彼が駈けたのは悠遠の
「それじゃあ——行ってきますね」
玄関の扉を開けて、夏が交じり初めた春の香りを全身に受けながら、ハルニアは家の方向を振り返って言った。
「何度も言いますが、一月に一度は手紙をくださいね? 魔法で転送すればこちらにすぐ届くので、届くのに時間が掛かるとかいう言い訳は通用しませんから、ちゃんと書くように。あと、少なくとも五年に一度はここに帰ってきて下さい。転移が使える以上そこまで苦ではない筈ですし、やっぱり毎日帰ってきて——」
「わかったわかった! ちゃんと約束は守りますから!」
言い寄るカザルメに慌てて返答するハルニア。
旅に出る前、お互いが交わした約束事——それは、おおまかに言えば文通と帰省である。
この半年で、ハルニア、いいや「周防優斗」は『ハルニア』の体に慣れ、ヴァイゼが与えた叡智もあり、それなりに複雑な魔法が使えるようになった。それこそ初めの頃は知識があるにも関わらず、魔法の行使が不自由だったハルニアをカザルメが補助していたが、今では大抵の魔法なら簡単に行使できるまでになった。
炎、風、水等々、様々な物が操れるようになったハルニアの技術は殆ど全ての事柄に影響を与える事が可能になっており、それは空間にも同じことが言える。
時空間に干渉する魔法は、ハルニアに限らず幾らかの人物が使えるよう——現にカザルメは扱うことが出来る——なのだが、カザルメ曰く、ハルニア程高出力で魔法を行使出来る人物は居ないだろう、との事。そして物を転移させる場合は、大抵手紙一枚の大きさでさえも50km届くかどうか、なのだそうだ。
つまり、文通や帰省は、身体構造含めあらゆる機能が『ハルニア』の魔法の力を強化している上で、魔力の生成方法すらも人のそれとは違うハルニアだからこそできる芸当なのである。
——この力を持つ本人だからこそ良く分かる。彼の最高傑作であるこの体は、使い方を誤ればただのバケモノになってしまう事が。
いくら人間らしい見た目だとしても、裡側は魔力の親和率を極限まで高めた魔導合金の骨格、『金属』だ。人間の無機物とは訳が違う、ほんとうの意味での「無機」。
少なくとも、この力を文通と帰省に使う分には問題ないだろうとカザルメは判断した。
……流石に毎日転移で帰るというのはやんわり拒否している。
「もう……。取り敢えず、約束を守ってくれるなら私からはもう何も言うことはありませんよ」
「だから分かりましたって……」
ふぅ、と嘆息して。
ハルニアは「ある事」を伝えるためカザルメに向き合う。
「……そういえば、ヴァイゼが貴方に伝言を、って。お願いされたのは一言だけだったんですけど——」
それは、ヴァイゼに頼まれた最初の約束。
「——ただ一言、『ありがとう』、と」
旅立つ際に一言、感謝の念の贈り物。
目を、見開く。
カザルメは口元を掌で押さえ、目端から零れた雫が肌に軌跡を描いた。
「じゃあ、改めて。
——行ってきます、お母さん」
「……っ。——はい。行ってらっしゃい!」
雲一つない青空は、その旅立ちを歓迎するかのように広がっている。
少女は、外へと歩み出した。
——————————
———
「あっれぇ……うーん? いや確かに此処らへんのはずなんだが……」
景気よく外へと歩き出したは良いものの。
旅路を進んで八時間、肝心のハルニアは……迷子になっていた。
——しくじった。地図の情報が更新されてない。
ハルニアの脳内地図には世界中の地形データが入っているのだが、常に更新されるようなハイテク物ではない。
当然のようにヴァイゼが記録したデータだ。そしてヴァイゼは四十年前には死んでいる。つまりそういう事だ。自明である。
「最悪だ……やってしまった……」
思わず頭を抱える。カザルメが地図のデータを更新してくれていたらまだマシだったが、彼女はあの万能図書館の存在すら上手く把握していなかったのだ。
強くなった自身に現を抜かして、肝要な部分を見逃してしまった。
「と、取り敢えず……進むかな」
そこは深い森の中。元居た家は想像以上に秘境だったらしく、未だに森を抜け出す事が出来ていない。
——いいや、予定通りであれば最短で抜けていたのだ。
森の出口が変わっている。そりゃあ最低でも四十年、長くて百年くらい経っていればそうなるだろう。
「方角は間違ってないはずだから、進んでいればいつかは抜けられる……かな」
本当に抜けられなかったら家に転移すればいい。——自ら拒否した手前、旅に出てすぐ戻ってくるのは遺憾ではあるが。誠に遺憾ではあるが。
「にしても変わらない景色で不安になるな……これが樹海ってヤツですかね。マ○オ64の無限階段みたいでって——うわ、ありゃあクマじゃないですか」
並び立つ針葉樹によって太陽が隠れ、薄暗い森の中、不安を解消するためにブツブツ呟きながら歩くハルニアは、視界の先に大きな熊を見つけた。
魔法の行使がまだ覚束なかった昔に、ミンチにしたあの熊である。
——大熊は静かに、獰猛な目でこちらを見つめている。
……あの大熊、ハルニアをか弱き乙女と見るや否や捕食しようとしてくるのだ。
動物は案外臆病なものなのだが、そこには自身より弱いと判断したら襲いかかってくるという攻撃性が隠れている。
「グルルルルルルルァァ!」
だが今回ばかりは相手が悪かった。ハルニアが逃げると踏んで、隠密行動を捨て速度を付けて突進をしようとする熊に——
《魔力誘導完了。掌上にて術式構築。》
——ハルニアは、にやりとほくそ笑む。
もう恐れない。それが自分より数倍も大きい巨体だったとしても、足が震えれば戦うことはおろか、逃げることすら出来やしないのだから。
——あの日より圧倒的に操作が上手くなった魔法をしかと見よ! お前は今日の晩飯だ!
と心の中で叫び、その掌を熊に向けた瞬間——
『風よ!』
——熊の真横から、ハルニアの物ではない魔法が飛来し、それに驚いた熊が一目散に逃げていった。
「……へ「大丈夫!?」——!?」
驚愕に呆けた声が漏れ、それに被せるように声が響き更に驚愕。
驚いて声が出ないハルニアに、見も知りもしない女性が、駆け足に近付きながら声を掛ける。
「危なかったわね……貴方、この森に迷い込んだ子? 怪我はしてない?」
「えっ、あっ、はい、怪我はしてないです」
「良かった……にしても見ない髪色ね。貴方どこの子?」
「あっ、えっと、その……」
「あ、ごめんなさいね、質問しすぎちゃったわね。
——取り敢えず怪我がなさそうで良かった」
黒い髪に黒い目でありながら、アジア系特有の雰囲気はない、白い肌で長身の女。
ハルニアの頭を、まるで小さい子供をあやすかのように——というか見た目は小さい子供なのだが——撫でるその手はすらっと伸びており、その手が付いている体は、出るところは出ている、バランスの取れた体だ。
「取り敢えず、私の家まで一旦付いてきてくれるかな?」
「えっ? うーん……。
……わかりました」
ふぅ、と嘆息してから、しゃがんで視線の高さをハルニアに合わせ、名も知らぬ女性は言う。
——ハルニアの困惑と緊張をいい感じに解釈してくれたようだ。助かった。
このまま一人で森を進むと言う訳には行かない雰囲気の上、この女性は森の出口を知っていそうなので、ハルニアは付いていくことにした。
「にしても、そんな軽装でよく怪我がなかったわね。——大事に至る前に助けれてよかったわ」
ハルニアの歩幅に合わせて隣を歩く女性は言う。
ハルニアの現在の装備は、昔クマをミンチにした時と同じ旅装だ。荷物は魔法で収納しているので、何も背負ってはいない。唯一ある物理的な物入れは腰に付いているポーチだ。
「あはは……。そういえば、あれは何ですか? あの、クマを撃退した風のやつ。それと、その風を出す前になんか言ってました、よね?」
「ん? あぁ、アレね……」
話題を逸らすとともに、ある質問をするハルニア。
魔法である事は既に知っている。重要なのは発動方式だ。
一般的な魔法は、魔法陣を組み立てて発動するが、彼女は確かに——『風よ』と唱えたはず。これは、知らないと何を言っているのか分からない、日常会話で使う言葉とは違う、文字通り「魔法の言葉」。
魔法陣を組み立てるより遥かに早く、且つそれなりに強い魔法。
「アレはね、魔法なんだけど、普通の魔法とはちょっと違うの。あ、そもそも魔法を見た事がなかったかな」
ハルニアのデータベース上、「その魔法」を扱えるのは、ごくごく一部の貴族か、その魔法の危険性から迫害された者達かのどちらかだ。
その者達は今も森に隠れ住んでいて、その殆どが女性なのだという。
「その魔法」は、「詠唱魔法」と呼ばれており、それを使いこなす森人は——
「私のは、魔法の中でもちょっと特殊でね? 唱えるだけで使えるの。すごいでしょう?」
——魔女、と呼ばれている。
これにてAct.1終了です!!
ここまで読んで、続きが気になると感じたら、ぜひ評価とブクマ、感想の方宜しくお願いします!!
いいねと誤字報告の方も宜しくお願いします!
作者が悦びます!