが…」
「そんなもの必要ないの。隠し事は良くないって言うでしょ?」
「そういう問題じゃねぇだろ、ゆ、ゆ……」
だから彼は、午後の授業が始まる前に儀式を済ませてしまうのだ。
「なぁに?」
永遠ほど長くはないが、放課後も、今の彼にとってはまだ先の話。
未来サーチを必要としなくなったバカは、ありったけの大声で叫んで、そしていつものように教室へ戻るだろう。
目の前にいる同級生と一緒に。
友だちでも親兄弟でもなく、妄想妹よりもきっと大切な存在になる予定の、おせっかいな魔女と一緒に。
「お、俺はきっと逃亡するぞ、ゆう!」
「できるもんならやってみなさいよ、み・つ・や・す・くん!」
完