第二節 お兄ちゃんは恐怖症
一時間目の授業中。数式の飛び交う教室には程よく二酸化炭素が充満し、居眠りに最適な環境を作りだしている。
しかしそんな周囲に囲まれつつも、光安はちゃんと起きていた。妙に身体をそわそわさせて、あからさまに挙動不審だった。
「トイレでも我慢してるの?」
「するか!」
いわゆるテレパシーなどという高等技術を使って、デリカシーのかけらもない質問を浴びせる裕美。もちろんそれは、彼の異変に気付いている証である。ついでに高等技術と称してみたが、さっきのプリント光安との会話で既に使った力である。
「それなら、こうしてあ・げ・る」
「ぐぁっ…」
声にならない声をあげ、脚をすくませる。光安はまさしくトイレを我慢するポーズになった。どうやら裕美は、自分の推測が事実になるようにしたらしい。
そんなわけで、彼は居眠りするどころではなくなった。ぶるぶると足元は震え、じわりと脂汗が吹き出し始めた。恐らくそれは、よい子のみんなにとっても想像したくない状況だろう。
「大丈夫よ。出そうと思っても出ないから」
「………」
さらに容赦のない裕美の声は、もう彼には届いていないようだ。ほとんど失神状態で残りの時間を過ごした光安は、授業が終わると同時に勢いよく立ち上がった。
………立ち上がった。
立ち上がって、しばらく放心していた。
「あんまり意地悪させないでよね」
「お、お、お前は悪魔だ!!!」
真っ青だった顔は一気に赤く染まる。そのまま脳卒中でも起こしそうな勢いだ。
一応解説しておくと、漏らしたわけではない。それどころか、彼が立ち上がった瞬間に、裕美はたまった水分を処理してやったのである。端的にいえば、膀胱の中身をトイレに瞬間移動させたわけである。
従って彼は完全に解放されたのだ。全く怒る必要はない。裕美を悪魔と呼ぶことには、必ずしも反対はしないがな。
「まだ怒らせる気?」
「怒っているのは俺………」
彼は言いかけて、口をつぐんだ。
別にそれは、裕美を恐れたからではないだろう。この日だけでも、普通の人間なら正気ではいられないほど弄ばれているにも関わらず、彼は全く気後れしていないのだ。さすがは筋金入りのバカである。
「…何よ」
「…………」
口をつぐむ理由としてはもう一つ、周囲に聞かれるというのもある。今朝も含めて失敗続きなのに、また大声を出しているのだ。
はっきり言って、その点に関しては今さら口をつぐんでも手遅れである。教室で「悪魔」と叫ぶ男は、それ以上取り繕う術がない。
「用を思い出した。さらばだ」
「あ、こら待ちなさいよアンタ」
結局、彼が口をつぐんだ理由は、全く脈絡のないものだった。
切りかけた啖呵を放棄して、急いで教室を飛び出していく光安。置いてけぼりを喰らった裕美は、何かを考えたような顔をして、結局はそのまま彼を見送った。彼女の力なら、逃がさない方法などいくらでもあるだろうが、あえて逃がしたようだ。
「ゆうちゃん!」
「な、何?」
まぁいいか…という表情で前を向くと、そこには入船がいる。目を見開いた表情の入船は、どうやら裕美と話したがっているようだ……って、そんなことは解説するまでもない。
なお、今し方の「悪魔」の暴言については、彼が怒ることを予測した裕美の機転によって、あらかじめ処理されている。要するに光安の声は、裕美にしか聞こえなくなっていたのである。
「これは極秘情報だけどねー、秘密にできる?」
「するする」
「じゃあゆうちゃんに教えてあげる。あのねー、五組の広野くんがね」
わざわざ教えたいと待ちかまえていた入船の極秘情報は、要するに校内のゴシップネタであった。もちろん私が解説する価値はない。広野くんも二度と登場しない。続きは省略する。
そんなことより問題は光安の行方である。え?、そっちも興味ない? それは物語の進行上困るので興味津々でいてほしい。嗚呼、彼はどこへ行ってしまったのだ! たとえ棒読みでも、こんな感じが望ましい。
「お、やっとつかまえたぞ」
「悪い。いろいろ忙しくてな」
冗談はさておき、たった五分の休み時間である。どこか遠くへ行きたいと思っても、行けるものではない。すぐ近くの廊下で、彼は男子生徒と会っていた。断るまでもないが、曽根や荒瀬以外の生徒である。
その男子生徒は、光安と比べれば多少は頭が良さそうにも見える。あくまで見た目の印象なので何の根拠もないし、その男自身も自慢はしていないようだ。まぁ五分休みに自慢するヤツがいたら会ってみたいものだ。
「……難しい注文しやがるなぁ」
「それは分かっているが…、光安、お前ぐらいしか頼れないんだ」
「ふぅむ」
会話の内容はなかなか不穏だった。
よい子のみんなは、既に光安が頼りになる男かどうかぐらいの判断はできているだろう。そして、バカに頼み事をするような男はやはりバカなのではないかと疑い始めただろう。その疑問は恐らくは正しい。
そしてよい子のみんなは、依頼を受けた光安が次にどんなアクションを起こすかも、予測できるだろう。相変わらず落ち着かない様子で二時間目以降の授業をやり過ごした彼は、まさに予想通りの行動にでた。
「なぁ裕美」
「何よ、お昼なら一緒に食べないわよ~」
ただし、本当にワラにもすがりたい依頼者にとっては、無駄だと分かっていても念のためにお願いしてみる、という選択肢がある。他の方法は全部ダメだったから、どうせ光安が失敗しても、たいしたダメージにはならない……のかも知れない。というか、光安がワラの一本になる程度なのだから、実は大した依頼ではないというオチかも知れない。
少なくとも依頼者は、今の光安に超高性能な人型の猫型ロボットがついていることなど知る由もない。つまりその依頼は、うまくいったらいいなという夢想レベルである。
それに…、高校生の考える「真剣な悩み」など、たいていはその程度の無責任なものに過ぎないだろ?
「…いいよそれは。こっちからも遠慮する」
「もしかして、ケンカ売ってる?」
「今は売らない」
「ふぅん」
ともあれ依頼を受けたバカは、例によって交渉とも言えない交渉に入っている。こんなやりとりで許されるなら、世の中の営業マンも仕事が楽でたまらないだろう。
「ゴシップネタの収集にでも努めてくれ。入船さんと」
「言われなくともバッチリよ」
「そりゃ良かった。………で、裕美」
「だから何よ?」
説明するまでもないが、ゴシップネタ云々は光安としてはイヤミのつもりである。もちろん裕美もイヤミと分かっている。その場合の勝負は、当人同士の感覚では引き分けのようだ。
通常は、何かを頼む時に勝負する奴はいない。たとえ相手が人型の猫型ロボットなどという、哲学的過ぎる存在であったとしても。いや、……哲学的というか、単に無意味なだけだな。
見た目は「でかい美人の女子高生」だから人型であることは間違いないが、猫の要素はかけらもない。強いていえば、飼い主の言うことを聞かない点は似てなくもない。ただし、光安を飼い主と呼ぶのは相当な無理を伴うだろう。
「飯が終わってからでいいから、ちょっと相談に乗ってほしい」
「相談?」
ようやく光安の口から本題……の前提となる言葉が発せられた。
呆れるほど長い道のりだった。
「ああ相談だ。そうそう、相談ですよ~」
「……アンタのお友達にしたら?」
「冗談だ」
裕美は適当に流しているが、光安は真顔である。冗談めかした寒いギャグも、いつもの彼らしくはない。
要するに彼は、本気で助力を求めているのだ。彼は友人に本気で頼られて、その依頼を実現するために必死なのだ。それなのにこんな面倒くさいやりとりを要するのは、彼がバカだからだ。いつも結論は同じだ。
「というか、ヤツらで済むことなら裕美には頼まない」
「なぜ?」
「お前に借りを作るのは危険だ」
「作っても作らなくても危険よ」
そんな真剣な表情の彼に向かって、例によって極上の笑顔をふりまきながらトンデモな台詞を吐く裕美。今日は既に何度もひどい目に遭わせているのだから、その発言には説得力がある。この女がサディストばかりの星からやって来た宇宙人だと自己紹介したら、すんなり受け入れてしまいそうだ。
サディストのくせにおせっかいだがな。
「じゃあよろしく頼む」
「…そんなに重要な話なら、すぐに聞いてあげるけど?」
「いや、昼飯の社交時間は大切にしてくれ」
「そりゃ大切にするわよ」
所詮はルーティン・ワークに過ぎない昼飯時の会話を、なぜそこまで大切にしようと言うのか。本気で困っているくせに、彼はおかしな遠慮を忘れない。
裕美はやや苦笑いの表情で、両手の人差し指を立てて左右の耳に付けた。よくある「鬼になりました」ポーズである。子どもをあやす時には使うのかも知れないが、少なくとも高校生が高校生に向かってやるポーズとは言い難かった。
「しょうとくたいし~」
「いちいち口まねすんな!」
「人類のお約束じゃないの?」
「人類は四次元ポケットの世話になんかならねぇ」
「へぇ…。知らなかったわ、それ」
どうやら鬼の真似ではなかったらしい。真相究明など誰も求めていないだろうから、間違ってもお詫びはしない。
だいたい、彼女は何のアイテムも取り出していないし、猫型ロボットは猫型のくせに耳がないのがウリなのだ。いろいろ問題だらけである。
「お船ちゃんとご飯食べながら、アンタの話も聞いてあげる。それでいいでしょ?」
「そんな無駄な力は要らん。飯食ってからで十分だ」
「あっそ」
よい子のみんなは、社会の教科書に載っていたあのエピソードを覚えているだろう。あれが日本の歴史だったら、この宇宙には確かに超人が実在したことになる。裕美というあり得ない女がいても不思議ではない。そうだろう?
まぁそれはさておき、実際にはこんなバカな会話をしている間に、相談とやらもできるのではないかと思われる。裕美には時間を止めるという必殺の武器もあるのだ。
しかし二人は律儀だった。いったんはそれぞれの島に戻り、ご飯を食べ始めた。裕美と入船らの会話は盛り上がっていた。ちなみに、さっきとは別の男子生徒の話題である。
「お前もそろそろ関取だな」
「ひがぁーあしぃー、あらぁーあせーぇぇやまぁー」
「やかましい! 増えてねぇよ、別に」
こちらも盛り上がる三バカ島。荒瀬のダイエットは、早くも頓挫の兆しをみせている。
いや、かけ声だけでそもそも実行していないという噂もある。
「そうか? そろそろ母親になる実感がわいて来ねぇか?」
「来るか!」
こんな調子で三バカの会話もいつも通りなので、続きは割愛する。荒瀬の昼飯が餡ドーナツ一つという強烈に偏ったメニューだったことだけ、あえて触れておこう。
え? それが一番無駄な情報だって? 荒瀬山の入門部屋の予測よりは有用だと思うがどうかね。
「人目を避けたい」
「じゃあ旧校舎にする?」
それから十五分ほど経って、昼休みの残りもあと十五分という辺りで、約束通りに二人は密談に出かけた。二人でと表現してみたが、実際には先に裕美が教室を出て、二十数えてから光安が後を追った。ただでさえ目立つ裕美と並んで歩いたのでは、人目など避けようもないのだから当然である。
……ただ、それが当然と言えるのは、二人が普通の地球人類であるならば、という前提がつく。そして裕美がその範疇に入らないことは、よい子のみんなもご存じの通りだ。
既に教室内での時間操作が解禁されているのだから、旧校舎の廊下に向かう必然性は何もない。光安はきっと、密談はそれにふさわしい雰囲気でやりたい派なのだろう。時間差でコソコソ歩くこと自体を楽しんでいるとしか思えない。
「つまりこういうことだ。かくかくしかじか」
「曜子ちゃんに水族館のチケットを渡してくれって?」
「まだそんなこと言ってねぇ!」
密談は、いきなりおかしな展開をみせる。というか、頭の中を覗くのは究極の密談といえようが、それならば、なおさら場所を移す必要はない。デタラメにもほどがある…が、まぁそんなことはツッコミを入れる価値もないので、本題に戻ろう。
はっきり言って、この話は私にとっても初耳である。
水族館のチケットを妄想妹に渡すほど光安は器用ではないので、この場合の「曜子ちゃん」はリアルな方面だろう。なんだ、このバカはしっかり狙っていたのか?
「言う気まんまんのようだから先に読んであげたわ。アンタのまどろっこしい話より簡単でいいでしょ?」
「……話し下手なのは否定しない」
それにしても、久々に予告もなく頭の中を読まれてしまったのだが、光安はそれをとがめもしなかった。彼はそれほどに困っているようだ。
もちろん裕美の主張は正しい。要領を得ないぐだぐだ話を聞くぐらいなら、彼女に直接理解してもらった方がマシである。
「で、渋谷くんと二人で行くのに、アンタが渡すっていうの?」
「渋谷の話もまだしてねぇぞ」
「今聞いた」
これも今聞いたぞ。
なんだ? 光安が行くわけではないのか? 渋谷って誰だ?
「………渋谷はなぁ、わりと女性恐怖症なんだよ」
「はぁ?」
いつもながら要領を得ない話が続くが、突然登場した「渋谷」について、さる筋から情報が入ったので解説しよう。
よい子のみんな、驚きたまえ! 渋谷とは、彼がここ数日密会していた男の名前なのだ!
………。
…………。
うむ。おそらくそれは誰もが想像できたはずだ。本当に驚くようでは、きっと小学校の国語のテストすら解けまい。私も少し反省しておこう。
さて、気を取り直して説明する。渋谷とは、その前に名前が挙がった本間曜子と同じクラスの男子生徒で、さらにいえば光安と同じ中学の出身である。
そして、その渋谷が本間曜子にチケットを渡そうというのだから、奴の目的も分かるだろう。いわゆる俗に言う不純異性交遊、カタカナで表現すればデートの誘いである。そこでふつふつとわき上がる疑問については、きっと裕美が代弁してくれるはずだ。
「女性恐怖症なのにデートしようってどういう話?」
「女性恐怖症だが気に入ってんだよ」
「アンタの曜子ちゃんを?」
「別に俺とは関係ねぇだろ!」
「………」
湯水のようにあふれる疑念に対して、無責任に返していく光安。
しかしさすがに最後の一言は、自分でも無理があると感じたらしい。無言のまま裕美に見下ろされて、次第にうつむき加減になっていく。
「……すまん。関係なくはない。それは認める」
「この期に及んでつまらないこと言わないでね」
世の常識では、アカの他人を「アンタの曜子ちゃん」と呼ぶ筋合いなど全く存在しないが、妄想妹をもつ兄との会話にその常識は適用されない。
その妄想妹の兄は、律儀に反省しているようだ。心の中で妹に詫びている可能性も高い。
「しかしだな、……俺は渋谷の邪魔をしたいわけじゃないぞ」
「好みじゃないんだもんね、こっちの曜子ちゃんは」
「…………」
なんでそんなことを覚えてるんだ、という顔で光安は裕美の方を見上げている。しかし残念ながら、このような重要な事実を忘れる人間はいないのである。
彼ごときが女性を批評して、さらに「好みではない」「可愛くない」「告白されても断る」とか滅茶苦茶に言い放った記憶は、忘れようにも忘れられないものである。それどころか、多少の誇張が加わっても仕方ないのである。
「ねぇ光安」
「何だよあらたまって」
裕美はポンポンと光安の頭を軽く叩いてからかいながら、質問をする。
20cmを超える身長差を強調するかのようだが、彼女にそのつもりはないだろう。だいいちこの高校に、裕美より背の高い生徒は男女を問わずいないのだ。場合によっては今ごろ「あ、巨人兵だ~」とか心ないあだ名で呼ばれていたかも知れないのだ。
有り余る魅力と強制力のおかげで、全校で人気投票をすれば圧勝確実。とはいえ、裕美の立場というのも案外微妙なのである。
「結局、アンタの妹って何なの?」
「何なのって…、何か分からねぇことでもあるか?」
「どうして妹がほしいの? 一人っ子だから?」
「………ま、まぁ、そりゃあな」
ともあれ見た目はからかい半分で、しかし発せられた質問は、そんなおどけた内容ではない。光安も渋い表情のまま、淡々と返答している。身長差を気にする余裕はなさそうだ。
…というか、渋谷と本間曜子の件では記憶を覗いたくせに、今は彼に答えさせようという裕美の行動パターンがよく分からない。質問の難易度も、的確な回答がなされない確率も、こちらの方が圧倒的に高いというのに。
「曜子って名前は?」
「まだ聞くのかよ」
「ついでだし」
さらに質問を続ける裕美。この質問も、彼に答えさせるより直接読み取った方が確実と思われる。しかし、どうやら彼が望むこと以外は、無理矢理知ろうと試みないようだ。
もっとも、それならば妄想妹の件こそ彼が望まない内容だったはずだ。あれは落書きを覗いたことによる副産物であって、意図的に暴こうとしたのではない、という言い分か? やや苦しいのではなかろうか。
「……………曜子は曜子だ。生まれた時から」
「要するに覚えてない、と」
「そこは要しないでほしい」
「曜子ちゃんが傷つくもんね」
「うう……」
ともあれ、予想通り妹曜子に関する質問は無為に終わった。彼の記憶があやふやな理由が、曜子の長い歴史のためなのかすら、このやりとりでははっきりしない。私としては、是非とも彼の頭の中を読み取って、裕美に整理してもらいたい。……彼女にその気はなさそうだが。
妄想妹の誕生秘話は、恐らく裕美にとって、無理にでも知りたいという内容ではない。いや、それを言い出したら、他人の妄想を知る必要など、ハナからなかったのである。
「まぁいいわ。本題に戻って、まずはアンタのプランを聞かせて」
「え?」
「え、じゃないでしょ。私が手伝う手伝わないという前に、そもそもどうやって渡そうという話なの?」
「………うーーーむ」
裕美は自分にとって「まぁいいわ」な話題を切り上げた。ただし「まぁいいわ」なのは第三者の裕美にとってであり、光安にとってはそうではない。彼が次の質問に答えられなかったとしても、仕方のないことである。
………ただしそれは、「すぐに」答えられないという点でのみ仕方がないのである。
彼は渋谷の願望を叶えるための方法を、全く何も考えていなかった。いや、それが考えられないから裕美に頼ったというのが正しかった。
「とりあえず、渋谷の気持ちは俺にもよく分かるんだ。俺もやっぱり女性恐怖症だし」
「はぁ!?」
つまり全く頼み甲斐のない彼は、その代わりにバカだった。
いや、代わりがあろうとなかろうとバカである。
「……なんだよ」
「ごめん、ちょっとうまく聞こえなかった。もう一回言って」
裕美はハルク・ホーガンのように耳に手を当てて、光安の側に向けている。とはいえ、実際に光安に向けるためには、かなりかがまなければならない。無駄に身長差を見せつける結果になっている。
「………お前につかまるまではそうだったんだよ!」
「私も女性に含まれるの?」
「え?」
ほぼ初対面から裕美を下の名前で呼び捨てている男が、女性恐怖症だったと告白するのは、一種のホラーと言えなくもない。少なくとも当事者の裕美にとっては、一応問いただしたくもなる主張だろう。
「そりゃあ…、そうだろう」
「ふーん」
ただし、入船と最近まで話したことがなかった上に、前の席の斎藤さんとは未だに機会もない。それも事実なのである。つまり裕美が現れなければ、彼の交友範囲に女子生徒は皆無なのだから、その主張はあながち間違いとは言えない。
だいいち、初対面の女をいきなり呼び捨てるのも、それだけ女子とのコミュニケーションが下手だからと考えることもできる。もちろんそれは、裕美の側が光安の内面に土足で上がり込んできたという事情によるのだが。
「それで………、じゃあ、いつ決行するの? デートを」
「ほ、本間さんの都合に合わせるって…」
「はぁ!?」
とにかく、裕美は手伝う…というより主導するつもりになったらしい。魔女のくせに、人間世界の出来事に首を突っ込みたがる傾向がある。まぁそれは、私にとって思うツボなのだが…。
「本間さんと渋谷くんは、もう付き合ってるの?」
「まさか。付き合ってたら頼まねぇだろ」
「なら、本間さんがデートの誘いを受ける必要はないでしょ?」
「……いや、だからそこを」
「バカねぇ、アンタ」
すっかり裕美は入船化、つまり近所のオバサン化している。光安はあくまで子どものままごとみたいなノリなのだから、見合いを成立させるためになりふり構わないモードの裕美に叱責されるのは仕方ない。
繰り返すが、1300歳女がなぜこうもくだらない俗事に首を突っ込むのだろうか。私にとって思うツボではあるが……。
「日時は渋谷くんが決めなきゃダメ」
「そ、それじゃあ、都合が悪かったらどうす…」
「都合のいい日なんてないの! 元から行く気がないんだから」
「…………」
かみ合わない会話。そもそも光安自身に女子を誘った経験がないのだから、彼にはプランなど立てられるわけがない。渋谷自身も、この様子では全くアテにならない。すべては裕美にかかっているのだ。
そして裕美の言い分は、決して間違っていない。
その気のない相手を強引に誘うのだから、日時を指定した上でごりおしするしかないのだ。
「納得した?」
「……何となくは。ただ…」
「何よ」
「俺は役に立たないよな?」
光安はしきりに身体を動かしながら、時々裕美の表情をうかがっている。それは心の底から自信がないという様子を表わしているようだ。
ついでに説明しておくが、彼の立っている後ろの窓ごしに、先ほどから一羽のトンビが見えている。ゆっくりと旋回している。
「アンタは渋谷くんを励ませばいいわ」
「……なるほど」
しかし、トンビの動きはやたらと遅い。上空を旋回する時は元々ゆっくりだが、今の動きはそれどころではない。ほとんど静止状態に近いが、注意深く観察するとわずかに位置が変わっている。
どうやら裕美は、時間を止めるのではなく遅らせているようだ。この相談事が、往復込み十五分で終わるわけはないので、良い判断である。なお、光安はもちろん気づいていない。
「ん? なんだこの音?」
突然、何かの音が鳴り始める。光安はきょろきょろと辺りを見まわして、すぐにその奇妙な音の発生源は突き止めた。廊下の天井部分に取り付けられたスピーカーから、途切れることのない音がやたらとゆっくり響いているのだ。
眉間にしわを寄せながら、不思議そうに聞き耳を立てている彼。隣の裕美は……、さして関心のなさそうな顔だ。
もちろん、よい子のみんなは分かっているよな?
「時間ね。チャイムが鳴ったわ」
「チャイム!?」
今さらのように驚いた光安が再び周囲を見まわすと、渡り廊下の向こう側、つまり教室のある校舎側に幾つかの人影が見えた。その人影は……、何か前衛劇団の芝居のようにゆっくりと動いている。それをしばらく眺めて、彼はようやくハッとした顔で裕美を見た。あまりにも気づくのが遅かった。
「とりあえず、アンタが今すべき行動は…、教室に戻る、でしょ?」
「そりゃそうだ。走ったらどうにかなるかな」
「チャレンジしてみたら?」
彼は状況自体は理解したようだ。しかし会話の内容をよく聞いてみると、やはり状況を的確につかんでいないのである。
「は、走るぞ、裕美!」
「はいはい」
裕美を急かして、自分が先頭に立って走る光安。彼は別に足が速いというほどではないが、彼なりに必死に走った。
渡り廊下を抜け、相変わらずゆっくりと動く生徒数人を軽く抜いて、階段を駆け上がる。そして……、階段の途中で間抜け面の男子生徒を追い抜いた時、彼はようやく何かに気づいたらしい。いきなり走るのをやめて、残り数段という辺りで立ち止まってしまった。
「な、なぁ裕美」
「こんなところで何?」
光安の顔は…、明らかに青ざめていた。
「もしかして、俺たちの姿は見えてんのか?」
「見えてるでしょ、そりゃ」
よい子のみんなも想像できたと思うが、間抜け面の生徒というのはサドヶ嶽部屋の荒瀬山であった。いや、まだ入門前なので荒瀬と呼ぶべきだなハッハッハ。ちっとも面白くないか。
「今のアンタは、階段をマッハのスピードで駆け抜ける男ね」
「………」
「とりあえず、陸上部からの勧誘は避けられないでしょうねー」
「ぐぁぁあ」
目の前の荒瀬は、次第に表情が驚きのそれに変わりつつある。なんてスローモーなバカなんだ、と笑う余裕はもちろんない。
「…だ、だ、だいたい、この会話も全部荒瀬に聞かれてるじゃねーか!」
「それは大丈夫でしょ」
「何でだよ! こんなどうしようもない話、聞かれていいわけねーだろ!」
「アンタももう少し頭使いなさいよ。荒瀬くんに私たちの声は届くけど、早口過ぎて聞き取れないに決まってるでしょ?」
「あ、ああ……」
こんな会話の間にも、荒瀬の顔は刻々と変化している。それは立派な一発芸の域に達しているが、自分の意志ではできないのが残念なところである。
「全く、これだから光安はバカなのよ」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃねーだろ?」
「うるさいなぁ。教室に戻ればいいだけでしょ? あとはアンタがバカなことをした記憶をどうにかするだけ。簡単なこと」
「……お、俺にはできねぇし」
「アンタには誰も期待してないの。ねぇ荒瀬くん?」
裕美はにこやかに問いかけたが、もちろん荒瀬は反応がない。いや、徐々に荒瀬の表情が崩れていくのは見える。それは裕美に微笑みかけられたので、とりあえず喜び始めたのだろう。ただし問いかけの声は理解できていないので、うなづく様子はない。
光安はあきらめ顔で、親友の間抜けな百面相を眺めている。本当ならば、なぜ自分が眺める側にまわっているのかを考えるべきなのだが、彼にはそんな余裕はない。そもそも彼にとっては、授業に遅刻するという事実こそが大問題なのであり、より重大な事実まで頭が回らないのである。
「ということで、こんな場所の立ち話はおしまい」
「…………え?」
裕美がつぶやいた次の瞬間には、彼は教室にいた。自分の席にちゃんと座って、それどころか教科書やノートまでちゃんと並んでいる。
慌てて周囲を見渡すと、隣の席には裕美が座っている。そして……、だいぶ離れた位置で、荒瀬もちゃんと座っていた。ばったり出くわしたついでに、裕美は彼も一緒に移動させたらしい。どうせ記憶操作を伴うのだから、という親切心なのだろう。
「全校生徒、遅刻はゼロ。これでアンタも満足?」
「……いったい、一度に何人動かせるんだよ」
「今さらそんなこと聞くのね、アンタって」
どうやら裕美は、荒瀬だけではなく廊下にいた全員をそれぞれ教室に移動させたらしい。少なく見積もってもその人数は二十人近いだろうし、記憶操作に至っては百人単位で必要である。よくある魔法使いの話と比較すれば、かなりの高等技術なのは間違いない。
が、彼の質問は今さらなのだった。
「地球が人類の住めない星になったら、どこかの星に移してあげてもいいわ」
「………コスモクリーナーがあれば大丈夫だろ」
裕美は「宇宙の上位にある者」なのだから、この宇宙において不可能はない。たかが十億や二十億の人類など、物の数ではない……ってことだろう。恐らくはな。