第三節 ぼくらの公共的妄想
光安の遅刻の危機が回避されて始まった午後の授業は、何事もなく過ぎていった。
今の一文は、そもそもが問題を抱えている。
学校の授業というものは、何事もなく過ぎていく予定で計画され、その通りに執行される。そして授業を受ける側は、何事もなく終わり次第、すみやかに個別の記憶を忘れることになっている。習った内容を忘れてはいけないが、ともかくこの一文には何も特筆すべき事実が含まれていない。
だってそうだろう? 星の数ほどもある一つ一つの授業の詳細を記憶していたら、たちまち頭がパンクしてしまう。居眠りのタイミング、隣の男が鼻をほじったり頭を掻いてフケを集めた回数、貧乏揺すりのリズム、そしてノートへのイタズラ…、すべてを覚えていてはいけないのである。
限られた人生の決してわずかとはいえない時間を、忘れるために費やすなんて勿体ない? 限られているのは、人間の記憶力も同じである。限られた頭を有効に使うためには、無駄なことは忘れなければならない。
「光安。今日はどうする?」
「すまん曽根! 今日の俺には、のっぴきならねぇ用がある」
「すまん曽根ってフランソワみてぇだな」
「フランソワって何だよ?」
うむ。全くどうでもいい話題であった。教室内の実況に戻ろう。
目の前では、最近つきあいの悪い光安と、三バカの残り二名が別れの挨拶を交わしている。いつもながら解説しがいのない会話である。こういう時間も人生の無駄と言えば無駄である。人生の無駄を楽しめとか偉そうなことを言うには、彼らはまだ若いのである。
「さらばだ諸君! また会おう」
「…光安の物真似は全く似てねぇな」
「全くだ。俺は嘆かわしく思っているっ!」
「荒瀬が思ったってしょうがねぇじゃん」
光安は二人を残して、さっと教室を出て行った。その後ろ姿はなるほど誰かの真似なのだろうが、中途半端で誰なのかすら思い出せない。荒瀬が嘆くのも納得の出来である。
ただし光安の真の目的は、二人に悟られないようにこの場を離れることにあったのだから、呆れられようがこれで良いのである。もちろん、もう少しスマートな逃げ方もあるはずだが、光安にそこまで求めるのは酷というものだ。
「遅かったわね」
「奴らをまくのに時間がかかったぜ」
「アンタってバカでしょ」
そうして彼が辿り着いた場所には、学校帰りの生徒たちとにこやかに挨拶を交わす裕美の姿があった。何のことはない、渋谷のクラスの教室前である。単なる廊下なので、彼がまいたと主張する曽根と荒瀬も、いずれやって来ることになる。つまり、待ち合わせには全く適していない。
「曜子ちゃんは、まだ居残ってるみたい」
「…じゃ、じゃあさっさと」
「光安」
なお、二バカを「まいた」点について光安は全く疑問を感じていないので、あとは裕美がどうにかするものと仮定して私も忘れることとする。
で、バカは裕美が「曜子」と口にするたびに、ぴくりと律儀に反応した。しかしすぐに気を取り直したらしく、自ら教室内を覗いて、確かに本間曜子がいることを確認する。そしてそわそわと焦りだした。
しかし、裕美はすぐに動くわけではなさそうだ。冷然と彼を見下ろしている。見下ろすのは身長差の関係なので、どんな態度でも一緒である。
「これだけは言っておくわ」
「…何だよ」
あからさまに警戒した表情で、見上げる光安。
もっとも、本来は彼にそんな表情をする資格はない。彼が裕美にお願いして、本日はお忙しいところをお越しいただいて誠にありがとうございますなのだ。その辺が全く分かっていない。
「本人の努力なしにどうにかしようなんて思わないでね」
「…………」
女神の笑顔で、裕美はつぶやいた。それはつまり、裕美に頼らずに渋谷自身を動かせ、という意味である。この女神は基本的に意地悪な笑顔がウリである。いや、今回に限っては全く当然過ぎるほど当然のことを口にしただけであって、彼女を意地悪と呼ぶのはおかしいな。
きつく釘を刺された光安は、すぐには返事ができず、しばらく押し黙った。そして目の前を数人の生徒が通過した後に、半ばあきらめの表情で上を向いた。
「要するに、まず渋谷を攻めろってことだな?」
「当然」
「本間さんが帰ったら…」
「その辺は何とかするわ」
「分かった」
ようやく光安も、自分でどうにかする気になったようだ。
ここまで言っても、やっと入口に立っただけであり、実際に彼が役に立つかどうかはまた別問題だ。そんな状況で、裕美が辛抱してつき合っているのは全く不思議である。まぁ私が不思議だと言っても、それこそ何の役にも立たない。というより、私にはこの状況を変える必要はないのだが…。
ともかく、そんなまどろっこしい会話が続く間、本間曜子はクラスの友人と談笑中であった。その談笑相手が、裕美に操られているか否かは、会話の内容を確認してもはっきりしない。恐らく裕美は「何となく曜子と話したい気分」に誘導しただけなのだろう。
「よぉ渋谷」
「あ、…ああ」
となれば、さっさと話を進めるしかない。二人は何の躊躇もなく教室に入り、右の手前に座っている渋谷をつかまえた。そこは光安らのクラスとは、当然ながらうり二つの教室であり、躊躇する必要はもちろんなかった。
渋谷の机の上は既に片付いていて、カバンが置いてある。いつでも出撃できる体勢のようだが、椅子に座ったまま光安の顔を見た彼は、やや曖昧な返事を返した。
それは……、光安の背後に予期しない人物がもう一人いたからに違いない。
「紹介しよう。同じクラスの高橋裕美だ」
「さん付けぐらいしなさいよ。全く礼儀も何も知らないバカねー」
「あのなー、話がややこしくなるから、そういうツッコミは後日まとめてくれ」
裕美はのんびりした返事。釣られた光安もいつもの調子で返してしまったが、紹介された側は著しく困惑している。
それもそうだろう。
光安が連れてきた以上、例の件に関わるという想像はつく。しかし渋谷当人にとっては、うまくいきそうな気配が全くない状況なのだから、できるだけその事実を知る者は少ない方が良い。一度も話したこともない人間が介在するというのは、非常に好ましくないわけである。
しかもその人物が学校きっての有名人な上に、いきなり自分を無視して夫婦漫才をやられてしまったのだからなおさらである。
「…渋谷です。渋谷健です」
「まぁ座って話しましょ」
「は、はい。あの、…わざわざ済みません」
「気にしないで。このバカにはちょっと借りがあるから」
頼み事の依頼人の礼儀として、席を立って挨拶をした渋谷健は、一見する限りではこれといった特徴を見いだしにくい男である。もっとも、一見して分かる特徴というのは、たいがいネガティブな評価に向かうことになる。従って、見いだせなくとも問題はない。
そんな礼儀を知る男を、まるで卒業式の来賓のようにまた座らせると、裕美はそばにあった椅子に座り、尋問の態勢をとる。もちろん光安は立ったままだ。その姿はまさしく礼儀知らずの下僕である。
なお「礼儀知らず」の部分は、裕美がそう言ったから付け加えただけで、ぼうっと立っている彼の態度が礼儀知らずなのかは定かでない。はっきりしているのは、この状況で裕美が「借りがある」と言っても、それを信じる奴はいない点のみである。
「それで渋谷くん、さっそくだけど」
「は、はい」
下僕の光安は、後ろに立ったまま視線をちらちら動かし、会話に加わる機会を狙っていた。しかし結局は諦めたらしく、頭を掻いている。
彼の段取りでは、もう少しお互いを知ってから本題に進む予定だったのだろう。それはそれで間違ってはいないかも知れないが、裕美にとっては単なる尋問の邪魔でしかない。
そう。今から渋谷を尋問するのは、その辺に転がっている地球人類ではなく高橋裕美である。その気になれば全人類のプライバシーを知ることすら可能な魔女が、無駄な時間を使って自己紹介などするはずはない。渋谷に構えさせる暇すら与えずに、ずかずかと本題に入っていく。
「私にできるのは、あなたと本間さんが水族館に行けるようにするってだけよ」
「はい。そ、それさえお願いできれば…」
「水族館で何が起きても、あとは知らないからね」
「…………」
そして、本題に入った途端に真顔で突き放す。対する渋谷は、普段の裕美を知らないので、額面通りに受け取っているはずだ。つまり、非常に深刻な事態を想定しているはずだ。もちろん裕美の狙いもそこにある。
「もしかしたら、入口で逃げられちゃうかも知れないわねー」
「それじゃまずいだろ」
「光安、アンタは黙ってなさい」
「………」
最悪の事態を先に認識させるのは、手を貸す人間にとって、もっとも大切な過程である。夢ばかり見させて、後で奈落の底に突き落としたならば、残るのは恨みだけだ。「裕美のせいで本間曜子にふられてしまった」と逆恨みした渋谷が、復讐の鬼と化す可能性だってなくはないのだ。裕美に対して復讐を成功させる地球人類など永遠に現れるとは思えないし、仮に渋谷が成功させるとすれば、それは渋谷自身が地球人類ではなかったというオチを伴うのだが、その辺はものの喩えである。
ともかくそんな裕美の深謀遠慮に、予想通り光安は邪魔だった。叱りとばされて押し黙る彼の姿は、まさに下僕だった。地位は身を造るとはよく言ったものである。
「私と今しゃべってるけど、やっぱり苦手?」
「えっ?」
「私は女性でしょ?」
「え…、は、はい!」
次は「女性恐怖症」について確認する裕美。
彼女のしゃべりには無駄がなさ過ぎて、実況のしがいがない。盛り上がるにはやはり、光安のようなバカが必要である。
「女の子に手を握られたらじんましんが出たりするの?」
「で、出ません! 絶対に出ません…」
「じゃあ本間さんともお話できるよね?」
「………な、何とか」
「私とも何とかお話してるの?」
「いえ…あの……、きっと大丈夫です」
「そうよねー」
ともかく、女性恐怖症という逃げ道は、あらかじめ排除しておかねばならない。
もしもそれが、女性ホルモンに身体が反応して苦しみだすといった病気なら仕方ないが、その場合はデートどころの話ではない。というか、そんな病気があったら自分の体内で衝突が起きるだろう。要するに渋谷はただ、うまくいかないことに対する言い訳を用意したに過ぎないのだ。
当人があらかじめ言い訳を用意しているようでは、成功するものも成功しない。渋谷はあくまでも、背水の陣を敷かねばならないのである。
「なぁ裕美。お前を基準に考えるのは…」
「聞こえなかった? 黙ってなさいって」
「うぐ…」
約束を破った下僕は、おしおきを受けることになる。下僕は自分を下僕と思っておらず、約束があったという認識もないだろうが、残念ながら光安の意見などここでは求められていない。裕美の刺々しい声と同時に、光安の口には何かが押し込まれた。
それは単なる空気であり、たまに救いを求めるように彼を見る渋谷は、何も変わったとは感じていないようだ。しかしその空気はゴム風船のように彼の口を埋め、声を出すどころか動かすことすら封じている。
「じゃあ行くわよー」
「…行くって?」
「渋谷くん。あなたが行かないでどうするの?」
渋谷を立たせて、無理矢理に背中を押す裕美。その姿を見ると、今さらだが渋谷の背丈はかなり高そうだ。裕美よりいくらか低いということは180cmを軽く超えているのだから、光安よりは一般的な女性人気も期待できるのではあるまいか。
もっとも、一般的な女性人気があろうとなかろうと、ここではどうでもいいのである。たとえお見合い相手を探す多くの女が、あまり考えもなしに指定する「身長○○cm以上」の条件に合致しようと、本間曜子が「体重100kg以上」と書いていたらおしまいだ。「荒瀬山さんステキ~」みたいな特殊な趣味をもっていれば、その時点でアウトですよアウト。
「ねぇ、本間さん」
ここで荒瀬の話題は全く不適切である。痛切な反省をしておこう。ついでに、いくら彼でもまだ三ケタには達していない旨も記しておこう。
ともかく、渋谷と高橋裕美は本間曜子の席にやってきた。本間曜子は、つい今し方までクラスの友だちと話していたが、今はフリーだ。非常に好都合である。……それが偶然だったらな。
「は、はい。……高橋さん」
「あ、私の名前知ってた?」
光安にとっては好みの顔でないらしい本間曜子は、セミロングの髪がつやつや光る、やや童顔だが整った顔立ちの女子生徒だ。形容詞が見つからなければ、とりあえず「美少女」と呼んでも非難は浴びないだろう。つくづく光安は贅沢な男である。
「それは…、だって有名人だから」
「ふーん」
まず裕美と本間曜子の会話が続く。いきなり渋谷を急かしても無惨な結果が目に見えるので、よい判断と言わねばならない。
なお、有名人と呼ばれることに対する裕美の反応は、やや微妙だ。もちろん彼女は、自分が有名という自覚をもっているだろう。魔女であることが秘密であっても、容姿・学力・身体能力のすべてが超人的なのだから、呼ばれたくないと思うだけ無駄だ。しかし無駄だと分かっていても、呼ばれない方が嬉しいということではあるまいか。
「…それで、何か?」
「あのねぇ、本間さん」
「はい」
本間曜子は、目をくりくりさせながら、裕美の方を見つめている。かなり緊張しているようだ。怪しい三人組が突然現れたのだから当然である。
ただし三人目は少し離れた位置でぽかんと口を開けているので、存在に気づかれていない可能性がある。まぁどちらでもこの際問題はない。
「本間さんはお魚好きだって聞いたけど、本当?」
「ど、どこから聞いたんですか!? …あの、本当ですけど」
このやりとりで初めて明かされた事実である。渋谷も驚いた表情を見せたが、それは一瞬にとどまった。どうやら渋谷は知っていたようだ。裕美がどのように知ったのかは分からないが、たった今、本間曜子の記憶を覗いたというわけではないだろう。
そう。渋谷は最初から意図的に水族館を選んでいる。裕美もその事実を理解した上で、ここに来るまでにプランを決めていたはずだ。つまり渋谷は光安よりはいくらか戦略的に動いていたということだ。まぁ彼は当事者なのだから、その程度で光安より上と言えるかは微妙だが、別にその辺の順序は誰も求めていないので割愛する。
「水族館なんて、行ってみたい?」
「うん。大好き!」
「やっぱりねー」
何も知らない本間曜子は、緊張しつつも裕美に乗せられつつある。能力を使わなくとも、人間を操る方法などいくらでもある。言葉巧みに高額商品を買わせる悪徳業者のような行為である。
とはいえ、まだこれからが重要である。失敗は許されない。
「彼は渋谷くん。もちろん知ってるでしょ?」
「え? は、はい。同じクラスだし…」
今さらのように紹介された渋谷は、ぺこりと頭を下げる。
本間曜子の表情からは、多少の好奇心がみてとれる。いったい裕美が、渋谷をどうするつもりなのか、という興味がわいているようだ。
「なら、彼もお魚好きだってことは?」
「そ、そうなんですか?」
「う、うん。実は…」
驚く曜子と、腰が引けた声しか出ない渋谷。ついでに光安も、後ろの方でびっくりしていたが、声も出せない状況なのでただ見守っている。
渋谷が魚好きというのは、ずいぶんご都合主義な展開である。光安が知らないというのも気になるところである。
「熱帯魚よりも回遊魚の方が好みなんだって」
「あの…、イワシとか…」
「あ、私も私も! イワシとかサンマの大群見たら興奮しちゃって」
とはいえ渋谷はその紹介を予期していたらしく、腰は引けてもさして躊躇はしなかった。少なくとも彼は片想いの相手のために、魚について勉強してはいるのだろう。魚の絵が描かれた単語帳で日々暗記につとめているのかも知れない。リアルに想像すると、なかなか涙ぐましい努力である。バカバカしいともいうが。
「それでね、彼と二人でお魚トークでもしてみない?」
「二人で?」
「そう。二人で」
どんどん話を進めていく裕美。一般に、交渉事では時をおかぬが良いとされるそうだ。これも悪徳商法の手口だから、よい子のみんなはその場の勢いで買い物しちゃダメだぞ。
「こんなものもあるんだけど、ね」
「何? …入場券?」
「私の親の知り合いからもらったんだけど、どうせならお魚好きな人にあげたいな……って」
「は、はぁ…」
本間曜子は、裕美の手の動きをぼんやり追いながら返事をしている。既にこの場の雰囲気に流されているようだ。むしろ渋谷の方が緊張していて、現在の良い空気を乱しかねない状況である。ここは急ぐ必要がある。
「言っておくけど、渋谷くんは絶対変なことはしないから心配ないわ。彼はねぇ、女の子の手なんか握ったらそのまま気絶しそうな男だし」
「………いや、あの」
「なるほど。……確かに」
いきなり核心を突かれて悶える渋谷。その偶発的な迫真の演技は、本間曜子を大いに納得させる。機は熟した!
「じゃあ決まり! 時間はどうする?、渋谷くん」
「え? ……えーと」
一気にそれは決定し、本間曜子の返答を待たずに次へと進んでいく。電光石火にもほどがある。
渋谷は一応この場の展開を理解してはいるようだが、それでも突然ふられたので言葉に詰まった。もしも今、光安の口がきけたらぶち壊し確実だ。
「あの…、日曜の午前十時に現地集合で……どう…でしょ…」
「本間さん、都合はどう? 大丈夫?」
「え? うん、だ、大丈夫だと思う」
五分とかからずに約束まで持ち込んだ。ここまで、すべて裕美の一人芝居である。いろいろ細かい嘘が混じったことは、よい子のみんなも分かっただろう。しかし一方で、渋谷の性格などはかなり正確に伝えられたことになる。怪しい三人組の大勝利だ。
………。
もちろん、これだけで受け入れることなど、普通は無理である。
最終的に決め手となったのは、他でもない裕美による保証であったに違いない。ポジティブな意味での学校の有名人には、それなりの信用が伴うのだ。その信用の大元が、彼女が発散する強制力だったとしても、である。
「はい。これでいいでしょ?」
「あ、ありがとうございます高橋さん」
「お礼はいいから、ちゃんと魚のこと勉強してよね。そこが嘘になったらどうしようもないから」
「は…、はい!」
渋谷はまだ引きつった顔のまま、裕美に対して深々と頭を下げた。
なお、相変わらず口を動かせない下僕もいたが、既に渋谷の意識には入っていなかった。予想通りとはいえ、哀れな光安である。よい子のみんなは、私が指示しなくとも今の一文を棒読みしたはずである。
「なぁ裕美」
「あら、もうしゃべれるの?」
「…………」
渋谷と別れて教室を出た二人は、なぜか自分たちの教室に戻った。
既に二バカは帰ったらしい。というか、既に誰も残っていなかったので問題は生じないのだが、カバンをもって出たのに今さら戻る理由があるだろうか。
「あ、あれだけで本間…さんは、納得できるもんなのか?」
「納得したじゃない」
「いや、確かにそれっぽかったけど…」
ようやく口内の空気がただの空気となり、解放された光安。彼はさっそく自らの抱いた疑念を問いただす。
それは裕美に聞いても仕方のないことなのだが、彼はそうだとしても裕美に聞くのである。渋谷や本間曜子にそれを問いただした場合、せっかく為された合意にひびが入る可能性があるのだから当然である。
……いや、口がきけたら渋谷には問いただしたかも知れない。本間曜子に同じ台詞を吐く勇気は、さすがにない。ないと信じたいところだ。
「同じクラスで半年もいるんだから、少しは彼のことを知ってるでしょ」
「………そ、それはそうだな」
「わりと安心な男だって認識がなかったら、こんなにすんなりとは決まらないわ。その意味では渋谷くんとの関係も、少しは可能性があるってことかもねー」
「なるほどな…」
ともあれ、この場では遠慮する必要はないので、裕美もさらっと答えてのける。彼女自身の魅力でどの程度ごまかされたかという点は、明かされていない。二人の中では成功が義務づけられていた以上、そんなものは明かすだけ無意味である。
そして相変わらず聞き役の光安はバカでなので、簡単に納得してしまった。しかしよい子のみんなは違うだろう?
人畜無害という評価は、確かにある意味での信用につながるが、好き嫌いの問題とは関係がない。むしろ、そういう判断の外側に位置づけられている。従って、現時点での脈など全くないのである。ただ、相手が逃げないならばアピールする機会は与えられる、というだけだ。
そして重要なのは、渋谷がもしも具体的なアピールを行った場合、その瞬間に彼は本間曜子によって有害指定される可能性も高いという点である。裕美はもちろんそこまで分かっているから、曖昧な表現でごまかしたのだが、バカには通じていない。
「で、私の用は済んだ?」
「ああ。あとは当日だけだな」
「当日? 何それ」
…まぁ通じないことまで織り込み済みだろう。光安は希望を抱いていればいいのだから。人畜有害なくせに何かと親切極まりないこの魔女は、そうして帰ろうとする。
しかしここには、意外な返答をするバカがいた。
魔女ともあろう者が素直に驚いている。いや、驚くだろ普通は。
「何それって…、そりゃあ、うまくいってるか見に行くだろう?、常識的に考えても」
「はぁ…、そうなのね」
光安は何の迷いもなく常識を言い放った。お前の常識は世間の非常識だ! きっと画面の前で叫んだ諸先生方も大いに違いない。
だいたい、存在が非常識な裕美に常識を疑われるというのが、どれほど恥ずかしいことか分かっているのだろうか。お前のバカさ加減には、父ちゃん涙がちょちょり出らあ。
「何か予定が入ってるとか…ないよな?」
「覗き趣味ならアンタ一人で十分な気がするけど、まぁいいわ。曜子ちゃんのためだもんね」
「そうだ。曜子の幸せのためだ」
「誰かが幸せになるのは…、悪くないかな」
それにしても驚くべきは、光安である。さっきまであれほどオドオドしていた男が、裕美との約束を取り付けるにあたっては、とてつもなく強引だ。このテクニックがあれば、本間曜子を口説き落とすことだって可能ではないか。
もちろん裕美と光安では、本間曜子側が抱く印象が相当に異なるので、彼が担当すれば失敗したはずだ。それでも、このバカの潜在能力を見た思いがするのは気のせいだろうか。
「それでねぇ、光安」
「うむ。当日の持ち物か?」
「本間曜子ちゃんは、可愛いでしょ?」
「へっ!?」
とはいえ、流されて終わる裕美ではない。さりげなく会話に爆弾を仕込んでくる。
調子に乗りかかっていた光安は、一転して窮地に追い込まれる。
「たとえばこう思ったことはない? 本間曜子ちゃんは、自分の妹の生まれ変わりじゃないか、とか」
「…………いや、さすがにそれはない」
ただ、裕美の質問にはかなり無理がある。両者が同時に存在するのに、生まれ変わるはずはない。おかげで光安もすぐに冷静になれたようだ。窓際で寄りかかったまま、相手の様子をうかがっている。
「ないの?」
「ない。だいたい…、本間さんじゃ妹にならねぇだろ」
「あくまで妹にこだわるのね」
「決まっている!」
そして再び雄弁に戻るバカ。どうして妹に決まっているのだ。相変わらず論理性のかけらもない男だ。
ただし、本間曜子が荒瀬山に恋をするように、光安が妹を求める行為に合理的な説明などできるはずがないのも事実である。本間曜子のくだりは譬喩である。
「でも、曜子という名前にもこだわるでしょ?」
「そ、そりゃまぁな」
だが裕美も引き下がらない。
いや、……引き下がるはずはないのだ。バカの妄想妹にさして関心がないのなら、この件につき合うはずもない。未だによく分からないが、何か引っかかっているのは確かなようだ。その具体的な言い分は理解できないが。
「曜子ちゃんという名前がついた経緯と、アンタに妹が生まれた経緯は、本当に同じなのかなぁ?」
「……………えーと」
「私たちが思っているよりも、深い事情があるかも知れない」
「いや、だからな…」
だんだん質問そのものがややこしくなって、光安の理解を超え始めた。今の彼には、ただ困った顔でつぶやくぐらいしかできない。
ただし、それは決して光安に非があるわけではない。妄想妹は彼の全く私的な問題であって、「私たち」が共有する必要がない。だから彼が疑問に感じない限り、問う必要もないから考えることもない。
結局、万策尽きた彼は、ある意味ではもっともダメな方法を選んだ。無関係の話題でごまかしにかかったのだ。
「俺はむしろ、お前に聞きたい」
「……聞かなくてもいいけど」
「裕美の家族について聞きたい。仮に1300年前に生まれたとしても、それならその時には家族がいたよな? その家族は今どこで何をしてるんだ?」
「……………」
苦し紛れの彼の反撃によって、この場の空気は少し険悪になった。それは午前中のように裕美のおしおきが始まりそうな空気とは違う。そもそも、おしおきをする裕美は険悪なわけでもないのだ。
「光安」
「どうした」
「生きてると思う?」
「え?」
裕美は苛立った声でつぶやきながら、自分の席の椅子をソファーに変えてしまった。
「仮に1300年前の両親が存在して、今生きてると思う?」
「そりゃあ…」
そしてふんぞり返ったまま、光安を睨みつける。
同時に教室内では、電灯がLEDになったり、黒板が可動式になったり、天井に液晶モニターがついたりさまざまな変化が起きている。が、睨みつけられた光安に、そんな状況を把握させるのは難しそうだ。
「生きてるだろ」
しかし彼は睨みつけられてはいたが、追い詰められてはいなかった。
「どうして?」
「お前の親だからだ」
「アンタのその根拠のない自信って、時々感心するわ」
ふっと息を吐いた瞬間に、教室の緊張感は解けた。それは魔法ではない。互いを認めた時に起きる、ただの人類の会話の一場面に過ぎない。
とはいえ、裕美はそれ以上の何かを話すこともなかった。苦笑いの表情は認めたのだと理解することもできるが、認めただけでは何も分からないままだ。
高橋裕美は人類にない力の持ち主だ。そして「宇宙の上位にある者」だ。そんな存在が、そもそも人間同様に母胎から誕生したという保証はない。一方で、もしも親がいるならば、この娘に匹敵する能力をもっていても、全く不思議ではないだろう。
「……で、裕美」
「まだ何か?」
「いや。…そろそろ帰ろうか」
「そうね」
今は何のわだかまりもない笑顔で、裕美が立ち上がる。そしてしばらく教室を眺めた後に、ソファーは元に戻した。他はそのままだ。この調子なら、裕美を毎日苛立たせれば、校舎ごと建て替えられてしまうかも知れない。
「えーと…」
そうして歩き出そうとする裕美に、光安が声をかける。
渋谷のアピールタイムを先取りするかのように、それはぎこちないものだった。
「今日はその…、ありがとう」
「…………」
「それでだな、そのぉー、日曜日もよろしく」
「はいはい」
もう少し気の利いた「ありがとう」が言えないと、女性人気は上がらない。彼はただひたすら、蓼食う虫を待つしかなさそうだ。
裕美は軽く返事をすると、彼を目線でうながして、そのまま二人で教室を出た。なんだか妙に仲が良さそうに見えた。
だが諸君!
このまま何となく私はこの実況を終わらせて良いものだろうか? 二人が約束したのは、自ら設定したとはいえ、他人のデートの覗きである。日曜には実行されようとしているのだ。正気の沙汰と言えるだろうか!?
………。
…………。
正気の沙汰でないから、それは価値がある。選ばれた存在として、光安はよくやっている。つまりはそういうことだ。




