迷子のクマと、夜の案内人
冬の夜、閉園後の屋上遊園地には、誰もいないはずのメリーゴーランドが月明かりに照らされていました。
その傍らで、茶色いクマの着ぐるみがベンチに座り、膝を抱えています。中に入っているのは、ツバキという名の女性です。彼女はショッピングモールのイベントスタッフでしたが、ある日を境に、この分厚いアクリルの毛皮を脱ぐことができなくなってしまいました。
人の視線が、針のように刺さる。 笑顔を求められるたびに、自分の顔がひび割れていく。 そうして逃げ込んだのが、このクマの中でした。
「……はぁ。冬眠、したいなぁ。一生、この綿の中に埋もれていたい」
着ぐるみの頭の中で、ツバキが独りごちた時です。
「それは困りますね。クマがこんなところで冬眠しては、星を見る邪魔になります」
低く、深く、まるで古いチェロの弦を弾いたような声が響きました。ツバキが顔を上げると、そこには長いコートを羽織ったカワムラという男が立っていました。彼は屋上の一角にある古い天文台の管理を任されている男です。
カワムラはツバキが人間であることなど最初から気づいていないかのように、クマの頭に向かって静かに微笑みました。
「見てごらんなさい。今夜は空気がよく冷えている。キラキラがよく見えるはずだ」
ツバキは着ぐるみの重い首を動かし、空を見上げました。
「星なんて、どこにでもあるじゃない。あんなの、ただの燃えカスの光ですよ」
ひねくれたツバキの言葉に、カワムラは小さく笑いました。
「そうでしょうか。私が見ているのは、空の星だけではありません」
カワムラはポケットから、小さな、本当に小さなプリズムの欠片を取り出しました。それを月光にかざすと、屋上のいたるところに虹色の粒が散らばりました。
「いいですか、クマさん。世界は本来、残酷なほどに無機質です。でも、そこに誰かが『寂しい』とか『愛おしい』という熱を吹き込むと、その吐息が凍って、目に見える光になる。それが冬のキラキラの正体です」
カワムラは一歩、クマに近づきました。
「あなたがその着ぐるみの中で、じっと耐えて守っているもの。それは、自分でも気づかないくらい純粋な、誰かを信じたいという熱量だ。それが漏れ出さないように、あなたは冬眠の準備をしているのでしょう?」
ツバキは黙り込みました。着ぐるみの中は、自分の体温で少しだけ汗ばんでいます。外はマイナスの世界なのに、このクマの中だけは、不器用で、惨めで、それでも確かな熱を持っていました。
「私、もう外に出るのが怖いんです。人間として笑うのが、下手くそになっちゃったから」
「なら、クマのままでいればいい。ただし、心のシャッターまで下ろすことはない。その毛皮は、あなたを閉じ込める檻ではなく、あなたが世界を優しく見るためのフィルターだと思えばいいんです」
カワムラは、クマの短い手に、そっとプリズムの欠片を握らせました。
「さあ、一度だけ深く息を吐いてみてください。クマとしてではなく、ツバキという一人の人間として」
ツバキは言われた通り、着ぐるみの口の隙間から、長く、震える息を吐き出しました。 白く濁ったその吐息が、カワムラの持つ光に触れた瞬間、屋上の闇の中でダイヤモンドダストのように輝きました。
「……綺麗」
「ええ。あなたの吐息は、こんなに美しい」
ツバキの瞳から、一粒の涙がこぼれました。それは着ぐるみの内側のスポンジに吸い込まれて消えましたが、彼女の心の中には、消えない小さな火が灯りました。
翌朝、管理事務所の入り口には、綺麗に畳まれたクマの着ぐるみが置かれていました。その胸元には、朝日に反射して虹色に輝く、小さなガラスの欠片が添えられていました。
街を行くツバキの足取りは、まだ少し重いままでしたが、彼女はもう、マフラーに顔を埋めて震えるだけのクマではありませんでした。
次は、カワムラに本当の自分の声で「おはよう」と言いに行こう。 そう決めたツバキの頬に、冬のキラキラとした光が、優しく降り注いでいました。




