第四節 おさかなはガラスの中 その1
地方都市のこの街には、あまり娯楽施設というものがない。従って、盛りのついた男女がデートの行き先を考えようとした場合は、飛行機などを乗り継いで、金の亡者のネズミ遊園地みたいなところへ行くか、市内の水族館で妥協するようだ。高校生に限っていえば、がめついネズミまで辿り着く金などあるわけがないので、水族館に絞られることになる。
つまりはそんな場所に行く時点で、一応は「お魚トーク」と呼ばれる今日のイベントが実際にはデートであることを、本間曜子も承知しているはずだ。ヘタをすれば、同じ高校の別の男女と鉢合わせしないとも限らないのだ。いくら魚好きの女子高生だろうと、かなりの勇気を必要とするのである。
ただし、いくら地方都市とはいえ、高校生の男女がすべて水族館に押し寄せるわけではない。CD売り場でロックとは何かについて討論する男女もいれば、神社の梁の彫刻の出来を批評するカップルだっているだろう。え? 本当にいるなら見せてみろって? それはプライバシー保護の観点から承諾できないな。
「おはよう光安。アンタの私服って初めて見たわ」
「遅い! 手元の時計では20秒遅刻だ」
「イギリス国鉄なら時間通りよ。それに、アンタの時計は日本の標準時から0.5648秒進んでる」
「それでも俺の基準では遅刻だ」
「あっそ」
よく晴れた秋の日曜日。光安と裕美が立っているのは、学校の近くの橋のたもとである。ここから水族館までは1キロほどの距離。かつて吉田拓郎が歌ったように、ここまで歩いてきたので、恐らくはここからも歩いて行くつもりなのだろう。
なお、20秒なら日本の鉄道でも定刻扱いするはずだ。この場では全く必要のない知識である。
「だいたい、俺の服装などどうでもいい。今日は目立たなけりゃいいのだ」
「言っておくけど、アンタが目立たないために一番大切なことは何か分かってる?」
「………お前がいると目立つって言いたいんだろ」
「バカにしては珍しく正解」
裕美の発言でも分かるように、二人は私服である。休日にわざわざ制服を着て水族館に行く奴は、コスプレなオバサンか変質者ぐらいなので、あえて指摘するまでもない。
そして、光安の私服が珍しいという表現は、彼のファッションを肯定的に評価するものではないことも、あえて指摘するまでもないだろう。チェックの長袖シャツと着古しのジーンズという非常にやる気のない格好で、堂々と立っている青原光安。生まれて約十六年、恐らく服装で悩んだことなどない男である。
「裕美の問題は、裕美自身がどうにかできる。だから俺は自分が目立たないことだけ考える」
「ずいぶん無条件の信頼を受けたものねー」
「曜子のためなら、それぐらいは当たり前だ」
ちなみに裕美の服装はといえば、白いシャツの上に薄茶色のジャンパースカートで、光安のセンスなら「長靴」とか言いそうなブーツを履いている。気合いを入れた格好ではないだろうし、とりたてて目立つ組み合わせでもない。
ただしスカートの下には隠そうにも隠せない長い脚がのびている。しかも、全体的にゆるめのジャンパースカートなのに、胸の辺りだけはぴちぴちだったりする。元々の素材が素材なので、目立たないはずはないのも事実である。
にも関わらず、ぽつぽつと人通りのある道に立っているのに、裕美の姿を気にする者はいない。彼女はしっかりと無条件の信頼に応えているようだ。それは曜子のためでも光安のためでもなく、目立つと煩わしいからに過ぎないと、誰でも想像がつくはずだ。
「よーし、今日は曜子記念日だ! 世界中の曜子が幸せになれるように頑張ろう!」
「…………」
「おー、とか言えよ」
「嫌です」
彼が拳を突き上げても、隣の裕美の頭の位置とあまり変わらないので、正直言って目立たない。おかげで大した恥もかかずに済むのだから、彼女の背の高さを喜ぶべきだと思うが、光安は見るからに不満そうである。
「つれない奴だなぁ。お前だって曜子ファンだろ?」
「そこで断言できるアンタには素直に感心するわ」
相変わらず二人の会話は朝から全くかみ合っていない。ただし、この場合はかみ合う方が問題である。
裕美はそれでも、彼が真面目な時は同じく真面目だった。
「だいたい、光安はバカなのよ」
「朝からバカバカ言うな」
まだ裕美は一度しか言ってないだろう。
それに、バカは朝も夜もバカである。むくんで大きくなる足のサイズとは違う。
「世界中の曜子が幸せになったら、世界中の曜子じゃない人は不幸になるんじゃない?」
「なんでそうなるんだよ。曜子が幸せになれば曜子の関係者も幸せになるだろ」
「具体的にいえば、たとえば私が渋谷くんを狙ってたら? この「世界曜子デー」のせいで渋谷くんと本間さんが仲良くなったら、彼氏候補を奪われた私は幸せになるの?」
「……………」
裕美の屁理屈に対して、何も答えられない光安。そもそも具体例というのに全く現実味がないわけだが、彼にはその辺の判断を下す能力もない。いや、彼はわりと本気でそう思ったのかも知れない。裕美は渋谷を気に入っているのだ、と。
自分に自信がないから、他の誰かを評価したと聞くと、それを安易に受け入れてしまう。彼のこのネガティブな発想は、その根底に実は過剰な自意識を抱えている。自分が本当の意味で誰かと比較され、敗北のレッテルを貼られてしまうことを恐れている。正面から戦うのが嫌だから、あらかじめ言い訳付きの敗北を受け入れるだけなのだ。
「それに、アンタの曜子ちゃんは本当に喜ぶと思う? 自分はバカの妄想から抜け出せないのに、本間さんばかり幸せになってうらやましいって嫉妬するんじゃない?」
「そ、それは違う! 曜子はつまらない嫉妬などしない」
「へぇ…」
裕美はまだ何か言いたそうに見えたが、そこで攻撃をやめた。恐らくは何か良からぬことでも思いついたのだろう。
もっとも、第三者的にいえば、どう考えても裕美の発言の方が正論である。結局、本間曜子と「妹」の関係は何一つ整理されていない。いや、少なくとも別人であることは論を待たないのだから、その時点で「世界曜子デー」、もしくは曜子記念日計画は根本的な問題を抱えているのだ。
まぁこの先、バカの立てた穴だらけの計画は、裕美によっていろいろ修正されるはずだ。よい子のみんなは、そうして自分の目論見が崩れていく様子を眺めて、冷ややかに笑えば良いのである。
「ずいぶん時間があるなぁ」
「アンタが決めたんでしょ。一時間前って」
そんな曜子記念日は、行き当たりばったりになる気配が早くも漂い始めている。
覗き魔は覗かれる対象より先回りするのが基本だから、彼が集合時間を一時間前に設定したのは正しい。しかし正しい行動をしたとしても、覗きがいつ開始できるかは分からないし、始まるまではどうしようもなく退屈である。
「全然関係ねぇんだけど、聞いてもいいか?」
「……言ってみたら?」
「斎藤さんって、俺を嫌ってるのか?」
「はぁ?」
そんな退屈は、やがて二人の緊張を奪ってしまうのではないかと言うつもりだったが、「やがて」ではなく「すぐに」が妥当だったらしい。
彼は宣言通り、全く何の脈絡もない質問を始めた。ここまで、名前が出た以外は何の活躍もしていない斎藤さん。脇役ですらない斎藤さんだ。
「以前はそうでもなかったが、最近何か刺々しさを感じるんだ」
「ちょっと待って。アンタと斎藤さんが話す機会なんてあった?」
「ない。……ほら、あるだろ? 前からプリントまわす時の反応とか」
裕美の指摘はいつもながら残酷だ。ただしその残酷な現実を、光安一人が背負い込む必要はない。
可愛い女の子と仲良くなりたい。いちゃいちゃしたい。…そんなことを日々妄想しても、現実には女子と全くしゃべれない男子生徒が、どこの学校にも掃いて捨てるほどいる。つまり彼は、大勢の負け組の一人に過ぎない。いや、入船と話すことで、このバカは既にそこから一歩を踏み出しているのだ。全く卑屈になる必要はない。むしろ負け組をさげすんでも良……くはないな。
「元から相手にされてないってだけでしょ」
「そりゃあ相手にはされてねぇだろ。俺だって苦手だし」
まぁともかく光安は、今も全く卑屈な態度など見せていない。この過剰妄想男を一般高校生の常識で語れるかという問題もあるが、よい子のみんなは興味もないだろうから追求はやめておく。
一般的に、義務的な行動で好き嫌いを判断するのは、妄想の域を出ない。
彼は生まれついての妄想男だから、その対象は曜子に限らないのかも知れない。
「じゃあ何も実害はないじゃない」
「そうかなぁ」
「そう。一度も好かれたことがないんだから、嫌われたって困らないでしょ?」
「…………」
まさに裕美の言う通りで、席が前後というだけで何一つ交渉もない関係なのである。好きも嫌いもどうでもいいのだ。たとえ斎藤さんが心の中で「バカがうつるから後ろで呼吸するな」と思っていたとしても、光安が呼吸を止める必要はないのだ。
ただ………、彼のその疑念自体は、恐らくは気のせいではない。その理由について、ここで触れるわけにはいかないが、最近クラス内での光安の立場はやや悪化気味なのである。
そのことに裕美はもちろん気づいている。というか早い話、過去にあった騒動の「穏やかな」ぶり返しが起きているのだ。よい子のみんなも容易に想像がつくだろう?
「無駄話はこれぐらいにして、さっさと移動しましょ」
「うむ」
文字通りの無駄話を終えた二人は、水族館まで約50mの地点に移動する。川沿いの土手を歩いて、やがて住宅地が工場地帯に変わる辺りだ。海がぐっと近づいて、周囲は砂防林になっている。上空をウミネコが舞い、遠くには補助金で建てた風車が並んでいる。いや、補助金はこの際どうでもいいな。
道路はこの先でカーブを描くので、ここから水族館のゲート周辺はまだ見えない。ただ、これ以上近づくと二人に見つかってしまう可能性が高い。そもそもこの道路に立っていること自体も危険である。光安はともかく、もう一人の女子高校生は、人混みの中でも目印に使われかねないほどに、あらゆる面で目立つのだ。顔見知りの同級生の目をごまかそうと思ったら、かなり強力な魔法が必要になるのだ。
「とりあえず木の陰にでも行っとく?」
「うむ」
二人はしかたなく、道路脇の松林の陰に移動する。しかたなくだが、妙に楽しそうだ。ごそごそと林の中を移動して、どうにかゲート付近が見える地点を発見した。そこは見えるというか、枝陰に辛うじて存在が確認できる程度である。
「…ここで潜む、でいい?」
「遠いなぁ」
「それなら心配ない」
「わっ!」
いきなり光安が大声を出した。
それもそのはずだった。裕美はまず、自分の眼の視点をズームさせて、ゲート付近がくっきり見えるようにした。それだけでも人間には不可能なのだが、さらに彼女の眼に映ったものを、そのまま光安の眼に転送してしまったのだ。
要するに光安の眼球は、彼の意志とは無関係に裕美の見たものだけを映す状態になった。
「見えるのはいいが…、なんか身体がふらふらするぞ」
「目隠しと同じだから仕方ないわ。しばらく我慢しなさい」
「むむ…」
たったこれだけで受け入れてしまう光安の柔軟さは、ある意味賞賛に値するのかも知れない。もちろん、彼は連日のように滅茶苦茶な目にあっているのだから、自分に害を及ぼさない魔法で、今さら驚く筋合いもないのだろう。
「そこで座ってれば? 椅子ぐらい出したげる」
「え? ……なるほど」
ふらふらの解決策として、裕美が用意したパイプ椅子に座ることになった。彼がそこで一瞬戸惑ったのは、椅子に座ると位置的にゲートが見えなくなるからである。しかし現状は、彼の眼がどこを向いていようと、見えるものは同じなのだ。
バカはすぐに気を取り直して、唾を飲み込みながら二人の登場を待つ。かくれんぼの鬼を監視するように、無駄にワクワクしているようにみえる。
やがて時刻は9時50分となった。
待ち合わせ時刻の十分前。まず渋谷が現れた。きょろきょろと不審な動きをしながら入場券売り場の前に立つ。その姿は……、紺色のセーターとグレーのチノパンだ。昔の貧乏な大学生みたいである。
「意外に遅いな。もっと早く来るもんだろ、普通は」
「彼はそういう人間なんでしょ?」
「そこは聞かれても分からん」
「まぁいいんじゃない? 彼女より先に着いたら」
三バカのファッションリーダー光安から、見た目に対するダメだしはなかった。バカのセンスには合格したのだろう。よい子のみんなは適当にツッコんでもらいたい。
それはさておき、一般にデートというものは、誘った側が先に着いて待つのが礼儀とされている。今回のように乗り気でない相手を無理に誘った場合はなおさらである。渋谷の行動が、今後にやや不安を抱かせる点は、光安の指摘通りである。
そして現時点で最大の不安要素は言うまでもなく、まだ本間曜子が現れていないことなのだ。
「なぁ裕美。本間さんを探してくれよ」
「………」
光安は自分で視点を移動できないので、いちいち裕美に頼むことになる。なかなか不自由な状況だ…と言いたいが、この松林の中では自分の眼など役に立たないはずだ。
「なぁ」
「今目の前を通過した」
「え?」
「私たちには気づいてないから大丈夫。もっとも、こっちの方なんて見もしなかったけど」
「……確かに」
裕美の言う通り、目の前の道を本間は歩いて通過した。ただし裕美はそちらに眼を向けていない。それは光安の眼球にも直結しているのだから間違いなかった。
にも関わらず一方で、裕美が確認した内容を、光安も理解できた。確かに本間は目の前を通過し、こちらを見ていなかった……と。それは裕美の「視線の向いていない範囲も認知できる能力」が、光安の頭脳に直結されたからだった。
「便利でしょ?」
「便利というより、混乱する。頭が」
「慣れなきゃそうかもね」
実際には、慣れても混乱が収まることはない。なぜなら見えないものが見える時点で、その情報量は通常の数十倍に達してしまう。それは人間の頭の処理能力を、完全に超えているのだ。
今の彼の場合は、本間曜子関係のものだけを裕美が選択して送ったので、追加された情報量はわずかである。それでも、人間は複数視点の情報を同時処理することに慣れていない。
「お、見えた」
それから間もなく、光安に転送中の映像に、本間曜子の姿が映った。黒っぽい色のワンピースの上にパーカを羽織っている。あくまで普段着であり、俗に言う勝負服ではなさそうだが、高校生が今からデートを始めるにマズいというほどではない。
彼女なりに、今日の微妙な位置づけを反映させているのだろう。
「ひでぇ挨拶だなぁ、渋谷は」
「アンタが言うな」
渋谷は相手の姿を確認した直後からそわそわしていたが、いよいよ対面の儀式となって、ごますりに精を出すサラリーマンのように卑屈なお辞儀を繰り返した。
本間曜子は…、比較すればまだ落ち着いているように見える。
「本間さんはこんな感じ」
「わっ!」
「うるさいわねー」
「……もうちょっと離してくれよ」
裕美の親切な行為に、思いっきり驚く光安。彼女は、本間曜子の表情が正面に見える位置に視点を移動させ、思いっきりズームさせたのだ。つまり光安にとっては、ちょっと顔を動かせばぶつかりそうなぐらい間近に、本間曜子の顔が見えているのだ。
仮に好みでなかろうが、同年齢の異性の顔が目の前にある状況で、冷静でいろというのは無理な話である。
「アンタも面倒くさいわねー。ほらっ」
「……………」
「どうしたの?」
「か、か、からかってる場合じゃねーだろ!!」
眼球の位置からは見えるはずのないものをズームで映し出す能力。裕美は渋々本間曜子の顔から離すと、不意打ちで別人の顔を映した。
それは他でもない、裕美自身の顔だった。裕美の眼に裕美の顔のドアップが映し出され、そのまま光安にも転送されてしまった。
いくら見慣れているとはいえ、学校一の超美少女と1cm未満の距離で向き合っている状況は、本間曜子の時の比ではない。視点移動とズームという高等な能力は、光安にとっては非常に危険なもののようだ。
「いいじゃない。今さらでしょ?」
「…………」
「アンタ今、何も考えないようにって努力してるでしょ」
「うるせぇ」
現在の光安がドキドキしていようが、あらぬ妄想に精を出そうが、それは仕方のないことであって誰も非難はしない。しかしその妄想は、すべて裕美に筒抜けになるのだから、彼の苦悩のほどが思いやられる。まぁどうでもいいけどな。
渋谷と本間曜子は、こんなバカなやりとりの間も何かしら話をしているようだ。恐らくは、今日はいい天気ですねとか、昨日より暖かいですねとか、ありがちな時候の挨拶だろう。裕美にはその会話がすべて聞こえていて、しかも光安に転送しないのだから、あえて聞かせる価値のないものなのだ。
「よし、入った!」
「そりゃ入るでしょ」
やがて水族館の開館時間となり、並んでいた数組に続いて二人も入場した。
もちろんチケットを持っている客なのだから、入場できないはずはない。そんなことを陰でチェックする必要はないのである。
「第一関門は突破だな、裕美」
「どうでもいい関門ねぇ」
二人は隠れる必要がなくなったので、松林を抜け出して水族館のゲートへ向かう。もちろん光安の眼は彼に返還され、今は自分の見たものが映っている。
そしてチケットの券売機が置かれた前で、二人は立ち止まった。二人というよりも、光安が止まったので仕方なく裕美も彼の様子を見ている状況だ。
「あ…」
「何よ」
地方都市の水族館とはいえ、それなりに客は集まっている。券売機の前には、主に家族連れが次々と現れて、当然そこでチケットを買って入場していく。
しかし二人はまだ立ったままだ。
「中に入られたら、後を付けられねぇぞ」
「何で?」
「俺たちの分のチケットはないからだ」
彼は深刻な表情で、ゲートの方を見る。
隣の女は、深刻というより呆れた顔で、同じ方向を見る。
「光安」
「…何だよ」
「買えば?」
「は?」
「買えばいいでしょ。水族館っていうのはね、入館料を払えば入れるものなのよ」
「それぐらい知っとるわ!」
思いっきり見下ろされて、光安は精一杯の虚勢を張った。しかし虚勢を張ったところで、この勝負は最初から彼の負けである。裕美の口調にも、どことなく哀れみが感じられる。
「えー、要するにアンタは、二人分の入館料も払えないの?」
「そもそも何で二人分なんだ」
「アンタに誘われたんだから当然でしょ」
裕美の攻撃に耐えながら、光安は徐々にチケット売り場から離れていく。さすがにこの会話を他人に聞かれたくはないらしい。一般には、そういう姑息な態度が相手をさらに怒らせるのだ。
「誘ったって……、こっちはデートじゃねーんだ」
「そう?」
「…………」
光安は言い訳モードに入った。勝てそうにないので、とりあえず傷を浅くしようという戦略である。
もっとも、彼の主張がどうであろうと、彼が彼の目的遂行のために裕美を誘った事実は変わらない。つまり、何の言い訳にもなっていない。もう既に、言い訳になるかどうかなんて問題にもなっていないが。
「周りから見れば、デートにしか見えないんじゃない?」
「それは…、それはない」
「断言するのね」
冗談とも本気とも分からない口調で裕美がつぶやき、光安が否定する。逃げ回っていたバカが、ここだけは断言した。
…まぁ、彼が断言するのも分からなくはない。
確かにここにいるのは、高校生ぐらいの年齢の男女が二人。しかし片方は、撮影会に呼ばれたスーパーモデルと誤解されても不思議ではない、長い脚の女神さま。スーパーモデルが地方都市の水族館で普段着で撮影会なんかするとは思えないが、そこはまぁ深く考えないことだ。
対してもう片割れは、20cm以上も背が低い上に、ぱっとしないジーンズが脚の短さを際立たせている。強いていえばモデルの世話をするスタッフというところだ。並んで歩くことすら恥ずかしいほどの対比である。
「ま、どっちにしろ入らないと仕方ないわ」
「まぁ…な」
「では、出発進行!」
「あ、こら…」
裕美はにこやかに宣言して、券売機横のコンクリート壁に向かって歩き出した。
そして…、彼女の身体は音もなく壁を抜けて館内に消えた。確かにこれなら入館料は要らなかった。
「俺はどうすんだよ!」
慌てて光安も壁に駆け寄るが、当然だが人間に壁抜けはできないので、ガツンとぶつかって終わる。お約束のギャグを演じるとは、侮れないバカである。
「しょうがないなぁ」
「えっ!?」
すると壁の向こうから声が聞こえて、そして壁から細い腕が一本生えてきた。
いや、それが裕美の腕であることは光安にもすぐ分かったが、分かったからといって驚かずに済むことでもなかった。
「ほい」
「おぁああああああ~」
壁から生えた腕は光安のあごをつかむと、手首のスナップをきかせて軽く放り投げた。
ただし「軽く」というのはあくまで裕美の基準である。光安の身体は軽く100mほどまで跳ね上げられ、そして重力に従って落下した。その落下地点は……、一応は館内に入っていた。
「おーい、元気?」
「げ、げ、元気なわけあるか!」
「とっても元気ねー」
普通の人間は100mも落下すれば即死である。従って、元気とかそういう問題ではないのだが、彼はしゃべれている。どうやら奇跡的に生存しているらしい。というか、地面に転がってはいるが無傷である。
「もっとまともな方法があるだろ!」
「一番まともな方法はね、お金を払ってゲートをくぐることよ」
「う……」
怒りに震えかけた光安だったが、裕美に冷たくあしらわれ、そのまま黙り込んでしまった。
実際のところ、光安に裕美を叱る資格はない。彼は恐らく、お金がなかったら不正入場しようという犯罪者予備軍であった。そして今やめでたく犯罪者になっただけだ。裕美はその手助けをしたが、主犯は彼である。
いや、むしろ裕美に感謝すべきだろう。空から降ってきた彼は、たまたま落ちた場所が水族館の敷地だったに過ぎない、という言い訳を手に入れたのだ。どんなに無茶だろうと、意図的に不正をしたわけではない。すぐに外に出なければ同じことだが。
「さっさと立ちなさいよバカ。曜子記念日なんでしょ?」
「そ、そうだ。俺はまだ倒れてはいけなかった」
こんな返答をするぐらいなら、落ちて頭を打った方が良かったのではないか。そう思うのは私だけではあるまい。