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【第21話】温かな見送りの声と、黒煙を上げて進む巨大な船

 そこからの日々は、まさに地獄のような忙しさだった。


 帝国公用語は、教養レベルの読み書きができるというだけで、複雑な政治的議論に耐えうるものでは到底ない。


 留学までの準備期間、わたしは通常の魔女の座学や過酷な魔法実習、そして『聴き耳』の訓練をこなしながら、その合間を縫って、帝国公用語の高度な文法と語彙、さらには北の国の歴史的背景や政治構造に関する膨大な資料を頭に叩き込むことになった。


 それは単なる暗記作業ではなかった。


 帝国の法律書を開けば、そこにあるのはすべてを数式のように論理的に割り切り、「力による均衡」と「契約」で世界を統治しようとする冷徹なパラダイムだ。


 一方で、チュニアの歴史書を開けば、そこにあるのは血と土の因縁であり、理屈では決して割り切れない民族の情念と怨念の渦である。


 根本的に成り立ちの違う二つの思想を、どちらに偏ることもなく、正確な言葉として自分の中で変換し結びつける。


 それは脳の回路を無理やり焼き直すような、すさまじい苦痛を伴う作業だった。


 睡眠時間は削られ、目は常に充血し、自室を占拠していた大量の漬物壺の世話すらおぼつかない日々。


 机に向かったまま気絶するように眠り、北風の寒さで目を覚ましては、また分厚い本をめくる。


 ある夜、睡魔と疲労で文字が幾重にもブレて見え、ついにペンを取り落としてしまったことがあった。


 限界を超えた詰め込みに、頭が割れるように痛い。


 どうしてわたしがこんなことをしているのだろう。


 まだ十八歳の、ただの魔女の卵なのに。


 弱音が喉元まで出かかった時、ふと部屋の隅から、かすかに酸味を帯びた香辛料の匂いが漂ってきた。


 わたしがこの一年、北の街の寒さの中で、市場の人々の声を聴きながら、ユアンから教わった『醸しのまじない』をかけて育ててきた壺漬けの匂いだ。


 わたしはふらふらと立ち上がり、小皿に真っ赤な壺漬けを少しだけ取り出して、口に運んだ。


 強烈な辛さと、目が覚めるような酸味、そして大地の深い旨味が、疲労しきった脳と体をカッと内側から燃え上がらせる。


 ――あの日、市場で額に汗を浮かべながらこの辛さを「美味い」と笑った、ウエダさまの顔。


 ――茹でダコのように顔を真っ赤にして涙ぐみながら、「海の男は刺激を好むのです」と強がったティゲールさまの不器用な笑顔。


 二人の偉大な外交官は、遠い国からやってきた冷酷な権力者などではなかった。


 彼らは、自分の子どもたちが生きる未来の平和を願い、この途方もなく巨大な世界の分断に、必死に橋を架けようとしている一人の人間なのだ。


 言葉の壁を越え、心の壁を越える。


 異なる文化の匂いを聴き取り、繋ぎ合わせる。


 それこそが『聴き耳の魔女』であるわたしの、本当の魔法のはずだ。


 わたしは両頬を両手でパンッと強く叩き、気合いを入れ直して再び机に向かった。



 ◆◆◆



 そして、身を削るようなぎゅうぎゅうの準備期間を経て。


 ついに帝国へ旅立つ日の朝。


 わたしは二人の外交官から手渡された三つ目の身分証のバッジを胸につけ、大きなトランクを一つだけ引きずって、馬車に乗る前に、あの北の街の下町市場へと足を運んでいた。


 早朝の冷え込む空気の中、すでに屋台の店主たちは火を熾し、せわしなく立ち働いている。


 わたしが市場の入り口に立つと、見慣れた顔ぶれが一斉にこちらを振り向いた。


「おいおい嬢ちゃん! 本当に西のデカい国に行っちまうのかい!」


 あの蕎麦巻きを焼いてくれたおやじさんが、粉まみれの手をエプロンで拭いながら大声で叫んだ。


「ああ! 今日から帝国の魔女学校へ留学するのさ! おやじさんの蕎麦巻きが食べられなくなるのは寂しいけどね!」


 わたしがすっかり板についた北訛りのチュニア語で言い返すと、市場のあちこちからドッと笑い声が上がった。


「馬鹿野郎、寂しいなんて柄じゃねえだろ! ほらよ、これを持っていきな!」


 おやじさんが放り投げてきたのは、ずっしりと重い紙袋だった。


 中には、長期保存が利くように乾燥させた真っ赤な唐辛子と、チュニア北部の乾物がたっぷりと詰め込まれている。


「帝国のメシは味がしねえって噂だからな! そいつをぶっかけて、腹の底から燃やして気合いを入れろ! 帝国の連中に、東の嬢ちゃんの意地を見せてやれ!」


「おじさん……ありがとう!」


 次々と、干物屋のおかみさんや、串焼き屋の兄ちゃんたちが寄ってきては、トランクの隙間に保存食や木の実をねじ込んでいく。


 彼らは、わたしがどんな重い「特命」を背負っているかなど知らない。


 ただ、この市場で毎日一緒に泥臭い言葉を交わし、値切り合ってきた一人の小娘が遠くへ行くのを、彼らなりの荒っぽい愛情で送り出してくれているのだ。


「……負けないわ! 向こうの連中に、チュニアの壺漬けの辛さを教えてやるんだから!」


 わたしが涙をこらえて笑うと、市場の人々は「おう、やったれ!」と頼もしく手を振ってくれた。



 ◆◆◆



 北の街に別れを告げ、わたしは世界の中心である帝国へと向かう巨大な蒸気船の甲板に立っていた。


 見上げるほどの巨大な煙突から、黒々とした煙が空へ吐き出されている。


 圧倒的な鉄と蒸気の塊は、西側の覇権国家の国力をそのまま体現しているかのようだった。


 冷たい海風が頬を打つ。


 船の汽笛が、新たな旅立ちを告げるように力強く鳴り響き、足元の甲板がゆっくりと大地の底から響くような振動を始めた。


 振り返れば、遠ざかるチュニアの大地と、そのさらに奥、見えない境界線の向こう側に広がる北の国。


 凍てつく大地で、飢えと寒さに耐えながら、それでも強い意志で生きようとしている人々の声が、かすかに風に乗って聴こえるような気がした。


 前を向けば、まだ見ぬ巨大な帝国と、そこで待ち受ける数え切れないほどの言葉と、果てしない試練。


 不安がないと言えば嘘になる。


 わたしはまだ、ちっぽけな魔女の卵にすぎないのだから。


 けれど、わたしの手提げカバンの中には、市場のみんなから貰った香辛料と、わたしが北の街で一年間手塩にかけて漬け込んだ自慢のチュニアの漬物壺が一つだけ、厳重に布で包まれて大切にしまわれている。


 この壺の中には、南の温かい記憶と、北の過酷な大地の匂い、そして平和を願う人々の想いが、しっかりと混ざり合って息づいているのだ。


 わたしは大きく深呼吸をし、海の向こうの途方もない挑戦に向けて、静かに決意の炎を燃やしたのだった。

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