第一節 37人いる!
その日、彼の目覚めは非常に良かった。
ペロペロペロと目覚ましが鳴ると一発で目が開き、すぐに身体を起こした。
「おはよう…」
ん? 誰に言ったんだ? まさか私ではあるまい。物語の語り手が登場人物に見えるなど、あってはならないことだからな。
………。
どうやら私に対するものではないらしい。では誰なのかという謎は残るが、私でないならどうでもいいので忘れることにしよう。
さて、彼の実況に戻ると、先ほどのよく分からない挨拶以外は、どこにでもある高校生の朝の営みをこなしている。立ち上がってモサモサと着替えを終わらせると、階段を降りて洗面所に向かう。別に興味もなかろうが、彼の部屋は木造住宅の二階である。
そして歯を磨きながら彼はもよおし、朝にやると一日が快調になるアレをこなすのであった。
…………。
………。
爽やかな笑顔。
天使の微笑。
神経質な瞳で、もうこれで終わりか?、まだひねり出せそうか?、そんなことで悩む必要もない。一撃必殺だった。
「行ってきまーす」
まさかこのバカも、トイレの一部始終を実況されるとは思っていまい。不幸なヤツだ。しかしあきらめよ、それがお前の運命なのだ。青原光安。
「行ってきまーす」
……なんだ? また光安はおかしなことを言ったぞ。扉を閉めてから小声で、いったい誰に対するものなのだ。彼の行動は99%普通の高校生だが、約1%不審である。まぁいい。今の声も、私に対するものではないのだ。
彼の家の前は、両側に歩道が整備された広い道路になっている。反対方向の中学へ向かうガキども――数ヶ月前までの彼自身でもある――とすれ違いながら、のんびりと歩いて交差点を左折した。
高校までは徒歩十分。まだチャイムまではたっぷり時間がある。すべてが快調だった。あくまでここまでは、だが。
「おっはよーっ!」
「お、おはよう裕美。なんだ待ってくれてたのか、悪いな」
「うん。だって光安の顔、早く見たいもん」
「そっか。ボクもゆう…………み?」
交差点の陰にいたのは、最近つきあうようになった彼女……ではなかった。最近知ったのは確かで、彼女、つまり女であることも間違いではない。つきあうというのも、オヤジが酒飲みにつきあうといった意味でなら当たらずとも遠からず。つまり何も問題はない。そうか?
「おっはよう」
「きょ、今日はよく晴れてるなー。こんな日は涙がこぼれないように上を向いて歩こう」
「また恋人ごっこしたい?」
「しなくていい!」
消え去ったはずの悪夢は、再び現れた。
いや、最初から消え去ってなどいなかった。彼はただ、そこからの脱出を図ったにすぎない。所詮はかなうはずのない相手からの。
「だいたい、そこで何をしている」
「この格好で高校通学じゃなかったら何?」
「ああそうか、それはすまなかった。じゃあ遅れずに登校してくれ。じゃあな!」
「光安は案外芸達者ね」
光安の寒々しい演技をよそに、何食わぬ顔で裕美は隣を歩いている。もちろん行き先は同じである……という設定は、すべて昨日のうちに光安の頭に書き込まれてあった。高橋裕美は自分と同じ高校の同級生で、それどころか同じクラスに在籍している、と。
だから彼は、裕美の着ている制服が日々見慣れたものだと確認するまでもなく、すべてを知っていた。交差点の陰で襲撃されるという予定までは知らないだろうが、それを言い出したら世の中の誰の予定だって分からないのだから同じことだ。
ただし一方で光安は、その記憶が偽りであることも、なぜか理解していたのである。
「裕美ちゃんおはよう!」
「あ、おはよう曽根くん」
「ちょ、ちょっと待て」
正門の前で、光安は同級バカの曽根に会った。意味もなく角刈り頭だ。
ここで説明しておこう。曽根はだいたいいつも光安と同じ時間に登校している。従って、校門でばったり会うのは何も不思議ではない。クラスメイトに挨拶するのも自然なことだ。彼がとがめる点は、もちろんそこではなかった。
「裕美…ちゃんだぁ?」
「なんだ光安、裕美ちゃんを裕美ちゃんと呼んで何が悪いんだ」
「ねぇ。おかしなことに文句つけるよね、光安って」
「あ、……いや」
小首をかしげる曽根に、ある意味では当然のツッコミを喰らい、光安はたじろいだ。その隣にいた裕美は、いつの間にか曽根の側に移動して、彼の動揺をあざ笑うかのようにニッコリと微笑んでいる。
その姿は……、もしもトイレで排便を遂行した直後の光安を「天使の微笑」というならば、むしろ悪魔の高笑いと言ってもいいほどの魅力があった。
「裕美ちゃん、なんで光安なんかと一緒なんだ?」
「さっき、そこで偶然会ったから」
「ふーん、なんて罪深いヤツだ貴様は」
曽根は幸せいっぱいの表情だ。高橋裕美の現在の設定は、どうやら学校中の男子生徒が憧れる女子生徒で、対する光安は、たまたま通りがかったバカというところか。いや、光安のそれは「設定」ではない。彼は根っからのバカである。
それにしても、曽根は光安、荒瀬との三バカトリオでは一番背が高かったが、その曽根と並んでも、裕美はまだ遙かに大きかった。密かに驚いた光安は、曽根もきっと驚いているだろうと、反応を確かめているようだ。
「こいつなんかと歩いたらバカがうつるぜ。気をつけな!」
「はーい」
「やかましいわ!」
もちろん曽根は何の反応もしなかった。昨日も学校で会っていたという設定なのだから当たり前である。しかし光安はいまいちそれを分かっていないようだ。それどころか、こいつの背はどれほどあるんだ?、昨日より伸びてるんじゃないか?、とすら思っているようだ。あくまで私の見立てによれば、だが。
読者のみんなは、さすがに彼もそこまでバカではないだろうと甘く見ているに違いない。しかし彼はわりと想像を超えたバカである。そう断言してやろう。
「ゆうちゃん元気~!」
「元気よぉ! お船ちゃんも調子良さそうね」
「うん。もう風邪も治ったしぃ」
校内に入っても、ひっきりなしに声をかけられる裕美。かける側にとってそれは意識することのない日常であっても、光安には違っていた。いや、挨拶を交わす現場を目撃すればするほどに、彼は孤立を深めていたのだ。
もちろん教室でも、何も状況は変わらなかった。そこには当たり前のように裕美の机と椅子があった。光安の右隣だ。きっと昨日までは別の誰かの席だったはずだが、それが誰なのかは光安にも思い出せないようだった。そして彼以外に違和感を抱く人間がいない以上、昨日まで座っていただろう当人の記憶も、きれいに切り替わっていたに違いなかった。
光安は追い詰められていた。
どんどん既成事実化していく裕美の存在。光安もそれを受け入れてしまえば、特に不都合はなさそうに思える。ならばいっそ、違和感を与えずに忘れてしまった方がマシに思える時もあった。
「用がある」
「何よ」
しかし光安のイライラはただひたすらに高まる一方であった。どうやら彼は、忘却ができないようだ。結局、一時間目をどうにか耐えたものの、チャイムが鳴るとすぐに彼は、裕美を廊下に連れ出したのである。
……と表現すると、まるで学園青春ドラマのようだが、よくよく考えてみれば異様な景色なのだ。なぜなら、裕美には彼の言うことに従う必然性がない。光安ごときの命令など、魔女が聞く耳をもつはずもないのだ。
「やっぱり聞きたい。な・ん・で、お前がいるんだ」
「高校生だから」
光安の質問は、わざわざ呼び出してまで問うようなことでもなかった。
その意味で、即答する裕美の方が正しい。たとえ彼女が、昨日までいなかった三十七人目の生徒だったとしても、だ。
「……例によって不本意ながら記憶はある」
「ならいいでしょ」
「良くない、いいや良くないぞ」
だいたい、他人に聞かれてはまずい会話を、廊下で大声で始めてしまう時点で彼の選択は間違っている。
授業の合間の休み時間なので、廊下を歩く生徒はそれほど多くはない。とはいえ、学校一の美少女という設定の裕美と、学校有数のバカが並んでいれば、目立たないわけはないのだ。
追い詰められた光安に、そのようなことを考える余裕はないのだろうが……。
「身分を偽ってまで高校に通う必然性はないだろ」
「なぁに、私が高校生だったらまずい?」
「そ、そうだ。昨日から聞こうと思って忘れていたぞ」
「だから何よ」
もっとも、二人の様子を気にする生徒は誰もいないようだ。
考えてみれば、学校有数だろうが光安は単なるバカなのだから、注目されるはずはない。しかし裕美は……、あの朝の人気ぶりとはうって変わって、誰も関心を示さなくなっている。まるで廊下に大きな荷物が置かれているかのように、みんなただ黙って避けて行くのだ。
これは間違いなく、裕美がそうさせているのだろう。その存在は認識しても、関心をもたないように能力を使っているに違いない。やはりバカとは違って悪知恵の働く女だ。
「お前は何歳だ!」
「え?」
そうした気遣いを知ってか知らずか――知らないはずだ――、光安は一方的に質問を重ねる。ただし、今の質問はなかなか良い。これは問題の核心を突きそうだ。いいぞ、やれやれ光安!
「えーとねぇ」
のんびりと声を出す裕美。
その背後では、教室に入ろうとした生徒がそのままの姿勢で立っている。二人の会話に聞き耳を立てている? そうではなかった。
もう休み時間はとっくに終わっている。にも関わらず、光安の質問タイムは終わる気配がないのを察した裕美が、どうやら周囲の時を止めてしまったようだ。周囲というか、二人以外の全宇宙が止まっている。私を入れれば三人だな。
………なぜ私が除外されているのだ? 裕美は私の存在に気付いているのか?
「細かい年数はわかんないけど、だいたい千三百年ぐらい生きてるかな」
「せ○とくんか、お前は」
「何それ?」
「いや……、何でもない」
まぁいい。私のことなどどうでもいいのだ。裕美は相変わらずな返答をして、光安は渾身のギャグをかました。そしてそのギャグを真顔で返された彼は、少し照れている。照れるぐらいなら最初から言うな! これだから最近の若者は…。
「日本の歴史でいうと、奈良時代だな」
「最近はそういうみたいね」
とはいえ光安の動揺は、単にギャグを外したことにあったわけではないようだ。
良い意味でも悪い意味でも話題のせ○とくんを、裕美を知らなかった。その事実は、おそらく光安に二つの選択肢を提示することだろう。一つは、「そんなことも知らねーのか」と精神的優位に立つこと。そしてもう一つは、せ○とくんは本当は話題になっていなかったと見識をあらためること。
どちらを選ぼうがまぁ、この物語とは関係がないので続きは省略する。
「そんなに年寄りなら、年寄りの行く場所があるだろ」
「どこに?」
「老人ホームとか、介護施設とか…」
ともかく大事にとっておいたギャグをすかされ、何も思いつかなくなった光安は、時候の挨拶並みにありきたりな言葉をはき始めた。もう彼の集中力はすっかり切れているようだ。
裕美はふっとため息をつきながら、そんな彼を見下ろしていた。別にそれは精神的なものではなく、単に身長差があらわれただけなのだが、呆れていたのも確かだろう。
「ダメダメ」
「いや、行けよ」
「みんな若すぎるじゃない」
「う……」
そうして当然のように言葉に詰まる光安。
1300歳と比べれば、喜寿や米寿も赤ちゃんのようなものである。それは単純な計算なので、バカな光安でも理解はできたようだ。
しかし「年寄り」というのは、単なる生きた年数だけではなく、肉体年齢とか精神年齢とかいろいろある。その辺を突いて攻める方法もあっただろうが、彼にそれができたらバカとは呼ばれていないのである。
「それにね、私はここがちょうどいいらしいの」
「………」
誰に聞いたから「らしい」なんだと光安は言いたげだが、口にする価値はないという結論に至ったらしく、そのまま歩き出した。
その瞬間に、背後で止まっていた生徒も動き出す。チャイムも鳴った。時が停められていたことを、全宇宙は知る術もない。しかし、気付く資格があったにも関わらず、彼の記憶も全宇宙の一員と変わらなかった。バカにもほどがある。
裕美はそんな光安の頭を軽くなでて、ゆっくりと後ろを歩いて自分の席に戻っていく。高校の教室内の景色として全く違和感はない。裕美自身も、高校の制服を着た姿は若すぎもせず老けてもいない。私の個人的な感想としても、彼女は高校生以外の何者でもなかった。
見た目だけではなく、仕草や言葉遣いまで高校生そのものという彼女が、もしも自己申告の通りに1300歳なのだとすれば、どのような整合性が付くだろうか。残念ながら実況人としての私はあまり興味がない。この先、光安がまたバカな質問を始めるためは、何も明かされることはないだろう。
読者のみんな! 裕美の秘密を知りたかったら、その思いがバカに伝わるよう念じるが良い。役には立たないが気休めにはなるぞ。
「もう一つ聞きたい」
「後にして。もう先生が来たわ」
「む……」
休み時間はたった五分。光安の五分はとてつもなく長いようだ。この調子では彼の今日一日は何十時間になるだろう。そして彼は、いつ気付くだろうか。