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エピローグのその先で 外伝

作者: stenn

最後の方は本編ありき・・・ごめんなさい。本編主人公は出てないです。

 十年も前の話だ。浅野澪という少女は齢十にしてこの世を去って、戻ってきた(・・・)。確かに死んだはずの身体。誰もがその若すぎる死を嘆き悲しんだ。であるというのに荼毘にふされるまえに息を吹き返したのは奇跡なのか、悪魔の所業なのか。いや――この場合は悪魔の所業だったのかも知れない。双子の妹――零は行方知らず。両親は仲たがいの末、離婚と言う顛末に至った。そのために誰もが澪を腫れ物のように扱った。そのためであるのか本来彼女が持つ溌溂さは消えて寡黙と内気。不安定に揺れる双眸はいつも空を眺めていた――。


 何かを懺悔するかのように。



「君、浅野澪さんですよね?」


 大学の校舎で、長い黒髪を流した少女に一人の青年が近づいて歩く。ひょろりとした猫背の青年だ。大きな黒い縁の眼鏡が印象的というか――むしろそれしか印象に残らない青年は胡散臭そうな笑顔を浮かべて少女――澪に声をかけていた。


 怪訝な顔をして澪は青年を見る。どこにでもいる。あるような黒い髪と目を持つ――特に特徴もない澪はきゅうと胸に抱えている本を縋るように胸に抱いた。その目に映るのは不審。青年が一歩踏み込む度に三歩下がり、青年は困ったように苦笑を浮かべて立ち止まる。


「なんですか?」


 澪の低い声。それは警戒に満ちていた。


 それもそのはずで、『生き返ってから』と言うものの好奇の目に晒され続けてきたのだ。隣人、友人を初め新聞テレビ。好き勝手に質問しては書き立て騒ぎ立て――去っていった。友達になりたい。恋人になりたいと言う声もあったが彼らは総じて『澪の話』を聞きたいだけであったのだ。


 澪自体は何一つ覚えてはいない。何も話せる筈もない。つまらないと吐き捨てられたのは数えきれない程で、おかしな噂も独り歩きした。耳を塞ぎたくなる醜聞から憐憫に満ちた物語など様々だ。澪自体は『はい』とも『いいえ』とも答えてないと言うのに。


 それで人間不審にならないほうがおかしい。


「――ああ。いや。俺は、如月涼音(きさらぎすずね)で――ちよっと話がしたく――ああ。まってください、行かないで」


 ざりっと滑るような音をわざと立てて澪は無言のまま踵を返した。若干速足で歩く澪に余裕で青年――涼音は隣を歩く。澪は女性平均以下の身長。涼音は男性平均より少し高い――最も猫背なので低く見えるが――だろうか。身長差があるために見上げる形になってしまう。それが嫌そうに澪は涼音を見、視線を前に戻した。


 故に涼音の困ったような悲しむような、そんな顔にも気づくことはない。


「話すことはありませんので。私はなにも知らないし、何も覚えてないんです。貴方たちが期待するような事は何一つ持ってませんので」


「は――な、何の話? あの。ねぇ、君。浅野さんですよね。あの――ええと。俺の事知らないですか?」


「……は?」


 低い声と刺すような視線に涼音は身じろぎする。元より――こんな外見の通りと言うべきなのか。地味で気弱そうに見える涼音は外見そのままに気が弱い。虐められないように存在感を消す方法で生きてきたと言ってもいい人間にはあからさまな敵意が怖く感じられた。


 一方で澪は一体何を言い出すのだろうかと思っていた。そんな三文芝居がかった口説き文句は聞きなれている。と言うより使い古されて腹が立っていたのだ。大体澪には知り合いが少なかった。友達と言う友達もいない。小学から中学まで病院に併設されている分校に通い、高校は通信で卒業している。そんな人間に出会いの場などなく、当然知るはずもないのだ。


「知りません。もういいですか? 困りますんで」


「いや、あの。まって。本当に。俺――子供の頃の記憶無くて。なんていうか――その。浅野さんと昔、子供の頃にあった気がして……いや。ええと。決して口説いているわけではなくて」


 最終的に口をもごもごさせてしまう涼音。その顔は耳まで真っ赤であった。これが演技であったなら相当の役者だろう。もしかしたら今まで出会った人間とは違う気がして澪は涼音を見上げていた。


 十年前の事だ。涼音は道端で倒れていた所を救出されていた。山間の小さな道。ちょうど車一台が通れるか通れないかと言うほどの道だ。涼音が倒れていた所より数メートル。ちょうどカーブになっているところで崖へと滑り落ちた車が発見され、その中に乗っていた男女の死亡が確認されている。その男女の子供が涼音というが、彼にはその記憶が。いや、その前の記憶がさっぱり抜け落ちていたのだ。事故の後遺症であるという医者の判断だった。ここまで来たら記憶など戻らないことは涼音だって分かっていた。


 半信半疑で見上げている澪から視線を逸らしつつポリポリと頭を掻く。人から見つめられる――正しくは女性から見られることに慣れていなかったのだ。


「あ――で。あの。何というか。俺は浅野さんの名前だけ覚えていたというか」


「私は、何も知りませんけれど」


 と言った後に押し黙った。よくよく考えれば澪だって子供の頃――正確には死んでいた時の記憶がない。いや、死んでいたのだから脳が記憶していないのは当たり前だろうと言い寄ってくる人間に言いたかったが――もしかしたらなにか関係があるのだろうか。と考える。


 オカルト的な話は好きではないが、自分自身が死んで生き返った時点で十二分にオカルト的な出来事だ。しかも同じ十年前だというなら何かあるかも知れないと視線を落とす。


 澪は思い出そうと涼音の顔を眺めてみた。何の変哲もない、青年の顔はおどおどと視線を巡らせている。眼鏡の奥。その両眼は――黒。だけれどなぜだろう。澪にはそれが深く青みがかったように見えるのが不思議だった。普通に考えてそんな人間居るはずはなく、自身は疲れているのかも知れないと目を擦る。幸い黒に見えてきたのでやはり疲れていたのだろう。


「あの?」


「十年前――私は死んだ年と――それと何か関係……」


「は?」


 心底不思議そうな声に澪の方が驚いていた。そんなことあるはずなんてない――揶揄っているんだろうか。そう言いたげな視線は澪の身に起こったことを知らない事を示していた。ならば知らない方が良い。言ってさらに興味を持たれても迷惑だと感じ『冗談ですよ』と笑う。それがいずれ分かることだとしても。ただそれが相手に通じているかは別で。少なくとも訝し気に涼音は澪を見つめていた。


「そう、ですか?」


「と、兎も角として私には関係がない事です。別の人を探してみてはいかがですか?」


 授業開始を告げる電子音が響く。見れば辺りは誰もいない。慌てて澪は踵を返して駆け出す刹那――涼音は澪の手首を掴んでいた。バサバサと持っていた本が地面に音を立てながら落ちていく。それを聞きながら澪は呆然と涼音を見つめていた。


「あの?」


 言われて涼音は慌てて手を放していた。


「あ、わっ――すいませんっ。いや、でも。きっと浅野さんだと思うし。いや、そのなぜかって言われると困るんですけど……でも」


 すいません。と力なくもう一度呟いてから足元に落ちた本を拾っていく。その耳まで真っ赤だ。涼音は自分自身がこんなことをする人間でも、できる人間でも無いと思っていた。思っていたからこそ自分に困惑し、混乱する。その中でどうにか言葉を紡ぎだしていた。最も何を言っているのかよく分からなかったが。


「つ――あの。ホント困らせるつもりでは無くて。ただ」


「……私。――十年前に死んだんです」


 ポンっと澪の細い腕に分厚い本が置かれる。その表紙を見ながら澪はまるで独白するかのように言葉を吐き出していた。



澪はなぜ見ず知らずの人間にこんなことを話しているのか自分自身にも分からなかった。戸惑った顔と動き続ける唇。紡がれた言葉は感情のままに話すため、時折前後左右が反転している。それでも話し続けたのは嫌な顔一つせず涼音が聞いていてくれたからだ。


 生き返ってから、澪の話を。心を誰も知ろうとはしなかった。両親は当然で祖母は腫れ物のように扱った。気持ち悪いと仲の良かった友人は離れていき、残ったのは興味本位の人間だけだった。澪は思う。あんなに心配をしてくれたのに。生き返ったことを喜んでくれたのに。今では誰一人澪の事を見てはいない。あの瞬間が夢だったのかと思うほどにもう記憶は悲しいくらい儚かった。いっそ、死んでしまえば良かったのに。生き返った手前、死ねない自分がいる。きっと誰かが生かしてくれたのだと思うから――それだけは出来なかった。ただ、心が死んでいるのでもはや同じだとは思うのだけれど。


 一方で、静かに喋り続ける澪をとりあえず近くのベンチに座らせて、涼音はどうしたものかと考えていた。いや、隣に座るかどうかも悩んだのだが――結局立っていることにした――それではなく。


澪の話は信じがたいものだ。死んで生き返る。そんな事があるのだろうか――しかし嘘を付いているとは思えなかった。それにと涼音は思う。やはり自分自身と何か関係あるののたろうと。十年前。それは涼音が事故にあった月日と同じ。名前を覚えていたのも偶然ではなく必然だったのかも知れない。


「引きました? 頭がおかしい――って?」


 話し終えて自称気味に笑う。ゆっくりと澪は顔を上げていた。話してしまった以上仕方のない事だと腹を括るしか無い。だけれど逃げないで欲しいと願う自分もいて、その表情は不安を浮かべたものになっていた。我知らずにだ。その表情を汲み取ってどう反応していいのか涼音は思考を巡らす。いろいろ考えすぎて出てきたのは励ましてもなんでもない感想だ。


「いえ。ああ。驚いていて。あの。すいません。言いにくい事を――」


「……気持ち悪くないの?」


 小首を傾げる涼音を見て澪はぱちぱちと瞼を瞬かせた。何も反応がないというのは初めての経験だ。ただ、涼音にはその問いの意味が分からない。


「ええと。なぜですか?」


「――私は死んでるから」


 死んで生き返った。その事実がありえないことだし不気味だ。人は訳の分からないものは排除してしまう。そして自身も排除された事が悲しかった。だから初めてあった涼音にも排除されても仕様がないと思っているが、出来れば拒絶して欲しくはないと言う願いが根本にある。そのため、声が些か震えている。本人はまったくと言い程気づいていなかったが。そしてそれに気づかないほど涼音は鈍くも無い。鈍くは無いが――言い方を知らなかった。生来女性とこれほど長く話したことは無いのだ。育ててくれた祖母を除いて、だが。


「あの、生きてますよね?」


 違っただろうか。違うのかも知れない。涼音は内心汗をかく。もっとこう何か無いのだろうか。読んだことがある少女漫画を思い出すが、悲しい事にバトルものだった。分からないと項垂れる。とりあえず謝るが勝ちかも知れない。そう思うほどに澪は固まってしまっていたのだから。


「……すいません」


「あ。いえ――あの。わたし。初めてで――」


 涼音はその意味が分からず困惑するしかない。さらにぽろぽろと泣き始めたものだからどうしていいのかさらに分からなかった。兎も角として付けていたボディバックからハンカチを取り出すと澪に渡す。


 ありがとうございます。可愛らしい――どこかそう思ってしまった――声にかっと頬が赤くなるのを必死に隠していた。


「ええと。いや。追い詰めたの、きっと俺だし」


 この人は逃げないのだ。澪はそう思った。心配してくれているのだと。フルフルと顔を横に振る。涼音のハンカチが妙に温かい感じがした。


「ごめんなさい。泣いてしまって。変なところを……あの。如月さん?」


 今更名前をうろ覚えなのが痛い。合っているかどうだろかと盗み見してみれば『はい』と大きな眼鏡の向こうで少し嬉しそうに目を細めた。それに澪は安堵する。


「ハンカチは洗って返します――それから。ありがとうございました。あの、その」


「ん?」


「話を聞いてくれて」


 ただ聞いてくれる。逃げないで、否定しないで聞いてくれる事がこんなにも満たされる事だとは思っていなかった。ふわりと笑う澪に涼音は一歩たじろぐ。よくよく見れば――あまり気にも止めていなかったが澪は可愛らしい雰囲気の女性だった。誰もが振り向くような美人ではないが一緒にいれば可愛いと分かる。気づいてしまえば免疫の無い涼音は言葉を詰まらせていた。どうやって声を掛けたのかもう短時間なのに忘れてしまった。ポリポリと所在の無さを誤魔化すようにして耳の裏を掻く。


「あ。いい、です。俺が声を――あ。でも……俺の事何か思い出して貰えれば嬉しい、んだけれど」


 きっと覚えていない。思い出せない。それが澪には酷く申し訳なく思えた。それになんとなくもう少し話していたい気分にかられる。


「あの――記憶を思い出したいんですか?」


「あ。まぁ。はい。今更ですが。やっぱり」


 過去がない事は子供の頃とても不安な事だった。自分がここにあっていない感覚とでも言うのだろうか。それまで積み上げたものはあっても――勉強とか――積み上げた形跡すら思い出せないのは気持ち悪い。それに写真の向こうで笑っていた両親は幸せそうで。その幸せを少しだけでも思い出したいと涼音は願った。


「……私の名前だけ覚えている、変な話ですね」


「ええ。まぁ」


 よく考えれば新手のナンパでしかないし、ストーカなどと思われても仕方がない事だと涼音は肩を落としながら苦笑する。澪が通報しなかっただけ有難いのだろうか。


「その、事故現場行ってみますか?」


 澪は記憶こそあれ――死んでいた時の記憶は無いが――やはり涼音の事は思い出せなかった。というより知らない。もしかしたら事故と、澪の死は何か関係がやはりあるのかも知れないと考えてぱっと顔を上げる。そこには瞠目した涼音の顔。


「え、いいの――良いんですか?」


「あ、でも。辛いのであれば」


 それを考えてなかったと澪は歯ぎしりして、自身の言葉を疎んだ。もう少しよく考えるべきだったのかも知れないのに。怯えた様に涼音を見れば嬉しそうに、どこか子供のように破綻させている涼音に今度は澪が瞠目する番だった。


 可愛らしい。そう思ってしまったのはなんとなく自身の心に負けた気がして――それもそれで意味は分からないが――それを幾重にも心の中で封印して沈めこむ。


 ともかくとして傷を付けていないようでほっとした。


「だ、大丈夫です。行きましょう」


 ありがとうございます。と涼音は思わず抱きつきそうになって――自重する。それに気づいて一人で顔に熱が溜まるのを感じた。こんなキャラではなかった筈なのにと調子が狂う。そう考えながら涼音は必死に現在の心境がばれないように――恥ずかしさで死ねる――と願い笑顔を作っていた。




 

 十年前。事故が起こった場所はN県とY県の県境にある山間。寒い冬の事だった。凍る路面にタイヤが滑りそのまま崖下に滑落と捉えられている。実の所家族がその道を通った事はよく分かっていなかった。涼音も覚えていいのだから推測にすぎないがN県を観光――N県は観光の隠れた名地である――をしていて満ちに迷ったと思われている。最もここまで山間を走る――しかも車一つ分という窮屈な――事に疑問を感じなかったのは不思議だが。引き返せば良かったのにとまるで他人事のように呟いてから、涼音と澪は一日数本しか走らないバスを降りる。バスのおじさんにはくれぐれも時間には遅れるなと釘を刺されながら。二時間後のバスか今日最後の便らしかった。


 晴天。雲一つない天気だ。迫ってくるような山肌を覗けば雑木林が鬱蒼と広がっていた。その奥からは鳥の鳴く声が聞こえてくる。視線をずらして、反対方向に目を向ければ先ほど――というよりもう一時間前程になる――降りた駅など見えないほどに街の全景が見えた。毎年涼音はこの場所へ供養と言っていいのか分からないが来るのだけれど、今まで違ったように――そうどこか新鮮な心持になるのはやはり澪がいるからだろう。


 ずっと会話が途切れたまま。どことないぎこちなさが続く澪に涼音は目を向けた。その横顔はどこか嬉しそうに見えるのはやはりあまり外に出たことがない為だろうか。その生い立ちは不思議でどこか物悲しかったったけれど、自分が――烏滸がましいけれど、澪の心を少し軽くできたらいいなと考える。


「た、高い所は、大丈夫ですか?」


「あ――っ。はい」


 一方で澪は悩んでいた。やはり勢いあまってこんな所にまで来てはいけなかったのかも知れないと。いくら何でも――。忘れたい記憶だからこそ思い出せないのであって、思い出せはどうなってしまうのだろうかと。傷ついてしまうのではないだろうかという事を案じて悩む。何度も確認は一応したのだ。したのだけれど。『大丈夫』と返してくるものだから言い出した手前『止める』とは言い難かった。ならせめて雨でもと願ったが――運動会ではないので無理だろうが――晴天にうな垂れる。陰鬱な気分のままここまで来てしまった。


 ただ、それでも。この出歩きをどこか楽しいと確かに感じている自分もいて。眼下に広がる街。テレビとかで見たことがあるけれど、実際それを自分が見るとは思って見なかったのだ。ずっと自分は行動範囲から出ないと思っていたから。


 浮かれている自身を叱咤して無表情を作るが――それは涼音から見れば無表情でもなんでもない。少し目を見張ると嬉しそうに笑った。その意味が澪には分からない。怪訝な顔を浮かべて見せる。涼音は我知らず笑っていたらしい自分に気づいて咳払い一つして見せた。素直に可愛いと思ってしまったのだ。仕方ない。ただ――言えるわけがない。


 如何言い訳するか考えてから無理と結論付けて頭を掻きながら視線をずらす。


「いえ。嬉しそうに見えたのですいません。別に揶揄ったつもりは無いんですけど」


「――う」


 言われて澪は固まった。嬉しそうにしたつもりは断じてなくて。そのように見えていたとなれば不覚だ。これからの事もあるのに。つまりは恥ずかしい。かっと桜色に頬か染まる。少し泣きそうに見えて何かおかしなことを言ったかと涼音は焦った。


「う?」


「嬉しそうにしてましたか? 私」


「――いえ。いや。ええと。はい」


 ひっ。と息を飲んでから澪は頭を思わず下げていた。意味が分からずに涼音はたじろぐ。やはり何かしてしまったのだろうか。何も思いつかなかったが。


「ごめんなさい。そんなつもりは。遊びに来たわけではないのに。ごめんなさい」


「なんだ。そんなことか」


 良かった。と涼音は転がす。帰るなんて言われたらどうしようかと考えていた。せっかくここまで来たのに。もはや事故現場に行くというのが目的ではなくて澪と一緒に歩くことが目的になっている自分に苦笑を浮かべてしまう。そんなこととても目の前の澪には言える気もしなかったが。


 ――ああ。人を好きになるってこういう事なのか。ふと思った言葉も――やはり言える気はしなかった。多分自分自身には永久に言えない気がする。自慢ではないが、伊達に陰キャで過ごしてきたわけではないのだから。大きな黒い目。すべてを見透かすようで――知られたくないと眼鏡を持ち上げる振りをして視線を逸らせた。


 小さく乗ってきたはずの電車が動いているのが見える。


「気を使わないでください。俺は大丈夫ですから。言った通り両親のことは覚えてませんし、思い出したとしても――俺はもう大人ですから」


 大人。その響きが少しだけ澪には悲しく聞こえた。涼音は冷たい空気を吸い込みながら手を上げて伸びをする。


 ふと目に入った空は高く、綿雲のような雲はなんとなく掴めそうだった。


「それに。俺も楽しいんです。ここに来るときはそれはもう。――硬い顔した大人たちとばっかでさ、良い記憶無いのだし。だから浅野さんとくることが出来て、嬉しいし、両親だってそんな俺を見て喜ぶと思います。よく笑っている二人だと聞きましたから」


 ――泣いているより笑っている方がいいでしょう? そう言ったのは誰だっただろうか。母親だろうか。よく思い出せない。だけれど幸せな気分になれるのはどうしてだろうか。涼音は視線を道路の向こうに投げて見せた。


 その横顔は本当に穏やかで、楽しそうに見える。それでも良いのだろうか。澪はそう思ったが、これ以上は言っても仕方ないのかも知れない。なんだか涼音が楽しそうで嬉しく、そして懐かしく思うのは変な気がする。本当に会っていたんだろうかと思うほどに。


「もうすぐなんです。行きましょう」


「はい。……そうですね」


 差し出された一回り大きな手。握れというのたろうか。子供ではないのにと考えてから一巡してそっと触れると涼音の肩が軽く揺れた。そのまま押し黙る涼音。違ったのだろうかと涼音を見上げれば視線がかち合って慌てて涼音の方から外した。手は離さないので、合ってはいたのだろうと思う。


「えっ、と。いきましょう」


 かっと耳まで赤くなった頬を見られるのは避けたかった。なぜ手を差し出したのか、繋いでいるのか行動をした涼音自身もよく分からない。いや――そもそもとしてどういうつもりで澪は手を繋いだのかも分からなかった。ここからどう言えば良いのか。何をと考えて何も思いつかない。どくどくと鳴る心臓の音。掌が汗で滲まないように願いながら些かいつもよりも遅くゆっくりと二人は歩いていた。





 そんなに短い時間ではなかったように思う。二人がたどり着いたところは一見何の変哲もない――ありきたりな道だ。主な道から外れてはいるが。


 涼音には心当たりが無かったが、誰かが来てくれているのだろう。真新しい花が飾られている。菊と百合。今更ではあるが何かお供え物を持ってきたほうが良かったのかも知れない。花すら持ってきていない自分自身は両親に怒られるのかも知れない。いや、突然だったし。と心の中で言い訳してから涼音は隣を見つめた。


 手を合わせる澪。その横顔がどこか眩しく見えて慌てて目を逸らす。――その一連の行動がバカみたいだったし理解できずに更に恥ずかしくなったのは言えるはず無い。ごめんと再び両親に懺悔をしておいた。


「――この下に?」


 澪が崖下を覗き込めば存外に崖は険しい。こんな所から落ちたらひとたまりも無いだろう。大けがでも負ったのかも知れない。心配する様に目を向ければ涼音はポリポリと首元を掻いた。要は見られることに照れただけなのだが。それを誤魔化すためだった。


「う、うん。まぁ。俺だけ投げ出されて助かったのは……両親が助けてくれたと思ってるんだ」


「大切だったんですね」


 ポツリと呟く。今思っても無駄なことだけれど、あんな事が無ければ、妹が居なくならなければ変わっていただろうか。私がこんな事になったとしても妹――零がいてくれれば。


 変わった、だろうか。


 ひゅうと冷たい風が吹いて、澪の黒い髪を巻き込んだ。ふわりと舞い上がるそれに目を向ければ――信じられないことに空間がぱっと光るのを感じた。いや、実際光ったのだろうか。その光は温かみなどないし、すぐに消えたために意味が分からなかった。


 怪奇現象だろうか。それとも目が可笑しくなったのか。澪は涼音を見ると涼音はやや困惑とした表情で目を瞬かせている。どうやら目が可笑しくなったわけではないらしい。


「え。なに?」


 そう呟いたのは涼音。澪は小首を傾げるしかない。


「――幽霊、かな」


 そんなもの今の一度だって見たことはない。涼音にしたってそうだ。もしかしたら両親が化けて出たのかとも考えたが今更何のために、と思う。それなら子供の頃一緒に連れて行って欲しかったというのが本音だ。


「プラズマ的な――なにか、とか?」


 兎も角。もう一度現れないかとパケットにしまい込んでいたスマホを取り出す。カメラを立ち上げて覗き込んでみても何もない。――澪の横顔が映るだけだ。こっそり撮ってしまおうかそう考えたが止めた。それもなんだか違う気がする。


 何だったんだろう。と暫く二人で頭を捻り合っていたのだけれど、ふと人の気配に澪がいち早く顔を上げていた。地元の人だろうか――そう思っていたのだけれど。


「おねえちゃん?」


「……?」


 さあっと短めの髪が風に舞っていた。白いワンピースは所々汚れている。澪にとって見覚えのある――というより自身によく似た面差しの少女は棒のような何かに縋るようにして立っていた。


 ドクンと心臓が鳴る。絞り出す声は震えていて。


 嘘だ。どうして。なんで。


「零?」


「おねぇ――澪っ」


 そこには消えたはずの妹が立っていた。




 それから一年程が経過していた。澪は各所での登録やら説明やら手続きで忙殺される毎日で息を付くこともままならない。両親の仲などもはや修復することは出来なかったがそれでも何とか歩んで来た。それを支え続けてい居てたのは友達となった涼音であったし、妹の零だった。零の場合は澪よりも大変なこともあったのではと気を揉んだが元来気にしない性格のためかのんびり日々を過ごしている。


 澪にとってはとても幸せなことだった。ただ、心配なことは零が何かの犯罪に巻き込まれたらしく『異世界にいっていた』という事だろうか。各所で相談してそっと見守ることにしている。まぁ当の零からすれば『本当なのに』と怒るしか無かったが。



 近所のカフェ。窓際の席に零と涼音は向かい合って座っている。もうすぐ大学の抗議が終わるので二人して大人しくここで待っているのではあるが、正直に言えばこの零と名乗る澪と同じ顔の少女が涼音はどこか苦手だった。


 くいっとずり下がった眼鏡を上げる前で、値踏みする様に零が涼音を見る。何かしたのだろうかと思うが考えてもよくわからなかった。


「それで漸く分かった――あんたが誰なのか」


 何を言っているんだろう。そう考える涼音の前でからからと音を立てながらアイスティーをかき混ぜる零。


「え。ええと?」


 溜息一つ。


「性懲りもなく。ホント。ストーカーなの? 姉弟そろって諦めるってことを知らないの? まぁ。性格は随分ま……大人しくなってる気がするけれど」


 涼音には姉など居ない。ずっと一人で育ってきた為に少し姉妹を羨ましいと思ったり微笑ましいと想ったりすることは事実だが。困惑気味に見返す。そしてストーカー呼ばわりされる謂れは無いように思えた。


 どうしようか。澪に相談したほうがいいかも知れない。それとも病院に――と様々な考えが浮かんでは消えていく。


 何かの妄想なのだろうか。その――異世界のように。それはそれで心躍る話なのだが、信じられるかと言えば信じることはできなかった。涼音の中で零は哀れな被害者としか見れない。何があったかは分からないが。


「あの、さ。零ちゃん。それは誰だったり?」


 名前で呼ぶのはずっと慣れない。浅野さんで呼べばいいのだが――姉妹のため同じなので困る。よって澪が名前で呼んでいいと言ったのでこうなっているが……上ずる。


 その涼音をじっとりと零は見つめた。


「記憶が無いのも納得よね。あんたにはこの世界の記憶が元々無いんだし」


「……どういう」


「さぁ? でもこれだけは確かなのよ」


 かたんと零は腰を浮かした。入ってきた澪を見つけたからだ。嬉しそうに手を振る零はやはり澪にそっくりで。そう言うところは素直に可愛いと思った。


 ――貴方は私から澪を攫って行くんだ。何があっても。


 その震えるような小さな声は誰にも効かれる事はなかった。


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