第二節 過去の曜子、未来の魔女
時刻は午後九時。まだ時々車が行き交うものの、通学路は既に暗闇に包まれている。眠らない大都会ならともかく、こんな地方都市でこんな時間に外出しようとすれば、当然家族に怪しまれるだろう。
もちろん彼は一応は高校生なのだ。深夜の街を理由もなく徘徊することだって、権利として認められている。いや、権利ではないだろうが、世の中にはそんな高校生もいる。
ただし、格好良くいえば「理由もなく」だとしても、本当に理由もなく若者はうろつかない。たとえ田んぼのあぜでの盆踊りだろうと、何かしらの目的地はあるのだ。どんなに漠然としていようが、だ。その意味で、やはり地方都市には限界が……と、無駄に文化論を語っている場合ではないな。
実況に戻ろう。
二十四時間営業のコンビニは、最近町に進出したが、彼の家からは自転車で二十分はかかるので、買い物に出かけるという主張は難しい。まぁそれ以前に彼には、両親にばれない嘘をつく度胸がないのだ。
光安はそこで、決死の覚悟を決めた。
そうだ。出家…ではなく家出だ。
まず忍び足で玄関に降りて靴を持ち去ると、二階の自分の部屋に戻る。そして音を立てずに窓を開けて屋根へと乗り移った彼は、隣の家との間にあるブロック塀に飛び降りて、どうにか地表への着地に成功した。真面目な話、一つ間違えば大ケガでは済まないほどの冒険だった。彼の、太ってもいないが痩せてもいない体型は、それなりに役に立ったと言えなくもない。
そうして街に飛び出した青原光安。盗んだバイクで走り出す気配はみじんもないが、まだギリギリ十五の夜らしいバカだ。どうやって部屋に戻るのかと考えない程度には無鉄砲に、通学路を無言のまま歩き、やがて例の「家」のあった空き地に到着した。
しかしそこは相変わらず空き地のままだ。いや、元々が空き地だったのだから、本来の姿を見せているだけ、というべきか。
「………」
宇宙の上位にある者が、その強大な能力によって姿を消した――。
思い出したそんな記憶は、何日前のことだったのだろう。彼はそれを、つい最近のことではないかと認識している。しかし、正確な日時は分かっていないようだ。
桁外れな魔女の力。彼が目撃した、いや、巻き込まれた数々の出来事については、恐らく思い出しているはずだ。
将棋盤を出したり消したりしたこと、荒瀬や曽根の将来を見せたこと、月を破壊したこと、122光年の彼方から十秒で地球に戻ったこと。……並べてみると、将棋盤だけやたらちっぽけだが、魔女と人類を隔てる大きな壁に比べれば、月もサッカーボールもたいした違いはない。種のあるマジックショーですら、見る人に強い印象を与えるではないか。
いずれにせよ、常軌を逸した力の魔女の痕跡を探し出すことは容易でない。そもそも、あの魔女には、一切の痕跡を残さないだけの力があった。つまり、絶対に見つからない可能性がもっとも高いのだから、彼女の「家」の跡地は、その記憶があるだけでも有力な候補地と言える。従ってじっくり調べる価値は十分にあるはずだ。
しかし彼は、空き地をちらっと一瞥しただけで、立ち止まることすらなかった。どうやら彼には、次の目的地があるらしい。
再び通学路に戻ると、たまに通る車に注意しながら急ぐ青原光安。その白い息は街灯に照らされ、見た目にも寒さを演出している。
そうして彼は、程なく目的地に着いたらしい。
前後の安全を確認して、慎重に足を踏み入れるその目的地は…、通学路の終点、つまり学校だ。つい数時間前まで、彼がいた場所である。
既に部活の生徒も全員帰宅した校内は、もちろん静寂に包まれている。正面の昇降口の扉には鍵がかけられ、中に入ることなどできない……はずだったが、彼がガラス扉に触れると、ゆっくりと内側に開いた。不用心なことに、鍵はかかっていなかった。
それを予期していたとも思えないが、彼は特に驚く様子もなく、律儀に自分の内履きに履き替えて、廊下を歩き始める。電灯は…、スイッチの位置を知っていても、この状況でつけるほど大胆な男ではなさそうだ。窓から漏れるわずかな明かりや非常灯を頼りに、ほとんど何も見えない階段をそろそろと昇る。
「入るぞ」
「…………」
やがてたどり着いた教室。まるで息子の部屋を覗きに来た父親のように威厳を漂わせながら、聞く者もいない暗闇に声をかけ、冷たい感触の扉に手をかける。
ガラガラときしむ音が鳴り響くと、暗がりの向こうには窓だけが浮き上がって見える。人の気配は全くない。
しかし……彼が声をかけたその方向、教室の窓際から二列目の中ほどの席には、よく見ると人影らしきものがあった。
「よぉ、幽霊さん」
「………なぜ思い出したの?」
「曜子が教えてくれたからな」
「そう。……それはうかつだったわ」
窓の外から漏れる月明かりに照らされながら、皮肉っぽく笑う教室の幽霊。
その笑顔は、彼にとって、そしてこの教室にとっての見慣れた光景だ。そう、このどうしようもなく厄介な女神の、よくある表情でしかなかった。
「お船のインチキ情報を増やすのは、もう終わりだ」
「残念ね。学校生活が退屈しないよう協力してあげてるのに」
「お前は入学式の日も、そんなことを考えてたのか?」
「……………」
しかしその笑顔は、すぐに凍りついた。
どうやら彼は、ただ「忘れさせられた」ことを思い出したわけではないらしい。そういえば、教室の幽霊の正体が彼女であることも、今まで確信したことなどなかったはずだ。部活の後に「消滅」したはずの、高橋裕美であったことを。
「四月の入学式の日、体育館で整列した」
「………」
「俺はいつも先頭だから、並んでるみんなの姿が見たくなって、それで何度も首をひねって後ろを向いたんだ」
「ふぅん…」
俗に言う「あ」行の宿命を負わされた青原光安が、明かりもなく足元がおぼつかない教室を、それでも机の列にぶつかることもなく進んでいく。ここは毎日通う場所。半年も経てば、人類はこの程度の技能を身につけるらしい。
「列の中央に、一人だけ頭が飛び出した女子がいた。後ろの奴は左右に身体を傾けて、前を見ようと動いてた」
「迷惑な人だ」
「その女子生徒の顔を、俺はすぐに覚えたんだ」
「…無意味な記憶ね」
窓際の席にたどり着き、椅子に腰掛けると、隣の席の魔女の顔は月明かりに浮かんで見える。
これが幽霊というものならば、きっと誰もそれを恐れないだろう。
「その…、背が高くて、たまに笑うとびっくりするほどきれいな女子生徒は、六月までは教室にいた」
「ふぅん」
「俺は、もっと後まで知っていたけどな」
「そうなの?」
「二学期の席替えの日も、お前はちゃんとここに座ってた」
辿られた記憶。
1300歳も、魔法でごまかして三十七人目になったことも、すべて彼女がついた嘘だった。彼女は……、少なくとも光安にとっては、ただのクラスメイトに過ぎなかった。
…いや、特別なクラスメイトに過ぎなかった。
「それは知らなかったなー」
「そうか?」
彼女は恐らく、ただ忘れ去られることを望んでいた。
その願いが、周囲の人間への強制力として働いていったに違いない。その効き目には濃淡があり、もっとも効かなかったのが、このバカだった。
「……アンタは、「俺は気付いてる」ってアピールしたわけじゃないでしょ?」
「まぁな。アピールするのもおかしいだろ? ただ同級生が隣の席に座ってるだけなのに」
「うん…」
ゆっくりとうなづく彼女。
遠くの街灯に微かに照らされる表情は、微笑んでいる。化けの皮を剥がされた教室の幽霊だ。
「その後に記憶が途切れて、さっきまで初対面だと思いこんでいた」
「そのまま忘れていれば良かったのに」
「思い出したものはしょうがねぇだろ。何だか知らねぇけど、お前はいいお姉ちゃんだった」
「お姉ちゃん、か…」
今度はバカも笑い、そのまま自分の席に座る。
隣の席に気になる女子がいれば、誰だってそれを忘れはしない。彼はスケベな男子高校生の典型として、忠実にそれをこなしていた。そんな高校生のくだらない想い出は、大きな嘘によって隠蔽された。そう、1300歳というデタラメだ。
1300年前には、裕美とは関係のない誰かが生まれた。1000年ほど前には、裕美ではない誰かが将棋を楽しんだ。無関係な人間の記憶をつなぎ合わせて紡がれていく、死と再生の歴史物語。高橋裕美はその十二度目の存在として現れ、消えようとした。
「まぁいいわ。アンタがそこまで言うとは思わなかった。だから…」
「だから何だよ」
その物語は、妹曜子の手で破綻に追い込まれた。砂上の楼閣を崩したのが妄想とは、笑えないジョークだ。
「だから私も、ちょっとだけ昔話をしたくなったの」
「……何だよ」
そして、今度は裕美の逆襲が始まるのか?
警戒心を剥き出しにして、構える光安。正直言って、警戒するような話題が出るとも思えないが。
「青原くんは、中学生の時にセクハラとかパワハラってからかわれたの」
「う……」
「だから自分のことは、下の名前で呼んでほしいと自己紹介したのです。以上」
そうして披露されたネタは、入学式の後でこの教室をしらけさせた、青原光安の自己紹介だった。確かにそれは、彼に多少のダメージを与えている。
もちろん、このお願いがあるからこそ、曽根や荒瀬は「青原」と呼ばないのだ。彼らは当然のように今も、光安がこう言った四月のことを忘れていないだろう。
「………よくそんなこと覚えてるな」
「忘れてたわ」
「…………」
「記憶をいじられてるのは、アンタだけじゃないの」
つまり裕美が「初対面」で光安を下の名前を呼んだ理由は、彼がそう求めたからだった。言葉にすれば何のひねりもない事実。だがそれは、このクラスがはじめから三十七人だったことの証拠でもある。
いや、忘れていたのなら、ただの偶然なのか?
「生まれた時は人間と同じだったわ」
そうして、観念した表情で彼女は真相を語り出す。
「……今だって」
「余計なこと言わないでいい。小学五年の時、何かおかしいと気付いたの。ううん。気付くのは一瞬。だって魔女だから」
「だから……、だからお前は、誰にも気付かれないようにいたって言うのか」
「もうちょっと複雑だけどね」
裕美の昔語りを、まばたきもせずに光安が聞いている。そして私も、全く彼と同じ立場にある。
もはや役目を失った私は、よい子のみんなに今を伝えるぐらいしか能がなくなった。
(あなたは、青原光安の一部になればいいの)
私は…、私はお前の一部だったはずだ。
魔女である自分に絶望していたお前の。
「そんなに気付かれたくないなら…」
「高校に通う必要はなかったって言うんでしょ? それぐらい、アンタでも分かること」
「俺でも分かって悪かったな」
少しずつ光安の緊張がとけ始めている。いつものことだが、彼はリラックスするのが早すぎる。よい子のみんなもそう思うだろう?
……もっとも、それは彼が特別に集中力のない男だとか、能天気だというわけではない。人類が生涯体験するはずのないことばかり経験し続けている彼は、その分消耗も激しいのだ。
(あなたも消耗してるわ)
消耗? 私にそんな概念はない。
「やっぱり…、両親は通うことを望んでたからね。二人の姉も」
「姉?」
「知ってるでしょ? 二年と三年にいる、私と同じ名字の有名人」
「あ…………」
光安はその瞬間、かなりいろいろなことに気付いたようだ。
そう。この高校に、高橋という名字で裕美にちょっと似た雰囲気の女子生徒が、二人通っていることを。その二人は姉妹で、校内ではファンクラブが結成されるほどの有名人であることを。それは、女子と縁のなかった夏頃の三バカですら、噂に聞いていたことを。
そしてもう一つ。
姉妹の妹、つまり現在二年生の女子生徒とは、「頼めばデートだけならできるかも知れない」らしい。そんな怪しげな噂も彼は聞いていた。デートとは名ばかりで、近所の土手でガリガリ君を食べるだけということも、噂どころか幾多の目撃談も。その女子生徒が…、かつて裕美が漏らした「姉」であることを、光安は確信しただろう。
彼も、そしてこのクラスの、いや学校中の生徒も教師も、高橋姉妹も、魔女の裕美すらも、忘れるはずのない事実を忘れていた。忘れさせられていた。
「お前の記憶を変える奴がいるのか」
「あー、言っとくけどアンタが心配することはないの。誰なのかもう分かったし」
「いや、お前が分かったって…」
「この宇宙に危害を加える人なら、こんな暢気な顔しないわ。それに……、私自身も共犯だから」
「共犯?」
光安の危惧は当然だ。
彼は目の前の魔女に関しては、愚かにも全面的に信頼しているようだが、それ以上の魔女もしくは魔男――魔男って何だよ――もいるとなればただごとではない。宇宙の危機である。
そんな様子を見た裕美は、穏やかに事情を語り始める。
彼女の記憶を操作した存在は、彼女自身の知る者であること。
彼女はその存在を全面的に信頼していること。そもそも彼女の記憶は、プログラム発動を希望した彼女自身の意志がなければ、操作できないこと。
「気付かないで済めば良かったのに、曜子ちゃんと誰かが邪魔するから」
「俺はただの一般人だ」
「もうアンタは…、一般人とは違う」
そんな核心を今さら話すのだから、もう彼の記憶を消す気はないのだろう。
確かに彼は深入りしすぎた。彼自身は、今もその辺にいるバカな高校生でしかないが、その存在は魔女を侵蝕した。
本気を出せば、宇宙をまるごと手のひらで潰せる力をもつ高橋裕美。そんな化け物であっても、人間として生まれて育てば、宇宙の一部である男子高校生の逆襲に遭うらしい。
「ところで、…曜子ちゃんも来てる?」
「俺には分からない」
「そう…」
そこで話題を変えた裕美。
場違い、とは最早言えない。妄想妹は紛れもなく一個の人格となり、当事者の一人となった。
「アンタには迷惑かけたくないんでしょうね。お姉さんは」
「え?」
しかし、続く言葉は明らかに文脈から外れていた。その、あまりにおかしな響きを光安は無視できず、慌てて聞き返す。そんな当然のリアクションを無視するように、彼女は立ち上がった。
わずかな月明かりの教室に立つ、身長約194cmの大女。その非日常的光景は、幽霊の名にふさわしい違和を放っている。
「ここまで来たらしょうがないわ。最後のお土産に、私の消滅でも見届けていけば?」
「だ、誰がそんなもの見るもんか」
そして彼女は、また予想外の一言を言い放った。
この魔女は、まだ消滅を意図していた。彼の記憶を消すつもりもないのに、それでもなお、自分は消えようとしているのだ。
もちろん、死と再生の物語が破綻しても、そのプログラム自体が成り立たないわけではない。十二度目にはなれなくとも、自身が一度目になることは可能だ。
「そうそう、一つ思い出した。アンタに伝えたいこと」
「…なんだよ」
事態の展開について行けず、とりあえず立ち上がろうとする光安を見下ろしながら、おどけた声で彼女は語りかける。
暗闇に沈むように、彼の身体はよろめく。
毎日繰り返す他愛のない動作でも、今はまるで転校生のように不慣れになってしまう。
「クラスの人気投票でね、アンタは四位だった」
「はぁ?」
それはどう考えても、このタイミングで出す話題ではない。
いや、これから起きることをはぐらかすなら、今しかないな。
「ただし得票は二票で、四位タイはもう一人いたけどね」
「……ずいぶんレベルの低い争いだな」
「アンタが言えた義理じゃないでしょ? 二票も入ったことの方が奇跡だと思うけど」
「そ、それはそうだが」
彼はこんな話題につき合っている場合ではないのだ。
しかし、それでも反応してしまうのが男子高校生の性というものか。女子に関心がないと言いつつも、嫌われていないかはしっかり気にしている。
「だから希望をもって生きなさい、光安。三バカはただのバカじゃないわ」
「三バカなんかどうでもいい。問題は裕美、お前だろ?」
クラスの人気投票は、クラス内で選ばなければならない。従って入船辺りが、仕方なく光安に一票を投じた可能性も十分に考えられる。だいたい、他二バカの話題は出ていないではないか。
まぁ、そんな分析は最早無用だ。どんなにくだらなくとも、心残りになりそうな懸案は解決された。122光年の宇宙よりも先が見通せない四角の箱で、魔女は仁王立ちする。
「私こそどうでもいいじゃない。元々いなかったんだから」
「だから…、きっとそれは嘘だ! お前がいなくなったら悲しむだろ! 高校に行ってほしかった両親も、姉も」
「家族は…、もう諦めてるわ」
三十六人でも教室は平穏に過ぎていく。実の娘や妹の存在を忘れても、家族は修復されて、世界は何事もなく動いていく。裕美の得た結論は、現に裕美を忘れて生きていた光安が否定できるものではない。
そうして彼女は、自分の手で教室の扉を開けた。
もちろんその向こうも、ただの暗闇が広がっている。
「だからもう、帰って」
「帰らねぇ」
「帰るの」
「バ、バカ、今さら操るな!」
どうやら高橋裕美は、腹を固めたらしい。
口先の抵抗とは裏腹に、光安の身体はゆらゆらと並ぶ机の間をすり抜け、距離感のない廊下を進み、真っ暗に沈む階段を降りて昇降口へ向かっていく。その足取りはしっかりしたものだ。自分の意志でこんな暗闇を歩けるならば、立派な夜行性人間になれる。うむ、夜行性人間は意味が違うな。
「なぁ裕美」
「…………」
内履きの芳しい臭いを嗅ぐ暇もなく、全く無駄のない動きで靴を履き替えると、校門に向かって歩みを進める光安。寄り添うように裕美も外に出る。
この学校には誰も警備の人間がいないのだろうか、と疑う人がいるかも知れない。しかし、ここにいるのは宇宙の上位にある者だ。二人の姿は赤外線センサーにも決して引っかかることはない。かといってそれは幻でもない。
やがて道路に面した校門を彼は通過し、彼女は立ち止まる。
彼女はそこで…、振り返ることすらできない彼を見送る。
「おやすみ、光安」
「裕美! いい加減にしろ!」
ちっぽけな人類の代表みたいなバカは、本当に大事な時には何もできずに、ただ永遠の別れを経験するのだ。ただ、明日の朝になればまた会えそうな声を背中に聞きながら、正確に夜道を歩くしかないのだ。
そうして三十秒ほどが経過すると、校門から彼の姿は全く見えなくなった。彼女はそこまで見送っていたが、再び校舎の側に向き直る。その時だった。
深夜の道路に、一台の車が侵入する。
ブレーキ音をきしませながらカーブを曲がり、校門を通過した。そこから帰宅中の光安までは、ほんの数秒に過ぎないだろう。
「えっ?」
後ろを振り返ることもできない彼が、危険を察知した時には、もう手遅れだった。
ようやく激しいブレーキ音が響く。そして次の瞬間には、大きな衝撃音が……。
「…………」
「……………ごめん」
衝撃音は響かなかった。
光安の背後のわずか1mの位置で、白っぽいワゴン車は停止した。そして1mの隙間には、もう一つの人影があった。
いや、二つの人影は重なっていた。
「裕美…」
「ごめん…なさい」
「………謝るなよ」
「ごめんなさい」
「だから…」
止まった時の中で、そこだけは動いているはずの二人も、今は身じろぎもしない。
背後から光安を抱きしめたまま、裕美は泣いていた。
「これで二度目になるんだな」
「………」
抱きつかれたまま荒い息を整えた光安が、ぽつりとつぶやく。
「裕美のおかげで長生きできそうだ」
「…違う」
「え?」
このひき逃げ未遂が、数ヶ月前のそれと何か関連しているのかは、私にも分からない。しかし彼が助けられたことを、魔女によるひずみと受け取るならば、どこかで回復が図られても不思議ではない。もしも宇宙に、魔女を排除する意志があるならば、だが。
ともかく彼は、正直な気持ちを口にした。バカはバカなりに、できるだけ穏やかな言葉を選んだつもりだったはずだが、裕美は小さな声でそれを否定する。まだ後ろから彼の身体にしがみついたまま。
「二度目じゃない」
「ま、まだあったのか?」
「ううん」
覆い被さるような体勢のまま、彼女は首を振る。
「目の前で人が死ぬのを見たくなかった。それが一度目」
「…………」
「今は、アンタがいなくなったら困ると思った。……それも一度目。ううん、あの時も本当は期待してたんだ。たぶん…」
ようやく羽交い締めにした腕を放して、裕美は息をついた。その顔は、今までに見たことがないほど紅潮している。きっと寒さのせいではないだろう。
後ろを向いた彼女は、そこに止まったままの車をただ睨みつける。例によって運転手を放り出した自動車は、次の瞬間にはこの宇宙から消滅した。スクラップにする気すらなかったようだ。
そして止まっていた時間が、再び動き始める。
街灯に照らされた道路では、ただ酔っぱらいが一人眠っている。眠らされている可能性もあるが、私には判断できない。
「どっちにしろ、裕美が謝ることはないよな」
「………」
「裕美が俺を助けた。それだけのことだ」
「うん…」
ゆっくりと振り返る光安。
街灯に照らされた魔女の顔は、教室の幽霊だった彼女とは別人のように憔悴している。それは魔女ではなく、ただの高校生の表情。
「で、考え直してくれるんだろうな」
「…………」
「何だよ、まだダメなのか」
「…………」
ともかく、裕美の目論見はまたも破綻した。
少なくとも今度の破綻は、自らの意志でなされたものだ。
「なぁ裕美」
「ねぇ光安」
「…な、何だよ」
ただし、これは確かに裕美の意志だが、彼女もこの展開を意図していたわけではない。
引きつった笑顔を作りながら、光安に問いかける。恐らく彼女は、その行く末がどうであれ、誰かの指図で動きたくないのだろう。
「お姉さんに聞いてもいい?」
「お、お姉さん?」
苦し紛れの言葉。とはいえ、相変わらず裕美の提案は謎をはらんでいる。単純に、その意味が分からない光安は、眉をしかめながら問い返した。
この場にいない姉にどうやって…という疑問は、裕美なのだから不要だ。しかし、可能であるからといって、謎が解決するという保証はない。彼女の二人の姉が、今回の件に絡んでいるのだろうか。
「私の…、お姉さんみたいな人。ううん。今でも姉って感じじゃないな」
「………」
いずれにせよ、裕美と姉が相談するならば、そこに光安が口出ししても仕方がない。彼は黙って、その行方を見守るつもりのようだ。
裕美の表情は、穏やかに変化している。姉への信頼がなせるものなのかも知れない。
「ねぇ…。あなたは、どうして青原光安を選んだの?」
「えっ!?」
しかし、彼は黙って見守るわけにはいかなかった。
当たり前だ。このタイミングでなぜバカの名前が出るのだ。選ぶって何だ?
「どう? あなたは後悔してない? もっと他の誰かが良かったと思わない? それとも、元のままで…」
「ゆ、裕美! 誰に言ってんだよ、お前は! なぁ…」
一人芝居のように、虚空に向かって語りかける裕美。その相手が誰なのか、恐らく彼はすぐに気付いただろう。
それは絶対にあり得ない存在。
青原光安の毎日をいつも見つめている、あの…。
「妹だけど、お姉さんね」
「なぜだ!」
「曜子ちゃんは十一度目の私。生まれることすら拒絶した」
「まさか…」
青原光安の妄想妹。その名は曜子。
彼女は毎日、ただ兄と挨拶するだけの、都合のいい「妹」だった。
ある日までは、彼もそう思っていた。
彼女がまるで本当の妹のように、自分の言葉で話し始めるまでは…。
「アンタに賭けたのよ」
「…………」
「この世に生を受けなかった彼女。この宇宙に絶望して漂っていた彼女は」
「何を言ってるのか分からない」
裕美が造りあげたデタラメの歴史。その十一度目に選ばれたのは、生まれていれば「曜子」と呼ばれたはずの思念だった。
彼女が宇宙を拒絶したのか、それとも宇宙に拒絶されたのかは、恐らく「曜子」本人にも分からない。ただはっきりしているのは、そうして歳も取らずに漂う思念――まさしく「幽霊」――が、なぜか光安の妄想との合一を果たしたらしいことだ。
彼はそれを、理解したくないと拒んでいる。
しかし冷静に考えれば、全く予期できなかったことではない。曜子には、間違いなく意志があった。それもランダムな夢ではなく、常に一貫した意志が。
「いつも誠実に妄想できる男って、なかなかいないものよ」
「……よく分からないが、褒められてる気はしないな」
「別に褒めてないから」
「…………」
(あなたも同じ)
私が妄想男だというのか? それはあり得ない。
…………。
あり得ない、だろう?
「仮に……仮にだぞ、曜子が………、お前の言うような者だとして」
「………」
「お前はいつからそんな妄想するようになったんだ?」
「妄想するのはアンタ」
「お前もしてるじゃねーか」
「……まぁ、そうかな」
まだ受け入れがたいという表情で、光安は問いかける。けんか腰と言っても過言ではない。もっとも、この二人はずっとそうだった。ケンカするほど仲がいいというほどに。
(余計なお世話よ)
「曜子ちゃんが姉だって分かったのは、ついさっき」
「ふぅむ…」
「アンタに隠してたわけじゃない」
「ずっと隠してれば良かったんだ」
兄として、最後の抵抗をみせる光安。その姿は、どこかの出来損ないのRPGのヒーローのように凛々しい。曜子だって今ごろは後悔してないとも限らない。
いや―――。
曜子が彼を選んだのは、恐らくは相当な昔だ。その頃の彼は、ヒーローといっても変身ごっこがせいぜいのガキだった。そして曜子自身も……、難しいことを考えられるような思念ではなかっただろう。
(はずみで選んだだけだから、別に後悔してないだろうって?)
わ、私はそんなことは言っていない。
それに近いことを考えなかったと言えば嘘になるが。
(後悔なんてしてるはずないじゃない。そんなこと、あなたが一番よく分かってるはずよ)
なぜ私がそうだと言い切れるのだ。
私はお前を消滅させるべく現れた者。彼にシンパシーを感じる謂われはない。そうだろう?
(確かに、あなたは私の人格のひずみだったかも知れないけど…)
ひずみと言うな、ひずみと。
……いや、どう考えても、こんなものは「ひずみ」か。まぁいい。
(あなたはもう、青原光安のファミリー)
何を言う!
………あんな妄想男のファミリーなのか、私は。
(嬉しいでしょ? 曜子ちゃんの「叔父様」なんだから)
私はもっと若いはずだ。私は叔父様よりは……。
(「お兄ちゃん」はもういるんだから我慢しなさい。オジ・サ・マ!)
いかんいかん。お前に乗せられてしまった。これでは本当に………、私は光安そのものではないか。
「で、どうなんだ」
「…何が?」
「何が、じゃあねぇだろ」
「え? ……あー」
会話が届いていない光安は、彼女の返答を待っていたようだ。相変わらず律儀で呆れた奴だ。もう誰もそんなことには驚きはしないが。
「仮に曜子がそうだとして、いや、そうでなかろうとどうでもいいが、もう曜子に聞いたんじゃねーのか?」
「何その面倒くさい言い方」
「そんなこと突っ込まなくていい!」
もちろん、曜子の答えなど聞くまでもない。
曜子は光安の埋もれた記憶を掘り出した当事者だ。裕美をこの宇宙につなぎ止めたのは、彼女なのだ。
「ま、曜子ちゃんが選ぶほどのバカだから、私も……、アンタに賭けるしかないかな」
「どうしてもバカなんだな」
「バカでしょ。こんな魔女をつかまえるんだから」
そうして高橋裕美は、エンドレスなイバラの道を選ぶ。
一度きりの人生、バカを選べばろくな未来はない。普通は、な。
「だから、さよなら」
「裕美!?」
しかし、事態は急展開をみせる。
さよなら、だぁ?
「光安…。曜子ちゃんによろしくね」
「バカ! 今さら何をよろしくするんだよ、ゆう…」
光安がつぶやき終わるより前に、突然、裕美の姿は消えてしまった。
何があった?
今の状況のどこに、裕美が消える必然性があった?
青原光安は、まだ事態が飲み込めない顔で、ぼんやりと真夜中の道路端に立っている。恐らくは夜十一時頃の地方都市の住宅地は、ひっそりと静まりかえって、切れかけた街灯のちらつきだけが、まだ時間が動いていることを主張している。
オリオン座なら、空の上にある。
彼は吸い寄せられるように星を見上げ、その瞬きはいつか滲んで見えなくなった。




