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手のひらの宇宙―魔女とバカの日々―  作者: UDG
第五章 バカの妹、僕の友だちの巻
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第一節 続・あねいもうと

 北の街の十月は冷たい。闇を切り裂くような重低音が響く海、そして牛乳瓶の底のように厚く雲がたれ込めた空は、日一日と色をなくしていく。街そのものも次第に生気を失っていくようだ。

 そんな街の片隅には、淡い陽射しに照らされつつも、布団にもぐったままで目覚ましのメロディを最後まで聞き逃さない男がいる。そして彼は今まさに、かすかな人生の危機に直面しようとしているのだ。さぁ、彼にとっての人生の危機とは、いったい何だろう!? この街の雰囲気と何の関係があるのだろう!? 盛り上がれる人がいるなら盛り上がっても構わない。


「お兄ちゃん、遅刻しちゃうよ」

「ん…、ああ、分かった曜子」


 日々寝起きが悪くなる一方の彼は、優しい妹の声に、ようやく上体を起こしかける。めくれた布団の隙間から、少しの寒気を感じる。そして見開いた瞳は、まぶしさに再び閉じられた。

 こんな男のまどろむ表情など実況する価値はないが、その辺は心配ない。なぜなら彼はすぐにぱっちりと目を見開き、顔面蒼白になったからだ。


「よ、曜子!?」


 寝起きのバカの頭でも、遠からず気付くことがあった。

 そうだ。変態妄想男の青原光安は、生まれて初めて、妹の声で起こされたのだ。自分の頭の中にしかいない、自分が呼びかけなければ何も応えはしないはずの「妹」曜子に。


「お兄ちゃん、ちょっと怖い」

「え? いや、ははは…」


 まさかの第二次攻撃を喰らい、光安は慌てた。慌てた彼は……、数秒身動きを止めた後、一気に着替え始めた。おそらく数秒の「間」は、妹に着替えを見られているのではないかという危惧であったに違いない。

 スリリングな日常。

 彼はそういうものをあまり求めていないが、既に学校は日々クライシス状態と化している。ついに自宅すらも安住の地ではなくなってしまうのだろうか。なおこの辺の文章は各自棒読みで構わない。どうでもいいからな。


「行ってきまーす」

「行ってらっしゃーい、お兄ちゃん」


 しかし、朝飯を食ううちに彼は危機を忘れ、玄関を出る時には完全に立ち直っていた。可愛い曜子の声を聞いて、かすかに彼は笑顔すら見せたのだ。恐るべき順応力である。

 ポジティブに説明すれば、それだけ彼は妹想いなのだと言えなくもない。もちろん一般的には、それだけで納得するには相当な困難が伴うはずだ。そんな彼だからこそ、バカの称号がふさわしい。そんなまとめでいいのか? それでいいのだ。


「おはよう、光安」

「あ、あれ? お姉ちゃん、こんなところにいていいのか?」


 そして軽やかな足取りで学校へ向かう光安。いつもの交差点を折れてしばらく歩くと、今度はそこに姉が待っていた。

 姉?


「何言ってんの。かわいい弟の顔ぐらい見たっていいでしょ?」

「え? いや、その……、みんなに見られたら恥ずかしいよ」

「どうして? せっかくだからお友だちを紹介してよ」

「ダメだダメだ! お姉ちゃんのことを知ったら、毎日家まで押しかけてくる。お姉ちゃんは………………」


 何かを言いかけたまま、光安は口を開けて固まっていた。

 顔面は今日二回目の蒼白になり、やがて身体が小刻みに震えだした。衣替えとなった十月初めなので、別に寒いわけではないだろう。たぶんな。


「お姉ちゃんは、何?」

「お、……お姉ちゃんは、お姉ちゃんはいない!」

「あらそう」


 よい子のみんなは分かっているだろうが、お姉ちゃん役は裕美である。

 衣替えで初めての冬服姿となった裕美は、ただでさえ女神のような美貌の上に、弟が心配するのも無理がないほどの魅力を加えている。だからまぁ、今日の彼の発言は人として許される範疇である。恐らくは曽根や荒瀬も、裕美を見た瞬間から夢中になるだろう。教室中、いや学校中が冬服!、冬服!と盛り上がるに違いないのである。いや、盛り上がるにしても冬服コールは起きないだろうが。


「いい加減にしろよ、頼むから」

「毎朝刺激的で楽しいでしょ?」

「俺は温室でぬくぬくと育ちたいんだ」

「それねぇ、もう無理」


 ぶつくさ言いながら、何事もなかったかのように二人は歩き出した。

 いや、裕美が何事もないのは当然だが、光安は何事もあったはずだ。あくまで加害者と被害者の関係であるにも関わらず、平然と並んでいる。本気でいやがっているとは思えない行動である。


「それにしても、なんで今日は姉なんだ」

「姉みたいなもんでしょ? 年齢的に」

「年齢……って」


 そもそも質問の必要があったのかという根本的な疑問は残るが、裕美の返答に対して質問者が口ごもるのは、ある意味当然である。

 見た目でいえば「同級生」でも何ら不自然ではない裕美。従ってこの場合の「年齢」とは、例の1300歳を意味することになる。


「たぶん信じてないんだろうけど、私にはちゃんとあるのよ。1300年前の記憶も」

「…信じるとか言う前に、どうやって判断したらいいのかすら分からん」

「アンタは正直ね」


 同じ服装の生徒たちに紛れる通学路で、穏やかに笑う裕美。その表情は、光安より多少は大人びて見える。姉だったとしても支障がない程度に。


「私は永遠に「おばあさん」じゃなくて「お姉さん」。これ以上若返りもしないし、老いもしないから」

「…………」

「つまり…、この世界で知り合ったすべての人間が年老いて死んでいくのを、ただ目撃するしかないわ。あのサーチのように、ね」

「ふぅむ……」


 戸惑いながらも光安は、四人で「遊んだ」ことを思い出している。

 思い出しながら一方で、裕美の発言の真意を考えているようだ。それもそうだ。これが本当なら、通学路でさらっと話すような内容ではないのである。


「それは人間の求めた理想。私が生まれた頃には……神仙って呼ぶ人もいた。薬を飲んで私みたいになろうとする人たちもいたな~」

「……不尽の山で燃やされた」

「そう。知性のかけらもない光安でも、たまに正解を口にするわね」

「言っておくが、そういうのをほめ言葉とは呼ばない」


 既に校門は目の前だった。

 裕美は時間を止めてまで話を続ける気はないらしく、そのまま二人で門をくぐった。彼女の昔語りも同時に終了した。

 光安にとってそれは、どうにも判断のしようのない話だったが、少なくとも裕美に操られた腹立たしさはなくなっているようだ。たとえそれがハッタリだったとしても、役目は果たしたということになるだろう。


「ゆうちゃんおはよう!」

「あ、おはようお船ちゃん」


 そうして昇降口まで辿り着くと、今日は珍しく入船に出くわした。

 入船は光安とほぼ同じ背丈なので、中央に裕美を挟むと左右対称に見える……かといえば、あまりそうでもない。なぜならば、背丈よりも服装の違いの方が目につくからである。

 そもそも、光安の側からすれば間違いなく「出くわした」なのだが、入船は最初から裕美だけを見ている。廊下を歩く間も階段をのぼる間も、裕美の冬服姿がいかに似合ってるかをひたすら力説しているだけだ。左右対称どころか、三人目など最初から存在しないのだった。

 そして入船は、もう教室も間近という辺りになってようやく光安の方を向いた。裕美につきまとう金魚のフンのような男を、今初めて見つけたという表情で。しかも正確には裕美の顔を見たままで、ビシッと指さした。


「ゆうちゃん!」

「な、何?」

「いくらクラスが同じだからって、こんなバカと一緒にいたらバカがうつるわ」

「バカとは何だバカとは!」

「だってバカじゃない!」


 確かに光安はバカである。従って誰もその発言に異を唱える者はいなかった。

 え? 思いっきり異を唱えているじゃないかって?

 聞こえた者がいたならば、教えてやろう。よい子のみんな、それは空耳だ。


「だいたい、テストの点なんて俺と似たようなもんじゃねーか」

「あーっ! なんで私の点数なんか知ってんのよ!」

「自分でいつも言ってるだろ! 大声で!」


 しかし、バカは意外にも反撃にでた。

 …いや、意外ではないな。バカというものは一般的に好戦的とされている。それに、容易に想像できるだろうが、入船に他人をバカにする資格がないのも、光安の言う通りである。


「ふん。私は数学の小テスト合格したもーん」

「たまに合格するだけだろ。俺だって二度は通った!」

「九月の難しいのは? あんたは当然落ちたでしょ!?」

「その前五連敗だってわめいてたのは誰だ!」


 よい子のみんなは何を競っているのか分からないだろうから解説しておこう。数学の小テストというのは、定期試験とは別に月二回ほど行われるものである。現時点で七回行われ、60点以上が合格となっている。

 つまり、ここで競っている二人は、どちらも勝率五割以下である。こういうのを目くそ鼻くそ、五十歩百歩などと呼ぶのである。


「…あんた、思ったよりやるわね」

「俺だって戦う時は戦うんだぜ」


 それは語る価値もない低レベルな争いだった。

 互いに身を削って恥をさらし合うバカ二人。しかし中身がどうであれ盛り上がってしまったので、さっきまでは中心にいたはずの裕美が、いつの間にか蚊帳の外に置かれている。

 少しだけ不服そうだ。


「なんだか仲がいいわねー、二人とも」

「ゆうちゃん、冗談きついわ」

「以下同文だ」


 なお、天の声が今あったのでお伝えしよう。

 実は光安と入船がしゃべったのは、これが初めてだそうだ。よい子のみんな、ディスプレイの前でのけぞっても構わないぞ。

 ともかく、バカ同士の不毛な争いは、教室に入った時点で自動的に終息した。初めての冬服姿を披露する裕美は、たちまちクラス中の注目を集める。押し寄せる人の流れに乗った光安と入船も、それぞれの挨拶回りモードに変わり、自分の席に着く頃には言い争いなど忘れていた。

 やがて始業のチャイムが鳴る。喧噪の中に埋もれて、光安は言い争いよりも大切なことすら、ころっと忘れている。いや、所詮はころっと忘れる程度の問題でしかなかったのかも知れない。


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