第二節 KMネットワーク
全くどうでもいい話だが、全国一律に十月一日を衣替えと定めたのはどこの誰なのだろう。きっとそれは南方のぬくぬくした環境で育った人間に違いない。私が考えるに、この街ではもう少し早く冬服になるべきである。九月下旬の夕暮れ時は、思いの外冷えたりするのである。
もちろんそれは苦行と呼ぶほどではない。とはいえ薄着を強いられてきた生徒たちは、この日が来るのを待っていたはずだ。だからこそ、ついに願いが叶えられ冬服となった生徒たちは、歓喜の表情で授業を受けている………かといえば、そうでもなかった。
午前中の教室は、海でもないのにマドロスたちがめいめいに船を漕いでいた。裕美のような優等生はともかく、曽根や荒瀬は豪快に眠りこけている。その名もずばり入船も、やはり言うまでもない。
「ふぁぁ~」
「アンタ、今日は激しいわね」
「何がだよ」
「いびき」
光安は…といえば、彼はバカだが真面目なので、どうにか意識を保とうといろいろ努力をしていた。眼をぱちくりさせて涙を出したり、大きなあくびの後に歯ぎしりのような動作を繰り返したりと、彼なりに頑張っていたといえる。もちろん結局はすべて無駄に終わり、その努力をあざ笑うかのようにいびきが響いたのであった。
なお実際は、からかわれるほどに大音量で響いていたわけではない。裕美はどこかの超人みたいに100m先で針が落ちた音すら聞き分けられる女なので、ちょっとした寝息でも轟音となるのである。ちなみにこれは、私の推測である。
「もしかして、心配事があって毎晩眠れないとか?」
「心配事ならあるに決まってんだろ」
今は休み時間になったこともあって、彼も眠気から解放されている。
「私のことなら心配しなくても大丈夫」
「心配されるのは俺の方だ」
授業中は睡眠から抜け出せず、終わった瞬間に目が覚めるというメカニズム。それは学校の七不思議の筆頭に数えられても良い事象といえる。いえるか?
「………そういえば思い出したぞ。裕美に聞きたいことがある」
「好きな色なら赤。真紅の血の色よ」
「誰がそんなこと聞くか!」
「両手じゃ足らないぐらい聞かれたけど?」
「…………」
次の言葉を口に出そうとして、そのまま身体をゆらゆらさせる光安。
説明するまでもないが、占い好きの女子生徒と一緒にされても、彼には反応のしようがないのである。
「曜子のことだ」
「曜子ちゃんがどうしたの? もうアンタみたいなバカの妹は嫌だって?」
「そんなこと言うかっ! 曜子は可愛い妹なんだ!!」
「聞こえちゃってるけど、いいの?」
「え………」
すぐ前の席の女子が、ひきつった表情で光安の方を見ていたが、彼がそちらを向いた瞬間、目を背けた。
ちなみにその女子生徒の名は斎藤というらしい。光安とは全く親しくないので、彼の妹が三次元かどうかの情報は持っていないだろう。従って、よくあるシスコン男と解釈されたとみて間違いない。
「………裕美」
「………」
「裕美…さん」
「名前を呼ばれたって分からないなぁ」
もちろん、よくあるシスコン男というのは、彼にとってはこの上ないダメージである。元からないに等しいクラス内での人望が、今の瞬間に消え失せようとしている。ああ光安、お前はもうおしまいだ。ちなみに今の台詞も、各自棒読みで結構だ。
「………けてくださ…」
「大きな声で言わないと聞こえないなぁ」
「裕美さん、どうか私を助けてください!」
その声は確かに大きかった。教室が一瞬静まりかえってしまうほどに。
十秒近い静寂の後に、徐々にざわめきが広がっていく。男女を問わず、注目はすべて光安に注がれている。何人かは動き出している。
裕美はそんな教室の様子を、黙って眺めていた。光安が目で急かすことには気付かないふりで。
「あー楽しかった」
「……………」
ようやく時間を止めたのは、教室の端にいた荒瀬が光安の側まで近づいた時だった。ついでに、教室を出ていた入船が戻り、さっきの叫び声について説明を受けた直後でもあった。
おそらく、入船が自分の席に座っていれば、ここまで長く晒されることもなかっただろう。その代わり、至近距離で入船に蔑まれるのは覚悟しなければならない。果たしてどちらが幸せだったのか、それを知る者はいなかった。
「で、可愛い曜子ちゃんがどうしたって?」
「……う、うむ」
こんな状況でも、裕美は無理矢理に話題を戻すのであった。
光安は基本的に物忘れが激しい性格である。ましてこのような事態によって激しく動揺すれば、彼でなくとも一息つきたくなるのは仕方のないことだ。しかし問い詰める側の裕美は何ら動揺していないので、そんな余裕を与える気はなさそうである。
「今朝、俺を起こしてくれた」
「それで?」
「それで、じゃねーだろ」
「それで、でしょ。妹が兄を起こしたから何よ」
「………」
光安は困っていた。
いや、裕美の発言は何ら理不尽ではない。可愛い妹が兄を起こしてくれるという、それは全人類の憧れと言えなくもないシチュエーションである。現に彼自身も、最初は驚いていたものの、家を出る頃には顔がにやけていたのだ。
つまり、裕美にその問題点を仮に伝えることができたとしても、そこで「解決」すべき点など存在しない。彼は、彼はこのままでいい…のである。
「いやまぁ、そういうことだ。ははは」
「話はそれだけ? 私は妹大好きな変態ですってだけ?」
「変態じゃねぇ!」
「あっそ」
苦笑を浮かべながら裕美は時間停止を解除した。
目の前まで迫っていた荒瀬は、ぽかんとした表情になって、それからしばらくして自分の席へ戻っていった。入船はまだ具体的なアクションを起こす前だったので、そばにいた生徒とそのまま雑談タイムに突入する。呆れつつも裕美はちゃんと光安を救っていた。
「はぁ…」
クラス全員に変態扱いされるという、待ったなしの危機をどうにか回避した光安。しかし彼はそれを喜ぶそぶりもなく、疲れた顔で立ち上がる。そして、声をかけようとする曽根にも気付かぬまま、ふらふらと教室を出て行った。おそらくはトイレに向かったのだろう。言うまでもなくそれは、気晴らしを兼ねているのだろうが。
……ただし、それは気晴らしにしては長かった。
やがてチャイムがなって昼休みが終わってから、彼は慌てて教室に駆け込んできた。そして少し困った顔で、何やらメモを取り始めたのだ。
念のために断っておくが、「大きいの」を出した記録を付けているわけではない。そもそも彼は個室には入っていないのである。え? そんなことは聞きたくないって?
「……裕美。頼むから覗くなよ」
「…………」
彼の表情はやや深刻なものだった。深刻というだけならば、さっきまで妹のことで悩んでいたわけだが、今の彼の深刻さはどうも別の要因らしい。
首を傾げながら彼のつぶやきを聞いた裕美は、すぐに正面に向き直り、それ以上は光安に干渉しなかった。もちろん曜子事件の時がそうだったように、彼がどのように隠そうと、裕美がメモ書きの内容を見ることはたやすいはずだ。あえて覗かない理由は、私にはおよそ推測できている。
簡単なことだ。
青原光安という男は、困ったことがあれば結局、裕美に相談しているのだ。あえて覗く必要などないのである。
「そこで、ここに一、二点をふって…」
午後の授業が始まって二十分。
さっきまで真剣にメモをとっていた光安は、既にボート部の部活動に精を出している。午前中と違って、午後の彼は何も抵抗らしい抵抗をしなかった。緊張が一気に解けたからだと言い訳することもできようが、少なくともその言い訳は国語の教師に通用しないだろう。
「えー…、では斎藤さん」
「はい」
しかし、光安には今日何度目かの小さな危機が迫っている。
そう。国語の教師は今まさに、光安の列に当てている。いや、既に彼の前の席まできている。次は貴様の番だぞ、青原光安!
「じゃあ次は…青原さん」
「ふぁ、ふぁい」
それからわずか数十秒のうちに、とうとう彼の名前が呼ばれてしまった。熟睡している彼は、呼ばれても目を覚ます気配はない。全くない。
にも関わらず、すっくと立ち上がる光安。それは本能のままに戦う男の中の男にも似て、クラスの仲間たちに猛烈な感動を与えるのだった。もちろん嘘だ。
「ノォボォルゥ、イマ、ラァクヨーォローォ」
「青原くん。君は授業を聞いていたのか? 次!」
気味が悪いほどにパッチリと目を見開いたまま、我らが青原光安は堂々と解答を読み上げ、用を終えて席に着いた。座った次の瞬間には、その瞳は閉じられていた。軽やかないびきも聞こえてきた。
隣では裕美が、当然のように笑いをこらえている。睡眠中の彼を操って危機を脱出させる一方で、しっかり解答は間違えさせた。そうだ。彼女の機転によって、彼は「わりと真面目だがバカ」という現状をしっかりと守ったのである。
もっとも、この危機的な状況で、彼は本当に目が覚めなかったのだろうか。真相は裕美だけが知っている。
「で、今日は来てくれるのよねー、ゆうちゃん」
「だからバレーなんてできないって」
「そんな嘘、誰も信じないよー」
そうして放課後となった。
入船が裕美を部活に誘っているそばで、授業中の記憶がない光安は、いそいそと荷物を片付けている。それは見るからに、何か用があって急いでいるようである。
「で、このバカは黙って帰るだけ?」
「…悪いかよ、それで」
そこに入船が突っかかってきた。
朝が一回目だから、これが二度目の会話ということになる。ただし朝と違って、二人に言葉を交わす必然性はない。
「悪い! 部活してない男なんて、どこで何してるか分かんない」
「なんだその偏見の固まりみてぇなのは」
「そうよねーゆうちゃん。だからゆうちゃんも部活やろうねー」
「…お船ちゃんの話術には感心するわ」
要するに光安は、裕美を誘うためのダシにされたに過ぎない。その上、帰宅してやることが妹の妄想なのだとしたら、入船の言う通りなのである。何も間違っていない。従って彼が腹を立てる必要もないのである。
「バレー部だって何してるか分かんねーだろ。部室にヤラシイ本がいっぱいだって言ってたぞ」
「そ、そんなことあるわけないでしょ!」
「ふーん、果たしてそうかな?」
「しゅ、週刊誌しか置いてないしー。…デタラメ言わないでよバカ!」
だが、余計なことには熱心な光安である。売られたケンカは勝ち目がなくともとりあえず買う男である。そう表現すると少し格好いいな。実際は、単に駆け引きができないとか、コミュニケーションがヘタだと表現する方が適切なのだが。
裕美は真ん中でニヤニヤしながら会話を聞いている。朝と違って、別に自分も加わりたいわけではないようだ。
「いいや、確かに聞いた。だいたい女子と男子は部室が違うじゃねーか」
「だ、誰に聞いたのよ…」
「それは…」
男子高校生のたむろする密室に、その手の本があったとしても、何ら不思議ではない。よい子のみんなにも覚えがある人がいるのではないかな?
え? そんな本を読まないから「よい子」だって? まぁそれでも構わない。別に読者のカミングアウトを求めてはいないからなフッフッフ。
「それはヤツの名誉に関わるので言えない」
「やっぱり嘘だ!」
「嘘ではない。そんなに言うならヒントをやろう。俺と中学が同じなヤツだ」
「…誰よそれ。まぁいいわ、絶対問い詰めてやる!」
そうして肩を怒らせて、入船は去って行った。裕美を誘えなかったことなど忘れたようである。これは光安の勝利…なのかも知れない。彼が嘘をついていなければ、だが。
「アンタと同じ中学に通ってた人なんているの?」
「いたらおかしいかよ」
「だって、アンタって交友範囲が狭いし」
「…………」
しかしこの場には、まだ裕美が居残っていた。二人の仲の良いケンカの一部始終を眺めていたおかげもあって、辛辣な言葉を吐く。意外な角度からのツッコミに、少々光安は困っている。
ここまでの彼を見る限り、だいたい三バカと裕美ぐらいしか話す相手がいないのは事実である。裕美はイレギュラーな存在なので、実質は二バカのみだ。
…といっても、別にそれ以外と一切話さないわけではない。女子生徒は苦手のようだが、すれ違えば挨拶するぐらいの男子生徒は、複数目撃されている。だいいち彼は高校に徒歩通学している。つまり出身中学もこの近くなのだから、当然中学からの知り合いもいるはずだ。裕美の心ない一言など、気にする必要もなかった。
「そりゃまぁ、友だちは多くないかも知れないが…」
「あ、…傷ついた?」
しかし彼はネガティブだった。うつむいて考え込んでいる。真面目なバカなのである。
「むむむ、そうだ、俺は傷ついた!」
「へぇ」
「しかし、しかしだぁっ!!」
が、いくら光安がバカとはいえ、それは悩み続けるほどの問題ではない。吹っ切れたようにポーズを決めて、数秒そのまま静止する。彼の頭の中では「じゃーん」みたいな効果音が響き、四方からフラッシュをたかれているのだろう。そして撮影が一区切りついたと思われるタイミングで、格好いい決めの台詞を吐くはずだった……のだが、彼は急に表情を変え、慌てて立ち上がった。
そうなのだ。彼は何かに急いでいたのだ。こんなタイミングで思い出すからバカだと言われるのだ。
「じゃあな。今日はお前と遊んでる暇がねぇぜ」
「何かっこつけてんの?」
「ふっ。俺は世の中の役に立つ男だからな。さらばだ」
呆れた表情の裕美を残して、光安は教室を出て行った。
というか、最後の一言で、誰かの頼まれごとがあるらしいと分かってしまった。これから行く先が、その依頼人であることも容易に想像できてしまう。相変わらず彼はバカである。
裕美はそれでも、後を追いはしなかった。それは彼に未知の友人がいるらしいという情報を得て安堵したためではない。別に友だちがいようがいまいが、彼女にとってはどうでもいい話である。
これも簡単なことだ。
裕美は確信している。いずれ光安は処置に困って、自分に泣きついてくるに違いない、と。
それはきっと正しい。青原光安はきっと、自分ではどうにもならないようなことを引き受けるに決まっているのだ。彼にはできることとできないことの区別がつかないのだ。
「裕美ちゃん、じゃあな」
「うん。さよなら荒瀬くん」
できると言って引き受けたことが達成できなかった時、依頼主は傷つくだろう。彼はそうやって、これまでにも意図せずに他人を裏切り、傷つけたはずだ。
そう。彼が「やさしさ」と思いこんでいるその無責任な態度こそ、この宇宙が求めたものなのだ。曽根や荒瀬や入船、そしてよい子のみんなが住む、この宇宙が……。
第五章完結。第六章は長めになります。詳細は活動報告のページで。