旅支度
頑張って書いてたら、空が明るみ始めました。端的に言って眠い。
「もう……行ってしまうんですね?」
荷物の整理をしているハルニアの背中を、寂しそうな目で見つめてくるカザルメ。
——あれから半年と少しが過ぎた。
春の陽気が窓から差し込み、外を見れば少し薄い色の空が映る。
ここらは四季が豊かなようで、春の訪れを大いに感じることができる——まぁ、まだ半年しか過ごしていない口が言えたものではないが。
「長居も禁物ですし……それに、今生の別れじゃないんですから、いつでも帰ってこれるじゃないですか」
取り敢えず、と衣服と諸々を魔法で作り出した収納空間にぱぱっと放り込み、一息ついてからハルニアが答える。
「そうですけど……貴方は、その——」
「?」
なんともいえない表情。それでも瞳は真っ直ぐに、ハルニアの目を捉えて。
「——貴方は、ヴァイゼと私の、わたしたちの娘も同然、ですから、その……」
「カザルメ、さん……」
少ない調度品が効果的に置かれた、少しカジュアルなハルニアの部屋。陽光に照らされて、ぽかぽかと、ゆっくりと時が流れていく。
半年という、少なくない時を過ごした。けれど、いつかハルニアが旅立つというのは、お互いが分かっていた事だった。
何を言えば良いのか逡巡し、そこから一呼吸置いてカザルメは言う。
「……貴方が、ヴァイゼと交わした約束の内容を私は知りませんが——近い内に旅に出ると聞いた時は、少し寂しかったんですよ?」
「……」
戦争の阻止。そんな大層なものをそう簡単に解決できるとは、ハルニア自身は到底思ってもいない。もしかすれば、いいや高確率で失敗するだろう。
実際にこれほどまで悲観している訳ではないが、ともあれ将来、戦争を回避できなかった場合、その危機に直面するだろうカザルメには、少なくとも今この戦争の話をするべきではないだろうとハルニアは考えている。
起きると言ってもまだ——まだ時間の掛かる未来の話なのである。過剰に心配させるのは避けるべきだ。
理由を語れず、申し訳なさそうな顔で口を噤むハルニアに向けて、優しい、我が子を見るような顔で、カザルメは言葉を紡ぐ。
「でも、きっとその旅はあなたにとって、そしてヴァイゼにとって大切な事なんだと、そう感じるんです。
——ですが私は、貴方の旅に付いて行く事が出来ません。それは、私自身が人とは異なる種族で、人里にあまり降りるべきではない事も理由の一つですし、なにより……此処から、この家から離れるつもりがないからです。
そもそも、私が付いて行くべきではない旅なんだろうという事も、なんとなく分かります。
それなのに引き止めるのは、我儘だって、分かってるんですけどね」
あはは、と苦笑するカザルメ。その寂しげな顔に、ハルニアは何か言わないと、と頭を回すが、一向に言葉が出てこない。
「わた、し、は、その——」
「無理してまで慰めて貰わなくても大丈夫ですよ? ……でも、もしその気があるなら——ひとつ、一度だけでもいいから、私の事を、『お母さん』って呼んでくれたり、しませんか? ずっとさん付けの名前呼びっていうのも、アレですし……」
「えっ? えと……えっ?」
「やっぱり……いや、急すぎましたよね! 気にしないでください!」
突然のお願いに困惑するハルニアを見て、カザルメはハッとした後、すぐに笑顔を取り繕ってみせた。
その仕草に耐え難いものを感じ取ったハルニアは、咄嗟に
「いっいや、そそっ、そういうわけではなく、その……
お、おかあさん?」
「…………!!」
そのハルニアの言葉を聞いたカザルメが、喜色満面の顔になったと思えば、儚く笑って。
——そのまま、ぽろぽろと、その瞳から涙がこぼれ落ちた。
「あ、れ……? ごめんなさい、なんだか、安心しちゃったみたいです。
またひとりぼっちになるのかぁって思って、ずっと不安っていうか、寂しかったので、その……なんででしょうね。
一人になるのは変わらないのに、さっきよりずっと安心できるんです」
「……」
「やっと、あの人との約束を達成出来た気がして……ふふ、やっとここまできたんだなぁって」
そうだ。カザルメは、40年間、ずっと一人ぼっちで、ヴァイゼとの約束を守り続けてきたのだ。
来る日も来る日も、ハルニアが目覚めるのを待ってきたのだ。
寿命に比べると短い時だとしても、その一人ぼっちの時間を短いとは思わなかっただろう。
「あぁ、良かった……って。諦めずに、ここまで歩いたんだなぁって。いま、とっても、救われたような気分です」
そうやってはにかむ小さなエルフは、目の前にいる、光の灯った琥珀色の瞳を見つめる。
——春の陽光に照らされて、ぽかぽかと、ゆっくりと時が流れていく。