その1~3
日本海に面したとある地方都市に、高校があった。
いやいや、仮にも市を名乗るのだから、高校の一つや二つぐらいあるのは当たり前だよな、諸君。こんな説明では何も分からないだろうが、私も解説が本職ではないので勘弁してくれたまえ。
この街の特徴は……、そうだなぁ。強いていえば、冬はわりと寒いってとこだな。えっ?、今の季節は冬じゃないだろうって?
うむ、まだ二学期が始まったばかりの九月上旬だからな。冬の特徴を言っても、読者にはあまり有益ではない。私は解説が本職ではないので勘弁してもらうぞ。
「おい荒瀬」
「なんだ…って、クセーなこの野郎」
「ククク、また騙されたな」
午後三時を過ぎて、この高校は下校時間を迎えているようだ。
ありふれた靴箱が並ぶ前で、少し太り気味の友人一号を騙して振り向かせ、内履きの酸っぱい臭いを嗅がせているナイスガイ。そう、彼こそがこの物語の主役なのだ。より正確に言えば、主役みたいなものだ。
「ちぇっ、そんならこれでどうだ!」
「ぬ、蛍光ペン攻撃か! やるな荒瀬」
「いつまでもやられてばかりの俺さまと思うなよ!」
ちなみに蛍光ペン攻撃とは、ふたを開けたまま蛍光ペンを靴の中に入れておき、臭いを付着させたものである。このありふれた高校の一部生徒の間では流行の兆しがあると言われている。熱い戦いだった……わけはない。私に言わせれば小学校レベルの児戯である。
嘆かわしいことだ。かくなる私が高校なるものに通っていたころは……。
「じゃあな」
「おう!」
はて、私はいったい誰だ? まぁいい。今の仕事はただの名も無き語り手だ。くだらない昔話は思い出せないからよそう。
主役みたいな男は、この高校の制服を着ていて、特に太ってもいないし痩せてもいない。普通に道ですれ違えば、一秒後には忘れていそうなヤツだ。なぜこんな男の実況をしなければならないのか読者には分かるまい。
ともかく今彼は、荒瀬という友人――これも彼と頭のレベルが釣り合う程度のバカだ――と別れて、帰宅を始めたようである。住宅街の道路を無言で歩く彼は、見るからにバカである。ボクちゃんガキですよ~的な雰囲気を漂わせている。
しかし重ねて言うが私は今、こんなバカについて実況しなければならない。なぜなら彼は………、彼は「その男」になってしまったからだ。
「あーそこ危ないから」
「へっ?」
その瞬間、この青く美しい地球のごく限られた空間で、何か鈍い音がしたようだ。
いや、マンガの世界ではあるまいし、生身の人間が何かに衝突しても、実際にはたいした音などしない。今の出来事にしても、周囲の人間には何も聞こえてはいないだろう。ただし彼は人並みにマンガ少年なので、頭の中で「ぐわーんぐわーん」と間抜けな書体の文字が飛び交っているに違いなかった。
「だから言ったのに」
「というか危ないだろ! こんな一本道で通り道ふさぎやがって! 新手の嫌がらせか!」
「勝手にぶつかっただけじゃない」
念のために説明しておくが、ぶつかったのは単なる彼の前方不注意である。が、それにしても奇妙な光景には違いなかった。
自動車がどうにかすれ違える程度の住宅街の道路のほぼ中央に、なぜか大型のベンチが放置されている。それもバス停にあるような、金融業者の看板付きのやつが、こちら側を向いて道路をふさいでいるのだ。
その看板部分はやたらと高く、従って彼はまず、腰を下ろす部分に足を引っかけた後に、よろめいた先で「電話一本」と書かれた鉄板に衝突することになった。二段階衝突と呼ぶ人もいるが、わざわざ呼ぶ価値はない。
……看板付きの椅子には、なぜか一人の女が座っていた。周囲の視線も、もちろんバカの衝突にも関心がなさそうな顔で。
この女がバスを待っていないことだけは、誰もが瞬時に理解したはずだ。なぜならここを通るバス路線など存在しないからだ……って、もっと根本的におかしいではないか。
「で…、アンタ誰?」
「はぁ!?」
腰と頭に交互に手を当てながら、主役のような男は立ち上がった。もちろん痛みは残っているようだが、それでも彼はだんだん冷静さを取り戻しつつある。表情から推測する限りでは、な。
しかし冷静さを取り戻せば取り戻すほど、彼には目の前の景色が理解出来なくなっていく。まるで不審者であるかのように彼の名を問いただす女の存在は、その景色の中心にあった。
「そりゃ俺の台詞だ!」
「まーいいじゃない。で?」
「アオハラミツヤス」
「………」
これほど混乱しつつも、問われたことにはしっかり答えている。律儀な性格がしのばれる。もちろん誰もほめる人はいないが、下校しているのは彼――アオハラミツヤス――だけではないので、人目を気にして手荒な真似をしなかったようでもあった。
ちなみに、ぱらぱらとやってくる他の生徒は、ベンチに衝突せずにちゃんとよけている。その事実は若干このアオハラミツヤスの心を傷つけていたが、彼は「だいたい車が来たらどうするんだ?」とか考えて、自分の愚かさをかき消そうとしているのだった。少なくとも、バカとはいえ彼にも多少の余裕は生まれてきたようだ。
もっとも、そうした彼の心の変化に、女の側は全く関心がないようである。
「もう一回」
「アオハラミツヤス」
「……何言ってんの?」
「だから名前だろ!」
「名前って……、何?、まさかそのハラホレヒレハレが名前? まさかねぇ」
「お前の方が何言ってるかわかんねぇよ」
女は初対面のアオハラミツヤスに向かって、心底呆れたという声と表情で、心ない言葉を浴びせかけている。
そもそも名前というものには、当人の要望に沿って付けられることはないという悲しい定めがつきまとう。そこで罵声を浴びせられたアオハラミツヤスは、反撃の手だてが見つからず無力感に襲われつつあるように見える。
呆けた顔のアオハラミツヤスに、女は追い打ちをかけるのだった。
「アンタさぁ、改名したら?」
「はぁ!?」
女の提案は実にシンプルかつ突拍子もないものだった。
それが出来ないから多くの人々が悩んでいるのではないか。いやそもそも、アオハラミツヤスが自分の名前を嫌っているという前提も、この時点では存在しない。
「そうそう。今から改名しなさい。えーと、名前は…」
「するか!」
「山田太郎でいい?」
「いいわけあるか! なんだよその畳職人の息子みたいな名前」
「アオムシよりマシじゃない」
「そこは見解の相違だ」
女の命名のセンスは、とても高校生とは思えない。が、申し遅れたが女はまるっきり高校生にしか見えない格好で、ベンチに座っている。
この場合の「まるっきり高校生にしか見えない」というのは、要するにアオハラミツヤス――いい加減、知らないふりも疲れたので教えてやろう。青原光安だ――の高校の制服を着ているという意味である。もちろん制服を着ていても「コスプレですよね?」という場合もあるが、女にそんな雰囲気はない。つまり、オバサンがあり得ない衣装を着た状況ではないようだ。
ともあれ青原光安は、今出会ったばかりの見知らぬ女としっかり漫才を始めている。巨大弁当で知られる男を持ち出す辺り、彼も趣味が古いようである。
「まぁ座んなさい。アンタには興味があるから」
「俺は別にないぞ」
「ないってこともないでしょ。びっくりしてるでしょ?」
「…そりゃびっくりはする。するだろう」
文句を言いつつも、光安はベンチに腰掛けた。裕美の命に従ったのか、単に立っているのが疲れたからなのかは分からないが、今も道路を占拠中のベンチに平然と座る辺り、やはりバカに違いない。
「……ともかく冗談は抜きだ。お前こそ名前はなんていうんだ」
光安は愛の告白みたいなポーズで、真剣な顔である。
一般的に、ナンパも最初は名前からという話がある。
「知ってるでしょ?」
「知るわけ……ある……のか?」
しかし光安は虚空を見つめたままアホ面で放心していた。ねるとん方式に至る前に戦線離脱。もっとも、この件に関しては私から弁護しておこう。誰だって放心せずにはいられない出来事が起きたのだから。
彼は絶対に知るわけのない、初対面の女の名前を、思い出そうとしたら思い出せてしまったのだ。女の名前は、自分の記憶の中にクリアーな形で格納されていた。そんなアンビリーバブルな状況だったのだ。
「高橋裕美か」
「そうね」
「ヒロミじゃなくてユーミだ」
「そうね」
「………な、なんで俺は知ってるんだ!!」
再び頭を抱えて、それからかきむしる光安。今度はぶつけた痛みからではなく、心の痛みというやつだろう。実況してる私の心は痛んでないので、どうでもいいが。
「そういう疑問の余地が残ったのは不思議だわ」
「疑問に思うに決まってるだろ」
「そりゃまぁ、初対面だと思うならね」
光安の知っていた裕美という女は、目の前で繰り広げられる百面相にもさして関心を向ける様子がない。まるっきり自分の都合だけで言葉を発している。
ただ、裕美は少しだけ予想が外れたという顔をしている。それは登場からここまでの大して長くもない時間のなかで、初めて人間らしさを見せた瞬間だったと言えなくもない。もっとも、現時点では彼女が人間であるという保証はない。ないだろう?
「放っといても完璧なはずなんだけどなー」
「…何がだよ」
「記憶操作」
「はぁ!?」
とんでもない台詞を吐く裕美に、光安は本日何度目かの「はぁ!?」で返す。
今時のバカな高校生なので、驚いた時の語彙には限りがある。しかしそれ以上に、他の語彙が使えない状況が続いているのも間違いなかった。
「私は魔女だから」
「………」
「あ~、これは記憶になかった?」
「あ…」
裕美の告白に対して力のない声を発した光安は、急に姿勢を正して目を閉じると、ふーーーっと大きく深呼吸をする。
その様子を、何をしているのか分からないという表情で裕美は眺めていると、光安はやおら立ち上がった。裕美は登場以来初めて、一瞬ほんのわずかにたじろいだ。
そう。裕美の前に立っていたのは、鬼の形相の高校生だった。それはさっきまで内履きの臭いで争っていたバカの姿ではなかった……って、これは余計だ。
「あってたまるか!」
「まぁそうね。誰でも知ってたら困るからねー」
「……たまるかよ」
光安は「全身全霊をかけた」という表現がぴったりくるほどの大声を頭上から浴びせた。しかし裕美は顔色一つ変えることはなく、ただぼんやりと彼を見つめているだけだ。
彼にとってそれは、これ以上の表現方法は思いつかない最終手段。それほどの最上級な怒りを何事もなく流されてしまうと、もはや光安には、困惑の顔のまま立ちつくすことしか残されていなかった。
「それにしても太郎ちゃん」
「馴れ馴れしくちゃん付けするな」
「だってさぁ、太郎ちゃん小さくて可愛いもん」
「小さいって……」
すっと裕美が立ち上がった。
そして、今までは覆い被さるように仁王立ちしていた光安を、逆に見下ろし始める。
胸を張って大きく見せようとしている光安の頭頂部が、裕美のあごにも届いていない。全くもって完敗である。
「……太郎ちゃん小さいでしょ?」
「こ、これでもクラスでは普通だ」
「本当にぃ?」
「本当だ! 絶対にお前が大きいだけだろ!」
「ま、自分がでかいのは認めるけど」
裕美は大きかった。太っているのではなく、背が高かった。
高校一年生の平均がどの辺なのか資料がないが、光安自身が言うように、別にその背は低くはない。普通というのも妥当な申告と思われる。
そんな普通の男に比べて、下手すると20cm近く裕美は高そうに見える。ごく普通のブレザータイプの制服スカートが、ミニスカート状態だ。まったくもって驚きだ……と言いたいが、そんなことよりも光安、お前はさっきから太郎って呼ばれているのに気付いているのか?
「ほらほらー、太郎ちゃんたかいたかーい」
「持ち上げるな、クソ!」
裕美のいたずらはさらにエスカレートする。光安の両脇を抱えて、赤ん坊をあやすように持ち上げた。
確かに背が高いとはいえ、裕美はどちらかといえば華奢な身体である。そんな裕美に軽々と持ち上げられる光安は、ならば紙粘土の人形のように軽いのか? さすがにそれはあり得ない話だ。
「じたばーたするーなよ」
「お前の方がよっぽど世紀末だ!」
「この状況でそんなこと言えるんだー」
相変わらず二十一世紀とは思えないやりとりに、裕美がにやっと笑う。すると光安の身体はそのまま宙に浮き、頭を下にしてひっくり返った。
「これでじたばたできないでしょ」
「………」
またもや放心状態の光安は、裕美の指の動きに合わせて左右にゆらゆら揺れている。昔懐かしい柱時計の振り子のようだ。
どうやらこれは、裕美が力持ちかどうか、という状況ではないらしい。彼女が自己申告した、「魔女」の証明なのではなかろうか。そんな解説をする私は少し白々しいか? そうかも知れないな。私は最初から裕美の素性を知っているのだからな。
「く、苦しい…」
「悪魔は重力を克服するのよー」
「悪魔はお前だろ……」
光安はとりあえず腕を動かそうともがくが、指先しか動かない。あきらめて次に足を動かそうとする。すると動くには動くが、上半身はびくともしない。
そのうちに、光安ははっとした表情で目を見開くと、動かすのをやめた。
……どうやら彼は悟ったようだ。
万が一、このままの体勢で身体が動いてしまえば、それはすなわち頭から地面に落下してしまうのだ。その先には死、もしくは重い障害が待っているのみ。万事休す、だ。
「……そろそろ参った?」
「…ま、参らねぇ」
「じゃあこうしたら?」
「う、うぐ……」
指先を揺らしていた裕美は、ゆっくり回す。すると光安の身体は空中で高速回転を始めた。
回転はじめはゆっくりしていたが、あっという間に加速していく。扇風機の強ボタン並みにフル回転中だ。扇風機というより洗濯機で脱水してるようなものだ。
「ぐ…、ぐぁ、た…、助けてくれ~」
「はい」
ここまで来れば、さすがにお手上げのようだ。声にもならないような光安のか細いうめきが、それでも一応は意味をなしたと思った瞬間に、彼は持ち上げられる以前の位置に、何事もなかったかのように足を付けて立っていた。
そして次の瞬間には、ベンチにへたり込んだ。その彼の動作がなければ、目の前で起きていた出来事はすべて幻にしか思えないものだった。
「身の程知らずよね、太郎は」
「ま、…まぁな」
「私の力を知って立ち向かって来るなんてね」
「………」
荒い息を吐きながら、光安は裕美の言葉の意味を理解し始めていた。
光安は、裕美を知っていた。
光安は裕美が魔女であること、それも並みの力の存在ではないことを、すべて知っていた。いや、知っているという記憶を植え付けられていた。
ぐるぐると回転する前は、確かになかった記憶だ。
「お前は、お前はいったい何をしたいんだ」
「太郎にしてはいい質問だわ」
もはや百年前からそこにあったかのように当たり前の景色と化したベンチからは、間もなく人類滅亡宣言が発せられるのだ。さぁ時は来た! そうだろう?、裕美。
「私は退屈なの」
「はぁ!?」
「だから遊ぼうと思うの」
どこかの幼稚園児みたいな台詞を聞かされて、光安はのけぞった。まだ整わない息を吐きながら、次のリアクションに窮しているようだ。
リアクションに窮しているのは、私も同様だ。いったい何を言っているのだ、裕美よ!
「……帰る」
「太郎は…、妹がいるの?」
「え?」
怒りにまかせて起き上がりかけた光安に、相変わらずマイペースな質問を浴びせる裕美。
もうすっかり彼は自分を太郎だと思いこんでいる。愚かなヤツだと言いたいところだが、記憶を操作されているのだから当人の責任とするのは酷だろう。
「いた。いや、……いない気がする」
「じゃあお姉さんは?」
「姉ならいるぞ。というか何で自分のこと聞くんだよ。姉ちゃんのくせに」
そして今もまた、光安は意味不明な台詞を吐いた。
きっと画面の前の善良な市民どもも、牛乳を吹いたのではないか。まぁなんだ、哀れなヤツだ……。
「あれ、私はアンタの姉だっけ?」
「決まってるだろ………って、決まってねぇ」
「ふーん」
「あれ? 俺、さっきから何言ってんだ? 裕美が姉のわけない……いや姉だ。え? 姉じゃない」
どうやら裕美は数秒おきに、自分が姉だという記憶を書き込んでは消しているようだ。光安の混乱ぶりは見ていて笑えるが、彼のおかれた立場には同情せざるを得ない。
「宇宙人に人間のサンプルを渡すとしたら、アンタが一番だわ」
「………」
「これだけ、思った通りの反応する男は初めてだからねー」
「というか、何をした!」
「分かってるでしょ」
本気で帰るつもりだった光安も、これだけ弄ばれては腹に据えかねたようだ。またもや鬼の形相で裕美に食ってかかる。端から見ると何か不純異性交遊のように見えるが、少なくとも光安にその意識はみじんもなさそうである。
ただしこれは指摘しておこう。その、長州ばりの鬼の形相はもう既に通じないことが分かっている。それでも他にリアクションのストックがない彼は、やはり哀れという他はない。
「あ、頭の中をいじったのか!?」
「もうちょっと知性のある言い方してよ。記憶を書き換えたとか」
「要するに頭をいじったんだろ! なんてことしやがったんだ。もう俺の一生は終わりだ…」
「なんでそこまで飛躍するのよ」
しかし光安はちょっとした新境地を切り開いていた。裕美の予想を上回るほどに彼は嘆いた。彼はバカだ。そして彼は日本の高校一年生の平均身長にほぼ一致している……は、ここではどうでもいい話だ。
「うるせぇ! いじられたヤツの悲しみがお前に分かるか! 俺はもう、インチキの記憶しか持ち合わせていねぇんだ。俺が約十六年間積み上げて来たものは、もうすべて無くなってしまったんだ」
「一応、記憶は全部元に戻してるけど?」
「ダメだ! 今ごろ俺の脳細胞はグチャグチャに混乱して、そのうちストライキを始めるんだ」
「じゃあ始めなさいよ」
「ほ…ほ……」
冷たくあしらわれて、言葉に詰まる光安。
与作か、お前は。
「本当にされたら困る」
「でしょうね」
「………もういいだろう。俺はバカだ。宇宙人に差し出したいなら出せ。というかお前が宇宙人だろう? 本当は細長い足がいっぱい…」
「ないから、もういい加減に黙って」
「…………」
裕美の命令と同時に、光安は目を閉じていびきをかき始めた。一般には、突然いびきをかくのは生命の危機であるが、この場合は単に眠っただけだ。催眠術の番組でよくあるシーンだ。予備催眠はなかったが。
光安が黙ると、急に辺りは静寂に包まれた。
それは下校時間が過ぎたからでもあった。しかしただそれだけの静寂ではない。なぜなら、いつの頃からか、この道は誰も通らなくなっている。道幅の割には交通量の少なくないこの道に、一台の車もやってこない。だから誰もベンチの存在をとがめない。どうにもおかしな状況だった。
まぁ、賢明な読者ならもうお分かりだろう。裕美がいつからベンチに座っていたかは定かでないが、光安をつかまえてからしばらく後に、誰もここを通らないよう魔法を使ったのだ。どんな魔法を使ったかといえば……、道路の一部を掘り返して「工事中」の看板を立てていたのだ。信じられないほどにバカバカしい魔法だった。
「起きろ」
「……う、…あれ?」
「よく眠れたでしょ」
「…………」
催眠状態を解除され、目を覚ました光安は、しかし言葉を発することもなくじっと裕美を見つめていた。
そしてその顔は、次第に険しくなっていくのだ。ああ、やはりお前はバカだ。
「これは夢だよな」
「何が?」
「……えーと」
「ほい」
「痛ぇ!」
裕美が軽く光安の頬をはたく。傍目にはなでたようにしか見えない程度なので、光安の反応は大げさだった。仮に裕美が常人とはかけ離れた力だったとしても、現に大した音も立っていないし、頬に手形が残っているわけでもないのだ。
「や、や…」
「やんぼうまーぼう?」
「やっぱり夢じゃねぇのか!!」
「……やれやれ」
ため息をつきながら裕美は立ち上がる。その行動を見て、光安は反射的に身構えたが、別に裕美は何もしなかった。
「逃げようとしても無理よ、太郎」
「………」
「そうそう、太郎って名前もいい加減飽きたわ。前の名前はなんだっけ?」
「はぁ? 勝手に人の名前に飽きるな!」
「えーと、そうそうミツヤスだったわね。明日までそれでいいから」
「それでいいって何だ。ミツヤスで何か悪いか」
自分の名前に関しては、操作されていることに全く気付かない光安は、平然と間抜けな会話を続けている。しかし裕美はどうやら本気で飽きたようだった。
「立って」
「わっ!」
その瞬間、バス停のベンチは消えた。光安はまだ座っていたので後ろに投げ出されたが、どうにか頭は打たずに済んだようだ。
「今日はこれでバイバイ。でも予言しておくわ」
「……なんだよ」
「場合によっては、姉になってあげるから」
「じょ、冗談じゃねぇ!」
光安が真っ赤に上気した顔でそう叫んだ時、裕美はもう背を向けていた。そして、背中に向けて叫んだつもりの彼は、すぐに気付いた。誰もそこにはいないことを。いや、自転車に乗った小学生と、買い物帰りの中年女性がいたことを!
「じょ、じょ、…じょーだんじゃないよー、なんてね。ハ、ハハ」
慌てて取り繕った光安は、うつむいたまま走り出した。
これは夢だったよな? きっと彼はそう考えようとつとめているだろう。交差点を右に折れ、行き交う車のライトの光と騒音と排気ガスの攻撃をくらいながら、きっと彼はほっとしているだろう。ああやはりこの世界はいつも通りだ、と。
甘い!
それはとよのかイチゴよりも、愛文マンゴーよりも甘い!
光安。お前はもう捕まっているのだ。この私が、お前の後しか追えなくなっているように。




