第五節 微かな破綻、微かな幸福
「じゃあな」
「また遊ぼうな、裕美ちゃん」
「うん。またねー」
四人の「遊び」は終わった。夕暮れ時の校門前で、曽根と荒瀬は晴れやかな笑顔を見せる。憧れの裕美と仲良くなれた、――そんな喜びにあふれた表情で。
もちろん、直前までの状況を照らし合わせた場合、ここまで晴れやかな表情になれるはずはない。彼らの片方は老い、もう片方に至っては白骨と化した。そうした未来の記憶は、人間にあってはならないものだ。なので別れ際に裕美が記憶を操作して、「四人で将来について語り合った」ことにしたらしい。
曽根がこれから進むべき道と、荒瀬の健康問題について、四人は熱く討論した。時には激高し、時には慰め合いながら、彼らと彼女は血の涙を流したという。それは全くのデタラメではないが、事実から遠くかけ離れた内容である。
ただし、こんなバカバカしい捏造でも、事実よりはよっぽど事実らしいのだ。そこに高橋裕美という人智を超えた美少女の笑顔を加えれば、二バカにとって一生涯忘れない記念日のできあがりだった。
「…寒いな」
「もうすぐ衣替え、なんでしょ?」
「あ、…うん」
三人目、つまり光安の「人生サーチ」は行われなかった。
彼はおそらく、最初から拒否するつもりだったはずだ。また荒瀬の一件もあって、続けられる状況ではなくなったのも確かだ。しかし、もっと深刻な事情が、ここには介在している。
そう。二人と同様のサーチを光安で行った場合、その記憶は消されずに終わる可能性が高い。従って彼は、己の将来をすべて知ってしまったままで、これからを生きる羽目になる。どうしようもないほどの不幸な人生が待っているのだ。
ただし不幸なのは彼だけで、私やよい子のみんなには関係ない。他人の不幸は蜜の味ということわざもある。今からでもやればいいのである。
「…帰ろうか、光安」
「ごめんな」
「えっ?」
「結局、裕美にただ気をつかわせただけのような気がする」
もっとも、光安の記憶を他の二人と同様に操作することだって、裕美にはたやすいはずである。現に、可愛い彼女のためにガリガリ君を買った記憶は完全に消去されているのだ。この辺の扱いの差には、今ひとつ謎が残る。
ともあれ笑顔で二人を見送って、歩き出そうとする裕美。そんな彼女に、光安は気遣いの言葉をかけた。
今日に限っては、確かに彼女の力が世の中の役に立った。いや、世の中というのも大げさ過ぎるが、曽根と荒瀬にとって、決して嫌な時間ではなかったはずだ。
ただし、これまでの差し引きでいえば、圧倒的に迷惑の方が多いはずである。にも関わらず素直に感謝できるのは、ある意味ではバカの特権といえなくもない。
「そうねぇ」
裕美の表情も、それなりに晴れやかだった。
光安「で」遊ぶ時とは違った感触があったには違いない。
「そう思うんなら今日のアンタの晩ご飯、おかずは全部もらっちゃおうかな」
「はぁ?」
「こんな感じで、ね」
裕美が指先をくるくる動かすと、光安の手からカバンが消えた。
そのカバンの行方は……、動かしていた彼女の指先にぶら下がっている。
「な、な、何でそうなる!」
「悪いと思ったんでしょ?」
「それとこれとは話が別だ」
「ふーん」
光安の連れない返事に頬をふくらませて、裕美は彼のカバンを投げる。
その方向は光安の側ではなく、道路脇のドブに一直線だった。が、汚水に落ちる寸前にカバンは消え、彼の手に戻った。とりあえず、裕美にはまだ理性が残っているようだ。いや、この程度で理性が吹き飛ぶようでは、もう地球は滅んでいるだろう。
「たいしたお詫びじゃないなぁ」
「自分の飯をやるほどの詫びは、一生に何度もない」
「へぇ」
偉そうに彼はつぶやくが、結局は単にケチなだけである。もちろん成長期の若者に、晩ご飯のおかずを捨てろというのは確かに苦行だし、ここでそれほどの感謝を示す必要があるかは疑問である。
「ねぇ光安」
「なんだよ」
いつの間にか外はすっかり暗くなり、街灯がともる道路は人もまばらだ。
部活帰りの生徒と、仕事帰りの一般人。その当たり前の景色の中に、二人も普通に紛れている。いや、二人だってただの学校帰りの生徒に過ぎない。
「アンタはバカだから分からないだろうけど、教えてあげる」
「……バカでもいいなら教えてくれ」
それでもまだ光安は、お詫びモードが続いているようだ。バカ呼ばわりされても平然と受け入れている。
実際のところ、頭の出来で裕美と争っても勝てるはずはない。そもそも彼女は、頭の中身が高校生なのかすら怪しい。いや、当人曰く1300歳だから、怪しいどころではない。所詮は人間のかなう相手ではないのだ。
とはいえ、バカであることとバカ呼ばわりされることは違う。これ以上バカバカ言われ続けることには、少しぐらいは抵抗した方がいいぞ、光安よ。
「未来の観測で見えるのはね、あくまで観測する瞬間の未来」
「………」
「つまりね、今サーチすれば全然違う未来になるわ。ヒゲがあってもなくてもね」
「な、何だよそれ……」
あっけにとられる光安。つまりそれは、バカでも分かったという意味である。さすがにこの程度の話が理解できないはずはなかった。
裕美の言う通りなら、白骨化はあの時だけの未来であって、ほっといても次の瞬間には変わっていたことになる。荒瀬は要するに、脅える必要すらなかった。
「この宇宙は、偶然の積み重なったもの」
「………」
「次に何を積み重なるか、予測できないから偶然って言うんですよ」
「その口まねは元ネタが分からない」
「私も知らない」
「じゃあやるなよ」
それでも、光安は裕美を責めはしなかった。
パニックになった曽根や泣き叫ぶ荒瀬を小馬鹿にしていたのなら話は違うだろうが、さっきにせよ今にせよ、彼女にそうしたそぶりはなかったからだろう。
ついでに言えば、おそらく今夜の荒瀬は、真剣にダイエットや運動について考えるはずだ。成人病で早死にするかも知れないという可能性は、彼を不毛なワンツーステップから解放し、本気にさせるかも知れない。彼の意志が続くかはともかくとして、現時点では何も悪いことではなかった。
「でもなぁ、裕美」
「まだ何か不満?」
「いや……不満じゃない」
珍しく、光安は少し照れた顔で裕美に話しかけた。
街灯の下を歩く二人は、遠目には歳の離れた姉と弟のようだ。
「不満じゃないけど…、もしも曽根や荒瀬に何かあったら、助けてやってくれよ」
「はぁ……。まだその話?」
「仕方ないだろ。目の前で白骨化する姿なんか見たらショックはでかいぞ…」
「…………人間だからね」
人間、という言葉に力を込める裕美。
もしかして、自分は地球人類ではないというアピールだろうか。いや、地球人類のカテゴリーに入らないというのは、ある意味では分かりきったことだ。分かっていないのは、どこから現れた何者か、なのだ。地球人類は魔法など使えないのだ。
「いつか歳をとって、老化してこの世を去っていくことまでは知らないけど、まぁ高校三年間の身の安全ぐらいは考えてあげてもいいわ」
「そうか。……そりゃ助かる」
「やけに素直ねぇ」
「冗談で言ったわけじゃねぇからな」
「あ、そう」
冷静に考えれば今のやりとりは、裕美に魂を売り渡す行為に他ならない。
人間であればこそ、いつこの世を去るかは分からない。何が起きるか分からないと誰もが感じるから、保険屋が商売できるのだ。そこで絶対な安全を求めるのは正しいのか? 人の道を踏み外すのではないか? 光安、やはりお前はバカな男だ。
ただし同様の選択肢を提示されたなら、バカと呼ばれても魂を売り渡すのが、人間というものなのかも知れない。それに…、私にとっては、彼が道を踏み外すことこそが望ましい。裕美はもっと自分の能力を解放しなければならない。地球人類との違いを見せつけていかねばならない。
「アンタは?」
「え?」
「アンタの保証は要らないの?」
光安が振り向いた時、裕美は穏やかに微笑んでいた。
例によってその笑顔は、地球人類を超えた魅力を振りまいている。彼はおそらく見たこともない、まるで女神と呼ばれる何者かのように。
さすがに光安も、少し困った顔になった。
「俺…か。俺は別に……」
「ま、アンタの保証は要らないけどね」
ただし、この女神はすぐに邪悪な本性を現わしてしまう。神の定義など私には分からないから、邪悪でも女神は女神である。強大な力の一部として放たれる彼女の魅力は、他に説明のしようがないのだ。
「なんでだよ」
「私のオモチャである限り、嫌でも私が守るから」
「お前のオモチャであることを、俺は求めていない」
「アンタがどうだろうと、私が求めているわ」
きっぱり断言されて、光安は言葉に詰まった。
それは聞きようによっては愛の告白である。裕美の声にそういうニュアンスは全く感じられないが、彼が動揺するだけの威力は十分にあった。
「アンタは……、覚えているはずのない記憶をもっているから」
「………」
「だからそれは、オモチャとしか呼びようがないの」
「裕美にも……」
覚えているはずのない記憶。裕美はその言葉にも、さっきの「人間」以上に力を込めていた。
しかしそれが何なのか、光安には分からないだろう。人間には、自分の記憶の中身を整理する能力などないのだ。それに彼の頭の中には、裕美に関する記憶が、既にすべてを思い出せないほど多く埋もれているのだ。
「裕美にも、思い通りにならないものがあるんだな」
「あるわよ、それぐらい」
裕美という不可思議な存在に、まるで地球人類みたいな側面があったこと。それは光安が彼女を受け入れていくきっかけにはなるだろう。
ただし、ほとんどのことが思い通りにならない人類と、探し回った末にようやく見つかる裕美とでは、絶望的な差があることも事実である。だいいち、喩えでもなんでもなくオモチャにされている光安が、裕美を受け入れなければならない筋合いなど、どこにも存在しない。
「なぜ思い通りにならないのか、分からないものもあれば、分かってるものもある」
「……俺には想像もできない」
「そりゃそうでしょ。アンタは普通の人間だし」
「お前が言うからには、間違いなく「普通」なんだろう」
「ふん」
普通ではない光安を「普通」と呼ぶ裕美。それはある種の皮肉に他ならない。
基本的には全知全能と言っても過言ではない彼女にとって、分からないことの実在は大きな問題のはずだ。彼女の把握する世界への認識が、光安の存在によって破綻しているのだ。
「とりあえず、今日は楽しかったわ」
「そうか。……あの二人もきっと喜んでるだろうな」
「アンタは?」
「俺は…」
裕美がいちいち光安の意向をたずねるのも、彼が思い通りにならない故なのかは定かでない。
いや、過去の事例から考えれば、彼に「裕美ちゃんありがとう。今日も可愛いなー」ぐらい言わせることはできるはずだ。つまりは思い通りになるのだが、あくまで裕美は、操っていない彼のコメントを聞きたいと思っているようだ。
もちろんそれは、光安が自分の意志を表示しないからでもある。彼にとって今日の「遊び」は、曽根と荒瀬のためのイベントだ。しかし裕美はそう受け取っていない。そんな意識のずれは残ったままだ。
「俺だって楽しかったさ」
「そう?」
友だちの幸せは僕の幸せ。光安の無垢な瞳がキラキラと輝いている……わけではない。どちらかといえば腐った魚のように潤んだ瞳で、しかし口にした台詞に嘘はなかった。
「じゃあまた明日。曜子ちゃんにもよろしくね」
「何をよろしくするのか知らねぇが、じゃあな」
別れ際も機嫌の良い二人。曜子の話題がでても、光安は顔色一つ変えなくなっている。名前を出す裕美も、ごくありふれた友だちのような扱いだ。あるいは既に、裕美と曜子は友だちになっているのかも知れない。
三次元の存在ではない曜子の現状は、私にはよく分からない。それでも裕美なら、光安の妄想に入り込んで妹と会話するぐらい難なくやってのけそうだ。ただし妄想妹に、どれほどの自我が存在するだろうか。やはりそれは、兄の頭の出来に比例するのだろうか。
…だとしたら、曜子の将来も絶望の淵にある。
※次から第五章です。近日公開。