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手のひらの宇宙―魔女とバカの日々―  作者: UDG
第八章 およそ十六年の日々の巻
27/35

第二節 ファミリー

 そこは学校から歩いて五分の距離。生徒の約半数が毎日通過する一本道から、分岐した細い道路の先に、高橋裕美の家は存在している。

 青原光安が、散々に弄ばれながらもなぜか同情してしまった最初の体験。その結果として造られた一軒家は、傍目には何の変哲もない小さな木造建築である。

 その一軒家に招かれる彼というシチュエーションも、基本的には普通の高校生の男女の出来事であって、魔女だから何かが違うというわけではない。


「お、おじゃまします」

「誰に言ってんのよ。私しかいないの知ってるでしょ?」

「他人の家に入る時には挨拶するもんだ」

「あ、そう」


 上ずった声の彼は明らかに緊張している。

 そもそも、同級生の女子の家に招かれたら、普通はどんな男子生徒でも緊張するだろう。高校生が主役なのに高校生が買えないゲームの世界なら、「フラグが立った」とか謎の言葉が飛び出すほどのイベントである。まして、学校一の人気が揺るぎなかったという設定の女子生徒の家で、しかも一人暮らしなのだ。

 しかし光安を包む緊張感は、靴を脱ぐ頃には、既に別の意味のそれに変わりつつあった。


「…何もないんだな」

「そうね」


 裕美の家は、間取りとしては1DKで、トイレ・バス付き。まさしくワンルームマンションの一室である。

 もちろん彼女は一人暮らしなのだから、部屋の広さはそれでも問題ないだろう。しかしその部屋には、およそ人間が住んでいる気配がない。いや、確かに裕美が暮らした期間は一ヶ月ほどだが、そういう次元の話ではなかった。

 まるで引っ越し前に、不動産屋に連れられて見学する空き部屋のような雰囲気。カーテンもベッドも家具も、食べ散らかしたせんべいも汚れたぞうきんも何一つ存在しない。これなら、ウィークリーマンションの方がよっぽど生活臭に溢れているだろう。


「飯はどうしてるんだ?」

「最近は食べてない」

「………」


 どんな生物でも、生存の痕跡はまず食べ物関係から辿る。光安の質問は、その意味で非常に鋭いものだ。……相手が宇宙の上位にある者でなければの話だが。

 物を食べなくとも死なない身体。

 それは何も秘密ではなく、それどころか彼自身も改造されかかった事実である。


「アンタが食べたいなら作るけど?」

「材料を調理して作るならな」

「それは難しいわねー」


 一人暮らしには不釣合いな備え付けのシステムキッチンは、ピカピカに輝いていて、まるでカタログ写真のようだ。もちろん周囲を見渡しても、食材らしきものは存在しないし、だいいち鍋も食器も食器棚もないのだから、料理などできるはずがなかった。

 それは光安にとって、あまりにも非現実的な光景だった。

 いや、あえて繰り返そう。裕美がそういう能力をもっていることを、彼は知っているのだ。そもそもこの家を造る前、彼女が家をもたず、食事も睡眠もとらずに平然としていたことも、彼はもちろん知っている。従ってこの状況は決して意外なものではない……はずなのだが、それでも青原光安はしばらくの間、何も言葉を発することができなかった。

 そして、やがて絞り出した言葉も、できれば認めたくない目の前の状況を確認するものでしかなかった。


「弁当、持って来てたよな?」

「よく覚えてるのね」

「当たり前だろ、それぐらい」


 隣の島で食べようが、彼の言う通り気付かぬはずはない。

 弁当は家で作って持ってくるものだ。その常識は、裕美が家で調理して弁当箱に詰めているという、人間世界の営みを想像させる。今にして思えばそれは、裕美が人間世界の高校生だという空気を演出するアイテムだった。

 しかし、この部屋ではもちろん調理した形跡がない。かといって、入船と向かい合って箸をのばしていたものは、どこかで買ったようなビジュアルではなかった。


「アンタの言い方なら、稲だった過去も白米だった過去もない白ごはんと、それから…」

「もういい」

「あら」


 イヤミを口にしながら、自分という存在の特異性を示していく裕美。

 そうだ。今日の裕美は明らかに、自分が地球人類ではないことを光安に印象づけようとしている。二人が互いに相容れない存在であることを、光安に理解させようとしている。


「そこは反省してる」

「……アンタに哀れんでもらう必要はない」

「別に哀れんではいない」


 しかし光安の反応は、そんな彼女の予想を裏切るものだった。


「じゃあ何よ」

「感謝してる」

「はぁ?」

「曜子と…」


 この状況で冷静な彼は、少しおかしい。もちろん彼が異変に気付いたのは昨日や今日ではないのだから、ある程度は覚悟を決める余裕もあったはずだが……。


「曜子と外で過ごせた。夢のような時間だった。それだけで、裕美が何だろうと俺は否定できない」

「…………呆れた」


 いくら覚悟を決めても、およそこの場で引き合いに出す価値のない、妹曜子。正気とは思えない光安の言葉に、さすがの魔女も困り果てた様子で、床に座り込んだ。

 そしてそのまま、時が流れていく。

 光安は、裕美がどこへ向かっているのか薄々感づいている。それが分かるだけに、裕美もうかつに言葉を出せないようだ。

 それは私にとっても不思議なことだ。仮に光安が選ばれた者だとしても、裕美の能力が効かないはずはないのだ。その気になれば、すぐにでもすべてを忘れさせることができるし、邪魔なら消去すればいいはずだ。


「とりあえず、教えてくれよ」

「………何を?」

「お前の過去を。十六年しか生きてないってことを」

「…………」


 ようやく再開された会話。

 ただしこのまま続いていくかは微妙な話題だ。裕美はしばらくうつむいたまま黙っている。恐らくは相当な勇気をもって質問した光安も、所在なげに天井と窓を交互に見ている。


「アンタが聞く意味はないわ」

「なぜだよ」

「聞いたら…、忘れなきゃいけないから」

「強制的にか?」

「うん」

「お前の意志で、か?」

「まぁ……、私の意志みたいなもんかな」


 曖昧な返答を繰り返しながら、裕美も天井を眺める。

 二人がわざわざ眺める先には、ありふれたシーリングライトが一つ光っている。どこのメーカー品なのかは、よい子のみんなに有益な情報ではなさそうだ。


「でも聞かせてもらうぜ」

「しつこいわねー」

「当然だ」


 いずれにせよ、彼は言葉通りにしつこかった。

 ただし、そのしつこさが何に起因するのかを、彼自身はまだよく理解していない。念のために言っておくと、ストックホルム症候群ではない。もはやそのような段階は過ぎてしまった。滅びに向かう他には、後戻りなどできないほどに。


「何が当然?」

「本当に知られたくないなら、黙っていればいいんだ」

「………………なるほどねぇ」


 ため息をついて、裕美は光安の側に向き直った。

 気がつくとがらんとした部屋の中央に小さなテーブル――正確には掛け布団を外したこたつ――が出現している。その上にはカップが二つ。


「コーヒーみたいなものとか、牛乳と同じ成分なのとか、何でも好きな飲み物を言って」

「お前のイヤミはしつこい」

「むかつくからね」

「しょうがねぇだろ、だから」


 困った顔で彼が頭を掻き、カップを覗いた。

 いかにもコーヒー用の小さなカップに裕美がわずかに手をかざすと、カップの底から黒い液体が湧いて、すぐに挽きたての香りが漂い始める。その様子を見て、光安は改めて首を傾げた。

 現代の地球人類は、化学合成された物質を食べ物として大量に摂取している。なかには自然素材のものだけを食べようという人間もいるが、残念ながら地球上の全人類がそのような志向になれば、たちまち大量の餓死者を出すだろう。

 裕美が出現させる食べ物は、自然ではないが無添加だ。農薬のリスクも、なんちゃって有機栽培より遙かに低い。だいいち、生物を殺害した過去をもたないのだから、どんな食べ物よりも地球に優しいとすら言えなくもない。さすがにそこまで言っては強引すぎるだろうが。


「光安」

「……うむ」

「私には、絶対にできないことがあるの」

「………うむ」


 そうして彼女は、身の上話を始めることになった。

 どうやら最初に、この先の話題についての前提条件を話すつもりらしい。聞き役の光安は、とりあえず緊張している。そして、かなり困っている。人間には必ずできることとできないことがあるのだから当然である。


「それはねぇ、自分を殺すこと」

「はぁ?」

「どんなに傷つけても絶対に死なないの」

「な、な、何すんだ裕美!」


 告白そのものも十分に衝撃的だったが、光安が慌てたのは目の前で実演が行なわれたからだった。

 そう。裕美はいきなり右手の人差し指をのばし、制服の着たままの左腕の付け根をなでた。すると彼女の左腕は、まるで痛みを感じずに死ねそうなほどに見事な切断面を見せながら、ぽとりと小さな音を立てて落ち、ほんの一瞬の静寂の後に鮮血をまき散らす。そして鮮血は……、新築のまま保存された部屋のフローリングの床や白壁を真っ赤に染めるかと思いきや、すぐに止まった。そして、血がしたたる切断部分からは、にょきにょきと生えて成長する左腕。わずか数秒で元の姿に戻ってしまった。一緒にちぎられた制服の袖も、おろしたての輝きでその腕を包んでいる。

 ただし、確かに左腕は再生したが、一方で切断した腕も床に転がっているのだ。


「こんなこともできるわよー」

「…………」

「千手観音な気分になれるかもね」

「…どんな気分だよ」


 切り落とされた腕は、もぞもぞとテーブルに這い上がり、コーヒーカップをつかんで裕美の口元へ運んだ。まさに第三の手となっている。

 もちろんこれは、裕美がトカゲのような身体だという証明ではない。恐らく本当は、首を切断してみせるつもりだったに違いない。裕美が死を認めなければ、たとえぼろぼろに朽ちた白骨でも、その者は生存している。他者に対してそうであることは、彼女自身の身体にも同じく当てはまるのだ。


「肉体の死を望んでも、こうしてすぐ修復されちゃうわ。自分の意志とは関係なく、ね」

「………俺に言わせれば、うらやましい話だ」

「まぁそうでしょうね。死んでしまう恐怖に比べたら……、私だってこの身体が嫌いにはなれないもの」

「…………」


 右手でカップを持ち替えると、左腕だった部分は消滅した。そんな非日常な光景にも動じない光安は、実はとてつもない精神力の持ち主なのかも知れない。

 もちろん、彼にはここに至るまでの馴らし期間がそれなりにあった。だいいち、これほどの状況で動じないことは、本当に褒められることだろうか。むしろこれこそが、彼がバカである証ではなかろうか。


「そろそろ本題にいきましょうか」

「うむ」


 既に二人は何度もカップを口に運んでいるが、中のコーヒーが減る気配はない。二人は飲むふりをしながら牽制している? そんな無意味な牽制は誰もしない。単にカップのコーヒーが常に補充されているに過ぎない。

 肉体切断という実演ショーの前では、この程度の魔法など取るに足らない小さな現象のようだ。


「肉体的に死ねないけど、死にたかったらどうする?」

「はぁ?」

「難しかった?」

「難しいというか、そういう状況が考えられない」


 人間社会にも、社会的な死というものはある。従って光安にとってそれは、決して想像できない状況ではないが、今の彼にはまだ縁遠いものだろう。

 高校生は、高校に通うという目的を与えられている。それは彼ら自身が望んだ目的ではないのかも知れないが、彼らが生きることの必然性につながっている。

 いずれ三年間の期限が過ぎて追い出され、大学であと四年の猶予をもらっても、その後を生きる目的は、自分で作るしかない。青原光安がそこで社会的な死に直面するかは、もちろん誰にも分からないことだ。


「自分だけが生き続けてしまうことは、歳をとるにつれて苦痛になるわ」

「………」

「1300年前に生まれて、赤ちゃんの頃の私はもちろんそんなことを考えないから、人並みに成長した」

「ふむ」

「で、最初は………、今で言うなら小学三年ぐらいかな」

「最初?」

「うん。死のうとした最初」

「…………」


 裕美の声は落ち着いたままだ。

 それが却って、語られる言葉の不穏さを際立たせていく。


「仲の良かった友だちは、みんな死んじゃった」

「ど、どうして?」

「病気。学校で習ったでしょ? 要するに天然痘」

「……あ、ああ」


 昨日の出来事のように、途方もない過去を語る裕美。学校で習う「奈良時代」と、目の前の彼女を重ね合わせることなど、もちろん彼にはできない相談だ。

 とりあえずの生返事で、ただ聞き漏らすまいと緊張している。


「自分だけ、どうしても感染しなくて…。生き残っちゃって、だからそんな自分が嫌になった」

「………そんなもんだろうか」


 魔女でなくとも、運が良ければ一人だけ生き残る可能性はある。どんな教科書であれ、藤原四兄弟の死が書かれてあったとしても、人類が死に絶えたという情報を載せてはいない。


「安易に同意しないアンタは大物ね」

「くだらないことで褒めるなよ」

「あらそう」


 従って、光安の返事もそれなりにリアルなものだったろう。一人だけ生き残った当事者に対して言える台詞かどうかはともかく。

 大物扱いする裕美の口調はおどけているが、それはジョークではない。彼は安易な同情の言葉を吐く可能性を自ら否定して、乾いた台詞を選択している。そして彼女の言い回しの癖すらも、冷静にかぎ取っているようだ。十年前の彼にはなしえなかった業だ。


「首に傷付けても、脚を折っても死なないから困ったわ」

「…その辺はあんまりリアルに語らないでくれ」

「さっき見たじゃない」

「今、全力で忘れようとしている」

「ふーん、じゃあまたやろうかなー」

「やるな」


 相変わらずおどけた声の裕美。何も特別なことではない、という印象を与えることで、どうにかして自分が異端であることを印象づけようとしている。

 その企みは、もちろん全く成功していないわけではない。

 光安は身体を硬直させたまま、ピリピリした態度をとり続けている。それは対峙する相手がただの人間ではないと認識しているからだ。

 ただしその認識はどうしても、求められるレベルには到達しないようだ。排除というレベルには。


「何もやることがなくなって、ただ目を閉じて念じたの。死にたい、死にたいって」

「……誰か止めなかったのか。親とか姉とか」

「姉……ね」


 そこで裕美は少しの間、天井を見つめていた。

 リアリティのかけらもない姉に、光安はまだすがろうとしている。


「誰の想い出もないなー」

「そうなのか」

「私の方から遮断してるわ。そんな声を聞いて、決心が揺らいだら困るでしょ?」

「別に俺は困らない」

「私は困るわ」

「困るなよ」

「困る」

「…………」

「……」


 互いにすすっているカップの中身が、一瞬だけ空になり、また注ぎ足される。常に彼の上位で動じることもないはずの彼女は、同時進行でできるほんの小さな魔法を使い損ねるほどに苛立っている。

 こんなちっぽけな、生きていても死んでも宇宙に何の変化も及ぼさない有機生命体に。


「今は議論しても仕方ないと思わない?」

「俺だって議論なんかしたくない。だいたい…、お前と議論して勝てるわけがない」

「それはどうかなぁ」


 自嘲気味に笑いながら、裕美はいったんカップを置いた。

 彼女は焦りすぎている。

 アドバイスできるなら、こう言うだろう。目的地はもうすぐだ。焦るな、と。


「ま、ともかくそうやって私は死を選んだ」

「死ねないんじゃなかったのかよ」

「だから…、正確にいえば自分の中の時間を止めたの。止まってる間に肉体はいったん滅ぶから、この世界から消えることができる」

「…もう想像の域を超えてる」

「アンタに理解できたら、その方が問題でしょ」


 戸惑う彼は、そのシステムを初めて耳にした。

 しかしそれは、繰り返されるルーティンワーク。高橋裕美が「死ぬ」直前には、いつだって誰かとの別れがあっただろう。

 同じ台詞を吐き、同じ結末へ向かう。そしてそのたびに裕美自身も多くを忘れる。忘れることによって、ルーティンワークは一度きりの絶望へと変化する。


「ともかく、それは死んだわけじゃねぇんだろ?」

「そうね。こうしてアンタの前にいるんだし」

「じゃあどういうことだよ。勿体ぶったって何も理解できねぇし、全部しゃべってくれよ」

「…はいはい」


 子どもをあやすような声をかけながら、置いたばかりのカップをまた手にする。今度は発酵した茶葉の香りが漂いはじめた。

 既に腹の中でちゃぷちゃぷ波が立ちそうなぐらい飲み続けていた彼は、その新しい香りに一瞬意識を向ける。飲まなくとも、この場の空気を変えることにはなったようだ。


「要するに、さっき腕が再生したのと一緒。ある時期になると、止めた時間は動き出すの。で、身体も元通りになるわけ」

「……それで」

「で、また死にたくなって、時間を止めて、また動き出して……の繰り返し」

「だからトータル十六年ってことか」

「まぁね」


 それは子どもでも分かるサイクル。

 そんな幼稚な行為を繰り返す裕美に、違和感を抱かない彼の愚かさ。それはこの場に望ましいものだ。


「歳をとるにつれて、どんどんそのサイクルが短くなるのよ。最初は数年おき、今はせいぜい数ヶ月」

「数ヶ月?」

「さっきの話、もう忘れたの? 小学三年の時と今だったら、アンタだって今の方がモノを考えるんでしょ?」

「…………そりゃ、そうだけど」


 光安の表情は確実に険しさを増している。

 そうだ。いかに彼がバカだろうと、小学生のバカと高校生のバカなら、後者の方がまだ利口なのだ。そして利口であるが故に、余計なことばかり考えてしまう。そのメカニズム自体も、じゅうぶん理解できるのだ。


「つまりお前はそうやって、1300年のほとんどを眠っていたってことか」

「死んでいた、と言った方が正確ね」

「だから死んでねぇんだろ?」

「死んでた。死んでたようなものよ」


 声に出すたびに顔をしかめながら、光安は裕美を睨みつけている。

 人間がもっとも近寄りたくない言葉を、何度も口にする会話。それは普通の高校生の彼を、必要以上に消耗するのだ。


「なら、死なない方法を考えようとは思わねぇのか」

「考えたら思いつく?」

「………俺に聞かれたって分からない」

「私はたぶん考えないわ」

(そうでしょ?)


 えっ?


(考えなければ、それで満足でしょ。あなたは)


 ま、まさか私に話しかけているのか? 高橋裕美、お前は私に干渉できないはずだ。そうだろ?


(大人になるって、そういうことかも知れないね)

「魔女であることを忘れるってのはどうだ」

「無理」

「なぜだよ。死ぬより簡単じゃねぇのか?」


 青原光安の苦し紛れの提案を、裕美は真面目に検討するつもりもないらしく、表情一つ変えずに聞き流す。

 ……それにしても、さっきの声は何だ?

 私は治外法権だ。私は……。


「逆に聞きたいわ。光安」

「何だよ」

(あなたにも聞いておこうかな)


 ……私に何を聞こうというのだ。

 私という存在に気付いたなら、それが何者かも分かっただろう。お前が私に問う価値がないことなど、分かりきっているだろう。


「魔女じゃない私なんて、どこかにいるの?」

「……そ、それは…」

「理由はともかく、私は生まれつきの〈宇宙の上位の者〉よ。それ以外の誰でもないわ」


 ……その通りだ。お前は宇宙の上位の者だ。だから宇宙にできるのは、お前による干渉を避けることだけだ。

 そして私は、お前の干渉をやめさせるために存在するだけの者だ。


(やめさせる? それも言い得て妙ね)

「…こ、怖くないのか?」

「怖いわ」

(あなたも怖い…でしょ?)

「…………」

「たとえ復活が約束されていると言われても、意識が遠のく時には何の保証にもならないから。蘇らなかったとしても、誰かを責めることすらできないから」

(そうよね。私はあなたを責めないから)

「なら…」


 この期に及んで、まだ諦めない光安。その存在は、そろそろ許容範囲を超えつつあるのだ。

 私の役目は、裕美に干渉されることではない。裕美の選択を黙って見守ることだけを託された私に、いったい何を求めるというのだ。私はお前に褒められることもなければ、責めを負わされる存在ではない。ない…だろう?


「お前の力でどうにかならないのか。……これまでのお前は、なぜ何も抵抗しなかったんだ? やっぱり俺には理解できない」

「…そうね」

「お前、宇宙より上位なんだろ?」

「上には上がいるってことじゃない」

(そうでしょ? 自称「私の分身」さん)

「…………」


 答えようのないことを聞かないでくれ。

 地蔵のようにただ黙っていろ。


「そうか」

「…やけにあっさり納得するわね」

「そこは考えても分からないからな」


 光安は、裕美の意志が堅いことだけは理解したようだ。

 そうだ。それでいい。


「裕美のその…、宇宙より上位っていうのも、言葉としては分かるけれどイメージはできない」

「………」

「そこで「なら宇宙を破壊しようか」とか言うかも知れないが、たとえそれを実行したって俺にはやっぱり分からないからな」

(あなたは…私が家族を思い出させるためのトリガー)

「……一応聞くけど、どうして?」

「決まってるだろ。俺は宇宙がどんな大きさで、何があるのか知らないからだ」

(知らないことを誰かの受け売りで語る軽薄さも、与えられた役割なんでしょ?)

「そう…」


 所詮は、何者かの保護のもとでしか対峙できない私に、何を求めるのだ。

 光安のように、お前の決心を揺らがせはしない。私は……、私の言葉には彼ほどの重さがない。そんな分かりきったことを言わせないでくれ。


「じゃあ私からも教えてあげる」

「何だよ」

(あなたも驚くふりぐらいしたら?)

「私も知らない」

「は?」

「私も宇宙を一度に見たことはないの」

(どう? びっくりした?)

「………そりゃ」


 私はただの実況者だ。

 光安がヘラヘラと、何かを理解した顔をしているのを、そのように伝えるのみだ。光安はバカであると、伝えるのみだ。


「そりゃそうだろう」

「うん」


 そして私は、こう伝えねばならない。

 高橋裕美は覚悟を決めていると。


「…けど、一度には見れないけど、アンタに宇宙を見せてあげることならできる」

「いいよ、そんなの」

「あら、即答?」

「どうせロクでもない真似するんだろ?」


 光安の返事は、事の重大さを分かっているとも分かっていないともとれるものだ。どちらにせよ、もはや時は戻りはしない。ただの地球人類が、そのちっぽけな生を全うできそうなことを、神にでも感謝するがいい。

 そう。目の前にいる女神に、だ。


「どんな体験なら問題ないの? 物騒な鋼鉄の船にでも乗ればいい?」

(あなたには感謝もしないけど、怒りもしないわ)

「………頼まれても乗らん」

(止まった時の住人は、十六年の変化から取り残されるだけ)

「ねぇ光安」

(そう伝えたらいいわ。あなたの主に。あなたの……、私の望まない私の中のあなたの……)

「…何だよ」


 いつの間にか二つのカップもテーブルも消え、光安は痺れた脚をさすっている。

 つまらない学校と退屈な家の往復は、こうしてピリオドが打たれる。


「デートしようか」

「はぁ? な、何言ってんだおま…」

「じゃあ、出発進行!」

「こ、こら勝手に……って、うぁぁぁあぁ…」


 突拍子もない提案をした裕美は、返事を待つこともなく「デート」を開始した。

 二人は座った状態のままで宙に浮き、そのまま猛スピードで上昇する。昔からこういう時は、じゅうたんとか箒というアイテムを使う伝統があるはずだが、裕美はそういう文脈を無視する女だった。


「気持ちいい?」

「お、お、落ちる!」

「落ちない」

「し、知るかーっ」


 二人はぐんぐん上昇し、あっという間に成層圏に到達する。

 本当ならば、落ちる落ちない以前に生身の人間が生き続けられる環境なのかという問題がある。しかし、パニック状態のバカにそんなことを考えろというのは無茶な話だ。

 よくあるマンガのように手足をバタバタさせるわけでもなく、彼はほぼ正座のまま身じろぎもしていない。本当に怖い時には、人間は何もできないのである。


「さぁて、そろそろ成層圏脱出ねー」

「ねーって、なぁ裕美!」

「そんな大声出さなくても聞こえるけど」

「ど、ど、どこへ行く気なんだ!!」


 そうして、真っ青な世界を越えた二人は、しだいに漆黒に包まれていく。

 光安は騒いでいるとはいえ、さっきより落ち着いているようだ。たった一分でも、大丈夫なんじゃないかという気がするのだろう。人間というのは案外優れた適応能力をもっている。


「2001年宇宙の旅って言うじゃない」

「今は2001年じゃねーぞ!」


 漫才のようなやりとりも、予期された答えだから成り立つ。本当の二十一世紀には、ちっぽけなお茶の間が宇宙に飛び出して、そして大宇宙の塵よりも存在価値のないコーヒーカップを、二人は大事に持ち歩く。

 地球人類の代表、青原光安の手に汗握らない大冒険はこうして始まった。チャンネルはそのまま!!


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