第五節 ようこそようこさん その1
一般に、水族館のような施設の入館者は、単に入館料を払うだけではなく、中でいろいろお金を落とすことを期待されている。方々に売られているグッズやお土産はもちろん、のどが渇けばジュースを飲み、腹が減ればスナックコーナーやレストランに向かう。そうして家族を喜ばせると同時に、施設の人の懐も喜ばせることが、もっとも望ましいのである。
「なぁ裕美」
「お兄ちゃん、あれ食べたい~」
「お兄ちゃんはさすがに無茶だ」
「そう?」
「そう」
「そう…」
スナックコーナーを遠くに望む、休憩用のベンチ。そこでは歳の離れた妹が兄におねだりする内容の芝居が行われている。ただしそれはどう見ても、妹役の女が男をカツ上げしている姿である。
そもそも普段は姉役をつとめるのに、なぜ今日に限って妹なのだろうか…という疑問は、簡単に解決できる。そう、姉だったら弟におごる立場になってしまうのだ。あえて説明すると痛々しい話である。
「いくら何でも、飯ぐらい自分でどうにかしろよ」
「光安」
「だから…」
「アンタは大事なことに気づいてないわ」
「はぁ?」
遠く離れた場所ということは、つまり何もないわけである。売れないお笑い芸人が練習に励むかのように、おかしな会話を続ける二人は、もはやストーカーと呼ぶにも無理がある。いや、当人的には探偵とかスパイかも知れないが、それはさらに無理である。
「私は…、アンタに言われて家を建てた魔女よ」
「そ…、それは知ってる」
いきなり昔の話を出されてたじろぐ光安。
昔と言っても、まだ一ヶ月も経過していないのだが。
「お金を持ってると思う?」
「え?」
「もしも財布にお金が入ってたとして、そのお金はどうやって手に入れると思う?」
「……………」
そう言って、裕美は小さな手提げカバンから、財布を取り出してみせる。そこには……、諭吉と思われる札がぎっしり詰まっていた。
この魔女がどこからやって来たのかは、未だに謎のままだ。帰る家すら持っていない裕美は、少なくともこの街の住人ではなかった。そして、隣町から引っ越してきたわけでもなさそうだ。どちらかと言えば、どこか余所の異次元からやって来た可能性の方が高いだろう。
従って、諭吉を頂点とする通貨を持っていたはずはない。高校生となった裕美が、アルバイトに精を出しているという情報もない。無一文は確定である。
ではどうやってこの大金を手にしたか?
選択肢は二つ。魔法を使って盗んだか、魔法を使って偽造したかのどちらかである。魔女はイコール犯罪者だった。
「要するにお前の持っているお金を使っても、世の中のためにはならない。そう言いたいんだな?」
「正解」
「で、俺が払ったお金は水族館の経営にプラスになる、と」
「回りまわって、日本経済を立て直してくれるかもね」
「すげぇな、そりゃ……って思うかよ!」
とりあえずは茶化したものの、光安の顔は笑っていない。
要するに彼は本気で悩みはじめたのだ。魔法少女の根幹を揺るがす事態と言ったら、どう考えても過言である。
「お、いいこと思いついたぜ」
「何? 食べなくてもお腹がすかない身体になりたい?」
「そんなことされたら人生真っ暗だ」
「大げさねー」
そして彼は、どこかのとんち坊主並みにあっさりとひらめいた。嘘とも冗談とも言えない裕美の茶々を軽く流すくらいだから、それなりに自信がありそうである。
なお、人生真っ暗は決して大げさではない。食べる楽しみを奪われる人生など、なんの人生だ。人類は飯を食うことで、たいがいの苦難を乗り越えているのである。
「つまりだな、昼食代に相当する良いことをすればいいのだ」
「頼まれてもいないのに?」
「頼まれないのは、お前が誰なのか分かってないからだ。知った途端に依頼が殺到するぞ」
「金網が壊れたとか、照明が切れたとか…でしょ?」
「そ、そ、……そうだな」
ひらめいてはみたものの、リアルに想像するにつれて、光安は口ごもるしかなくなった。
頼まれなければ、犯罪行為は犯罪行為であって、対価という関係にはない。かといって素性をばらすなど論外だし、仮にばらしても、魔女の力を都合良く使い捨てされるだけである。
だが、裕美がその能力で良いことをするというのは、悪い提案ではなかった。全館の立て替えとか敷地の拡大とか、あるいはゲート前に新幹線の駅を造るとか、無条件で支持される大きなことならば、対価として認識されるに違いない。
「じゃあこうする。なんとかまじかるー」
「今さら茶化す必要があるのか?」
「効果音とかキラキラなやつも必要?」
「だからなぁ…」
念のために説明しておくと、裕美はいわゆる魔法少女のコスプレをしているわけではなく、ただ、だるそうに右腕を振っただけだ。酔っぱらいがくだを巻いているのと大差ない適当さ加減。にも関わらず、実を伴っているから厄介なのだ。
彼女の能力には呪文もポーズも不要なので、魔法をかけたという実感が観客に伝わりにくいのは事実である。ただし、たった一人の観客はそういうものを求めていないので、結局は無駄な配慮でしかなかった。
そもそも駆使された能力自体も、例によって地味なものだった。要するに、館内の電灯をLEDに変えたのだ。エコへのこだわりには並々ならぬものがある。裕美がその気になれば、地球の環境問題そのものを魔法で解決できるはずなのは内緒である。
まぁ地味でも無駄ではないし、かなりの金額に相当する行為なので、昼食代には十分だろう。何度もしつこいが、金と労力さえあれば人間が真似できることよりは、魔女にしか不可能なことをすべきだと、私は思うぞ。
「それで、何食べるの?」
「てんぷらうどんとソフトだな」
「アンタって本当に高校生?」
「自慢じゃねぇが高校生だ」
スナックコーナーでは渋谷と本間曜子が何かを食べている。メニュー自体は大したものではないので、二人が何を選んだかについては、光安も興味はないようだ。
ともかく、今はスナックコーナーに近寄ることができない。しかし昼食を食べると決めたので、とりあえず裕美は店のメニューを手元に瞬間移動させた。そしてバカの子供じみたリクエストを聞くと、少しの間悩んでいた。
その気になれば裕美には、渋谷らに見つからずに料理を頼む方法などいくらでもあるはずだ。さぁどうする。
「じゃあ…、天ぷらうどんね」
「な、な……」
「はい」
「…………うーーーむ」
裕美はメニューの紙に腕を突っ込んで、天ぷらうどんを引っ張り出した。なるほど、これなら二人に見つからないはずだ。
しかし、この方法ならばお金の話は必要だったのだろうか。複雑な表情で、光安は彼女の動作を眺めている。
「きつねうどん。それからソフトクリーム、と」
「…………」
「食べないの?」
「ま、まぁ今さら驚かねぇけど、でもなぁ」
「何よ」
用済みとなったメニューを見ると、天ぷらうどんやきつねうどんの出来上がり写真が空白になっている。サンプル写真を実在化したというわけだ。何もないところから家を建てたのだから、サンプル写真はあってもなくても同じはずだが、裕美なりのリアリティなのだろう。
「このうどんは、小麦だった過去をもたないんだろ?」
「まぁ…、そうなるでしょうね」
「それはうどんのようでうどんでない、ということじゃねーか?」
「ふーん」
結局、すべて揃ったところで光安が難癖をつけはじめた。
これまた、魔法少女ものの根幹を揺るがす疑問といえば疑問だった。
「つまり例えばソフトクリームの乳脂肪は、牛から搾られた過去がないから牛乳じゃないってこと?」
「そ、そうだ。そういうことだ」
「なるほどねー」
「なぁ? そう思うだろ」
裕美の指摘は彼の思いを代弁していたので、いい気になって話を進める光安。相手の態度が、発せられる言葉と正反対なことぐらい、気づいても良さそうなものだ。
「じゃあ、気にせずに済んだらいいよねー。サプリみたいなもんだし」
「ぐ、ぐえぇぇぇ……」
調子に乗りかけたバカは、一転して腹の辺りをかきむしって苦しみだす。同時に、テーブルにおかれた天ぷらうどんは、誰も触れてもいないのにどんどん減っていった。
「はい、ごちそうさま」
「……………」
ぐったりした光安を、不機嫌そうに見下ろしながら、空になった器を消去する裕美。そうだ、彼は満腹になった。口から摂取することなしに、彼の胃袋に直接食物が転送されたのだ。それは事実上は栄養素を摂取しただけであり、サプリのようなものだ。内臓に対する負担は、比較にならないほど大きいのだが、味わうことなしに食事をとった点では等しい。
要するに裕美は怒っていた。
もっと穏当な食事の方法はあったのではないかと思うが、過程はともあれ光安にそれなりの食料を提供して、かわりに受け取ったのがイヤミなのだから仕方がないともいえる。
「なぁ…裕美」
「何か用ですか?」
光安は息も絶え絶えになりながら、それでも何かを伝えようとしている。
ああ何という感動的な光景だろうか。
「あるはずのない物が出現すると、どうしても戸惑うんだ。それは…、俺は慣れてねぇんだ」
「あっそ」
「だからその……、裕美のやることだから信用はしてるんだ。これでも…」
「…………」
苦しげな表情で、どうにか言い訳を伝えるバカ。頬杖をついたまま裕美はそれを眺めていたが、やがてため息をついた。その瞬間、光安の内臓の負担はなくなったらしく、バカの眉間からしわが消えた。
「まぁ、私だって自覚はしてるからね。この世界にいるべき存在じゃないって」
「そ、そんなこと言ってねぇぞ」
「動きましょ。あの二人も食べ終わったみたいだし」
「え? あ、あぁ」
機嫌が直ったのか直らないのか微妙な空気のまま、午後の部に突入となった。仲違いしかけたり修復したりと、傍目にはデート以外の何者でもない状況である。いや、デートであることを否定しているのは、青原光安だけである。
「しっかし、ただ眺めてるだけだな」
「そうね」
水族館には主な建物が三つと、アシカやペンギンのいる外の展示施設がある。渋谷と本間曜子は、昼飯前に建物二つの内部を見学した。それはまぁ、水族館から感謝状が贈られても不思議ではないほどに熱心なものだったが、デートとしての是非を問われれば、どうにも判断が難しい状況である。
そして再び動き始めた二人は、まずはペンギン池の方面に移動した。光安と裕美も、気を取り直して二人の後ろで監視活動を始めた。
「なぁ、大丈夫なのか?」
「何が? 私ならまだ元気よ」
光安がそわそわしだしたのは、監視対象がアザラシの前で動かなくなって五分後であった。彼は我慢ができないガキだった。
「誰がお前の心配なんかするか! あの二人だよあの二人。お前なんてアレだろ、巨大ロボットに攻撃されても勝てるだろ!」
「…こんな風に?」
攻撃的なだけで何の価値もないバカの発言に、裕美の瞳が冷たく光る。すると、遙か後方に並んで見える発電用風車が、突然爆発して吹き飛んだ。
「そんなに勝ってほしい? 銀河系一つぐらいなら、三秒以内に破壊できるけど」
「…悪い。今のは完全に俺の失言だ」
「そうね」
「ちょっと焦ってるんだ」
光安は本気で焦っているようだ。なぜなら、巨大な風車が一瞬で破壊されるのを目撃しながら、もう次の瞬間には忘れているのだ。
なお、風車は既に元の姿に戻っている。恐らくは、破壊されたという記憶も、二人だけの秘密となるだろう。銀河系云々が事実かどうかは、確認のしようがないので割愛する。
「それなら、彼女の頭をちょっといじっちゃおうか?」
「……いや、それはやめてくれ」
「どうして?」
「渋谷もたぶん望んでない」
まだ腹を立てている様子の裕美は、無茶な提案を繰り返してくる。
そもそも渋谷は裕美の能力を知らないのだから、絶対に望むわけはない。光安の理由付けにも無理はあったが、記憶を操作してしまえば、本間曜子を説得してここまできたことのすべては無駄になってしまう。光安としては、反対せざるを得ないのだ。
「要するにアンタはあーでもない、こーでもないって言うだけ」
「俺は経験者じゃねぇんだ!」
「そんなみっともないこと、堂々と言うわけね」
「…隠したってばれるじゃねーか」
結局はどうしようもないカミングアウトで、残るは自暴自棄のみ。
光安は、相手が裕美だからと言い訳しているが、そんなことは記憶を覗くまでもなく自明の事実である。よい子のみんなも、まさかこのバカに女性経験があるなんて思っていないだろう。
「私の姉なんかねぇ、一年で二十人とつき合ってたなー」
「それって…、つき合ってるって言うのか?」
「告白と承諾の儀式は経てるらしいから、一応そうなんじゃない。平均で一週間しかもたないらしいけど」
ところが、このバカのみっともない告白は、思いもかけない新事実を明るみにした。
「よく分かんねぇ……けど、お前にも姉がいるんだな」
「あ…」
「……………」
さすがのバカでも、気付かないわけがない。光安に指摘されて、珍しく裕美は絶句した。それは気の抜けた彼女による失言だった。
「光安」
「何だよ」
「忘れて」
「何でだよ。お前に姉がいて何かおかしいのか?」
「いいから忘れて」
「ば、や、やめろ!」
真顔になった裕美が、わずかに指先を動かすのが見えた。
記憶をいじるつもりだとすぐに気付いた光安は、慌てて両手で頭を覆う。もちろん、彼女の魔法の前には何の効果もないが、身を護る行動はそれしか習得していないのだから仕方ないだろう。
「………」
「…………」
「……まだその格好?」
「……………あれ?」
しばらく頭を覆っていた光安。やがて何かに気付いて、おそるおそる裕美の表情を見た。
裕美は無表情のまま、目の前の人間を眺めていたようだ。
「まだ覚えてるぞ」
「普通の人間なら、さっき知ったことを忘れたりはしないわ」
「いや、だから…」
事態が飲み込めてくるに従って、光安の表情は困惑の度を深めている。
対する裕美は、相変わらず無表情のままだ。
「つまり…、いじらなかったのか?」
「私がいつ、いじるって言ったっけ?」
「わ、忘れろって言うから、てっきりそうだと…」
「記憶をいじるなら、お願いする必要ないと思うけどなー」
「……ま、まぁそれは」
完全に状況を理解した光安は、すっかり縮こまっている。
ただし元々の身長差がアレなので、縮こまっても見た目にはほとんど影響ないのが悲しい。
「いろいろショックだわ」
「ご、ごめん」
「私が魔女でなくならない限り、何を言ってもアンタはきっと信用しない」
「そ、そんなことはない」
「あるでしょ。記憶操作されてるって疑えば」
「………」
被害者の顔で嘆く裕美。バカはますます縮こまり、謝罪の言葉も飛び出した。
もっとも、冷静に考えれば裕美がショックを受ける筋合いはない。何の予告もなしに、やりたい放題に彼の頭をいじってきたことは間違いなく事実である。
実況役の私に間違った情報を与えていただけで、彼には何もしていなかったというなら話は別だ。しかし、今の裕美は私に干渉できないはずだから、やはり事実である。
「信じるかどうかはアンタ次第だけど、普段のアンタには何もしてないからね」
「なぜだよ」
「え?」
「なぜ俺の頭はいじらねぇんだ。それに…」
しかし、謝罪気分がさらに深まると、また彼の頭は混乱し始める。そして一気にすべてを言おうとして、ふと口を閉ざした。
その顔は怒っているわけでもなく、さっきのように困惑しているわけでもない。
「それに?」
「いや……、あんまり関係ねぇし」
「言いなさいよ、この際」
「………」
何がこの際なのか分からないが、言いかけた台詞を途中で止められるのは気持ちの良いことではない。それはそれで確かである。
光安は今度は少し困った顔でうつむき、数秒後にゆっくりと顔を上げた。
「なんか……、時々不思議に思うんだ」
「何を?」
「なんで俺は…、こうも裕美のことを素直に受け入れるのかなぁって」
「…………」
ここは盛大にツッコんでもらって構わない。お前の症状は典型的なストックホルム症候群である、と。
もちろん、どんな非日常も繰り返されれば日常となる。何も彼でなければ裕美を受け入れない、というほどではないだろう。
「分からねぇんだ、それが」
「普通ならどうだと言うの?」
「逃げるんじゃねーかな」
光安の言い分はもっともである。しかし一方で、相手が裕美では逃げても無駄という意見もある。この宇宙から飛び出さない限り、彼女の魔の手から逃れる術はないというのだから、結果として諦めてしまったとしても、それは一つの選択といえる。
「じゃあ逃げたら?」
「……別に、逃げる理由がない」
「それは操作されたせいだと思いたいわけね」
「それも違う。たぶん俺は…、いじられた時はそういう感触がある。何をされたか覚えてる時と、覚えてない時はあるけど」
「……………そうなの」
この辺の内容についてはノーコメントだ。
青原光安の素性を、私が語ることはできない。もちろん彼はただの地球人類だし、魔女にとっての特別な価値を持っているわけではない。
「いずれにせよ、アンタは逃げようと思わなきゃおかしい。そうでしょ?」
「どうしてそんな結論になるんだ」
「魔女は排除されるべき存在だから」
「何だよそりゃ…」
裕美は、自分に不利になるとしても、論理的に間違っていれば修正しようとする傾向がある。逃げないのがおかしいと言い始めた以上、逃げるという結論に向かうべきだと、今は光安をうながしている。
しかし、対する光安の反応は今ひとつだ。そもそも彼は論理的に動かない人間だという、根本的な問題もある。
「裕美を排除しようなんて、俺は思わない」
「それはこの世界の常識に沿ってない」
「裕美が魔女だってことは、常識じゃねぇだろ」
「………案外アンタって屁理屈がうまいよね」
「お前に鍛えられたからな」
「まったまたご謙遜を」
宇宙の平和のためには、嫌でなかろうと逃げるべきだ。それが一般的見解だとしても、今の彼には通じそうもない。これ以上の議論は無意味である。というか二人とも、すっかり機嫌が直っている。
「誤解がないように言っておくとね、馬が合う相手を見つけたいから、とりあえずつき合うんだってさ」
「お前のお姉さんが、か?」
「うん。だから実際は、たぶん今日の「お魚トーク」程度で終わってるの」
相変わらずの無駄話の間に、渋谷と本間曜子は少しだけ移動していた。アザラシからペンギンへと対象を変えたようだ。
既に半日を過ぎただけに、後を追う二人はあまり監視に熱が入らなくなっている。早い話が、だれている。
「それはやっぱり、つき合ってねぇだろ?」
「本人同士がそう思えば、つき合ってるんじゃない? あの二人だってどう思ってるか分かんないし」
「うーむ…」
久々に光安が渋谷の方を見た。
女性経験の乏しさでは光安と大差なさそうな彼は、もう既に「俺はつき合ってるぜ~」的な認識になっている可能性がある。それはそれで、早期の破綻につながる危険な傾向なのだが、今はまだ議論の段階ではない。
「まぁいいや。お前には姉がいる。せっかくだから覚えておくぞ」
「勝手にすれば」
ようやく話題に一区切りついて、ペンギン池の二人に視線を移す。またここも長いのか…と思いきや、あまりトークが弾まなかったらしく、普通の家族連れと変わらない短時間で離れてしまった。
そしてそのまま、隣の建物内に入っていく。
「………」
「入らないの?」
「ばれるだろ、どう考えても」
二人は自動ドアの向こうに消えた。
いや、消えるのは別に構わないのだ。中にあるのはどうせ水槽なのだし、水族館を楽しむなら入って当たり前だ。しかし建物の外側からでは、光安がチェックすることはできない。かといって中は狭いので、さっきのように入るわけにもいかなかった。
「じゃあ、ばれないように入れば?」
「どうやってだよ。透明人間にでもなるのか?」
「なりたい?」
裕美が笑いながら小首を傾げると、その首から上を残して、光安の視界から消えてしまう。生首だけが空中に浮いた格好になった。
「そ、そういう中途半端なのはやめてくれ。心臓に悪い」
「もっと純真な心で楽しみなさいよ」
元の姿に戻ったのを見て、光安はほっと胸をなで下ろした。
透明人間というのは魔法使いものの定番のはずだが、冷静に考えてみれば、俗に言う「妖怪」と何も変わらない状況である。いくら当事者の意識が違うといっても、気味の悪いのは当然だ。
え? 頭だけ残すから気味が悪いんだろうって? それは認識が甘い。すべてが透明になってしまうと、自分の眼も見えなくなってしまうぞ。裕美の眼にそんな常識が通用するかどうかはともかく。
「案外、光安は小心者ね」
「別に案外でもねぇだろ。俺はつつましく生きればいいんだ」
「ま、そんな寝言はどうでもいいわ。とにかく中に入れるようにすればいいんでしょ?」
「寝言扱いすんなよ」
そもそも裕美の場合、午前中のように透視すれば、入らなくとも中の様子ぐらい分かるのである。
これまででも、全く視界に入っていない位置から光安を操っていたではないか。
「じゃーん。整形ハンド~!」
「はぁ?」
「この手でいじれば簡単に整形できるぅ~」
しかし、裕美はどうしても猫型ロボットの真似をしたいらしい。
何の真似にもなってないが。
「つーか、それはただのお前の手だろ。アイテムじゃねーだろ」
「や・か・ま・し・い」
「ぐぁ!」
光安のツッコミの通り、整形ハンドとは単なる裕美の両手に過ぎない。しかしそんな常識的なツッコミは無意味である。
裕美は光安の顔に手をのばし、無造作にいじり始めた。すると、光安の顔面にあった目や鼻や口や眉毛は自在に位置を変えていく。まるで福笑いのようだ。
「もうちょっと鼻は高くして、お目目はぱっちり」
「な、何しやがんだ!」
「しゃべるな。………はい、完成。そこに映ってるわ」
「…………」
裕美が指さした壁は鏡に変化した。そこに何かが映っているのを、光安は確かに見ている。それは……、間違いなく光安には見覚えのある顔だった。
「い、入船さん?」
「そっくりでしょ?」
「そっくりって、……そっくりにしてどうするんだ!」
「ダメ?」
ついさっきまで青原光安だった物体は、大変な状況にある。
服装も体格も頭の形も髪も高校生男子なのに、顔面だけ女性になっている。それも、なぜか入船だ。入船も決してルックスに問題があるわけではないが、今はそれどころではなかった。
「お船ちゃんは可愛いのになー」
「俺は男だ!」
「けっこう男らしい性格って言われるらしいよ。お船ちゃんって」
「…………」
光安は相当ご立腹の様子だったが、もちろん裕美には通じていない。彼女は彼女でぶつくさと独り言を言いながら、また光安の顔面をいじった。
そして手を離してニヤリと笑った。
「これならどう?」
「…………どうって言われてもなぁ」
今度も見たことのある顔だった。が、光安は拒否するでもなく、壁に映った顔を困った様子で眺めている。
その顔は、十年後の曽根である。
あの、一流企業でバリバリに働くという曽根である。
「あの二人には分からないでしょ?」
「ま、まぁな…」
渋谷と本間曜子が、高校生の曽根と面識をもっているかは定かでない。ただし、渋谷にとっては友人の友人なのだから、その顔は確実に知っているはずだ。
しかし十年後の彼が、そもそもこの場に現れるはずがないのだ。きっと曽根に似た顔だと思うだろうが、別人と認識することになる。従って、光安はこの顔にケチをつけられないのである。
「あ、でも…」
「まだいじるのかっ」
「動かしてる最中にしゃべらないで」
光安はハイパー曽根で諦めかかったが、裕美はまだ不満があったらしい。さらに彼の顔面をいじり続けた。
二つの眼が上下に並んだり、右耳の隣に口が来たりと、地球人類の顔ですらなくなりそうだったが、やがて手を離すと、人間の顔には戻っていた。
「これでいいわ」
「……………」
「感想は?」
「…とりあえず、誰だよ」
「さぁ」
人間の顔どころか、顔面偏差値が相当にアップしている。鋭い目つきで裕美を見つめる姿は、首から上だけならアイドル事務所にスカウトされかねないほどだ。
ただし首から下は元のままなので、裕美と並んだ状態では、相変わらず釣り合いが取れていない。どうせなら脚の長さも調整すれば良いのではなかろうか。
「うん。じゃあ入ろう」
「ちょ、ちょっと待て!」