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手のひらの宇宙―魔女とバカの日々―  作者: UDG
第六章 ようこそようこさんの巻
17/35

第一節 怪奇!平面男の恐怖

「お兄ちゃん…」

「…………」

「おにい、ちゃん」

「えっ?」




 その日の光安は、朝から様子がおかしかった。

 いつもより二十分も早く登校した。なので途中で裕美につかまることもなかったが、彼はその慶事に喜ぶこともなく、むしろイライラしながら教室にいた。自分の席に座ったり、窓際に立ったりを繰り返していた。

 それは見るからに、誰かを待っているそぶりであった。


「み、光安!」

「……なんだよ」


 そこに現れたのは曽根だ。ズボンのしわがよれよれで寝癖頭のくせに、軽やかに手を振って爽やかナイスガイを演出している。

 しかしどうやら、彼の待ち人ではないらしい。沈んだ声がすべてをあらわしている。


「どうしたんだお前! こんな時間に学校にいるなんて、俺は何か悪い夢でも見てるんじゃねーか!?」

「曽根の存在こそがこの世の悪夢だ」

「何ぃ!」


 親友の朝の挨拶にも、どこか刺々しい。

 いや、このやりとりのどの辺がフレンドリーで、どの辺が刺々しいのかは難しい判断が求められるところだが、どうでもいいので割愛する。そしてこの後に荒瀬もやってきたが、やりとりの中身はほぼ一緒なのでこれも割愛する。教室は次第にざわめきを増し、うろうろする彼を気にとめる人間はほとんどいない。


「おはよー」


 やがて、天使の微笑みの女子生徒が現れる。

 ああそういえば天使ではなく女神だったな。まぁどちらでも大差ない。どうせあり得ないことの譬喩なのだから。


「裕美!」


 すると朝から苛立つバカは、いきなり教室に響く大声で女神の名を呼んだ。どうやら待ち人来たる、らしい。

 野獣と化した男子生徒が今、か弱き女神に襲いかかる! ああ、裕美危うし! ちなみにこれは、大声で棒読みするのが望ましい。


「お、お…」

「お弁当?」

「俺の妹をたぶらかすな! 悪の道に引きずり込むな!」


 もしもこれが演劇部の活動風景なのだとしたら、彼はタカラヅカを髣髴とさせる決めのポーズで、フラッシュライトの中心にいることだろう。それほどに見事な叫びだった。残念ながらここは劇場ではないし、高校の演劇部が上演する体育館の壇上ですらないのだが。

 クラスの三十七名のうち、この時点で登校していない生徒は五名ほど。程よくざわめきに包まれていた教室は一気に静寂の空間となり、約二十秒ほど経ってからじわじわと戻ってくる。いつものことだが、よく訓練された教室である。


「……………」

「いや、その……」

「朝から麗しい兄妹愛ね」

「あの……だから…、ごめんなさい裕美さん! 私が悪うございました! 頼むからこの場をどうにかしてください裕美さま!!」

「はぁ…」


 苛立っていた男は、一転して情けない顔をして謝り始める。後先考えずに行動したのがまるわかりである。さすがの裕美も、わりと本気で呆れている。いつものことだが、バカは魔女を凌駕するのだ。

 もっとも、裕美が楽しい高校生活を送るためには、呆れざるを得ないという状況もある。全く知らないというそぶりをしないと――そぶりというか、実際に知らないはずだ――、教室の疑惑の目が自分にも向いてしまうのだ。

 光安の評価はこれ以上下がらないだろうが、女神に疑惑が生じてはならないのだ。たとえ本当は腹の中が真っ黒な女だったとしても。


「どうにかする前に聞いておくわ」

「は、はいどうぞ裕美さま! 何なりと聞いてくださいっ!」


 しかし裕美は、自分が被害者であることをアピールするだけで、謝罪に対してはなかなか「どうにか」しなかった。

 繰り返されるバカの暴言に、「どうにか」しない方が楽しいことに彼女は気付いてしまった。もちろん光安の卑屈極まりない態度も、「どうにか」しようとする気を失せさせた。


「私は何か悪いことでもしたのかなぁ?」

「い、いえ、裕美さまは何も悪くありません! 悪いのはこの光安めにございます! 光安は大馬鹿者です! どうしようもないバカです!!」


 ちなみに教室は、一度戻りかけたざわめきが静まって、彼の声だけが響いている。もちろん時間は止まっていないので、クラス全員の注目は光安に集まったままだ。どうしようもないほどの晒し者状態が続いている。

 いったいいつまで耐えられるだろうか。裕美はそこを試しているようだ。


「あーあ、誰か席変わってほしいなー。いきなり人を怒鳴りつける男の隣なんて嫌だなー」

「す、すみません裕美さま! もう二度と致しません! ちょっと魔、魔がさしただけです。二度と致しません!」

「ふーん。そんなこと言ったって、昼休みには忘れてるんじゃない? ねぇお船ちゃん、こいつのこと信用してもいい?」

「いいわけない! 今すぐ追い出すべきよ、こんなバカ!」


 入船の「バカ」が響いた辺りで、苦笑いをしながらようやく裕美は時間を止めた。

 裕美の表情は、入船が予想以上にきつい台詞を吐いたからだろう。あくまで裕美は、光安をからかっていたに過ぎないが、クラスの人々の目にはそう映らなかったようだ。

 もっとも、入船の反応はむしろ当たり前である。それは入船が裕美ファンだというだけではない。何の脈絡もなく、光安が裕美を怒鳴りつけたのは事実なのである。全く正当性のない行為を、よりにもよって教室の女神にやってのけたのだ。敵視されないわけがなかったのだ。


「すまん! 今日は全面的に俺が悪かった!」

「そうね。それは間違いないわ」


 入船の口が開いたままなのを確認した光安は、謝罪の大安売りを続ける。同時に彼は、少しだけ安堵の表情を覗かせている。

 とにかく当座の危機は去った。あとは裕美が何とかしてくれるだろう、という雰囲気が伝わってくる。まるで猫型ロボットに頼りきりのメガネのように情けない姿である。

 しかし裕美は猫型ロボットではない。彼の方を向いたその目は笑っていなかった。


「アンタは反省すべきよね」

「わっ」


 裕美が冷たく言い放った瞬間、光安の身体は近くの窓ガラスに吸い込まれる…ように見えた。実際には吸い込まれたのではなく、ガラスにプリントされたように、厚みを失った状態で張り付いている。まるで有名なしゃべるカエルのTシャツみたいだ。


「ふふっ。いい気味だわ」

「…………」


 勝ち誇ったように笑う裕美に対して、光安は無言だ。

 恐怖のあまり、声が出なくなっているのかも知れない。


「どうする? 今日一日そこで反省する?」

「……………」

「…あ」


 裕美はしばらく返事を待っていたようだが、やがて何かに気付き、指先をわずかに動かした。


「たすけて…ください」

「あーごめんごめん」


 見た目には何も変わっていないが、光安の情けない声が聞こえるようになった。そのみっともない声に、裕美は再び苦笑する。

 そうだ。ほぼ二次元の存在となった光安は、声を出そうにも出せなくなっていた。どこかのカエルのように超法規的措置によってしゃべれたりはしないのだ。今は彼の意志が通じているわけだが、これも教室に音声が聞こえているわけではない。あくまで裕美の側が、彼の思念を聞き取る態勢になっただけである。

 …もっとも、この状態で生きていること自体、裕美の能力による超法規的措置なのである。「ほぼ二次元でも声は出せる」という設定を裕美が認めれば、その瞬間に光安はしゃべれるようになるだろう。認める気はなさそうだが。


「さぁて、じゃあ説明してもらいましょうか」

「……ああ」


 窓ガラスのプリント光安は、固定されてなかったらしくあっさりと剥がれ落ちる。もちろん現時点でも厚みを回復していないので、紙が落ちるようにぐにゃりと折れ曲がって床に落ちた。

 髪の毛も顔の辺りもうねった状態で、陽の当たらない床に横たわる光安。よい子のみんなもやったことがあるだろうが、お札の顔の部分を折り曲げてニヤケ顔や泣き顔にするような感じで、元から美少年の噂もない顔は、見る価値もなくうねっている。

 ただし裕美がそれを命じた気配はないので、恐らく彼は何も見えていない。落ちたという感覚すら存在するか疑わしい。今の惨めな状況を認識できないのは、彼にとって幸いかも知れない。


「曜子のことなんだ」

「また!?」


 光安の心の声は、落ち着いている。

 あきらめの境地に入っているのだろうが、普通の人間はこんなに簡単にあきらめないものである。


「…まただよ。あり得ないことばかりだ」

「だから私のせいだって?」

「………ごめん」


 当人は深刻な表情をしているつもりだろう。しかしプリント光安のままなので表情は変化しない。それどころかニヤケ顔に折れ曲がっている。これでは何を話しても説得力がなさそうだ。まぁ聞くのは裕美だから、別に見た目などどうでもいいのだろうが。

 さて、話を急ごう。

 光安が言うには、今朝の曜子は例によって自分から話しかけてきた。しかもいつもと違って、お兄ちゃんを慕う可愛い妹という感じではなかったという。

 「お兄ちゃんは学校でバカって呼ばれてる」とか「寝癖のまま登校するお兄ちゃんはかっこ悪い」とか、兄を軽蔑するかのような言葉が次々と飛び出したらしい。


「それ、全部本当のことでしょ」

「俺はバカなんて呼ばれてない!」


 妄想の妹が制御不能に陥っているのだから、それは確かに深刻な事態である。しかし裕美はたいして関心がないようだ。そして釣られて堂々と嘘をつく光安も、どこまで本気なのか疑わしくなってくる。彼は自分が置かれた立場を、早くも忘れかかっている。


「呼ばれてるわよ。お船ちゃんなんて、アンタの声を聞くとバカがうつるって言ってるわ」

「……それは入船さんの了見が狭いからだ」

「何言ってんの。これは愛よ。お船ちゃんの愛情だわ」


 裕美は特に笑ってもいないが、かといって真剣に主張しているわけでもない。

 まぁこんな主張を真剣にするようでは、教室の女神の座も危うくなるだろう。


「どこをどう解釈すると、そういうイカレた結論に辿り着くんだ」

「本当に嫌な相手の話題なんてしないものよ」

「………」


 光安は黙ってしまった。黙ってももちろん表情は変わらない。文字通り、今の彼は薄っぺらい男である。

 念のためにフォローしておくが、入船が光安のことをどうこう思っているという事実は存在しない。基本的に彼女の発言は文字通りの意味である。単にバカにしているに過ぎない。

 裕美の言い分に一理あるとすれば、さっきのような行為がなければ、目の前から失せろとまでは思っていない程度だ。教室の風物詩としてのバカは、ある意味で認めているわけである。三バカにとっては余計なお世話だろうが。


「と、とりあえず入船さんの話題は関係ないのでやめてくれ」

「まぁ確かに関係ないわね。ただアンタも、これ以上嘘をつくのやめたら? 次はこんなものじゃ済まないからね」

「…これ以上の何があるんだよ」


 たぶん光安は、必死になって表情を変えようとしているに違いない。しかし身動き一つ取れない彼がどう感情を表現しようと、ニヤケ顔で折れ曲がった薄っぺらい姿でしかない。

 教室の窓は開いていないので、今は風が吹き込んで動く可能性すらない。いや、風が吹いたら窓の外に飛ばされかねないわけだから、ニヤケ顔でも今のままの方が多少は幸せだろう。ああ、何とあわれな平面男。もちろん棒読みを推奨する。


「とにかく、あり得ないことだろ?」

「そうかなぁ」

「いや、お前ならあり得るだろうが、普通の人間には無理だろ?」

「…そんなものなの?」


 光安はここぞとばかりにたたみかけるが、裕美はわりと本気で首を傾げている。

 妄想の中の存在は、向こうから主体的には語りかけない。…そんな決まりは本当に存在するだろうか。単に曜子がそうだったというだけではないのか。裕美でなかろうと、疑問を抱くのが当然のように思われる。夢の中で誰かに話しかけられることぐらい、普通にあるではないか。


「何だかよく分からないけど…」


 ため息をついたその瞬間に、裕美の瞳がわずかに光った。

 するとプリント光安の上に、何かが出現した。


「あちっあぢぃいいいっ!」

「痛みは生きてる証拠だってさ」

「ぐぁぁ…」


 出現したのは、やかんだった。

 その口からは熱湯がこぼれ、光安の身体に注がれた。注がれていくうちに次第に光安の身体は立体的になり、お湯がなくなる頃にはだいたい戻っていた。まさしくカップラーメンの原理である。

 なお、熱湯を注がれればそのために致命的なダメージすら負う可能性があるので、よい子のみんなはやってはいけないぞ。いやまぁ、それ以前に人体をフリーズドライにしてはいけない。うむ。

 止まっていた時も動きだし、散々な目にあった光安は、泣きそうな顔で教科書を取り出している。彼は別に火傷はしていない。負ったのは、そうだ、心の傷だけだ。我ながら格好いい言葉を吐いてしまった。

 そして落ち着き始めた彼は、やがて重大な事実に気付くのだった。そう。待ち人は裕美でもなかったのだ。


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