発端
あなたは、本当の友達がいますか。
20年以上の親友。中学からの仲良しグループ。
永遠に続くと思ったその関係は、なぜ壊れてしまったのか。
なぜ、離れていってしまったのか。
人生で最も大切なものを失った主人公が、本当の友達を知っていく。
これは、あなたの物語。
誰にでもできるように説明してよ。
言いたかった気持ちを心の奥の心臓に沈めて笑った。笑ったというより、笑ってみたという方が正しい。笑うという行為は心が晴れやかになった時に、そういう出来事や言葉に心が駆動されて起こる表情や声のこと。笑ったのでは決してない。意図的に笑ってみただけだ。
それを繰り返しているうちに死んでしまうのではないか、謎が永遠に謎なままのような気がして、そう思うとどうにも我慢ができなかった。
我慢できなかったが、それは行動にはうつらなかった。だから結果的には我慢できた。無理やり、我慢した。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫じゃない。私は間違っていますか。傲慢ですか。と、聞くようなところがまさに傲慢そのものだとも思うのです。
「また遊ぼう」と社交辞令のものではなくて、本気の「遊ぼう」を繰り返して20年以上たった仲であるのに、今回は違った。今回は紛れもなく前者の「遊ぼう」だった。その微妙な機微を読み取れるくらいに私たちは長い付き合いだ。
「遊べる日、教えて」といつも通り絵文字たっぷりで送ったそれへの返事は、気の抜けたサイダーどころか、水の水割りのような透明だった。
「また、ごはんだけでも行けたら行こう」
「また」ってなんだよ、いつだよ。「またいつか」の「また」か。「いつか」ってその日が来るなら「いつか」じゃなくて。絶対にいつまでも来ないから「いつか」なのに。それを知らずに使っているのか。いや、知ってて言っていると思う。「行けたら行こう」は、行かないやつじゃん。心の中でつぶやいたそれは、ため息になって部屋に流れ、鼻の左側だけがピックと上に動いて、眉をひそめた。
それに目をつぶって「行こう」とまた絵文字たっぷりで送ることは簡単だった。でも、一度でもそれをしてしまうと、もう二度とこの他とは圧倒的に違う距離感の、信頼関係には戻れなくなるように思って、そっちの方が怖くて、社交辞令を送ることなんてできなかった。
「何かあった?」
こんなことを電子上でやりとりしている時点でもしかしたらもう私の思っている関係などではないのかもしれない。
「あんまり遊びたくない感じ?」
もしかして、私だけが会いたいんじゃないか、なんでそもそも会えないのか、全てを気にしているうちに、もう指は動いていて、気が付けば送信ボタンを押していた。
しばらく返信が来ないあいだ、まるで好きな人からの返信を待つように、スマホのホーム画面を見ては机に置き、見ては置き。無駄にラインの画面を開いたり閉じたり。片思いをしていた遠い日の頃みたいにソワソワしてモヤモヤして。唯一片思いと違うのは、楽しみのようなウキウキのような黄色い気持ちは無くて、ただ霧が晴れない灰色の状態が永遠に続いていること。
私は長らく片思いをしていない。私がモテていて、いつも両想いだということではない。片思いも失恋も最後にしたのは遠い昔のことで。私はそのことを気にしている。それを気にするのはおかしいと思うかもしれないが、気にし始めたのも、四人のせいか。
失恋や片思いでしか得られない大事な感情が私には欠落している気がする。それは単純にもったいない。ずっと付き合っている彼氏がいるのは素晴らしいこと。それも分る。だけど、年齢とともに変わるであろう片思いのそわそわや、失恋の呪いを、高校2年生のガキの感情だけでこれから語るのは、どうしても不十分だ。そういう感情がないのは、そういう感情を持つ人と会話ができないということ。感情の有無よりも、それが悲しかった。
返信は案外すぐにきたけど、それは返信とはいえないやつ。
「ちょっと悩んでることとかあって、落ち着いたら連絡するね」
ああ、その悩んでいることは私には言えないやつだ。言えないことなんて今までなかったのに。私のことかもしれないな。かもしれないというか、直観でそう思った。私何かしてしまったんだ。だけど、おかしい。私たちが最後に会ったのは年を越す前で。年末は会えず、年も越して今日にいたる。そこまで会ってないどころか連絡すらしていない。そんな状況で一体何ができる。どんな嫌がらせもこの状況ではできないだろう。とすれば、何もしていないのに嫌われたのか。いや、22年の付き合いでそれはない。そんなことあってたまるか。ないと信じたいだけなのかもしれないが、どの思考をたどっても来た道を引き返しても、何をしたのか見当もつかず。
「私で聞けることがあったらいつでも言って」
嘘みたいによそよそしく送った私の返信は、これまた送っていないのと同じだ。
私達、いや私、どうすればよいのだろう。




