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手のひらの宇宙―魔女とバカの日々―  作者: UDG
第九章 宇宙旅行と高校生の巻
28/35

第一節 月を狩る

 高橋裕美が主張する「デート」。二人が果てしのない上昇を止めたのは、既に地球の重力圏を脱してしばらくの後であった。

 その星の重力圏を脱した時点で、二人は既に地球の所属から離れてしまった。従って、厳密に言えばそこには上昇も下降もなく、ただ宇宙空間を移動しているに過ぎないのだが、ともかく二人は地球の球体全体を視界に収めるような位置に漂っている。


「どうですか光安クン」

「どうって言われても……、そんな偉そうにクン付けすることかよ」


 もはや地球人類の常識を口にする価値がないと覚ったらしい光安は、得意げな裕美をたしなめるほどに落ち着いている。

 実際、この期に及んで「宇宙服はどうした」とか「酸素が足りない」とか騒いだところで仕方はない。裕美がその気になれば、学校の制服姿で正座したまま地球を眺めることができる。それがこの宇宙における事実なのだった。


「地球は青かった、とか言わないの?」

「テレビで見たことある」

「自分の眼で見るって大事でしょ?」

「現実感の乏しさで言えば、テレビよりこの状況の方がよっぽどあり得ない」

「難しいこと言うわね」


 その昔は確かに、青い地球は感動だった。いや、今だってそれは多くの人類にとって見立てぬ夢であり、実現できた者は羨望のまなざしを受けるのだ。まして今の彼は、何の障害物もなく宇宙に放り出されている。誰よりも地球という天体の近くにいる。

 恐らく彼は人類の宇宙進出史上で、もっとも感動しなかった人間だろう。

 ヴァーチャルな世界がどれほど拡大しようと、それが巨大な球体というリアルに取って変わるわけはない。彼はその意味で、決して普通ではない。


「で、あれが月よ」

「…らしいな」


 バスガイドのようなジェスチャーで立っている裕美は、地球に次いで近くに見える星を指す。そんな裕美を少しだけ見上げて、相変わらず正座したまま、首から上だけを目標天体に移動させる光安。

 宙に漂っているといっても、彼の身体は大地に腰を下ろしたように安定している。バックに星の姿がなければ、明かりを消した部屋の中だといっても分からない雰囲気である。


「その昔、ここからお姫さまがやってきたんだって」

「……お前のようにメチャクチャに人を翻弄して、還っていったって話だろ」


 語り尽くされた古くさい物語。彼の言いぐさが正しいとは誰も保証しないが、誰も否定もしない。伝承にあるのは正解ではなく真実性だけだ。この場ではどうでもいいことだがな。


「アンタはこの状況でもケンカ売るのね」

「正しいことを指摘するのに、場所など関係ない」

「へぇ」


 裕美がその気になれば、いつでも青原光安の生涯は終わる。それは彼がケンカをしようとひざまづいて靴をなめようと自明の事実である…とするならば、取るべき態度は恐怖だ。あるいは、懇願。

 しかし彼がそのどちらも取る気がないことは、裕美も、そして私もよく知っている。彼には彼女を恐れない理由がある。それはとても愚かで残念なことだが、認めざるを得ない。


「そのお姫さまが私だって可能性は?」

「考えたこともねぇな」

「なぜ?」

「うーん……」


 かぐや姫の物語を、幾度も幾度も変奏しながら人々は伝えてきた。

 それは魔女の存在に気付き、その姿を暴こうとする欲求なのか?

 そんな高級なものではない。ただ自分たちが無力だから、どこかにそうでない存在を求めただけだ。そして長い間、人々の認識できる本質的な異世界は、月だった。それだけのことだ。


「まず、裕美はお姫さまって感じじゃない」

「やっぱりケンカ売ってるよね?」

「別に。………お姫さまなんて、ほめ言葉じゃねぇだろ?」

「…………」


 二人の前で照らされる岩石の塊は、もはや本質的な異世界ではない。宇宙は日々拡大している。沢山の未知の天体が観測されるたび、異世界は遠ざかっていく。


「それに俺は…」

「俺は?」

「…………不老不死のお姫さまなんて、いて欲しくなかった」

「そう…」


 二人の対話は、いつの間にかさっきのワンルームの続きになっている。

 場所を変えても変わらないのは、そこに二人しかいないからなのか。いや、光安にとっては、ただ二人しかいない、というだけではない。彼は、いや彼でなくとも、誰とでも同じように時間を過ごせるわけじゃないだろう?


「言っておくが、お前はお姫さまじゃねぇからな」

「だから何よ」

「だから……、裕美なら、裕美だったら構わないと…」

「それは論理的じゃないわ」


 自己否定を繰り返す女と、危険な言葉の橋を渡り続ける男。

 三人目の私は、そろそろこの連続に耐えかねている。


「私がお姫さまだって構わないでしょ? アンタのイメージはともかく」

「どうせ仮定の話なんだから、イメージをともかくはできない」

「アンタのその頑固さってどうにかならないの?」

「お前がお姫さまでないと、誰か迷惑するのかよ」

「…………」


 そして魔女はやりこめられる。

 中身のない話題がどう転ぼうと、この世界にとっての価値はない。実況する価値もない。

 いや、それを言ったら、裕美の言動のすべては実況する価値がないのだ。ただ彼女は、速やかに自分を否定して、生き続けることを拒否すればいい。そこに至る過程など誰も求めていない。

 つまり、私という存在など必要のないものだ。


「輪廻って言葉は知ってる?」

「……聞いたことはある」

「そう、高校生にしては偉いわ」

「お前も高校生だろ」


 それでも私には実況しか能がない。

 どうせ間もなく終わる仕事だ。今さら反省したところで無駄だろ?


「私は生まれては死に、そして生まれ変わる」

「………」

「正確にいえば、死と再生という幻を自分に信じさせていくのかな」

「それは…もう分からない」

「だろうね」


 光安は今日、何度「死」を聞かされただろうか。

 どうせ忘れてしまうだろうから、どうでもいいことだな。


「月のお姫さまは、生まれて成長したのに不老不死なの」

「…らしいな」


 そして再び裕美は、会話を月の姫に戻す。


「おかしいでしょ?」

「何が」

「不老不死なのに、なぜ成長しなきゃいけないの?」

「……………」


 彼女はどうやら、腹を立てているらしい。

 つき合わされる光安にも、言いたいこと自体は分からないわけではないだろう。しかし、この場でそれを指摘する必然性が理解できないから、口を閉ざすのだ。

 そのうち、この宇宙空間にもさっきのテーブルとコーヒーカップが出現するかも知れない。


「お姫さまは何を残したの?」

「何って…」

「不老不死の薬」

「それは富士山で燃やしたんだろ?」

「燃やされたら、それでいいの?」

「そんなこと聞かれたってなぁ…」


 一方的に怒りをぶつける裕美。かぐや姫に対する恨みはなかなかに根が深いようだ。

 元から現実視しているわけでもない光安にとっては、彼女のそのしつこさは、ただ不思議でしかない。ただし彼女は、不思議と言わさないほどにきっちり説明するだろう。


「私の周りでは、飲んでる人がいたの」

「どうやって? 山から盗んだ…わけはねぇよな」

「ねぇよな」

「真似すんな」

「頭悪そうに言うから」

「悪いんだよ!」

「はいはい」


 楽しそうに口真似する彼女は、まるでその辺の高校生だ。

 背後で怪しく輝く月面とは、あまりにも似つかわしくない光景。もっとも、それを見ているのは同じ穴のムジナの光安と、存在しているとも言えない私だけだ。そんな光景は、どこにも「ない」のだ。


「不老不死の薬なんてね、何千年も前からレシピがあるの。デタラメの」

「デタラメってのは、わざわざ付け加えなくとも分かるが」

「滑稽なものよ。わざわざ毒薬を飲んで長生きを願うんだから」

「………」

「そんな世界の目撃者となるのが嫌になった私には、還るべき月なんてなかった」

「…………月、ね」


 ぼんやりとクレーターを見つめる彼は、何となく彼女の言い分を理解しただろう。

 不老不死の薬が燃やされた煙が常に漂うのは、並外れた高い山。その景色は、不老不死が不可能になったという絶望を与えるのではなく、不老不死の薬の実在を人々に確かめさせる。それが異世界人のもたらす物なのか、自ら造り出すものかはともかく。

 本当に死ぬことのない存在が、自らの実在の痕跡を残して消えること。それは魔女としては倫理的に許されないことだと、どうやら裕美は考えている。

 言っておくが、そんなお姫さまが存在したという仮定の上の話を、真面目に考える必要などない。裕美はただ、方便を求めているに過ぎない。自分がこの宇宙から拒絶されるための。


「私は…、私の肉体はちゃんと腐って、そして溶けたの」

「…………」

「だから私はお姫さまにならずに済んだ。ちゃんとお葬式もしてもらえた」


 ほんの一瞬、顔をしかめる光安。

 目の前でその「腐った」女と向き合っていなければ、一瞬で済むことではない。


「……それは自分で分かるのか?」

「アンタにしては鋭いわ」

「茶化すな」

「いいじゃない。もっとリラックスしなさいよ」


 こんな状況でリラックスできる人間がいたら是非名乗り出てほしいものだ。

 むしろ、この場で彼女の矛盾を突こうとするだけでも、十分リラックスしていると言わなければならない。


「以前の自分の生涯は、次に生まれて死ぬ間際に知らされる」

「誰に?」

「自分自身に、かな」

「……これ以上ややこしく話す必要はないだろ?」

「そうね。ややこしく話したいわけじゃないの。ただ…、このシステムはややこしいのよ」


 自身で仕掛けた罠によって、忘却を繰り返し、やがて思い出す。肉体の死が所詮は一時しのぎに過ぎないからこそ、破られた後の対策もとられている。

 そして忘却の間に過ごす時間は、思い出すにつれて、再度の死を選択させる「業」となる。そう、罪業という名の…。


「簡単にいうと、肉体が再生しても、すぐにはすべてを思い出せない。でも最終的には思い出すの」

「…今のお前のように、か」

「そうよ。それもたぶん、アンタのおかげ」

「それじゃあ………、俺が諸悪の根源なのか」

「…………」


 それまでは淡々と話を続けてきた裕美が、ふと表情を曇らせる。

 恐らくそれは、自分が存在した二ヶ月ほどの年月の長さを感じる瞬間だったろう。それはとても短いが、彼女が世捨て人を選ぶには十分だった。そしてその二ヶ月は、彼女一人だけが歩む時ではないのだ。


「ねぇ光安」

「………」

「アンタはお船ちゃんのために努力しなきゃいけないわ」

「何だよいきなり」

「三バカの友情も守っていかなきゃ」

「三バカって言うなよ」

「アンタには何も負わせられないの。だから……」


 遺言のような響きで、全くどうでもいいことばかり早口でまくし立てた裕美。しかし、深刻な表情を見せたのはここまでだった。


「だからおしおきするわ」

「はぁ?」


 久々に飛び出した女神の笑顔は、やはり無茶苦茶な提案の引き替えだ。


「アンタは、おしおきしてみたい?」

「しない」

「なぜ即答するのよ」

「自分にも危害が及ぶ可能性は、速やかに排除するのが生物の本能だ」

「へぇ」


 まるで必然性のない展開に戸惑いつつも、当然のように提案は拒否する光安。

 当たり前だ。そもそも裕美が実行するという時点で、そのおしおきは必ず度を超すのだ。大義なき気まぐれのおしおきだろうと、恐らくその破壊力は世界に危機をもたらすのだ。


「じゃあ私が…、月におしおきしちゃうわ」

「はぁ?」

「うん。決めた」

「……って、おい!」


 意味不明な言葉を発した裕美。呆れ顔で光安が振り返ると、彼女はその襟首をつかんだ。

 そしてそこから、久々に裕美は「変身」を始める。

 襟首をつかんだ指は、あっという間に電柱のような太さになった。その状態で裕美は、クレーンのように光安の身体を持ち上げて、自分の手のひらに乗せる。既に手のひらはさっきのワンルームぐらいの広さがある。恐らく全身では数十メートルに達しているだろう。


「アンタにも見えるようにしてあげる」

「見える? みえ………」

「あれ? …………気絶しちゃった」


 その状態で裕美は、例によって自分の眼に映るものを光安の眼に転送したらしい。

 しかし光安はほぼ一瞬で気絶し、泡を吹いて倒れてしまった。


「ごめんごめん」

「……うぅ」

「起きた?」

「…………ああ。この景色は夢じゃなかったのか」


 裕美はいったん転送を中止して、光安の肉体を修復する。

 彼自身にはもちろん分からないだろうが、裕美が死を認めないために生きているというだけで、彼はほぼ脳死状態に陥ったのである。


「な、何があったんだ?」

「私の見てるものを、アンタにも見せてあげようとしたの」

「それは……、何となく分かった」

「今の私の眼の情報量をアンタに転送したから、アンタの頭がパンクしたのよ。簡単でしょ?」

「簡単って言うな」


 彼は記憶のない瞬間にこだわるよりも、手のひらに乗せられている事実をまずはやめさせるべきだろう。

 裕美が巨大化できることは既に実演済みだ。そして、彼女は巨大化しても地球を守るために戦ったりしないのだ。


「だからアンタにちょっと魔法をかけるわ」

「何だよ」

「転送しても大丈夫な頭にしてあげる」

「はぁ?」


 もちろん裕美は何も反省などしていない。どこかの悪の組織のように、平気で人体の改造をはじめようとする。


「十億人分の情報を一度に送られても大丈夫」

「だ、誰も同意してねぇぞ」

「告知したからいいの」

「む、無茶苦茶だ」


 光安は頭を抱えてバタバタ暴れたが、もちろん何の変化もない。裕美の改造は、手術台でうなされる必要のない、患者にやさしいものである。

 まぁそもそも、どんなにバタバタ暴れても、彼の身体は裕美の手のひらの上だった。まだお釈迦様の手ほど大きくはないが、たぶん似たような感覚だろう。というか、これで済む話ではないのだ。

 孫悟空の気分が味わえるとは良かったな、光安。


「はい、じゃあ転送開始」

「え、え?」

「そして、かれーなる、せーちょー」

「うわーーーーー」


 予告通り、裕美はその眼に映る景色を光安に転送する。

 片眼のサイズが1メートルもある瞳の情報を、普通の人間の頭で処理するというのだから、無謀この上ない話である。しかし彼女の無謀は、そんな程度で済むものではない。

 どこかのアニメの台詞をパクりながら、裕美はさらに巨大化していく。はじめから宇宙に飛び出しているので、分かりやすく大きさを比較する対象がないのが、光安にとっては不幸中の幸いだったろう。


「な、なんか月がだんだん小さくなってきたが…」

「当然」


 比較対象となるのは地球と月。どちらも、人体と比較するようなものではないはずだったが、手のひらの果てが既に肉眼では確認できないほど巨大化した裕美は、無茶なことに天体とその体躯を競い始める。

 というか、光安の眼に転送されている映像からは、どう見ても裕美の方が月より大きいようにしか思えない状況である。


「こんな感じでどう?」

「……………」


 巨大化を止めた裕美。その手のひらには光安と……、月が乗っている。

 そう。

 光安の本来の二つの眼では何が起きているか認識不可能だが、転送された映像によれば、裕美は地球とだいたい同じサイズの手のひらで月をつかんでいる。そのつかんだ手の生命線は、数百キロメートル規模の谷と化していて、その谷間にこびりついた、塵よりも小さな存在が今の光安だった。

 当然、大きさの比から言っても、光安の存在など認識できるはずはない。しかし裕美は彼の位置の把握に努めているので、結果的に彼自身の頭脳にも位置情報が伝わっている。


「とりあえず、アンタは危ないから移動して」

「な、何をどうしろって言うんだ!」


 光安の身体では、この状況で危機回避といっても何もできるはずがない。

 もちろん、そんなことは裕美も分かっているので、言うだけ言って、彼女の耳たぶの隙間に瞬間移動させた。ちなみに彼女の耳は、ほぼ月と同じサイズである。裕美は自分の耳を見てはいないので、光安は自分がどこにいるのかすら分からなくなった。


「じゃあ、おしおきだべぇー」

「お、おい…」


 ともかく手のひらに余計なものはなくなり、ちょうど野球のボールぐらいに見える月だけが残った。となれば、やることは決まっている。

 裕美は振りかぶった。

 それだけで地球が揺れるほどの振動が起きたが、構わず彼女は軽いキャッチボールのように、投げた。月を。

 キャッチボールといっても相手がいない。壁らしきものもない。ツッコミ魔の光安なら、それぐらい言っても良さそうなものだ。しかし彼は絶句したまま、ただ眼に飛び込んでくる映像を見つめている。

 ともかく月は投げられた。それも、裕美の動作は確かに「軽い」ものに見えたものの、実際の軌道はそうではなかった。

 彗星のように光の尾を伸ばしながら、月は猛スピードで遠ざかって行く。いや、正確に言えば視界からいったん消えて、それからおぼろげに見え始めた。


「たぶんストライク」

「な、なんてことを…」


 視界から消えて復活したのは、光の速度の問題である。太陽に向かって飛ぶ姿は、遠ざかるにつれてタイムラグを生むことになる。最終的には七分ほどかかって、月が太陽に突入する様子が見えるはずだった。

 しかし、実際には彗星の尾が途切れて消えただけに終わった。

 何のことはない。太陽に届くまでに、月は燃え尽きてしまったのである。


「どう?」

「どうって何だよ! こんなことしてどうすんだよ!」

「私はできることをやっただけ」

「できたってやるなよ!」


 とても現実とは思えない光景だが、地球の周囲から衛星は消えてしまった。相変わらず、裕美の耳たぶの塵に過ぎない光安は、その立場もわきまえずに彼女を非難する。

 そう。

 なぜなのかはともかく、裕美は「宇宙の上位にある者」としての能力の一端を見せつけている。胸のふくらみが地球に匹敵するほどの姿で、月を消滅させても、彼女は落ち着き払っている。

 彼女はその気になれば、さらに巨大化できる。この程度の遊びなど大したことではないのだろう。


「私は…、もう地球には用がないから」

「な、なんだよそれ」

「別にどうなってもいいでしょ? アンタの命は保証してるんだし」

「俺だけ助けたってしょうがねぇだろっ!!」

「どうして?」

「家族も友だちも、街の人たちも大事だろ!」

「……………」


 光安の叫びは、どこまで評価できるか微妙なものだ。確かに彼一人よりは範囲が拡大しているが、基本的に彼とその周辺を助けろと言っているに過ぎないのだ。仮にも高校生ならば、衛星の消滅によって地球全体の環境が大きく変化することこそ、最大の危機だと気付くべきなのだ。

 とはいえ、今の裕美にそんなことを訴えても聞く耳はないのかも知れない。何のためらいもなく月を放り投げた時点で、彼女の中では地球の未来など価値を失っている。


「光安だけを助けるのは、確かに無意味かもねー」

「…………」

「お船ちゃんには彼氏をつかまえて欲しいし」

「………」

「みんな、月を見てたのよね」

「………そ、そうだ…な」


 それでも結局は、リアルな言葉に価値があったということらしい。

 一瞬で元の大きさに戻った裕美は、さっきまで月が見えていた辺りに視線を移した。そこはただ真っ暗な空間が広がっているだけだったが、次の瞬間には月が復活した。どうやら月程度の物体なら、破壊してもすぐに元に復元できるようだ。


「これでいいでしょ?」

「ま、まぁな」


 青原光安は地球を救った。

 そんな言い方も、あながち嘘ではない。当人はただ呆然としたまま、相変わらず宇宙空間で正座をしているのだが。


「なぁ裕美。そろそろ帰ろう…」

「何言ってんの。今から旅に出るのよ」

「へ?」


 しかし地球の危機は去っても、光安の危機は去っていなかった。

 まぁ、裕美がいる限り、彼の危機は続くに違いない。あえて説明するまでもなかろう。


「間もなく発車いたしまぁーす」

「何の真似だよ…」


 いつの間にか、二人の前には鉄道車両らしきものが横たわっている。

 横たわるというのもおかしな表現だが、線路がないので車両が立っているのか寝ているのかすら不明である。


「早く乗って」

「普通の人なら乗らねぇだろ」

「アンタは普通じゃないから」

「そういう問題かよ」


 もっとも、鉄道車両「らしき」と表現したのもダテではない。どこかのマンガのように黒光りする立派な機関車ではなく、保線のバッテリーカーらしきものが先頭を飾り、派手な色の安っぽい客車がたった一両つながっている。遊園地の周囲をぐるぐるまわる紛い物としか思えないしょぼさに、光安もツッコミを入れざるを得ない。

 しかし裕美は基本的にいい加減で、にも関わらずすべてを実現してしまう女神である。このオモチャの汽車すらも、二人を乗せて走り出した。


「というか、どこに行くんだ?」

「気の向くままに旅するだけよ」

「……このタイミングでつぶやく台詞じゃねぇよな、それ」


 広大な宇宙空間で、動き始めた列車は、まさしく遊園地のそれのようにゆっくりとしか見えない。ただし実際のスピードがどのようなものなのかは、すぐに分かることになるだろう。

 目に見えない片道切符の旅は、こうしてなし崩し的に始まった。光安にとっては、毎日がなし崩しだという事実もあるが、今は忘れておくべきだ。そんな日々は、どうせ今日で終わるのだ。


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