第一節 荒瀬ふたたび
その日の朝、光安は目撃してしまった。
高校の正門前の決して幅の広くない道に、猛スピードで突っ込んでくる一台の車を!
「ぎゃあ!」
「あ、あぶないっ!!」
「……あ、荒瀬?」
何人かの生徒をかすめるように暴走する車は、一人のバカを射程に収めている。
そう、それはバカの中のバカ、荒瀬だった。
三バカの星、生きていればそのうち日本三大バカに格上げされそうな彼は、ヒゲ一本のために生涯をさらに縮めてしまったのだ。合掌。
「あ、荒瀬ー!!」
「ぐ、ぐえぇぇ~っ!!!」
声にもならない声とともに、荒瀬の身体は……………、何も変わらず立っていた。
暴走していた車は、彼の脇腹の寸前で完全に静止している。これはつまり、そういうことだ。
「とりあえず、止めたわ」
「………やれやれ」
慌てる生徒や万歳状態の荒瀬が「だるまさんが転んだ」状態で止まっているなかで、無表情のまま姿を見せたのは、もちろん宇宙より上位の魔女である。
「まだ、時間を止めてるだけ。どうする?」
「どうするって…、助けてくれよ荒瀬を」
「そう……」
言わずもがなの質問をする裕美に、光安は呆れた表情で振り返り、人として当然の願いを伝える。すると彼女は、ため息をつきながら微かにつぶやき、指先を動かしはじめた。暴走自動車の車体はわずかに宙に浮き、彼女の指が移動する方向へと音もなく動き始めた。
いや、時間が止まっているということは、目に見えない空気も動かないのである。車体だけを動かすなど本来は不可能、まして「音」が聞こえるはずがない。
ならば、この二人の会話はなぜ聞こえるのかって? 今さらだがそれは、裕美が二人に関する行為だけを例外としたからである。車体移動は裕美自身の行為だからもちろん可能、しかし車体が勝手に鳴らす音までは例外に含まれない、ということだ。
「ぁぁ…」
「危ない!」
何の役にも立たない豆知識はさておき、荒瀬にぶつからない位置まで車体を移動させて地面に下ろすと、裕美はすぐに止まった時間を元に戻した。
バカの悲鳴の余韻とともに、再び響く大きなエンジン音。暴走自動車は万歳荒瀬の横をかすめて……、確かに彼の命は助かったが、通学路にいるのは彼一人ではない。他の生徒に危害が及ぶだけじゃないか、と気付いた光安が叫んだ。しかし裕美は、光安ごときに突っ込まれなくとも、ちゃんとその先まで考えていたのだ。
すぐにドンっと鈍い音がして、車は停まった。その瞬間に車体は大きくきしみ、フロントガラスは砕け散る。白い煙ものぼりはじめた。これはこれで危険な状態にしか見えない。
「荒瀬くんの三年間は保証するって約束だからね。これでいい?」
「い、いいけど車は?」
「こうするわ」
裕美がそうつぶやくと、ドライバーらしきおっさんが地面に放り出された。禿頭がかなり進行中で、見た目よりも老けて見えるタイプのおっさんだった……が、次の瞬間にはもう誰もそんな醜いものに注目しなくなった。
パリン!
残っていた窓ガラスの割れる音がして、慌てて光安が視線を戻した先には、もちろん車があった。いや、車が車でなくなろうとしていた。
メリメリと音を立てながら車体は押しつぶされ、白煙を上げてガソリンは蒸発し、数秒後には一枚の金属板と化した。さらにその板はじゅうたんのようにくるくると巻かれて、そして道路脇の側溝の上に片付けられた。
「もう危険はなくなったでしょ?」
「あ、ま、まぁ…な」
おっさんは騒ぎ立て、生徒は拍手をする。例によって、誰もその不思議さを感じていないようなので、光安も何も言えなかった。彼自身も、生徒たちが拍手をすることには違和感を抱いていなかったのだ。
目には目を……。安物の時代劇のように、法に基づかない制裁を安易に認めてしまえば、いずれ自身への災いとしてふりかかるだろう。
制裁者の判断が間違っていても、それを止める術がない状況こそ最大の危機だ。そんな大人の論理を理解できないバカなガキだから、裕美を平然と受け入れるのかも知れない。
「で、こいつはどうする? 死刑?」
「ぎゃあ!」
裕美はツカツカとおっさんに近づき、蹴り上げた。
傍目には軽く触れる程度にしか見えなかったが、おっさんの身体は道路の斜め向こうの電柱まで飛ばされた。ただしクレーターができたりはしなかったので、ちゃんと自分の力はコントロールしているようだ。
「車がこれじゃあ、警察は呼べねぇぞ」
「なんか罪を作ろうか? ポケットいっぱいに大麻入れて」
「無駄に犯罪を増やすなよ」
その気になればどんな罪でも着せられるというのは、地球人類にとって全く好ましくない話である。さすがの光安も同意はしなかった。というか、彼のようなバカでなければ、魔女狩りが今すぐに始まりかねない発言である。
もっとも、過去の魔女狩りの対象に一人でも裕美のような存在が混じっていたならば、地球人類の滅亡は避けられなかった。人間が魔女を狩るなど、所詮は質の悪いジョークに過ぎない。
「しょうがないなぁ、アンタは」
光安に問題があると言わんばかりの表情でつぶやく裕美は、おっさんの身体を無理矢理に立たせて、学校と反対方向へ歩かせた。いつの間にか、おっさんの服は白黒の縞模様になっていた。囚人服のようだ……。
「どうするんだよ、裕美」
「どうもしないわよ」
完全に操られているおっさんが、大人しく通学路を歩いている。ギャラリーと化していた生徒たちは、その行く手を注意深く見守りながら、逃げるように離れていく。
そして遠くから眺めるだけの光安は、自分以外の人間が操られる様子を、ぼんやりと眺めていた。秋晴れの空の下で、その景色はどうにも盛り上がらないものだった。
「今日は一日、その辺の土手で反省してもらうから」
「はぁ」
おっさんの歩く先には、先日の水族館行きの待ち合わせ場所になった橋がある。どうやら裕美は、その付近の土手まで誘導するつもりらしい。
「あとは、永遠に暴走できない身体にして、おしまい」
「暴走できない身体?」
「決められた以上のスピードを出したくならないよう暗示をかけたの。その程度ならアンタでも納得できるでしょ?」
「ま、…まぁな」
既におっさんの姿は見えない。裕美自身は、土手に腰を下ろす姿まですべて視認できているだろうが、光安の眼に転送はされていない。恐らくは彼も転送は希望しないだろう。
その代わりに、光安はちょっとした違和感を覚えている。
裕美がより暴力的になる一方で、相変わらず自分に対しては気をつかっている。そんな事実が少しだけ気になり始めたようだ。
「荒瀬! 大丈夫か?」
「お、おう何だ光安?」
ともかく荒瀬は生き残った。
他の生徒が動き始めても、まだ呆然と立ち尽くしたままのバカに、光安が駆け寄る。美しき友情だ。
「おはよう荒瀬くん」
「ゆ、裕美ちゃん! おはよう。おはようございます!」
「ずいぶん態度が違うな」
「当然だろ。誰がお前と一緒にするか!」
とはいえ荒瀬はいつもの荒瀬だった。
光安には毒を吐き、裕美には目を輝かせる。友情よりも劣情をとる男。そこには、たった今生死の境にいた面影など何も残っていない。
実際、彼はもう忘れているのだろう。車がスクラップになることも、裕美が蹴ったことも、おっさんの服が突然変わったことも、留めてはいけない記憶だった。
「なぁ、どこまで忘れさせたんだ?」
「……それを聞いてどうするの?」
三人で昇降口を通り、階段をのぼっていく途中で、こっそりと光安は問いただす。ただし彼は声を出さず、心の中で裕美に呼びかけている。魔女との会話法が、だんだん身につき始めている。
「日常会話に支障がある」
「どんな?」
「お前、朝は大変だったな~、と言っていいのか分からん」
「それなら、言わない方がいいと思う」
日常会話というのも大げさな話だった。とはいえ、あの事件は知っていれば話題にせざるを得ない。そのくせに、当事者よりも自分の方が多くのことを覚えているのは確実なのだ。確認するのは当然である。
「まさか…、完全に消したのか?」
「決まってるじゃない」
「何でだよ。何もすべて消さなくたって…」
「消さなかったらどうなるの?」
裕美は荒瀬に「最近はどんな運動してる?」とか話しかけつつ、一方で光安とも会話している。同時に複数の会話をこなす「しょうとくたいし~」能力を実行しているらしい。
ただし、同時会話といっても身体は一つなので、表情の変化などは荒瀬との会話に連動している。光安はかなり話しづらそうだ。
「車に轢かれそうになったという記憶だけ、大切に留めておくの?」
「え、いや…」
「下手すれば、もう荒瀬くんは外を歩けなくなるけど、それでもいい?」
「……………」
にこやかな表情と相反する厳しい問いかけに、結局は返答できなくなった光安は、そのまま教室に入った。既に登校していた曽根といつも通りに言葉を交わすと、荒瀬が離れて自分の席に向かう。そして裕美が自分の席に座ろうとすると、今度は入船が待ちかまえている。完璧なルーティンワークの中で、光安は会話を続けるきっかけを失い、授業になだれ込むことになった。
裕美の問いかけを、光安は否定できない。
交通事故で死にかけたというトラウマを一生負うぐらいなら、その場で忘れさせた方が良い。裕美にはそれが可能だから実行したに過ぎないのだ。
「ゆうちゃんは、なんでバカをバカって呼ばないの?」
「うーん、それはねぇ、バカは一人じゃないからだと思う」
「その話題、俺が聞く必要ねぇよな!」
そうして一時間目が終わると、光安はもう朝の一件を忘れたかのように、入船を交えて不毛な会話を楽しんでいる。
覚えていても価値がないと判断したものは、速やかに忘却される。そうして地球人類は日々平穏に暮らしているのだ。
「だいたい、俺はちゃんと「さん」付けしてるぞ」
「当たり前でしょー。女の子を呼び捨てするなんて失礼な話じゃない」
運動部所属らしく短く髪を揃え、眼をくりくり動かす女子高校生にとって、どうやら光安は「自分より下位」の存在らしい。
下を見て生きてはいけないという人生訓もあるが、一般的に人間というものは、自分よりダメな奴を見つけて、そこで得られた優越感を大切にしながら日々を暮らしているのだ。
「部活の連中は呼び捨ててるだろ」
「部活は部活。…っていうか、アンタが何で知ってるのよ」
「だから部員情報だって」
「誰よ、それ」
ただし、光安と入船の上下関係は安定したものではない。いや、入船がそう思いこもうとするように、光安もまた、入船を自分以下のバカと位置づけようとしている。そうしてバカ同士の争いは、やがて血で血を洗う抗争に発展するかも知れないのだ。
まぁ抗争への発展は相当に高いハードルだが、いずれにせよこの場には、一つの問題があった。
「要するにねー、光安も「お船ちゃん」って呼ばなきゃダメよ」
「何だよその結論は」
「下の名前で呼べるのは彼氏だけなのよねー」
「ゆ、ゆうちゃん! 彼氏なんていないって! ……あ、アンタ疑ってるでしょ!」
「疑ってほしいとしか思えん」
光安と入船の関係において、裕美の存在は浮いている。それは裕美がバカではないという、些細な問題にはとどまらない。裕美という女神が、他の誰とも対等な関係を作れないという点が露呈しているのだ。
そう。今ここで現在進行形の会話に、裕美の能力が絡んだ瞬間、その会話は消されてしまう。その取捨選択は、常に裕美ただ一人の自由意志に任されている。朝の荒瀬にしても同じことだ。彼自身がどれほど裕美ファンであるにせよ、ほとんどの記憶は修正され続けている。そして修正された事実を、入船も荒瀬も知ることはできない。これは対等な友人関係ではない。
…いや、入船の記憶をできるだけいじらずに済むように、裕美がつとめているのは事実だ。光安絡みで巻き込まれた場合のみ、仕方なく書き換えている。裕美は裕美なりに、自身の置かれた立場に抗しているのは確かである。
ただしそんな気配りは、結局はストレスとなるだろう。
「まぁ間違ってもアンタじゃないしー」
「俺だって間違っても自分だなんて思わねぇな」
「いちいちむかつくわー」
「知るかよ。お互いにその気がねぇなら言うことなしだろ」
チャイムが鳴るまで仲良くケンカする二人。裕美はその様子を、ほとんど口を挟まずに眺めている。入船が光安を友人として認めはじめたことを確認するかのように。
「アンタとお船ちゃんも、けっこういい線いけると思うけどなー」
「それはない」
そして授業中に、裕美は話しかけてくる。
テレパシー会話なら、確かにいつでも可能である。
「一応、お船ちゃんはフリーだし」
「何だよ、その「一応」ってのは」
「決まってるじゃない」
「………」
光安には同時に複数の声を聞く能力はない。従って、時々は教科書に目をやりながら、途切れ途切れに話すしかない。幸い、今日の古文は廊下側の列に当たっているので、彼にとっての危機は訪れなさそうだ。それでもすぐに会話は滞った。
……もっとも、滞ったのは彼の能力のせいではないだろう。
裕美は要するに、入船はフリーだけど意中の男がいると言っている。そしてその男が光安でないことは、はっきりしている。そんな話題を振られても、答えようがないのである。
「アンタは妹しか眼中にない」
「……その言い方は承服できない」
「なぜ?」
「不健全に聞こえる」
「不健全じゃないかって言ったつもりだけど」
しかし裕美はまだ会話をやめなかった。
テレパシー会話は、やめようと思っても耳をふさげないので厄介である。光安にとっては、別に話したくもない内容だから、次第に苛立ちをつのらせていくことになる。
「俺は妹と一線を越えるような趣味はもってない」
「あらそう」
ストレートな表現で光安が言い放っても、声に出さない限りは教室に響くこともなく、古文の授業は淡々と進んでいる。
『方丈記』の陰惨な火事の描写にも、誰一人眉をひそめる者はいない。自分の知らない言語で綴られていることは、それだけで簡単に人間を思考停止させる。
「最近……、ちょっと分かってきたんだ」
「何が?」
「その…………、妹は妹なんだって」
「………ふぅん」
とりとめのない、そして相互に脈絡のない会話。光安はややイライラしてはいるが、今にも怒鳴りそうな雰囲気ではない。
あくまで授業中なので、たとえ心の中でも大声をだすのはまずい、という判断もあるだろう。ただ、彼はそうやって自身の感情を押し殺している様子でもない。彼は彼なりに、妹について思うところがあったので、頭に浮かんだ言葉を適当につぶやいているのかも知れない。
対する裕美は、教科書とノートを並べてシャーペンを持ち、授業中というビジュアルだけは完璧に演出したまま、ぼんやりと天井を見つめている。
彼女も別に怒ってはいない。かといって、光安の反応に満足しているわけでもなさそうだ。それは彼女にとっても、元から落としどころの存在しない話題なのだろう。
「曜子ちゃんは、兄離れしたいのかな」
「曜子がどうだろうと、兄は兄なんだから兄らしく振る舞うもんだ」
「よく言うわ」
そもそも妹曜子は一個の人格ではなく、青原光安の妄想に過ぎない。そして光安自身も、曜子など本当はいないことを、きちんと理解していた。現実との区別ができないような人間ではなかったのだ。
そんなごくありふれた高校生を、いったい裕美はどこへ導こうというのだろうか。
「私にも…、弟みたいな子はいたの」
「いつの話だよ」
「長明さんが山に籠もってた頃」
「…………」
ともかく、古文の授業は何事もなく過ぎていく。
1300歳の裕美が、恐らくは実際に使っていた言葉を習う退屈な授業は、とりとめもなく過ぎていく。
「彼は…、この火事で死んだ」
「えっ?」
「長明さんは見てるだけ。そして私も見てただけ」
「なんで…」
そして裕美の独白も続く。
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。そんな小綺麗な台詞を知った時、既に彼女は500歳に近かった。それは光安のようなバカにでもすぐに計算できる数字である。
「何で助けなかったんだ。お前なら…、火事ぐらいすぐに消せただろ?」
「その頃の私は、ただの無力な人間だった」
「…………」
「欲しい時に使えない力なんて無意味なの」
無力。その言葉が最も似合わない女が自白する過去に、光安は少なからず動揺して、教科書から手を離した。おさえていた指先を外れ、パラパラと音を立てて閉じていくことすら、彼は気付いていない。
「そんなことはない。だってお前は…、お前は荒瀬を助けたじゃねーか」
「………光安」
そうして発せられた光安の声にならない叫び。しかし所詮それは、その場しのぎの言い訳に過ぎない。荒瀬を助けたという今日の出来事は、過去の誰かを見殺しにした事実とは無関係であって、帳消しにできるわけはないのだ。
「なぜ最初に会ったのがアンタだったのか、ちょっとだけ分かった気がするわ」
「そんなこと、今はどうだっていいだろ?」
「どうでもいい?」
善意のストレスを与えられたその瞬間、裕美は教科書を覗くポーズをやめて、光安の方をちらっと見た。
彼女の女神の微笑が何を意味していたのか、もちろん彼には知る由もない。
「そうね。どうでもいいわ」
どうやら裕美は、青原光安という存在の理由を覚ったようだ。それは私にとっての終わりの始まりだ。よい子のみんなとお別れする日は、………そう遠くない。