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【第36話】凍える素足と、大地の底から湧き上がる大龍脈の奔流

「……嫌よ」


 わたしは手を下ろし、マイヤさんを真っ直ぐに見つめ返した。


「わたしは、耳を塞がない。彼らは獣じゃない、人間よ。ただの飢えた人間だわ。あの麦粥くんも、手袋のおじさんも……誰かの大切な家族なの。……わたしは、聴き耳の魔女よ。誰かが発した言葉を、ただ右から左へ受け流して傍観するなんて、絶対に嫌!」


 わたしは机の上の魔導通信機に向かい、冷たい真鍮のレバーを握った。


 北の暴走を南に伝えれば、確実に火の海になる。


 だから、わたしは別の報告を打つことにした。


「大吹雪、第一〇八観測所。窓および屋根激しく軋む。轟音にて耳も完全に閉ざされる状況。各所、雪崩や凍死に注意されたし」


 無機質な暗号文にしてそれを送信すると、わたしは通信機の電源を完全に落とした。


 これで、南の軍は「山脈は猛吹雪で音も聴こえないし、誰も動けないのだ」と思い込むはずだ。


 わたしは振り返り、はっきりと宣言した。


「……止めるわ」


『南のヒトに報告しなかったわね。……それで、どうするのよ? まさか吹雪の中に飛び出して、身一つで北の軍隊の前に立ち塞がる気?』


「この魔導通信機を使っていて、気づいたことがあるの」


 わたしは、沈黙した真鍮の機械を撫でた。


「この魔導具は、魔力を媒介にして風の音を『受信』し、そしてこちらの言葉を『送信』もできる。なら、これと同じことが、わたしの『聴き耳』の魔法にもできないだろうか……って」


『聴き耳を、反転させるということ?』


「ええ。可能性はあるはずなの。だって、マイヤさんと念話で繋がる時、わたしはあなたの声を『聴く』こともできれば、自分の声を『話す』こともできるのだから」


 もし、わたしの声を、風のノイズに乗せて北の軍勢へ向けて指向性を持たせて放つことができれば。


 わたしは壁に掛かった分厚い防寒外套に手を伸ばし、しっかりと袖を通した。


「うんと高いところ……大山脈の風が集まる一番高い尾根に立って、わたしの魔力を空っぽになるまで使って『叫べ』ば、きっとなんとかなるはずよ」



 ◆◆◆



 わたしはフードを目深に被り、山小屋の重い木の扉に手をかけた。


 その時だ。


『やれやれ、なのよ。お馬鹿な聴き耳の魔女のアルセア。よく聞くのよ。ここはどこ?』


 背後から、呆れ果てたようなマイヤさんの念話が響いた。


「え、第一〇八観測所……?」


『違うのよ。あなたこの半年間、森を歩いて気づかなかったのよ?』


「どういうこと?」


『ここは北の大山脈。神が雷を落とした場所の一つ。ヒトの国と国を分断する、大龍脈の真上なのよ』


「大龍脈!? そうなの!?」


『やれやれ、なのよ。酸っぱい漬物ばっかり作っていて、魔女としての修行がおろそかなんじゃないかしらなのよ。この木の家を拠点にしたときに、最初に知っておくべきことだったのよ』


「う、返す言葉もございません……」


 わたしはシュンと肩を落とした。


 確かに、畑の土壌改良や壺漬けの温度管理には熱心だったけれど、足元の巨大な魔力の流れには全く意識が向いていなかった。


「でも……」


 大龍脈なら、その力を借りられれば。


『そうよ。大地の脈動と風の力にあなたの魔法を乗せれば、ちっぽけな魔力でも、ずっと大きく、広く『声』を届けられるかもしれないわ』


 希望が見えた。


『急ぐのよ、アルセア。嘆く声が大きくなっているのよ』


 暖炉の火の明かりの中で、マイヤさんの灰緑の瞳が鋭く光った。


「うん!」


 わたしは力強く頷き、今度こそ迷いなく重い木の扉を押し開けた。



 ◆◆◆



 猛吹雪の中、わたしは環境魔法の結界を張りながら、大山脈の高い尾根を目指して歩き出した。


 結界と身体強化の二重詠唱。


 普段ならすぐに息が上がって魔力切れを起こすはずなのに、不思議と疲労感はなかった。


 歩きながら霊感を極限まで研ぎ澄まし、風が運んでくる兵士たちの悲痛な声を『聴き』続けているからだろうか。


 前方を、マイヤさんが自前で結界を張ってすいすいと先導してくれている。


 彼女の美しい銀灰色の毛並みは、どれだけ吹雪が荒れ狂っても見失うことはなく、雲の隙間から差す月明かりを神々しく照り返していた。


 雪を踏みしめながら、わたしはかつてお師匠さまと一緒にトヨノクニの森を歩いた時のように、吹雪の中で森を深く『感じ』ようとしていた。


 故郷の村の裏山で、小さく脈打つ龍脈に初めて触れたあの時のように。


 しかし、分厚い長靴越しの足裏では、大地の声が遠く、どうにももどかしい。


「マイヤさん、ちょっと待って」


 わたしは足を止めると、履いていた長靴を脱ぎ、左右の靴紐をしっかりと結んで肩から提げた。


 むき出しになった素足に、雪の強烈な冷たさが突き刺さってくる。


『……何をしているのよ。身体強化と結界があっても、しもやけになるかもしれないのよ?』


「大丈夫。長靴の中にチュニアの唐辛子の粉を敷いて踏んでいたから、足の裏はぽかぽかしているわ。それに、こうすれば……」


 わたしは雪をぐっと踏みしめ、そのさらに下にある『土』の感触を探った。


 一時的に、身体を守っていた環境魔法の結界を解除する。


 猛吹雪の刃のような冷たい空気と、冬枯れにもならない針葉樹の深く鋭い匂いを、胸いっぱいに吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。


 感覚が研ぎ澄まされていく。


 雪の下で、まだ遠い春をじっと待つ大地の力。


 命を内包する霊気の塊。


 さらにその奥深く。


 決して凍ることのない熱を含んだ地層。


 人の営みなど及びもつかないほどの悠久の歴史を刻んだ、かつては海の底だったという強固な岩盤。


 わたしは自分の中にあるちっぽけな魔力を、細い細い糸を紡ぐように、その大地の奥底へと真っ直ぐに伸ばし続けた。


 そして、その果てに。


「……見つけた」


 それは、うねるような巨大な熱の奔流。


 神の雷が落ちた分断の地を貫く、大龍脈の確かな脈動だった。


 わたしは、素足の裏から伝わる圧倒的な大地の熱に意識を委ね、かつて帝都の『お茶会』で触れたあの深淵の記憶を引っ張り出した。


 そして、失われた『原初のことば』を、凍える唇から紡ぎ出す。


『星よ、星よ、あまねく力を司る大いなる龍よ。我が真名はアルセア、聴き耳の魔女に、その力を貸し与えたまえ』


 それは、魔法という名の強制ではない。


 世界そのものへの、祈りのような語りかけだった。


 ズン、と。


 大山脈の奥底から、信じられないほどの質量の魔力が、わたしの素足を通じて跳ね上がってきた。


 ――その瞬間だった。


 巨大な魔力と共に、途方もないスケールの『大地の記憶』が、わたしの脳髄に直接流れ込んできたのだ。


 数千年前。


 神の雷が落ちるずっと前。


 言葉が一つだった時代、この大地で生きた無数の命たちの喜びと悲しみ。


 豊穣を祝い、土に感謝し、同じ火を囲んで笑い合った記憶。


 争いも分断もなく、ただ自然と調和して生きていた原初の人間たちの、温かく、そしてあまりにも巨大な感情の波が、わたしの小さな自我を跡形もなく押し流そうとする。


(ああ……なんて暖かくて、哀しい……わたしは、誰……?)


 心地よい忘我の淵に沈みかけた、その時だった。


『アルセア! 飲み込まれてはいけないのよ!』


 マイヤさんの鋭い念話が、雷のように脳内に響き渡った。


 ハッと我に返る。


 そうだ。


 まともに受け止めようとすれば、ちっぽけな人間の肉体など一瞬で弾け飛んでしまう。


 自我を保て。


 わたしはただの『管』だ。


 巨大な龍脈の力を地上へと流し、北の兵士たちへ『声』を届けるための、ちっぽけな『端末』に過ぎないのだ。


 龍脈の力を借りて大魔法を行使する。


 これこそが、師匠である『常盤の魔女イルマ』から最後に教わった、とっておきの秘法だった。

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