第五節 ようこそようこさん その2
「何よぉ。まだ変えたいわけ?」
「変えたいだろ、そりゃ」
ようやく問題が解決したという表情で、そのまま入口に向かう裕美を、顔だけ美少年が阻止する。正確にいえば、阻止するといっても小学生が大人にじゃれつくようにしか見えないので、あまり効果はありそうにない。
だが、とにかく謎の男の光安は裕美を制止した。その理由は言うまでもない。
「お前はどうすんだよ。まさかばれないと思ってねぇよな?」
「ばれる?」
「当たり前だ!」
「ふーん」
当然のツッコミに対して、不服そうにつぶやいた瞬間に、裕美の姿は消えた。
そして、裕美が立っていた位置には……。
「…だから入船さんは知られてるって」
「これは違うわ。十年後のお船ちゃん」
身長が30cm近く縮んで、服装がぐっとフォーマルになった。
しかし正体はバレバレのようである。
「ぜんっぜん変わってない!」
「…女の子はもう成長期じゃないからね」
入船の顔のままそう言って、今度は見たことのない女性に変身した。
なお、十年後の入船は、光安が言うほど変わっていないわけではない。ちゃんとそれなりに大人っぽくなって、ゴシップ紙の記者だと言われれば納得の雰囲気だった。ゴシップ紙でなきゃいけないかは人それぞれだ。
ただし、現在の入船がものすごく頑張って化粧をした上にフォーマルな衣装に着替えたら、似たような雰囲気を出せる可能性も否定できない。入船に似ていると認識されただけでも、デートは中断される可能性が高い。
「これでいいよね?」
「いい…けど、誰だよ」
光安は眉間にしわを寄せたまま、しばらくじっと裕美……ではない外見の女性を見つめていた。
そこにいたのは黒髪ロングの女の子。入船モドキよりもさらに背は低くなり、光安を見上げるような格好になった。全体的にほっそりした体型でフリルのついた白いブラウスを着て、胸の辺りも控えめ…と、裕美とは全く正反対の姿になっている。心なしか、全体的に本間曜子っぽさを感じさせる。
「最新のイメージの曜子ちゃん」
「…………」
寝言のような裕美の言葉を聞いて、さらに光安はじっと見る。
以前に出現した「曜子のような物体」とは違って、目の前の女の子の顔面はモザイクではない。ぱっちり輝く瞳、肉付きの良い頬という程よい童顔で、まぁいかにも私は妹ですといった感じである。このままクラスに現れたら、ファンクラブまではいかなくとも、かなりの人気を得そうだ。
「まぁ…いいや。どうせ裕美だし」
「お兄ちゃん!」
「えっ!」
とりあえず裕美とばれないのは確実なので、無理矢理に納得しようとした光安だった。…が、こうやってからかわれると、きっちり反応してしまう。
確かにその意味では、最新のイメージを体現しているのだろう。既に裕美は、兄よりもその妹のことをよく知る「お姉ちゃん」なのである。
「そろそろ入らない?」
「お前が邪魔してんだろ!」
「そうかなぁ」
とはいえ声は裕美のままなので、光安はすぐに慣れたようだ。中の二人は裕美の声を知っているのだから、変えずに済ませて良いのかという疑問は残る。しかし外見がこれだけ違えば、よく似た声の他人で説明できるのかも知れない。
光安がおそるおそる自動ドアの手前に立つと、開いたドアの奥に巨大水槽が一つ見える。通路は水槽の斜め方向に一本のびているだけだ。それほど明るくはないのが救いとはいえ、出口まで丸見えである。
丸見えである…ということなので、当然渋谷と本間曜子の姿も見えている。まだ水槽の中央よりも手前の辺りに立っているが、会話が弾んでいるという感じではなさそうだ。
「もうちょっと楽しそうだと良いんだがなぁ」
「そうだね、お兄ちゃん!」
「えっ!?」
顔面偏差値男に化けたストーカーは、その任務に沿った発言をしたのだが、隣で返事をしたのはストーカー仲間ではなかった。
というか、それは中に入る前と全く変わらないビジュアルなのだが…。
「こら、手つなぐな」
「なんで? お兄ちゃんと手をつなぐのは当たり前でしょ?」
「え? …いや、その」
顔面偏差値男は、困っていた。
隣にいるのは、彼の妹の曜子。つまり顔面偏差値男は曜子の兄だ。…そういう設定になってしまうことは、裕美が変身した時点である程度予測されたこと。
しかし、大水槽の入口でだだをこねる少女は、裕美の声など発していない。それは……、強いて言うならば、いや、強いて言うまでもなく妄想妹の声そのものなのだ。バカ以外は誰も聞いたことのない声なので、あくまで推測である。
「それにしてもお兄ちゃん、もっとおしゃれしてほしかったなー。せっかくのデートなのに」
「デ、デート?」
「お兄ちゃんとデート、でしょ?」
「え、えーと……」
まさかの展開に、ツッコミもまともに入れられない光安。
そう。彼にとっては、自宅でのみ密かに楽しんでいた妹とのひととき。それがこんな場所に出現してしまった。しかも三次元の姿を伴っている。たとえそれが裕美のイタズラだと分かっていても、彼は妹を拒絶できないのだ。
ああ、なんといううるわしい兄妹愛。ここを棒読みするかは読者に任せよう。
「それでねー、お兄ちゃんはお魚詳しいの?」
「え? …い、いや」
「教えてお兄ちゃん! あのお魚は?」
「あ、あれは…、でっかいからマグロかな」
「へーっ、これがお兄ちゃんが大好きなマグロかぁ」
裕美…ではない妹の暴走はとどまる気配がない。
兄とは手をつなぐどころかガッチリ腕を組んで、大水槽の魚を指さしながら質問してくる。その攻撃に光安は困りながらも、どうにか兄の威厳を保とうと頑張っている。既にこの場にやって来た目的すら怪しくなり始めている。
そんな兄妹の様子は、狭い建物内でも非常に目立っている。当然、渋谷と本間曜子の目や耳にも入っていて、ちらちらと気にしているようだ。
「あ、あそこは?」
「うーん、タコでもいるのかな?」
「よく見えないよ、お兄ちゃん」
「え? そ、そうか、そうだな」
妹曜子が、光安よりも遙かに小さいこと。それは中身が裕美だという事実を、彼に忘れさせる大きな要素らしい。そんなビジュアルで「いつもの」声なのだ。彼は何ら操られていないにも関わらず、裕美の手のひらで転がされている。
そして妹は、さらに要求をエスカレートさせるのだった。
「おんぶして」
「えっ?」
「お兄ちゃん、おんぶして!」
だだをこねる表情を見て、光安は本気で照れている。もう完全に堕ちてしまったようだ。
もちろん今の妹曜子には、それだけの魅力があった。現在デート中の渋谷ですら無視できない状況で、後から入って来た客の視線は、この美男美女兄妹に釘付けである。妹の要求していることも、周囲にすべて筒抜けである。
ここで兄がどうするのか、全世界が注目していると言っても過言ではない。いやさすがに過言だ。
「しょ、しょーがねーなー。…少しだけだぞ」
「うん。お兄ちゃん大好き!」
そして光安は、妹曜子を本当におんぶしてしまった。
中の人は今ごろ、どんな気分だろうか。少なくとも、笑い転げているのは間違いないな。
「……っと。案外重いな、曜子は」
「あーー、お兄ちゃんひどい!」
「ぐ、ぐぇ、首絞めるな~」
曜子という名に、本間曜子がぴくっと反応した。そしてゆっくりと妹曜子の方を向き、背中に乗って首を絞める姿をまじまじと見つめている。
それは相当に危険なシーンである。
危険と言っても、光安が絞殺される危険があるという意味ではない。正体がばれないように姿を変えたのに、光安が二人にこだわる理由までも一気にばれてしまいかねないのだ。兄と妹は、コッソリ後をつけて観察するならば、絶対にやってはいけないことばかりやっていた。
「でもね、お兄ちゃん」
「…何だ?」
「よく見えるよ」
「そうか」
「うん。いつも優しいお兄ちゃん」
「いつも…」
建物内に入って五分ほど経った。
既に光安と裕美は兄妹そのものと化していて、疑問を差し挟む余地すらない状況となった。重ねて言うが、光安はこの「妹」が裕美の化けた姿だと知っている。そのことを忘れるような魔法は一切かけられていない。
つまりそれは…、光安はすべて分かった上で、それでも兄を演じていることになる。既に理性など吹き飛んでいると言った方が正確かも知れない。
「ところでね、お兄ちゃん」
「ん? どうした?」
「あのね、曜子はね、お姉ちゃんに頼んで今日だけ魔女になったの」
「……………え?」
しかし、突然彼は現実に引き戻された。
いや、正確にいえば完全に引き戻されたわけではない。しかし「魔女」という言葉を、周囲が聞き耳を立てているなかで口にしたのだ。
「ちょ、ちょっと待て。そこで休もうか、な?」
「あ、…うん」
水槽から少し離れた場所にベンチがあった。
光安は妹をおんぶしたまま慌てて移動し、無理矢理に地面に下ろしてベンチに座らせる。そして真顔になって向き直った。次の演目はたぶん、兄の説教だ。
「裕美、それは反則だろう」
「あらそう?」
叱られた妹曜子は、見た目は変わらぬまま、声だけ裕美に戻っている。
そして、光安はひそひそ声だったが、裕美はテレパシーで返してきた。つまり、今からの会話は声を出すな、ということのようだ。
「ねぇ光安。今日の目的は何だっけ?」
「目的…」
「目的」
「目的………なぁ」
今さらのことを裕美に問われ、光安は反省したようだ。
当然である。妹の出現に完全に浮かれてしまい、自分が楽しむことで手一杯だったのだ。裕美はそんな姿にある程度は付き合ったものの、いい加減目的を思い出させようとしたのだろう。
そもそも、渋谷と本間曜子はどうなっているのか? 実は二人は、まだ大水槽の前にいた。つまり現在も、ベンチから見える範囲にいるのだ。
それは渋谷らにとっても予想外だったはずだ。他でもない兄妹の姿に釘付けとなった二人は、水槽よりもそちらに気をとられてしまった。兄妹がベンチに座ったことで、ようやく気を取り直した状況なのである。
「どうにかできねぇのか?」
「どうにかって…、何するのよ」
「だから、デートってのはこうするんだとか、アドバイスを…」
向き直った二人の様子は、傍目にも微妙である。
いや、そもそもがこれはデートではなく、あくまで「魚好きの二人が、タダ券があるのでやって来た」のだから、いきなりいい雰囲気になる方がおかしいのだ。が、本間曜子以外の三名はそのまま終わることを望んでいない。このいびつな状況で、兄妹を演じる二人が期待するのは、あくまで本間曜子の翻意ということになる。
「今から彼の所に行ってアドバイスするの? 手を握るタイミングはこうだとか?」
「…………無理か」
「無理ね」
とはいえ、渋谷本人にはほとんど期待できないことが、既に判明している。まぁこれも、嫌われていないだけで大健闘なのだ。普通は他人と二人っきりで半日も一緒にいようとは思わないものである。
「テ、テレパシーでどうにか」
「私は渋谷くんに、自分は魔女ですって明かさなきゃならないの?」
「…………無理か」
「無理ね」
そして光安も、この調子なので頼りにならない。というか、すべて裕美任せである。役に立たないにもほどがある。
結局、そんなわけで頼みの綱は、自称1300歳の豊富な経験のみ。ただし、本間曜子の記憶を操作することは望まれていない。それどころか、彼女の能力による解決自体が望まれていない。さらに言えば、何をもって解決なのかすら分からない状況だ。そんな八方塞がりを打開する方法は………、目には目を、曜子には曜子、らしい。
「じゃあ、何とかアロー!」
「はぁ?」
いきなり妹曜子は妹曜子の声に戻った。
非常にややこしい表現だが、現物自体がややこしいので仕方ない。
「お姉ちゃんがね、これで魔法が使えるって渡してくれたの」
「………は、はぁ」
その妹は、小さな洋弓を手にしている。
今し方の悩み事との関係で弓矢というからには、まぁお約束のヤツだろう。光安もその辺は察しが付いたようだ。
「そうかい。でも「何とか」はやめた方がいいぞ。インチキ臭いからな」
「あのね」
「うむ」
「お姉ちゃんが、そう教えてくれたの」
とりあえず光安は、兄として言うべきことを言った。彼の言うように、肝心の固有名詞な部分を省略したのでは、アイテムとして全く期待を抱かせないのである。ファルコン・アローでもいいから、とりあえず「何とか」を脱することから始めなければならないのである。
しかしそれが、妹による忘却ではなかったことが明らかにされてしまった。
「ま、まぁ、……さすがはお姉ちゃんだな」
「使ってみるよ」
「へ?」
半ば呆れながら妹をなだめる兄。しかしその返事を待たずに、妹はどんどん話を進めていく。兄はそれに引っ張られて、またもや妹の正体を忘れてしまうのだ。
「じゃあ…、そこのマグロ」
「マグロだぁ?」
「うん。マグロ~」
妹曜子は、その何とかアローをよりにもよって大水槽のマグロに向けた。そして何の躊躇もなく、矢を放った。
わずかに音を発して、確かに矢は水槽に向かって飛んだ。もしもこれを普通の人間がやったなら、たちまち器物損壊の現行犯で逮捕される状況である。
「……なんか刺さった気がしたな」
「ちゃんと刺さったよ、お兄ちゃん」
もちろんこの弓は裕美お姉ちゃんがくれたアイテムなので、ガラスは割れなかった。パリンという音も立てずに通過した小さな弓は、確かに泳いでいるマグロに刺さった。そして刺さったマグロは、釣り人との格闘の末に力尽きるわけでもなく、そのまま水槽を泳いでいる。
間違いなく、この弓矢はマジックアイテムだった。まさしく資源の無駄遣いであった。
「それで…、あっちのサンマ」
「ちょ、ちょっと、お前なぁ」
まさかと呆れる光安の横で、妹曜子は二本目の矢を放つ。今度も矢は水槽に吸い込まれ、手前で銀色に光るサンマに命中した。
そして……、命中したサンマは、隊列を離れて一直線にマグロの方へと向かった。
「ほら、これで仲良し」
「……こんなデタラメな名前なのに、ちゃんと使えちゃうのかよ」
「あの二人にも…、私が狙ったらいいでしょ?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て」
異種の魚の間に恋愛感情が存在するとはとても考えられないが、マグロとサンマは寄り添って泳ぎ始めた。いつもながら、無茶な名前のわりに絶大な威力である。
そんな「何とかアロー」を、今度は渋谷に向けた。ああ、これで彼もマグロのようになってしまうのか……と、光安がそこで遮った。幸か不幸か身体が裕美ではないので、ちゃんと遮ることもできた。
「どうしたのお兄ちゃん」
「いいか。お前の姉を名乗る奴はなぁ、とっても危険な奴だ。お前を騙して悪いことをさせようと企んでいるんだ」
「え? そうなの?」
光安が妹を諭す様子は、まるで詐欺に引っかかった人間の目を覚まさせるかのようだ。妹は大きな瞳をくりくり動かしながら、かっこいい兄の言葉を聞いている。
「そうだ。だからその弓矢を使うのはやめなさい」
「うーん」
「ダメ、ゼッタイ」
「あっ!」
さりげなくトンデモな台詞を吐きながら兄が弓矢を取り上げる。するとその瞬間に何とかいう名前の武器は姿を消した。
そして残されたのは、ぷうっと頬をふくらませた妹であった。
「お姉ちゃんを詐欺師扱いするとはいい度胸だわ」
「…頼むから裕美の時は裕美だと言ってくれ」
「お兄ちゃん、ひどいー」
「だからなぁ…」
時々裕美の口調が混じるのは、確かに厄介だろう。しかしここははっきりさせておきたい。声色は確かに変わっているが、しゃべっているのは終始裕美一人であって、他に誰がいるわけでもない。そしてそれは、光安の知っている事実である。結局のところ、光安は兄妹ごっこがやりたいから、裕美は出てくるなと言っているに過ぎない。
ともかく矢が刺さるとラブラブとかいうありがちな作戦は破棄された。さぁどうする、裕美。光安に問いかける必要はなかろう。
「こうすればいいのよ」
「え? いや…」
裕美は立ち上がると、光安の腕を引っ張って、渋谷と本間曜子のすぐ近くまでツカツカと歩いていく。
もちろんまだ姿は例の兄妹なので、監視がばれるわけはない。とはいえ、じろじろ見られている。あれだけ目立つことをやった兄妹なのだから当然である。
「ねぇお兄ちゃん!」
「えっ!?」
そしてまたもや兄妹によるショーが始まった。
引きつった顔で光安が振り向くと、満面の笑みで兄を見つめる妹がいる。もうダメだ。その瞬間に彼の理性は吹き飛ぶのだった。
「あのねお兄ちゃん、クラスの香織ちゃんに聞いたの」
「な、何を聞いたの?」
頼まれもしないのに、かっこいい兄を演じるバカ。
念のために説明しておくが、香織ちゃんというのは入船の下の名前である。
「お魚さんがこっちに来てね、水槽を二回…こつんこつんってたたいたら、幸せになれるんだって!」
「へぇー。それって本当か?」
「うん。香織ちゃんもいつも「来て来て」ってお願いしてるんだって。でも来てくれないね」
そして偽造の妹から明かされたジンクス。私はその真偽を確かめる術はないが、ただ一つ言えることは、入船が教えた事実はないという点のみである。
というか、妹の行動がどんどん幼くなっているように思うのは気のせいだろうか。兄とは一歳違いの中学三年という設定だったはずが、今は小学生並みに若返っている。見た目は変化していないので、そのうち違和感が生じてきそうだ。
まぁ肝心の兄は、全く気にも留めていないがな。
「曜子がちゃんとお願いしたら、来てくれるさ」
「そう?」
「そう。今日はちょっとお願いが足りなかったな。また来ような」
「うん。お兄ちゃん大好き!」
ともかく、光安による見事な演技の一部始終は、渋谷と本間曜子にもしっかり伝わっていた。二人ともちょっと困った感じに顔を見合わせながら、大水槽を眺めている。とりあえず、この場がデートであるという意識は十分に植え付けられたようだ。
「し、幸せになるって…」
「ねぇ…」
その時、大水槽の手前を泳いでいたカワハギが、ふらふらと二人の前にやって来た。
そしてまさに目の前で、その尖った口先がガラスを二回、トントンとたたいた。二人はしばらく絶句していた。
「おっきなお兄ちゃんとお姉ちゃんはめでたしめでたし」
「……だといいけどな」
兄妹は既にそばを離れ、建物の外で元の姿に戻っている。せっかくの瞬間に、気が散らないようにという配慮のようだ。何度も見合わせて、緊張した様子で渋谷と本間曜子が出口へ向かうのを、例によって裕美の透視経由で眺めている。夢から覚めた光安はぐったりしているので、自分の眼を奪われたこと自体、もはや気づいていないようだ。
「今日の渋谷くんは、まぁ合格点かな」
「とりあえず良かった…よな?」
「まぁ、こんなもんでしょ」
やがて二人がゲートを通過するのを確認して、本日のストーカー任務は終了した。
まだ疲れたままの光安を見て、苦笑しながら裕美は缶ジュースを二本買ってきた。偽造貨幣の使用はせず、自販機にお願いして出してもらったようだ。
「二人はまだ、つき合ってるわけじゃねーよな?」
「そりゃそうでしょ。お友だちから始めただけ」
「この先、どうなると思う?」
「それはサーチしてほしいの?、それとも単なる希望的観測?」
「…希望的観測で頼む」
二人で缶コーヒーを飲みながら、反省会が始まった。
少なくとも光安には山のように反省材料がある。しかし彼に反省の色はない。
「そうねー」
「………」
未来サーチのできる相手に、何もわざわざ根拠のない希望的観測を聞かなくても良いだろう。私はそう思うが、彼はまだ兄の気分が抜けきっていないので、正常な判断ができないのだ。そういうことにしておきたい。
そんなバカを相手にする裕美は、特に笑うでもなく、それなりに真顔で考えている…ように見える。バカは顔だけは真剣なので、合わせているだけの可能性もある。
「たぶん、うまくいくと思う」
「本当か?」
「希望的観測」
「あ、いや…、そりゃそうだけど」
請われるままに適当な見解を述べる裕美。その返答に一喜一憂する光安は、まるで占いを信じる女子高校生のようだ。彼は女子高校生とは性別しか違わないので、喩えになっていないが気にするな。
「でもね、そう長くは続かないわ」
「えっ?」
「あの二人。お互いをそれほど分かってるわけじゃないし」
ただし残念ながら裕美は、良い予測だけを聞きたがるバカな若者に、媚びへつらうような女ではない。甘い言葉で持ち上げたなら、必ず次には落とすのである。だてに1300年も生きていないのである。
光安はバカな若者なので、分かりやすく戸惑っている。オーガッデムとか言いそうな雰囲気だ。どんな雰囲気だ?、とか聞かないように。
「そういう呪いの言葉を吐かないでくれよ」
「私は正直に言っただけ。仮にうまくいっても、遠からずすれ違うことになる。それでも、幸せな記憶が残れば十分でしょ?」
「長続きしないのに幸せな記憶って言われてもなぁ」
高校時代の恋愛がその後も続く確率は、言うまでもなく極めて低い。高校生が買えないゲームのように、速やかに最終的な行為にたどり着こうが、それが関係の永続を意味するわけではないことぐらい、よい子のみんなでも知っているはずだ。
しかし、確率としてそうであっても、現在進行形の当事者たちは「自分たちだけは違う」という選民意識の中で生きてゆくしかない。呪いの言葉ではなく、無根拠な夢想にすがるしかない。
「長続きするには、そうね………」
1300歳女は、次の呪いの言葉を考えて口ごもる。
たかが十六年しか生きていないバカは、身構えて聞くしかない。
「お兄ちゃん!」
「わっ!」
全く予期せぬ声に、大きな声をあげて驚く光安。もちろん、予期せぬとは言ってもそれは、彼にとっての呪いの言葉に違いなかった。
裕美はそんなバカのリアクションをじっと眺めた後、一口だけコーヒーを飲んだ。
「きっとね、私とアンタみたいにお互い隠し事のない関係が必要なの」
「はぁ?」
その言葉は、少なくとも妹曜子の真似とは何も関係がなかった。
彼が疑問の表情になった理由は、そんな些細なことのためではなかろうが。
「そうでしょ?」
「…………言わせてもらうが、隠し事がないのは俺だけだろ」
冷静になったバカの台詞は、真理を突いていたと言わねばならない。
彼はおどけるでもなく怒るでもなく、ただ淡々と言ってのけた。
「裕美のことなんて、何も分からない」
「そうだっけ」
「そうだ。だいたい、俺と初めて会ったあの日、あそこで何をしてたんだ。いや、あの日以前のお前はどこにいたんだ? 何も分からないだろ、俺は」
「ふぅん…」
さらに畳みかける光安。とうとうバカは核心に迫る発言にたどり着いた。
そう。彼の言うように、あのベンチに座っていた放課後より以前の裕美は、何一つ明らかになっていない。いや、1300年前に生まれたとか、断片的な情報は与えられているが、それらは検証不可能な自己申告でしかないのだ。
1300歳が事実ならば、半年前にも裕美はどこかで何かをしていただろう。しかしその過去は、現時点では全く謎のままである。
「アンタもだんだん賢くなってきたわねー」
「褒めなくて結構だ。答えろよ」
「そうねぇ」
自分でも良い質問という感触がある光安は、やたらと強気に圧してくる。裕美が手に持っていたはずの缶コーヒーが、いつの間にか宙に浮いているのも、光安有利な展開になった証拠である。
まぁこの程度で追い詰められはしないだろうが………。
「まぁそのうち、ね」
「あっ!」
「え?」
「……………」
しかし事態は予想外の方向に動いたのである。
予期しない三人目の声が響き、慌てて光安が後ろを向いた。すると二人のすぐ後ろにいた中年女性が、明らかに動揺した顔で立ち去ろうとしたのだ。
「あ、あの…」
「…………」
すぐに光安は呼びかけたが、中年女性は彼の方を振り向きもせずに走り出していく。その反応からしても、単に会話を盗み聞きしたわけではないだろう。女性は間違いなく、宙に浮いた缶コーヒーを目撃してしまったのだ。
「ゆ、裕美!」
「うるさいなぁ…。騒ぐことないの」
光安は半ばパニック状態で、目撃された当事者の名を叫ぶ。
しかし当事者は面倒くさそうにつぶやいただけで、既に中年女性は建物の影に消えている。どこへ行ったのか、光安には全く知ることもできない。一般的な魔法少女ものなら大ピンチである。
…………。
まぁそれはあくまで一般的な話。ここで悠然と座っているのは、どんな記憶操作も思いのまま、宇宙より上位の者である。彼女にとっては、何も慌てる要素など存在しない。
「忘れ物があるから」
「え?」
「戻ってくると思う」
「………あ」
落ち着き払った裕美が指さした先には、確かに誰かの荷物が置いてあった。光安がとりあえず存在を確認した時、再び人影が現れる。それはさっきの中年女性だった。
中年女性はまた二人の近くにやってきた。
裕美は彼女の方を見向きもせず、光安がこわばった表情で眺めている。そんな状況の中で、中年女性はさっきのようにオドオドした態度もなく、置き忘れていた荷物までまっすぐに向かい、手に取った。ちらっと二人の方を向いた中年女性は愛想笑いを返し、そしてまた何事もなく去っていった。
「なぁ……」
「………」
それは裕美が現れてから、毎日のように繰り返される日常的光景に過ぎない。
だが、教室を離れた場所で彼女が能力を使うことは、当たり前といって済む感覚ではなかった。
「お前はこうやって、沢山の記憶を消して来たんだよな」
「…………そうね」
再び缶コーヒーを飲みながら、さっきの中年女性の残像を追うかのように、二人は無人の空間を見つめている。
なお、缶コーヒーが冷めない魔法も使われているが、今の二人の意識にその話題はないようだ。
「やり直しのきく人生ってのも、いいかもな」
「いいわけない……わよ」
重苦しい空気を嫌がったのか、出来の悪い冗談を口にする光安。
しかし、裕美はその意図に乗ろうとはしない。
「私が書き換えた記憶は、私の……、この頭には残してあるわ」
「………」
裕美は自分の頭を指さして、またコーヒーを一口飲む。
隣のバカは…、茶化すのは諦めた表情で、視線だけ彼女の指先を追っている。
「それが嘘じゃなかったという証明のためにね」
「……そうか」
「うん」
書き換えられた記憶は、必要のない記憶だ。セーブデータを呼び出した瞬間に消されるゲームのデータのように、抹消されたものは「なかったこと」だ。現代の人類はそんなやり直しに慣れていて、いちいち意識することもない。裕美の告白が事実ならば、全く無意味な行為である。
「お前が生きていれば、永遠にその記憶は残るのか」
「アンタの記憶だって…、きっと残る」
「どうやって? 俺はいつか死ぬだろ?」
「死んだ人の記憶は、跡形もなく消えるものなの?」
いつの間にか西日がさしはじめた水族館。そろそろ閉園も近くなり、子ども連れの姿はほとんど見かけなくなっている。
二人の缶コーヒーはもうなくなっていて、光安はすする音だけ立てている。
「それを俺に聞かれても、分かるわけがない」
「かもね」
「…………」
「帰ろっか」
裕美の声に光安は無言でうなづき、ようやくベンチを立った。
端から見れば、どっちがデートだったのか分からない凸凹コンビは、夕陽に照らされながら水族館のゲートを抜ける。入館時には通っていないゲートだが、一人詰めているおじさんは片付けに忙しく、出て行く二人をとがめはしなかった。
「本間曜子さんと渋谷、何とかうまく行くといいな」
「…アンタは本当にそれで良かったの?」
「良かったに決まってんだろ」
「ふぅん」
ゆっくりと回転する風車を背に、二人は朝の待ち合わせ場所だった橋まで歩いた。
今ごろは、渋谷も本間曜子ももう家にたどり着いただろう。夕方の川沿いの歩道は、ただウミネコの鳴き声が響いている。
「じゃあ、曜子記念日は成功ってことでいいのね?」
「大成功だ。それで…………」
風にあおられた髪の毛を手で押さえながら、光安は少しだけ声を張り上げた。
それはただ、小さな声ではかき消されてしまうからだ。
「すべて裕美のおかげだ」
「そうでもないと思うけど」
「俺一人なら曜子暗黒デーだった。だからその……、ありがとう」
「…うん」
しかし、わざわざ声を張り上げた瞬間に風はやんでしまった。
つまり、お互いにとって非常に恥ずかしい状況だった。
「で、俺は反省したぜ」
「何を?」
半分は照れ隠しのつもりで、また声を張り上げる光安。
反省の言葉を口にするのは人として素晴らしい行為なので、堂々と大声が出せるのだ。
「少しだけ、曜子離れするぞ」
「へぇ…」
ただし反省内容によっては、反省しないよりも評価が下がる可能性がある。
彼を知る者ならば、こんな発言程度で今さら彼の評価が変わったりはしないが。
「あんなにデレデレだったくせに?」
「いつまでも妹に依存はできねぇ」
「その台詞、明日までもつかなぁ」
「もつ。……………もつぞ、…たぶん」
結局は気弱な言葉でしめてしまうから、すべては台無しだ。そもそもが、曜子離れしなければならない積極的な理由もないのだから、この目標は決して実現しない。
とうとう最後までつき合った裕美も、実現は望んでいないだろう。
「それでね、光安」
「え?」
最後の最後にとっておきの笑顔。
それは大水槽で目を輝かせる本間曜子よりも、甘えた表情で上目遣いの妹曜子よりも、もっと魅力的な笑顔だった。
「私にとっても想い出の一日。だからありがとう、光安」
「…………ああ」
さっきの光安の比ではないぐらい恥ずかしい台詞を口にして、彼女は空を眺めた。
想い出の一日は、これ以上ない晴天のまま暮れようとしていた。
長い長い第6章はこれにて完結。感想待ってます!