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「お前との婚約を破棄する!」とお茶会で叫んだ殿下へ。まだ一杯目ですので、四杯目までお付き合いくださいませ

作者: ま
掲載日:2026/10/22



「エレノア・ベルクール! お前との婚約を破棄する!」



一杯目を注ぎ終えてから三分。予定より早い。

王宮の硝子の温室に、第二王子ジェラルド殿下の声が盛大に反響した。

王妃様の月例茶会で亭主の代理を三年務めているのが、子爵家の娘である私だ。


殿下の腕には桃色の巻き毛の男爵令嬢が絡みついている。

マリエル・ドーソン様。先週ご自分のお茶会で「来週、面白いものが見られますわよ」と触れ回っていたそうだから、この騒ぎもマリエル様の予定どおりなのだろう。

殿下とマリエル様を入れて十二人のお客様が、湯気の立つ茶碗を宙に浮かせて硬直している。


温室の扉の外には、王妃様付きの侍従がいつものように控えている。四杯目の頃合いを王妃様に報告する役だ。

私はポットを置き、裾を払って一礼した。



「承知いたしました。ですが殿下、お茶はまだ一杯目ですのよ?」


「……は?」



殿下の眉が寄った。

婚約破棄を叫んで返ってきたのが茶の話。分かる。私だって逆の立場なら同じ顔をする。



「王妃様の茶会では、春・夏・秋・冬の四杯を順にお出ししますの。お客様には四杯目までお付き合いいただくのが決まりですわ」


「はぁ? 知るか、そんなもの!」



ええ、ご存じないでしょうとも。

殿下はこの三年、一度も二杯目を召し上がったことがない。一杯目を飲み干すと「用がある」と言って退席するのが毎月の決まりで、私の段取り帳にもそう記録してある。


エプロンの隠しに手を入れて、薄い手帳の角に触れた。

懐中時計は二時十三分。四杯目は三時四十分。

あと八十七分。



「お前の悪事は全部分かっているんだ! 今日はそれを皆の前で明かしてやる!」



殿下が指を一本立てた。



「一つ! 先月の茶会で、お前はマリエルの茶に毒を盛った! マリエルはその晩、腹を押さえて倒れたんだぞ!」


「とっても苦しかったんですぅ……」



マリエル様が殿下の袖に頬を寄せる。

一番卓の伯爵夫人が「まあ」と扇を広げ、二番卓では誰かが茶碗を受け皿に置く硬い音がした。



「二つ! お前は母上お気に入りの『月白』を、自分の考えた配合だと言って献上したな。あれはマリエルが考えたものだ。お前はそれを盗んだんだ!」


「わたしの、大切な配合だったのに……」


「三つ!」



殿下は脇に抱えていたものを高々と掲げた。

緑の革の表紙に金の箔押し。

背筋に寒気。まさか、それを堂々と持ってくるなんて。


茶会帳簿。

王妃様の茶室の、鍵の掛かる棚に保管してある帳簿だ。今朝棚を開けたら無くなっていて、どこに消えたのかと思っていたら、こんな所で再会するとは。

それに、あの棚の鍵を持っているのは王妃様と私の二人だけのはずなのに?



「茶会の費用を横領した証拠がここにある! 金貨三百枚だ!」



温室の空気が一段重くなる。

金貨三百枚。子爵家の一年分の収入より多い。



「以上の罪により、お前との婚約を破棄する! お前のような卑しい茶汲み女は、王子の妃にふさわしくないんだよ!」



卑しい茶汲み女。

この婚約を決めたのは王妃様で、殿下は最初から不満を隠さない。「子爵の娘」「茶汲み」と陰で言っているのも知っていた。

知っていたのに、皆の前で言われると胸の奥がちくりとする。


腹が立つのか悲しいのか、自分でも判然としない。

だが今は、どちらにも構っていられない。


段取り帳の中身を頭の中でめくる。

毒。配合。帳簿。三つ。残りの茶も三杯。

よし、数が合った。



「承知いたしました、殿下。では、一杯ごとに一つずつお答えいたしますわね」


「一杯ごと、だと?」


「ええ。亭主が席を外すわけにはまいりませんもの。お茶をお出ししながら、順に」



殿下が鼻で笑った。



「ふん、いいだろう。どうせ何を言っても無駄だがな」



その瞬間。



「……おかわりを」



低い声。

全員が振り向いた。


一番奥の卓に、山のような男。

グレンツ辺境伯、ライナルト様。北の国境を守る方で、黒髪の下の頬から顎にかけて古い刀傷が走り、肩幅は扉ほどもあるので隣の椅子が子ども用に見える。

その方が空の茶碗を私に差し出している。


ちょっと待って。今? 婚約破棄の真っ最中に?



「おい、辺境伯! 場をわきまえろ!」


「一杯目が終わった」



辺境伯は殿下を見もしない。

思わず懐中時計を確認してしまう自分の性分が恨めしい。二時十九分。確かに、一杯目は飲み終える頃合いではある。

いや、そういう問題ではなくて!


この方は三年前から、王都から馬で五日かかる北の果てから、毎月この茶会に来ている。

王妃様の焼き菓子がお好きなのだと皆は噂するし、私もそう思っている。

一杯目から四杯目まで必ずおかわりをして、最後に「うまかった」とだけ言って帰る人だ。



「ネリー、二杯目の支度を」



控えの侍女ネリーが銀の盆に茶葉の缶を載せてくる。

夏の茶。緑の濃い、渋みの立つ若い茶葉に薄荷を少し。焼き菓子は木苺のマカロン。


湯を注ぎ、砂時計を反転させる。

緑の香りが温室に広がって、硬直していたお客様の肩がわずかに下りた。


全員の茶碗に二杯目を注いでから、最後に辺境伯の茶碗を満たす。

大きな両手が繊細な白磁の茶碗を壊さないよう慎重に受け取る。



「では、一つ目の罪からお答えしますわね」



私はマリエル様に向き直った。



「マリエル様。先月のお腹の痛みの原因は、お茶ではございませんの」


「え、じゃあ何だって言うの?」


「マカロンです」




◇




「……マカ、ロン?」



殿下の声が裏返った。



「先月の茶会で三番卓にお出ししたマカロンは二十四個。お客様は六人でしたから、お一人四個の計算ですわね」



私はエプロンの隠しから段取り帳を出して開いた。

毎月の茶会の席次、茶葉の量、湯の温度、焼き菓子の数、お客様が残したお皿まで、全部ここに記録してある。



「そのうち十一個が、マリエル様のお皿に移りました」


「じゅう、いち」



伯爵夫人の扇が止まった。



「う、うそ! 数え間違いよ!」


「あら、三番卓のお皿は二杯目の途中で空になりましたの。給仕をしたネリーが、お皿を下げるたびに数を書き留めておりますわ」



ネリーが進み出て、深々と頭を下げる。



「ま、間違いございません! マリエル様は、その、お皿が空になると残りをお手巾に包んで、先にお帰りになった殿下を追いかけて……」


「ネリー、そこまでで結構よ」



私はネリーを下がらせた。

持ち帰りの件は言わなくてよかったのに。正直者は時々正直すぎる。



「おまけに、その日の茶会の後、殿下から菓子店『金の匙』の詰め合わせが男爵家に届いておりますね? チョコレートが三十粒。『金の匙』は茶会の焼き菓子を納めているお店ですので、ご主人が控えを見せてくださいましたわ」


「そ、それは……!」


「その晩マリエル様が倒れられたと聞いて、私は侍医のハルトマン先生にお願いし、男爵家に往診していただきましたの」



段取り帳を一枚めくる。



「先生の診立ては『食べすぎ』。胃薬を処方して、翌朝には全快なさっています」



温室が静寂に包まれた。

どこかの卓で、ぷっと吹き出す音。



「診立ては翌朝、殿下にもお手紙でお伝えしたはずですけれど……」



私は殿下を見た。



「ああ、お手紙もいつも一行目でお閉じになるのでしたわね」



殿下の顔が紅潮した。

覚えがないのだろう。私の手紙は毎回、封を切られた形跡すら怪しい。茶も手紙も、殿下は最初の一口でおしまいにする方なのだ。



「だって!」



マリエル様が叫んだ。



「だって、おいしかったんですぅ! 王妃様のマカロン、お店のよりずーっとおいしいんだもの!」



一瞬の沈黙。

次の瞬間、二番卓の若い子爵令息が盛大に噴き出し、それにつられて一番卓の老侯爵夫人が扇の陰で肩を震わせ始めた。



「マリエル!」


「だって本当のことですぅ!」



いや、そこは本当でも言わないで?

毒を盛られたと訴えた本人が自分で食べすぎを白状してどうするの。


可笑しい。でも、胸がちくちくする。

十七歳の令嬢が皆の前で笑い物になっている。仕組んだのは私ではないにせよ、止めなかったのは私だ。

……いや待って、毒を盛ったと濡れ衣を着せられたのはこっちだ。同情はここで打ち切り。


ふと見ると、辺境伯が三番卓に視線を向けていた。

三番卓の皿には今日のマカロンが三つ残っている。


辺境伯は立ち上がり、のしのしと三番卓まで歩いた。

お客様が身を縮める。

大きな手が皿を取り、自分の卓に戻ってくる。


そして、一つ食べた。



「……うまい」



なぜ今。

私は段取り帳を握りしめた。駄目、亭主が笑ったら台無しだ。お腹の底から込み上げてくるものを、奥歯で必死に噛み殺す。


残りの二つが載った皿が辺境伯の手で亭主の席の端に押しやられる。



「あんたも食え」


「は、はい?」


「さっきから、腹が鳴っている」



…………は?


鳴ってない。鳴ってません。

……鳴ってた? 茶会の日は湯の温度と砂時計で頭がいっぱいで朝食を抜くのが常とはいえ、まさか聞こえるほど?

二番卓の令嬢が扇の陰で目を逸らした。あ、鳴ってたんだ。最悪。



「い、今は結構ですわ! 茶会の最中ですので!」



辺境伯は頷いたが、皿を引っ込める気は無いらしい。

皿の上のマカロンが二つ、こちらを見ている気がする。



「毒の件は、以上でございます」



どうにか平らな声を出す。

殿下は唇を噛んでいたが、すぐに顔を上げた。



「ど、毒のことはいい! マリエルの勘違いだったかもしれん。だが二つ目は違うぞ!」


「わたし、本当に考えたんです!」



マリエル様が胸の前で手を組む。



「王妃様のお気に入りの『月白』は、わたしの配合なんですぅ。お家で何度も何度も試して、やっと完成したのに、エレノア様が盗んでご自分の名前で献上したんです!」



月白。

私が二年かけて作った秋の茶だ。王妃様がことのほか気に入って、自ら命名してくださった一品である。



「そういえば、先週のお茶会でもマリエル様が皆に話していらしたわね」



二番卓の侯爵令嬢クラリス様が扇の陰で独り言のように呟いた。

その目だけが私を見て、「ご存じでしょう?」と言っている。ええ、存じております。教えてくれたの、あなたですものね?



「では二つ目のお答えは、三杯目のお茶と一緒に」



懐中時計は二時五十一分。

予定より四分早い。悪くない。



「ネリー、秋の茶を」



ネリーが銀の缶を盆に載せてくる。

蓋を開けると、乾いた林檎の香りが立った。


私は茶葉を匙で量ってポットに落とし、湯を注いで砂時計を返した。

琥珀色の茶を十二の茶碗に順に注ぐ。


十二客目の最後の一碗は、マリエル様の前に。



「月白でございます。ご自分でお作りになったのなら、何と何を合わせたか、もちろんお分かりになりますわよね?」



マリエル様が茶碗を見下ろした。



「それと、マリエル様」



私は微笑んだ。

ここが勝負所だ。お願い、乗ってきて。



「この茶葉がどこで採れたものかも、当然ご存じですわね?」




◇




マリエル様が茶碗を持ち上げた。

香りを嗅いで、一口すする。

もう一口。



「……薔薇と、レモンです!」



自信満々の声。

私は首を横に振った。



「残念ですわ。薔薇もレモンも、一枚も入っておりませんの」


「えっ」


「月白は、茶葉に干した林檎の皮を合わせたものです。薔薇に似た香りがするのは茶葉そのものの個性で――ほら、香りの奥に冷たい甘さがございますでしょう?」



マリエル様が口を開け、閉じる。完全な沈黙である。



「その茶葉がどこで採れるかと申しますと」



私が言いかけた時、椅子が鳴った。


辺境伯が立ち上がる。

立つと頭が硝子の天井の梁に届きそうで、殿下が半歩後ずさったのが見えた。



「白霜だ」



辺境伯が言った。



「北の高地でしか育たない。霜の降りる斜面で、年に二度だけ摘む。売り物じゃない」



一言ずつ石を置くような話し方。



「俺の領の茶だ。この三年、俺が白霜を渡したのはエレノア嬢ひとりだけだ」



え。


温室の視線が私と辺境伯の間を行き来した。



「毎月ここに来るたび、持ってきていた」



辺境伯は殿下を見もせず、私の方だけを見て続けた。



「王都の茶はうまくない。だが、彼女の淹れる茶はうまい。それで王妃殿下に、北の茶葉で彼女に何か淹れさせてくれないかと頼んだ。二年かかって、月白ができた」



毎月。五日かけて。

茶葉を持って。


嘘でしょう。三年分の記憶が頭の中で一斉にひっくり返る。

毎月の茶会の朝、裏口に届いていた麻の袋。差出人の欄はいつも空白で、門番は「北の方からの荷です」としか言わなかった。王妃様に「北の茶葉で秋の茶を」と命じられた時も、「白霜」という名だけは伺ったものの、産地を尋ねた記憶は無い。北の領主様方から王家への献上品だろうと、高をくくっていた。

菓子目当ての人だと思っていた。


うそ。

待って待って。だとすると、あの麻袋の中身は――。


顔が熱い。耳まで熱い!

茶会の亭主がこんな所で赤くなってどうするの!



「マリエル嬢」



辺境伯がようやくマリエル様を見た。

マリエル様の肩が跳ねる。



「白霜を、どこで手に入れた?」


「そ、それは……」



マリエル様の目が泳いだ。

殿下を見る。殿下は目を逸らした。



「で、殿下が! 殿下が、そう言えばいいって言ったんですぅ!」


「マリエル!?」


「だって殿下が言ったじゃないですかぁ! 『あいつの茶は全部お前が考えたことにすればいい、母上はどうせ配合なんて分からない』って!」



温室中の扇が一斉に停止した。


母上はどうせ配合なんて分からない。

王妃様の茶会で、王妃様のことを。

老侯爵夫人が口元の扇をすっと下ろした。もう笑ってはいなかった。


殿下の顔から血の気が引いていく。明白な動揺だ。



「ち、違う! 今のは、その、言葉の綾で――」


「殿下」



私は静かに言った。

本当は「は?」と言いたかったけれど、亭主なので我慢した。



「二つ目の罪へのお答えは、以上でございます」



殿下は肩で息をしている。

マリエル様は殿下の袖から手を離して一歩離れて立っており、さっきまで絡みついていた腕が嘘のように遠い。


辺境伯は座り直し、空の茶碗を差し出した。



「……おかわりを」



だから、今?

でも今度は笑えなかった。手が震える。情けない、ポットの蓋までかたかた言っている。

落ち着いて、私。三年間、毎月やってきたことでしょう?


この人の茶碗に注いだ茶は、三年でもう何百杯になるのか。毎回「うまかった」と言われ、焼き菓子のついでの社交辞令だと思い込んでいた私の鈍感さよ。



「ど、どうぞ」



声が裏返った。最悪。

辺境伯は茶碗を受け取ると、私の手元を見て、一瞬だけ口の端を上げた気がした。


錯覚。そう処理しておく。今は茶会の最中なのだから。



「まだだ!」



殿下が叫んだ。

緑の帳簿が卓に叩きつけられ、乱暴に頁が繰られる。



「三つ目がある! これを見ろ!」



近くの卓のお客様が身を乗り出して、殿下の指の先の頁を覗き込む。



「『白金茶 三缶 所在不明 金貨三百枚相当』。お前の字だな、エレノア! 王家の茶葉を三缶も横流ししておいて、所在不明とはよく書けたものだ!」



白金茶。

南の島から年に一度だけ到着する、王妃様の茶葉の中で最も高価なもの。一缶で金貨百枚。



「ええ、書いたのは私です」



私は頷いた。

殿下の口元が勝ち誇ったように歪む。



「認めたな!」


「ですが、殿下」



私は帳簿から目を上げた。



「その帳簿、どちらでお手に入れましたの?」




◇




殿下の口は半開きで停止。



「……は?」


「その帳簿は、王妃様の茶室の鍵の掛かる棚に保管してあるものですの。今朝、棚を開けたら無くなっておりました」



温室の隅で、息を呑む音。



「棚の鍵を持っているのは王妃様と私の二人だけ。私は誰にも鍵をお貸ししておりません。まさか王妃様が、殿下にお貸しになったのですか?」


「そ、それは……侍女に言って、持ってこさせたんだ!」


「あら、茶室の侍女も鍵は持っておりませんわよ?」



殿下の額に汗が浮いた。

温室の中は暖かい。だが、汗をかくほどではない。



「白金茶の三缶が棚から消えているのに気づいたのは十日前でございます。その日のうちに王妃様にご報告して、『所在不明』と書いたのもその時ですわ」



私は段取り帳の、十日前の頁を開いて見せた。



「それで、所在は分かったのか?」



辺境伯が訊いた。

助け舟か、単なる興味か。この人の場合、どちらもあり得て判別不能。



「いいえ、まだ。ですから、今から確かめますのよ」



懐中時計は三時三十一分。

九分早いが、もう待つ必要はない。



「ネリー、冬の茶を」



ネリーの盆には、缶が一つだけ。

黒い漆の缶に金の帯。



「白金茶。棚に残った、最後の一缶でございます」



蓋を開けると、甘い香りが温室を満たした。

蜂蜜を焦がしたような、それでいてどこか冷たい香り。一度嗅いだら忘れない。


湯の温度は少し下げ、砂時計は二度返す。

私は最後の一缶の茶葉を惜しまず量った。

王妃様のための茶だ。本来なら慶事の日に出す一缶だが、今日がその日なのかもしれない。


淡い金色の茶が茶碗に満ちていく。


一番卓、二番卓、三番卓。

殿下の前に。マリエル様の前に。辺境伯の前に。

そして、主のいない上座にもう一つ。



「さあ、どうぞお召し上がりくださいませ」



お客様が一斉に茶碗を口に運ぶ。

最初に声を上げたのはクラリス様。



「……あら、この味」



クラリス様は茶碗を置き、マリエル様を見た。



「先週の土曜日、マリエル様のお茶会でいただいたお茶と同じですわね。マリエル様は確か、『殿下からいただいた幻のお茶』とおっしゃっていたかしら?」


「し、知らない! わたしは知らないわよ! 殿下がくれたの、ただのお土産だって!」



マリエル様が叫ぶ。

二番卓の令嬢が二人、こくこくと頷いた。あの土曜日、男爵家のお茶会に招待されていた方々だ。



「ええ、三缶でしたわよね。皆に見せていらしたもの。黒い缶に金の帯の」


「……っ!」



殿下が乱暴に椅子を引いた。



「急用を思い出した。俺は失礼する!」



立ち上がる。

いつものように。一杯目で席を立つ時と同じ顔で。

でも、今日は四杯目。



「殿下、まだ四杯目のお茶が――」


「知るか!」



殿下が扉に向かって大股に歩き出し、その肘が給仕の台車に当たった。


台車が傾く。

沸かしたての湯の入った銅の薬缶が、私の方に滑り落ちてくる。


熱湯。避けられない。

目をつぶった瞬間、がしゃん、と重い音がした。


恐る恐る目を開けると、薬缶の胴に大きな素手。



「……っ、辺境伯様!?」


「熱くない」



嘘だ。湯気が上がっている。

辺境伯は顔色一つ変えずに薬缶を台車に戻すと、何事もなかったように私の前に立ち、殿下との間を塞いだ。



「北の人間は、熱いのに強い」



そんなわけないでしょう!

言い返す暇もなく、温室の扉が外から開いた。



「あら、四杯目には間に合ったわね」



銀の髪を高く結い上げた女性が、侍従を二人従えて立っている。

アデライード王妃殿下。


お客様が一斉に立ち上がって膝を折るなか、殿下だけが扉の前で棒のように固まっていた。

ああ、来た! 間に合った。

安堵で膝の力が抜けかけて、慌てて踏ん張る。まだよ、まだ亭主の仕事は終わっていない。



「は、母上……なぜ、ここに」


「なぜって。私の茶会よ?」



王妃様は殿下の横を素通りして上座に着き、私が注いだばかりの白金茶を手に取って、香りを確かめてから一口含んだ。



「ええ、私の白金茶ね。この香りは間違えようがないわ」


「王妃様は、毎月四杯目にだけお越しになりますの」



私は殿下に向かって言った。



「午後の謁見が三時半に終わりますので。この三年、一度も欠かされたことはございません」


「殿下はご存じなかったのね」と老侯爵夫人が独り言のように言った。「いつも一杯目でお帰りになるから」



殿下の顔色は赤から白に、白から灰色に。



「ジェラルド」



王妃様が茶碗を置いた。

声は穏やか。それが余計に怖い。



「その帳簿を、こちらに」



殿下は動かない。

辺境伯が一歩踏み出すと、それだけで殿下は帳簿を差し出していた。


王妃様は帳簿を受け取り、最後の頁を開いた。



「エレノアから白金茶の件を聞いて、すぐに調べさせたの。茶室の棚の鍵を作ったのは城下の錠前屋ガストンの店。二週間前に、その合鍵を一本頼まれたそうよ」



侍従の一人が進み出て、紙を一枚広げた。



「注文主の欄には第二王子付きの従僕の名前。お代は殿下のお小遣いから、きちんと払われていたわ。几帳面ね」



え、合鍵!? 王妃様の茶室の合鍵を、自分のお小遣いで?

あら、変な所で几帳面。って、感心している場合じゃない。



「三缶を持ち出して、マリエル嬢に贈った。白金茶が棚に無いことをエレノアが帳簿に書いているのを見て、慌てて帳簿ごと持ち出した。違う?」


「ち、違います、母上! 俺は、エレノアの不正を――」


「不正を暴くために、私の茶室の棚を合鍵で開けたの?」



殿下が口を閉じた。



「それに、扉の番をしていた侍従から、面白い話も聞いたわ」



王妃様は扇を開いた。



「『母上はどうせ配合なんて分からない』、だったかしら?」



温室の温度が下がった気がした。

マリエル様が両手で口を押さえ、殿下は膝から崩れそうになって扉の取っ手につかまった。



「分かるわよ。月白を飲んだ最初の日に、これは北の茶葉ね、と言ったもの。エレノアは覚えているわね?」


「はい、王妃様」



覚えている。

あの日、王妃様は「北の誰かさんの茶葉ね」と言って愉快そうに目を細めた。どういう意味なのか、私は今日まで理解していなかった。

……もしかして、王妃様は全部ご存じだったの?



「では、裁きましょう」



王妃様は茶碗を手に、事もなげに宣告した。



「ジェラルド。婚約破棄は受けるわ。あなたから言い出したことだもの、取り消すとは言わせないわよ」


「は、はい……」


「白金茶三缶、金貨三百枚。あなたのお小遣いから返しなさい。足りない分は働いて返すこと」


「働いて、とは……?」


「グレンツ辺境伯」



王妃様が辺境伯の方を向いた。



「白霜の茶摘みは、人手が足りないそうね?」



辺境伯は少し考えてから頷いた。



「……足りない」


「では一年、ジェラルドを預けます。霜の降りる斜面で、年に二度の茶摘みを手伝わせて。お茶の値打ちが分かるまで、帰さなくて結構よ」


「母上!? 北の果てですよ!?」



北の果てで、一年、茶摘み。しかも辺境伯様の下で。

あの殿下が、霜の降りる斜面で籠を背負って?

想像した途端に頬が引きつって、私は段取り帳で口元を隠した。駄目、ここで笑ったら亭主失格だ。



「あなた、その茶を『田舎の草』と呼んだことがあったわね。半年前、ここで。侍従から聞いているわ」



殿下が絶句した。

私の段取り帳の四月の頁にも「殿下、白霜の春摘みを残して退席。『田舎の草』と」と書いてある。辺境伯はあの時、殿下の残した茶を無言で飲み干していた。



「マリエル・ドーソン嬢」



マリエル様の肩が跳ね上がる。



「今後、私の茶会にあなたを招待することはありません。加えて、先月の侍医の往診代と、先週あなたがお客様に振る舞った白金茶の代金の一部は、ドーソン男爵家に請求します」


「そ、そんなぁ……っ」



マリエル様はその場にへたり込み、桃色の巻き毛が床一面に散乱した。


侍従たちが殿下の両脇に立つ。

殿下は抵抗しなかった。抵抗する気力が残っていないのだろう。


王妃様の視線が茶碗に落ち、口元が一瞬歪む。



「……馬鹿な子」



誰にも聞かせるつもりのない声。王妃様ではなく、母親の声だった。


扉の前で殿下が足を止めた。



「……エレノア」



何かを言いかけて、やめる。

私は膝を折って、いつもどおりに礼をした。



「お気をつけて、殿下。北のお茶は、冷めないうちにどうぞ」



殿下が連れ出されていく。

その背中を見送りながら、私はふいに十二歳の殿下を思い出した。


婚約が決まったばかりの頃、まだ見習いだった私の淹れたお茶を、殿下は一度だけ四杯目まで座って飲んだことがある。

春の茶は渋すぎて、夏の茶はぬるかった。それでも殿下は最後に「……悪くない」と言った。

あの日の殿下は、どこに行ってしまったのだろう。


胸がすっとした反面、惜しいような気もする。

惜しいと思う自分に呆れる。あの人は今日、私を「卑しい茶汲み女」と呼んだのに。



「エレノア」



王妃様に呼ばれて我に返った。



「よく四杯目まで持たせたわね」


「お茶を淹れていただけでございます」


「そう。じゃあ、もう一杯いただける?」



王妃様が空の茶碗を差し出した。

私は黒い漆の缶を開けた。


缶の底が見えている。

最後の一缶の最後の一匙まで、さっき全部使い切ってしまったのだ。



「あっ……も、申し訳ございません、王妃様。白金茶は、もう」


「あら」



王妃様は扇で口元を隠し、肩を揺らした。



「いいのよ。今年一番おいしい白金茶だったわ」




◇




茶会がお開きになったのは四時を少し過ぎた頃。


お客様を見送り、ネリーを先に下がらせて、私は一人で茶器を洗った。

硝子の天井越しの光は、もう橙色。


十三客の茶碗。四つのポット。銀の匙が十三本。

数を数えていると気持ちが平静に戻る。数は嘘をつかないし、勝手に婚約を破棄したりもしない。



「手伝う」



背後から声がして、私は匙を落としかけた。

びっくりした……心臓が口から出るかと思った。


振り向くと辺境伯。

え、まだ帰っていなかったの?



「い、いえ、お客様にそんな」


「もう客じゃない。茶会は終わった」



辺境伯は袖をまくって、洗い終えた茶碗を盆に載せ始めた。

手は大きいのに扱いは驚くほど丁寧で、縁の欠けやすい白磁の茶碗が一客ごとに布にくるまれていく。


その右の掌が赤い。

薬缶の胴の丸みそのままに、皮膚が赤く腫れ上がっている。



「ちょっと、見せてください!」



返事も待たずに手首をつかみ、洗い桶の冷水に掌ごと沈める。

辺境伯の手は、私の両手でやっと包めるくらい大きい。



「熱くないって、おっしゃったくせに」


「熱くなかった」


「嘘ばっかり。赤くなってるじゃありませんか!」


「……少し熱かった」



ほら見なさい。

ばかな人。私なんかのために素手で薬缶をつかむなんて、ばかな人。

そう思うのに、水の中で握った手を離せなかった。


しばらく、水の滴る音だけが続いた。



「あの」



私は水の中の手から目を離せずに言った。



「白霜のこと、どうして今までおっしゃらなかったのですか?」


「言う必要があったか?」


「ありました! 私、ずっと王妃様への献上品だと思って……あなたのことも、焼き菓子がお好きなのだとばかり」


「焼き菓子は好きだ」


「そういうことではなくて!」



やだ、声が大きすぎた。

どうして私、こんなに怒っているの? ううん、怒っているのではなくて悔しいのだ。三年も気づかなかった自分が。

辺境伯も目を丸くし、困ったように空いている方の手で頬の傷を掻いた。



「三年前、初めてここに来た」



辺境伯が言う。



「王妃殿下に呼ばれて、国境の報告に来た。茶会など出たことがない。作法も知らない。誰も隣に座らなかった」



覚えている。

三年前の秋、見習いから亭主の代理になったばかりの私は席次表を前に困惑した。誰も刀傷の辺境伯の隣を望まなかったから、結局、亭主の席の隣に座ってもらったのだ。



「あんたが一杯目を注いだ。俺は、いつもどおり一息で飲み干した」



ああ。

思い出してしまった。



「そうしたら、あんたが言った。『一気に流し込むお茶ではございません! 舌を火傷なさいますわよ!』」


「わ、忘れてください!」



あの日の私は亭主の代理を任されたばかりで気が立っていて、隣にいるのが王都で一番恐れられている辺境伯だということも頭から吹き飛んだまま、叱りつけたのだ。

そのうえ二杯目は、わざとぬるめに淹れて「今度は舌の上で転がしてくださいませ」と念を押した。

ああ、恥ずかしい。いっそ温室の床に埋まりたい。



「国境で俺を叱る者はいない。王都でも、誰も目を合わせない」



辺境伯は水の中の自分の手を見下ろした。



「ぬるい二杯目は、うまかった。茶に味があると、あの日初めて知った。それで、また叱られに来たくなった」



叱られに。

この人、三年間、叱られに来ていたの?



「毎月来る理由がいる。だから茶葉を持ってきた」



それだけ、って顔で言わないで。

五日かけて、毎月、三年も。



「……おかわりを、くれないか?」



え?


私は空のポットを見た。茶葉の缶を見た。

どれも空。



「もう、お茶はありませんわ」


「知っている」



辺境伯がこちらに向き直る。

夕陽が頬の傷を赤く縁取っている。



「だから、今度は俺の領で淹れてくれないか?」


「……え」


「白霜の斜面に小さな館がある。茶を淹れる部屋もある。湯はいくらでも沸かせる」



ええと。

館に、茶を淹れる部屋に、湯。



「……つまり、辺境伯家の茶会係としてお雇いくださる、というお話ですの? お給金の相談でしたら、王妃様を通していただかないと」


「違う」



辺境伯が珍しく早口になった。



「違う。雇うんじゃない。……妻として、だ」



水の中で、大きな手が私の手を握り返した。



「一生、おかわりを頼みたい。あんたに」



頭の中で段取り帳をめくった。

最初の頁から最後の頁まで、全部。


こんな頁、どこを探しても無い。

婚約破棄の噂も、消えた白金茶のことも、四杯目に王妃様がいらっしゃることも書いてあった。

でも、この人に求婚された時の段取りなんて一行も書いていない。


どうしよう。

いや、どうしようではない。答えなんか、とうに決まっている。

毎月の茶会の朝、裏口に届く麻の袋を、私は誰より先に開けに行っていたのだから。



「……条件が、ございます」



声が震えた。

落ち着いて。条件を提示するだけ、茶葉の発注と一緒!

辺境伯の眉が微かに上下した。



「殿下が茶摘みをさぼらないよう、私が監督いたします。それから」



息を吸う。



「おかわりは、一度に三杯までですわよ?」



辺境伯が目を瞬いた。

次の瞬間、刀傷の顔がくしゃりと崩れた。


初めて見る顔。

この人、こんなふうに笑うんだ。ずるい。三年も隠していたなんて、本当にずるい。



「四杯では駄目か?」


「駄目です。四杯目は、王妃様のための一杯ですもの」


「なら、三杯でいい」



戸口の方で、扇の閉じる音がした。



「話はまとまったようね」



戸口に王妃様。

扇を温室に置き忘れたのだそうで、手には確かに扇がある。……いつからそこに?



「私の茶会係を連れていくなら条件があるわ、辺境伯。毎月白霜を届けること。もう一つ、年に一度はエレノアを王都に帰して、四杯目を淹れさせること」


「……承知した」


「お、王妃様、まさか最初からご存じで」


「ご存じも何も」



王妃様は呆れたように扇で辺境伯を指した。



「この人、毎月私の所に国境の報告に来るたびに、あなたのお茶の話しかしないのよ。だから私はてっきり、とうの昔に口説き落としたものだと思っていたわ。……三年も黙っていたの? 本当に?」


「……言う機会が無かった」


「毎月あったでしょうに!」



王妃様の扇が辺境伯の肩をぱしんと叩いた。

あの王妃様が、本気で呆れている。


辺境伯を見ると、耳まで真っ赤。

可愛い、なんて思ってしまった自分にびっくりする。

水に浸けた手まで赤い気がする。


私の顔も、きっと同じ色。




◇




翌年の春。


北の高地は、まだ朝に霜が降りる。

白く光る斜面に、茶摘みの籠を背負った人影が並ぶ。


その中に、見覚えのある金髪が一つ。



「腰が……腰が痛い……」



ほら、言わんこっちゃない! 屈むなら膝を使ってと、昨日も言ったのに。

第二王子殿下はこの半年で別人のように日焼けした。

最初の一か月は毎日「帰る」と言い、二か月目には「茶葉は全部同じに見える」とぼやき、今年の春になってようやく、芽の柔らかさで摘む葉を選べるようになった。



「ジェラルド様、一芯二葉ですよ。三枚目は摘まないで」


「分かってる! 分かってるから、上から見るなって!」



斜面の上の館の露台から、私は手を振った。

ジェラルド様は文句を言いながらも、籠の中の葉を一枚ずつ点検し始めた。


王都からは、王妃様の手紙が月に一度届く。

先月の手紙によると、マリエル様は男爵家に届いた請求を払うために城下の菓子店で働き始め、味見役としてたいへん優秀なのだそうだ。

ただし、売り物のマカロンが毎日三つずつ足りないらしい。


昼になると、茶摘みの人たちに茶を配るのが私の仕事だ。

摘みたての白霜を軽く炒って、大きな薬缶で淹れる。王宮の茶会のような作法は無い。木の椀に、なみなみと注ぐだけ。


ジェラルド様は椀を両手で受け取り、ふうふうと冷ましてから飲んだ。



「……うまい」



蚊の鳴くような声で、殿下は確かにそう言った。

一年前に『田舎の草』と呼んだ茶を今は両手で大事そうに抱えて飲んでいる。


ねえ、やっと分かったの? と言いかけて、すんでの所で飲み込む。

聞こえなかったふりをしてあげるのが、元婚約者としての最後の情けだ。


露台の上の小さな卓に戻ると、向かいには山のような人。

右の掌には、あの日の火傷の痕がうっすらと残っている。

え、もう飲み終わったの? 注いでから一分も経っていない。



「おかわりを」


「はい、旦那様。二杯目ですわね」


「……三杯目だ」


「一杯目は朝ご飯の時でしょう? あれは数に入りません」


「いや、入る」


「入りません」



辺境伯は喉の奥で笑って、卓の上の私の手を取った。

火傷の痕の残る掌が指先ごとそっと包み込む。



「エレノア」



名前で呼ばれるのには、まだ慣れない。冬に婚礼を挙げてもう三月も経つのに、呼ばれるたびに頬が熱くなる。

ずるい。言葉は少ないくせに、狙いだけは絶対に外さない人。



「来年も、再来年も、数えてくれ」


「……ええ。一生、数えて差し上げますわ」



段取り帳の新しい頁に、私は今日の数を書き込んだ。

白霜、二杯目。旦那様の主張では、三杯目。


この数だけは、何度数えても合わない。

合わなくていいと思えたのは、生まれて初めてだった。




↓番外編「四杯目まで、待つ」(王妃視点。なぜ四杯目まで来なかったのか)

https://note.com/wise_turtle184/n/n06647dab0e23?app_launch=false

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