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手のひらの宇宙―魔女とバカの日々―  作者: UDG
最終章 魔女とバカの日々の巻
31/35

第一節 宇宙の記憶

 俺には妹がいる。

 名前は曜子。学校ではバカにされるだけの俺とは違って、成績優秀で可愛い妹だ。

 俺はそんな妹の成長だけが楽しみなんだ……。








 日本海に面したとある地方都市に、高校があった。

 いやいや、仮にも市を名乗るのだから、高校の一つや二つぐらいあるのは当たり前だよな、諸君。こんな説明では何も分からないだろうが、私も解説が本職ではないので勘弁してくれたまえ。

 この街の特徴は……、そうだなぁ。強いていえば、冬はわりと寒いってとこだな。うむ。暦の上でももう冬になって、誰もが実感できるようになったはずだ。

 え? 冬が寒いのは当たり前だって? 私は解説が本職ではないので勘弁してもらうぞ。


「行ってくるよ、曜子」

「うん。お兄ちゃん行ってらっしゃい」


 無駄な前置きはともかく、師走を迎えた街は朝晩の冷え込みがきつくなっている。

 そこに登場したのは、高校一年生の青原光安。彼の部屋にも玄関にも誰の姿も見えないが、「曜子」と呼ぶ何者かと彼は楽しげに会話を交わしている。せっかく紹介した季節の様子とは何の関係もなく、彼の一日はただよく分からない行動から始まった。

 そして歩いて通う先は、もちろん高校だ。冷え込んだ通学路を黙々と歩き、やがて見えてくる校門をくぐり、昇降口で靴を履き替える。その瞬間、少し臭うことに気付いて顔をしかめた。


「よぉ光安。早ぇな」

「これでも喰らえ! 曽根」

「ぐぁあ!」


 親しげに声をかけてきた同級生の曽根の顔に、その内履きをかぶせようとする。

 甘酸っぱい香りに包まれた曽根は悶絶した。

 ………。

 私はなぜ、こんなくだらないことを実況しているのだ? だいたい、私は何者なのだ?


「よぉ荒瀬」

「なぁ荒瀬、残念だったな」

「なんだ光安。朝からケンカ売るのか」


 教室ではまた、間抜け面の生徒が待っている。さっそく仲の良さをアピールする曽根と光安。どうやらこの三名が、クラス名物の三バカらしいぞ。

 だから何の価値があるんだ、こんな知識に。


「なぜケンカだと分かるんだ」

「どうせ貴様は、「先行き不透明では入門もできねぇ」とかほざくんだろう」

「………り、立派な被害妄想だな」

「なんか妙な間が空いたぜ、光安」


 荒瀬は相撲取り志望だという前提で三人は話しているが、情報によればそんな志望は抱いてないらしい。そもそも荒瀬は運動が苦手だという。

 現実には、太っているという理由で相撲に入門する若者は少なくない。己の足腰で体重を支えきれないようなアスリートは、根本的にアスリートの定義に合わないと思うのだが、ともかく荒瀬でも入門だけはできる可能性がある。


「やぁお船。おはようごぜーます」

「あー光安、ノート貸して」

「もっとふさわしいヤツがいるだろ。に…」


 二バカと別れて自分の席に着くと、彼は近くの女子生徒にも声をかけた。

 意外にも彼は、女子の友人もいるらしいぞ。


「ぶん殴るけどいい?」

「そんな横暴じゃカオリンとは呼んでもらえねぇなぁ」

「わ、私は部活では…」

「可愛くて優しいと評判で、バレー部の将来を担う逸材と期待されている!」

「やっぱり殴るわ」


 バレー部の将来を担う逸材は、入船香織という。性別は女だが、三バカと比較しても、おおむね遜色のないバカである。

 どうやらこの二人は、最近になって親しくなったらしい。たまたま座っている席が近かったから、というのは確かだろうが、それだけでこうも仲良くはなれない。現に彼は、前の席の斎藤という女子生徒とは、ほとんど話す機会がないようだ。

 どこかから入ってくる情報によれば、青原光安は基本的には女性恐怖症であるという。仮にその情報が真実であれば、入船はとりわけ近寄りがたい相手であったろう。無駄で無意味な情報の集約基地となっている入船の席には、常に複数の女子生徒がやってくる。現に今も、彼女は一人で座っていたわけではないのだ。


「お船ちゃん、青原くんとどういうご関係?」

「なんもないわよー! 私はバカとはつき合えないもん」

「バカで悪かったな。お前もじゅうぶんバカじゃねーか」


 光安はしかし、女子生徒の集団に囲まれてもそれなりにそつなくコミュニケーションをとっている。集団の側も、特別な悪意はもっていないようだ。

 分析する価値があるかはともかく、これは入船との関係変化がもたらしたポジティブな影響と考えられる。

 入船はあまり頼りになる人間ではないが、社交的かつ素直な性格である。その入船が認めたという事実が、やがてクラスの内外に波及することで、彼女の友人たちも次第に光安を認め始めていくのだ。あえて説明すると何だか大層な話だ。

 実際には、どこにでも起きるごく当たり前の現象に過ぎないし、残念ながら恋愛感情を抱く女子は存在しないようだ。単なる人畜無害。


「で、もう聞いた?」

「そんなにズバリ聞けねぇだろ。そこまで親しくねぇのに不自然だし」


 もっとも、光安と入船の関係は、単にバカ同士馬が合うというだけではない。いや、端から見ると、二人の間には恋愛感情があっても良さそうに見えるほどだが、それこそが打算の産物であるらしい。

 特に入船にとって、光安は利用価値のある男なのだ。


「使えないわねー」

「やかましいわ。……でもお前の名前はあがるぞ。部活頑張ってるってな」

「なになに? それってもしかしてフラグ立ってる?」

「知るかよ」


 入船香織がカオリンと呼ばれたい相手、それは男子バレーボール部に所属する新井田という男だ。そしてその彼は、光安と同じ中学の出身だった。

 重ねて言うが、女性恐怖症と呼んでもいいほど交流のなかった人間が、特定の女子と急速に仲良くなった。その事象を聞けば、誰もがそこに恋愛感情が絡んでいると予測するだろう。しかし、どういうわけか知らないが、ともかく二人の間にそのような感情は全く存在しない。となれば、人畜無害なバカをうまく利用して、新井田との関係を進めたいと入船が考えるのも、自然な成り行きである。

 それに、実は光安には既に実績があるという。

 他のクラスにいる友人に頼まれて、その片想いの相手とのデートをセッティングしたらしい。全く驚くべき話だ。

 いや、本当に驚くべきなのは、光安自身がその詳細をよく覚えておらず、自分にできるはずがないと首を傾げている点だ。夢遊病のうちに仕事を片付けるファンタジー小説のような話ではないか。


「最近、順調に育ってるな」

「うむ。まさにかれーなるせーちょー、だな」

「うるせえな、別に体重は変わってねぇ! ……少ししか」


 再び三バカが集結するのは、昼休みであった。この習慣は、高校に入学して半月ほど経った四月中旬から、今に至るまで変わらぬ伝統となっている。

 光安にとってこのイベントは、小太りのハイエナを常にそばに置き、自分の弁当を危機にさらすものである。無駄話以外は何のメリットはないようにみえる。

 しかし、昼休みの教室で形成される島のどこかには所属していたい、という欲求もあるらしい。ひとりぼっちはつまらない~と、古来歌にも謳われるではないか。


「それにしてもなぁ、光安」

「…何だよ」


 ただし、伝統行事だからといって四月から全く変わらないルーティンワークをこなしているかと言えば、それも嘘になる。

 伝統行事というものは、どんなに跡形もなく変わっていようと、「昔から続いている」という神話さえあればそれで良いのだ。


「最近の貴様には、女の影がある」

「はぁ?」

「そうだそうだ。なぜお前だけ女子としゃべれるんだ!」


 曽根と荒瀬は、密かにひがんでいた。いや、今の発言は全く隠していないから、堂々とひがんでいる。


「別に…、お前らも一緒にしゃべればいいだろ」

「それができたら苦労しない!」

「そうだそうだ!」

「得意げに言うことじゃねーぞ、それ」


 まぁ彼らの会話の詳細などどうでもいい。とはいえ三バカに、実は女子と仲良くなりたいという願望があったというのは、ちょっとした衝撃である。二次元にしか興味がないというストイックな存在かと思っていたのに、残念だ。お前らには心底失望した。

 …………。

 なぜ失望するのだ、私は。どうでもいいにも程がある。


「…というか、曽根は誰か狙ってるのか?」

「はぁ!? な、何を言ってるんだキミは!」


 三バカ島は、光安の反撃に変わった。

 これだけ欲望を剥き出しにすれば、ツッコミが入るのが当然である。むしろ、ツッコミがなければ寂しすぎる。


「どう思う荒瀬? 1、見え見えの反応をして攪乱している。2、バカなのでストレートにうろたえた」

「そんなもん、考えるまでもなく2だ」

「や、や、やかましい!」


 現在の曽根が実際に誰を狙っているかは、手元に情報がない。そもそも情報を仕入れる価値もないのだが、しかし私には嫌でも知らされるメカニズムである。にも関わらず分からないのだから、少々不思議な現象と言えなくもない。

 つまり曽根は、誰とも分からない女子を狙っている。いや、それを「狙っている」とは普通言わないものだ。どうにも混乱しているな。

 ただ…、この不可思議な現象は曽根だけではなく、荒瀬にも共通するようだ。さらにいえば、光安が入船に関心をもたない理由も、何か関連がありそうに思える。三バカだけあって、女子との関係も人間離れしているのだろうか。


「ところで、今日はお前らに見せたいものがある」

「なんだ曽根。偉そうに」

「偉そうなのではない。偉いのだ」

「はぁ? 寒さで頭がイカレたのか?」


 まぁいい。三バカの昼休みは次のステージへと進んだ。

 突然、ふんぞり返ってポーズをとりはじめた曽根。その珍妙な姿は、周囲で談笑中の女子生徒からも悪い意味で注目の的になっているが、当人は気付いていない。だいたい、女子が苦手だとかいう男子は、肝心の女子の視線を無視するものである。


「どうだ!」


 弁当を片付けた机の上に、どんと音を立てて曽根が置いたもの。

 それは………、何枚かのノートの切れ端だった。


「………何これ」

「何これとはなんだ! 俺さまの傑作マンガだぜ!」

「…………」


 傑作という響きに、それ以上の言葉が出なくなった光安と荒瀬。仕方がないので、言われるままにその紙を眺めることになった。

 鉛筆書きの非常に汚い紙。それだけでも十分に気力を減退させるが、描かれた内容はさらに厳しいものである。


「この、サラエボマンってのが主人公か?」

「サラエボマン?」

「江机だ!」


 曽根は怒りに震えているが、そもそもが江机なんて名前の時点でおかしい上に、滅茶苦茶な殴り書きなのだ。むしろサラエボマンの方が遙かに正義の味方っぽいのである。

 まぁこのまま時間が経過しても、誰もあらすじを紹介はしないだろうから、私が仕方なく教えてやろう。

 サラエボマンではなく江机という男は、世界征服の野望に燃えている。そして手始めに彼は、住んでいる町を征服することにした。そして市長選に立候補して、そこから血で血を洗うサバイバルが展開される………らしい。説明する私の頭がおかしくなったようだ。


「どうだ、すげーだろ!」

「………」

「君の発想には驚かされた。プロでも思いつかねぇな」

「当然だ!」


 荒瀬のほめ言葉は、バカな上司をおだてる太鼓持ちの素質を感じさせる素晴らしいものだ。プロでも思いつかないのではなく、プロなら切り捨てるだけである。

 もっとも、実際にはプロも似たようなことをやっている。かつてのテレビの戦隊モノでは、地球征服を狙う悪の秘密結社が、なぜか幼稚園を混乱に陥れる計画を立てたりしていた。サラエボマンの方が遙かに理にかなっているではないか。あ、サラエボマンではなかったな。


「しかしなぁ曽根」

「なんだ光安。ケチつける気か?」

「どうやったらケチをつけずに済むんだ」


 曽根はこれでも、マンガ家を目指している。

 いや、目指すことは誰でもできる。そんなものはただ、宣言したい者がするだけのこと。実際にならない限りは何の価値もない。


「つーか、マンガはペンで描くもんだろ?」

「ペンで描いたら直せねぇじゃねーか」

「………いや、だから」


 あまりの返答に、光安は追求をやめてしまった。

 どうやら光安も荒瀬も、曽根がマンガ家志望だと知っていたようだ。だからこそ、酷い絵にも耐えたのだろうが、さすがにこのやりとりでは会話が続かないのも無理はない。

 マンガ家を目指す男が、マンガの描き方すら知らないのだ。Gペンなんて言葉は、きっと聞いたこともないに違いない。まぁいいだろう。所詮、目指すだけなら誰でもできるのだから。


 そんな実況しがいのない昼休みが終わり、午後の授業が始まった。

 五時間目は体育だ。

 女子はバレーボール、男子は…、男子もバレーボールだ。男女別にやる値打ちがないな。


「バレーは曽根に任せろ!」

「それでも曽根なら、曽根ならやってくれる!」

「…………」


 念のために断っておくが、曽根は元バスケ部であり、バレーが得意という情報はない。しかも三年間部員だったというバスケの授業でも恥をかいたらしい。

 とりあえずこのバカは背丈はあるので、あとは運動能力さえ有していれば活躍できる可能性がないとは言えない。もっとも、運動能力があったなら、元バスケ部の経歴に泥を塗ることもなかったはずだ。

 ともかく、授業内容については語ることもない。どこでも同じである。

 曽根が活躍したかどうかなど、確かめるまでもない。

 強いて言えば、光安は軽い怪我をした。プレイ中ではなく、ボールを片付けるために用具室に入った時に、ささくれた柱で指先を切った。何ともしまらないケガである。


「いてーな」

「俺をバカにするからだ、光安」

「じゃあ貴様のせいか!」


 傷自体は大したものでもなく、彼は親指の指紋の辺りににじんだ血をぺろりとなめて、そのまま教室に戻った。そして、何事もなく次の授業の教科書を並べていると、また血がにじんできた。


「何してんのアンタ!」

「え?」


 予期せぬ声に驚いた顔で振り向くと、呆れた表情の入船が指先を見つめていた。

 次の瞬間、入船は自分のカバンを開けて、ごそごそと中を探し始める。


「ちょっと貸しなさいよ」

「あ…」


 そうして無理矢理バカの親指を引っ張ると、カバンから取り出した絆創膏を貼った。実に迅速な行動だった。


「はい」

「………」

「返事は?」

「あ…、ありがとう」

「よろしい」


 なぜか呆然としていた光安は、感謝の言葉を急かされてようやく我に返った。

 そこまで衝撃を受けるほどの出来事とも思えないが、ともかく彼は動揺していた。思わずバカな台詞が飛び出すほどに。


「なぁお船」

「何よ、気持ち悪い声だして」

「女の子は、みんな優しいのか?」

「はぁ?」


 間の抜けた声でとんでもないことを聞く光安。

 さすがの入船も、あっけにとられている。


「アンタ、自分が何言ったか分かってる?」

「………正直言えば、よく分からない。ごめん。何となく……」


 彼自身も、自分が口にした内容を反芻し始めたらしい。呆れ顔の入船から顔を背けて、ちょっとだけ肩をすくめる。

 そして彼は……、一瞬だけ怪訝な表情をみせた。その視線の先には、机があった。彼の隣、入船の後ろにあたる席は、なぜか誰も座らない空席だった。


「なんでここ空いてるんだろうな」

「さぁ…」


 光安に言われて、初めて気がついた様子の入船。確かにそれは不自然な空席だ。そんなことに今まで気付かなかったのか…と驚かずにはいられない。

 ……もっとも、彼らは別に今初めて知ったわけではないはずだ。席替えが行なわれたのは二学期の最初だから、既に三ヶ月以上も経過している。その間、常に空席を見続けているのだから、今さら違和感を表明されて驚いたというのが正しいのかも知れない。


「ここに新井田が座ってりゃな」

「じょ、冗談じゃない!」

「何でだよ。毎日楽しくなるだろ」

「バカねぇ…」


 違和感は結局、すぐにバカバカしい話へと変わってしまう。

 当然だろう。ただ席が空いているというだけで、何の発展性もない話題なのだ。


「私は爽やかなスポーツ少女でいいの」

「何言ってんだ。まさかばれてねぇとでも思ってんのか?」


 まぁそれはともかく、入船が拒絶するのはよく分かる。

 人間は、気を許せない相手に背後をとられたくないものである。どこかの凄腕スナイパーも言っている。


「…………ばれてる?」

「絶対にばれてる」

「じゃあ………、アンタの悪評振りまいてやる!」

「俺のせいじゃねーぞ」


 光安の推測が正しいかどうかは知らないが、入船が自分を取り繕えるような人間でないことは、容易に想像できる。部活で日々接していれば、すべてばれるに違いない。そして、ばれたからといって、片想いの相手の好感度が下がるという確証もない…というところでチャイムが鳴った。まだ授業が一つ残っている。

 授業中の実況は退屈だ。というか、私はなぜ彼らの実況をしているのだろう。こんな疑問を、朝にも抱いた記憶がある。こんな連中が高校を卒業しても、世界を動かす人材にはならないだろう? なぁ。


「まぁでも、アンタはきっと尻に敷かれるタイプね」

「…それは否定しない」

「早く敷かれますようにって祈ったら?」

「誰が祈るか!」


 疑問は解けないまま、彼らの学校の一日は終わろうとしている。興味のない人間を眺め続けるのは、非常にストレスが溜まる。

 光安は放課後まで軽口をたたき合って、部活へ向かう入船の姿を見送った。相性はバッチリにも思える。少なくとも入船にとって、本命がダメだった時の滑り止めぐらいの価値はありそうだ。いや、ここは前後賞というべきか。


「じゃあな光安」

「おう。風邪ひくなよ曽根」

「……なんでその心配するんだ」

「寒いからだろ」


 三バカは昇降口まで一緒だった。三人とも見事な帰宅部ぶりである。

 それにしても、三人が並んでいるのを見ると、見事に体型がばらけている。背が高くてガリガリの曽根は、なるほど虚弱体質を疑われそうな外見だ。一方で荒瀬は、今時流行らないまわしのアスリートにまっしぐら。背丈は平均、体重も普通の光安が、何とも中途半端である。まさしく昨今の無個性な若者を象徴しているようだ。うむ、けしからん……って、私は何を言っているのだ。

 ともかく、光安は帰宅した。日没が早くなった昨今でも、放課後にすぐに帰れば空はまだ明るい。


「ただいま、曜子」

「お兄ちゃん…」


 …………。

 今、何か幻聴がした気がする。

 そもそも彼の発言自体が幻聴であってほしいのだが。


「元気にしてたか?」

「うん。お兄ちゃんの言う通り、よい子にしてたよ」

「そうかそうか、曜子は偉いなー」


 たった今、どこかから情報が入った。

 彼は妄想の妹と会話中だそうだ。

 ………うむ。情報が入らなくとも、それ以外の可能性は考えがたいのだが、考えたくなかった。君たちもそう思うだろう? 君たち? 君は…、誰だ? どうやら私には、分からないことが沢山あるようだ。気のせいかも知れないが、分かろうとすべきではない気がする。実況に戻っておこう。

 光安はまだ誰もいない家に入り、そのまま階段を昇って二階の部屋に向かう。

 彼はそして、貴重な時間をどう使うのだろうか……と思ったら、なんと布団を敷いて眠ってしまった。アンビリーバボーだ。

 ………。

 …………。

 ……………。

 彼は本当に寝ている。

 私はてっきり、妄想妹とのひとときでも楽しむつもりなのかと背筋を寒くしたのだが、彼にそんなそぶりすらない。ただ堂々と眠っている。

 まぁいい。深夜に何かをするための寝だめの可能性もある。何事もポジティブに考えてみようじゃないかハッハッハ。


 そして夜になった。

 彼は晩飯の時間にはちゃんと起きた。そして無駄のない箸使いで飯を食って、鼻歌を歌いながら風呂に入ると、再び部屋に戻った。

 部屋の中には、もちろん布団が敷きっぱなしである。いつでも睡眠に入れる体勢だ。この男は単なる健康優良児なのか……と思ったら、勉強机に座った。どうやらすぐには寝ないようだな。

 彼はカバンから教科書とノートを取り出す。数学のようだ。そういえば、今日の授業で宿題が出ていた。

 落ち着かない様子のバカ。貧乏揺すりをしながら、ノートを開いてしかめっ面。あえて情報を得るまでもなく、彼は数学が苦手なのだろう。二十分近く、彼のシャーペンは微動だにしない。シャーペンはシャープが売り出したからこの名前なんだぜ、と教えてやっても気付きそうにない。

 ………。

 ようやく彼の上半身が動き出したのは、三十分以上が過ぎてから。どうにか計算式を進めていくものの解答にたどり着かず、まるで将棋の名人戦のように長考に戻った。こんな調子なら、明日の朝に誰かに聞いた方がいいのではないかと、悪魔のささやきの一つもかけたくなる状況だ。

 というか、彼はバカのくせになぜこうも真面目なのだろうか。もちろん、バカであることと不真面目だということはイコールではないが、イコールの方がまだ救いがある。


「ねぇお兄ちゃん」

「な、何だ!?」


 そんな長考中の彼の身体がぴくりと動く。突然、妄想妹の声が響いたのだ。

 いや、リアルな部屋の中には全く響いていない。当たり前だな。


「夜空がきれいだよ」

「え? ……そ、そうか」


 彼はこの呼びかけに、やや困惑した表情を浮かべる。

 それは、宿題の邪魔をしないでほしい、という実利的な問題なのかも知れないが、彼の反応はそうではなさそうだ。そもそも宿題は煮詰まっていたから、むしろ気分転換になっていいはずだ。


「一緒に見ようよ」

「う、うん…。分かった」


 わずかにちらつく蛍光灯に照らされ、青白い顔の光安は、逡巡をやめてノートを閉じる。その表情はどちらかと言えば、この場のこの時間に出現したことを訝っているように見える。

 情報によれば、毎日この妹曜子が出現するのは、目が覚める時と出かける時、戻った時、そして寝る時の四度らしい。だからイレギュラーだと言われても、第三者的には理解できないが。

 脳内妹なのだから、どこにいようと出現可能ではないのか?

 それに、この部屋は元から出現する場所ではないか。ずいぶん勝手な話だ。


「早く早く」

「急いでるよ、曜子」


 まぁ妄想は所詮は勝手なものである。テレビのアイドルに恋する人間だって、みんな自分勝手にアイドルを動かしているのだ。そんなことを叱られては、彼も、世の中のみんなも困るのだ。

 シャーペンを置いて立ち上がった彼は、サッシ窓のカーテンを開いた。しかし長方形の枠の外に広がる暗闇は、ガラスに反射する蛍光灯と結露でよく見えない。外は確実に寒いはずだが、仕方がないので窓を開けた。


「ね、きれいでしょ?」

「うん……。こんなに見えるなんて珍しいな」


 住宅地の外れにある彼の家の周囲には、街灯や車のライトも多少は存在する。しかし都会の真ん中に比べれば、その夜空は遙かに星に満ちている。

 そして冬の乾ききった空気によって、妹曜子が急かすようにいつもより多くの星が瞬いている。


「お兄ちゃん、星座は分かる?」

「悪いな曜子。俺は…、オリオン座ぐらいしか知らない」

「オリオン座なら曜子も知ってる」

「うん。今日はよく見えるな」


 ぼんやりと空を見上げる彼は、たぶんこんなことを考えていただろう。疲れた頭をちょっと冷やして、また宿題に戻ろう、と。

 冷やしてもバカは治らないが、疲れたバカよりはマシだ。


「お兄ちゃんの星も見えるね」

「え?」


 しかし、妹曜子の次の台詞は、予想外の内容だった。

 私にとっても、何を言ってるか理解できない。お兄ちゃんの星だぁ?


「いつだって見えてるよ。お兄ちゃんの星も」

「よ、曜子?」


 ぽかんとした表情の光安は、視線を向ける相手がいないのできょろきょろと一人芝居を始めた。

 それもそうだろう。いや、妄想妹なのだから、理解できない言葉を吐いても不思議ではないのか? 誰だって、夢の中の展開は非論理的なのだからな。


「ほら、お兄ちゃんの星」

「……なぁ曜子。そりゃ何の嫌がらせだ」


 曜子の攻撃は、なかなかしつこかった。

 さすがに光安も、他に対応のしようもないのでお叱りモードの声になった。長州力的に言えば鬼の形相だ。そうか?


「嫌がらせ?」

「お兄ちゃんが教えてやるぞ。普通はな、「お星さまになった」ってのは死んだ人に言うもんだ」

「そんなこと知ってるよ、お兄ちゃん」

「…………」


 彼はそして、兄らしく妹を諭したが、あっさりと流されてしまった。

 というか、「そんなこと知ってる」のか。つまりこの妄想妹は、分かってて兄を亡き者にしようという魂胆なのだろうか。あまりそういう悪意は感じられないが…。


「お兄ちゃんには見えないだろうけど、オリオン座の一番大きな星の裏側の、ずっとずっと遠くにあるの」

「だから…」

「お兄ちゃんの星。近くにお姉ちゃんの星もあるの。とっても大きくて明るい星」

「……………」


 …………。

 呆れ顔だった彼の顔色がさっと変わる。血の気が引いていく。

 それは同時に、この私の運命をも変える一瞬だった。

 そうだ。

 この妹は、兄を困らせていたわけではなかった。


「なぁ…曜子」

「なあに?」


 彼の声が上ずっているのは、そのことを思い出したからだろう。

 どうやら彼と私は、等しく忘れ、等しく思い出す一蓮托生の存在らしい。


「お兄ちゃんの星って、どんな星なんだ」

「ちっちゃくて、青い星。地球に似てる。それで…」

「お姉ちゃんの星は…」


 妹の声を注意深く聞いていた光安は、一瞬肩を震わせて、その話を遮るように自分から「お姉ちゃん」と口にした。

 彼は…、いつの間にか泣き出しそうな表情に変わっている。見えるはずのない彼方を、じっと見つめている。


「お姉ちゃんの星は黄色くて大きいんだよな」

「うん」


 そうだ。

 曜子の姉の名前の星は、大きな恒星だった。

 そんなことも忘れさせられていたのだ。彼も。そして私も。


「曜子はすごいな。あんな遠くの空も見えるのか」

「…ううん」


 ならば、私は何者だ。

 私はすべてを思い出した。私は……、もう用済みで、存在するはずのない語り手ではないか。


「曜子はどこにもいないから、どこでもいるの」

「………」

「あの日の水族館にも」

「えっ!?」


 実況に戻ろう。今目の前では、いや目の前にはバカしかいないが、ともかくまさかの暴露第二弾が始まろうとしている。

 それにしても、曜子の発言はあまりに衝撃的だった。光安は意味もなく両手をバタバタ動かしている。恐らくは曜子の発言をやめさせようとしているのだろうが、実体のない相手には無駄である。


「よ、よ、曜子はいつも留守番だよな?」

「留守番……してたけど、したくなかった」


 それにしても、冷静に状況を整理してみれば、身勝手な話にも思える。

 彼が妹を家に留めておく合理的な説明はない。むしろ、兄の後を追う方が自然ではないか。ちょっと腹が立ってきた。妄想妹の人権問題だ。


「………まさか」

「うん。お姉ちゃんに頼んだら、時々なら連れてってあげるって言ってくれたの。それでね、お兄ちゃんのこと、こっそり見てた」

「なんだよそれ……」


 唖然とする光安。

 恐らく彼の目の前には、もじもじと顔を赤らめた妹の姿が幻視されているだろう。どうしていいか分からない様子の彼は、ただ口をぽかんと開けて、星を見つめている。いや、視線の行き先がないので仕方なく星の方を向けている。

 しかし数分の沈黙を経て、彼はぽつりとつぶやき始める。


「そうか。あのときの水族館の曜子は、お前だったんだな」

「うん」

「楽しかったな」

「うん」


 いつの間にか彼は、優しい兄の表情に戻っている。もじもじと顔を赤らめた妹の姿は、あっさりと兄をダメ人間に堕落させるのである。

 まさしく最上級の変態ぶりだ…が、今の私には彼を茶化す資格もあるまい。彼が変態でなければ、私はただ無意味な実況を繰り返すだけだった。


「そうか。全部、お姉ちゃんのおかげ、か…」

「うん。とっても優しいお姉ちゃん」


 妹曜子を、妄想から本当の妹にしてしまったこと。

 それは彼女が…、この世界に遺してしまった絆だ。

 愚かにも、幻想のうちにファミリーを望んでしまった報いだ。


「そんなに優しかったのか? お前には」

「うん。…頼りないお兄ちゃんだけど、妹想いだから嫌いになっちゃダメだよって」

「…………」


 いや、私には分からない。

 私の知る限り、あの女は光安と姉弟になる気など全くなかった。ただ、この曜子を妹にしたかっただけなのだ。それは系譜も親子関係も成り立たない、ファミリーと呼べるはずのないつながりだ。


「もっと……、お姉ちゃんに感謝しなきゃな」

「お姉ちゃんに、ありがとうって言わなきゃ」


 なるほど。

 どうやら私は、すっかり騙されていたらしい。そんな感覚すら、いつの間にか「お兄ちゃん」と共有してしまっている。

 今の私は、この擬制のファミリーが吐き出した残りカスのようなものなのか。私はこの…、たまたまあの女と出逢っただけのバカに生かされているのか。


「なぁ曜子」

「…うん」


 覚悟を決めたバカが、妹に語りかける。

 彼もまた、嘘に気付いている。どこまで気付いたのかは知らないが。


「俺は、お前が思ってる以上に頼りないぞ」

「知ってる。お姉ちゃんに聞いたもん」

「………そこは、知らなくていいんだぞ、曜子」

「はーい」


 光安は、まだ本当の意味で気付いてはいまい。

 いや、私にもすべてが分かっているわけではない。

 ならば、今やるべきことは一つしかない。なぁ青原光安。


「お兄ちゃんは、妹の悲しむことはしないからな」

「じゃあ、お姉ちゃんに会える?」

「ああ。会わせてやるさ、裕美お姉ちゃんに」


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