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シーと世界の中心の樹

作者: ユッキー



《序章》



 クリスマス・イブの明け方に少し雪が降り出した。まだ暗い暗灰色(あんかいしょく)の空から、無垢(むく)な無数の雪片(せっぺん)が地上に吸い込まれるように落ちてくる。 ──まるで天からの悲涙(ひるい)のように── 愛犬シーズーのシーが、大きく身震いをして顔の雪片をはらった。

 いつもの、国道4号線の交差点かどにあるラーメンチェーン店の待機用ベンチに腰かけてひと休みをした。おねだりをはじめたシーにオヤツをやり、散歩用のスカイブルーのショルダーバックから、とても古びた薄い手書きのB5版の詩集を取り出した。子どもの頃からずっと大切に手元に置いてある無名の詩人の詩集。《カミカゼトッコウタイ》で、(とおと)いいのちを捧げ星になった無名の詩人の詩集。



 その詩集のタイトルは、『世界の中心の樹』だった。

 オレはシーの頭を撫でながら、明け方の無垢な小雪が降る暗灰色の空を見上げ、いつものように口誦(こうしょう)した。




 世界の中心の樹



 走れ、走れ、素足で走り出せ

 朝陽の玲瓏(れいろう)な美しさを感じるため


 走れ、走れ、素足で走り出せ

 星たちの無限の(きら)めきを感じるため


 走れ、走れ、素足で走り出せ

 荒廃した大地の聖性恢復(せいせいかいふく)のため


 走れ、走れ、素足で走り出せ

 世界を清浄な空気で満たす

 世界の中心の樹と出会うため




 この『世界の中心の樹』という詩を書いた無名の詩人は、11人兄弟だった父の上から2番目の二男にあたる伯父だった。文学好きだったらしい伯父は、兄弟のうちでたったひとり太平洋戦争において、《カミカゼトッコウタイ》の一員として戦死した。


 西の薄青い空に蔵王(ざおう)連峰が凛々(りり)しくならんでいる。桃の果樹園を過ぎると、杉の木に囲まれた父方の祖父の家があり、広い敷地には、平屋建ての母屋のほかに別棟としてお風呂と便所と大きな物置小屋があった。母屋の仏間には漆黒の肖像額縁に兵隊姿の若い青年の写真が飾ってあった。婚姻後わずか半年で出征した二男の伯父だった。伯父は出征にあたってまだ少女のような妻へ詩集を(のこ)していた。そういまオレの手元にある『世界の中心の樹』というタイトルの詩集を……






《第1章》



 白い満月が寂光(じゃっこう)のようなむし暑い夏の晩、お盆のため祖父の家に父の10人の兄弟全員 ──戦死した二男を除いて── が集まって深夜まで宴をひらいた。祖父と祖母を真ん中にして酒盛りがはじまったが、それほど広くない茶の間に入り切れない兄弟やその配偶者や子どもたちは、天井電灯がやや薄暗い仏間などの別の部屋で賑やかに宴をおこなった。オレは出前の握り寿司を頬張りながら、親戚の子どもたちとは遊ばずに持参した怪獣図鑑に夢中になっていた……

 人数が多いため、時間短縮をはかり数人まとめて入浴することになった。オレは母と《カミカゼトッコウタイ》で戦死した二男のお嫁さんである伯母さんと一緒に、離れの赤いトタン屋根の風呂場で入浴することになった。伯父が婚姻後わずか半年で出征したため子どもがいなかった伯母さんは、以前からオレのことを自分の子どものように可愛がってくれていた。

 お風呂場の薄暗い豆電球に照らされほのかに褐色(かっしょく)に色づいた細い裸身の伯母さんが、 ──ときおりうつむき加減の美しい顔に深淵な寂寥感(せきりょうかん)(たた)えはするが、ふだんは明るく陽気な伯母さんが急に真剣な表情にかわって── まだ小学生だったオレの両肩にいくぶん濡れた細い手を置いて、やや切長の美しいひとみでじっと見つめながら、胸に秘めていた思いを伝えてくれた。まるでもうひとりの母のように……


 ──ユウちゃんは勉強がよくできると聞いています

 この世界は、くもりのないまなこで見なければなりません

 ユウちゃんなら必ずできるはずですから

 実はね、死んだあのひとが残した詩集があるんです

 ユウちゃんに読んでほしいの

 お風呂からあがったらお渡ししますね



 お風呂からあがり、天井電灯が薄暗い仏間で伯母さんから手書きのB5版の詩集を渡された。 ──ファンタオレンジの瓶と一緒に── タイトルは『世界の中心の樹』だった。オレがひとつひとつの言葉をゆっくり口誦すると、伯母さんは長い黒髪をタオルで拭きながらずっとやさしい表情で微笑んでいた。 ──ときおり漆黒の肖像額縁の兵隊姿の若い夫の写真を見上げながら── まだ小学生のオレによく理解できるはずもなかったが、それでも《世界の中心の樹》という言葉には強く惹きつけられていた。《世界の中心の樹》ってどんな樹だろう、と疑問を口にしたオレに、伯母さんは微笑みながら陽光のようなあたたかい眼差しをむけてくれた。


 ──むずかしいよね

 詩を読むのははじめてだったですか

 心当たりはあるんだけどね

 でもユウちゃんが大人になったら

 きっとわかるはずですから






《第2章》



 布団に入ってもなかなか眠れなかった。もうどのくらい時間が()ったであろう。漆黒の肖像額縁の兵隊姿の若い青年の写真が、ほのかな灯りに照らされていた。その二男のお嫁さんの伯母さんから渡された詩集のタイトルは『世界の中心の樹』だったけれど、この兵隊姿の凛々しい顔をした伯父は、どんな思いを込めて書いたのであろう。『世界の中心の樹』って、世界の真ん中に(そび)えているとても高い樹なのだろうか?

 すると同じ仏間で寝ていた二男のお嫁さんの伯母さんが、まわりに気づかれないようそっと部屋から出ていくのが見えた。なんだかとても気になって、オレもとなりで寝ている母に気づかれないようにそっと布団から抜けだした。

 東の空はすでに色づきはじめていた。地球の底辺が燃えるように赤みを帯びて空に反映している。光の帯があちこちの地上の景色にまで派生し、太陽の恩恵を感じた。

 伯母さんが、庭を横切り桃の果樹園の方へ向かう姿が見えた。すぐにオレもあとを追った。


 暁光(ぎょうこう)が果樹園全体を包んでいた。等間隔でならぶ桃の樹のいっぽんいっぽんが、朝陽と会話をしているように楽しげに乱反射して(まぶ)しかった。果樹園に入るとすぐに果実の甘美な匂いが漂い、オレは特別なエリアへ足を踏み入れたことを自覚した。

 伯母さんは、果樹園の真ん中あたりのいっぽんの桃の樹の前で(ひざまず)き、底辺から赤く色づいた東の空を見つめていた。

 オレが近づくと、一瞬、伯母さんは笑顔で振りかえり小さく頷くと、ふたたび東の空を見つめたが、やはりその笑顔は深淵な寂寥感を湛えていた。オレも伯母さんの(かたわ)らに立ったまま、しばらく底辺から赤みを帯びた東の空を見つめつづけた。

 しばらくすると伯母さんは、昇りはじめた太陽に正面から向かうように口をひらいた。


 ──あのひとは、桃の樹が好きだった

 出征する前は、よくふたりでここから日の出を眺めたものです

 あのひとはもう帰ってきませんが、ここから朝陽を眺めるとあのひとを感じるのです

 あのひとと話しができるのです

 あのひとが詩に書いた《世界の中心の樹》とは、この桃の樹のような気もするのです

 もしかしたら魂だけでも、あのひとはこの桃の樹に帰ってきているのかもしれません






《第3章》



 末期の子宮癌に侵され、余命もわずかになってようやく母は、父の兄弟たちへ病状を伝えることを許可した。すぐに近隣に住む伯父や伯母たちが見舞いにきてくれた。オレに詩集を託した《カミカゼトッコウタイ》で戦死した二男のお嫁さんである伯母さんも、真っ青な顔をして駆けつけてくれた。 ──母の名前はタカコ、仙台市中心部にある東北公済病院の個室の病室で抗がん剤治療を受けていた──


 ──タカちゃん

 こんなに痩せてしまって

 タカちゃんしっかりしてな


 都会の喧騒が()れ聞こえ照明だけが明るい病室で、伯母さんは、顔色がすっかりわるくなった母の小枝のような細い手をしっかりと両手で握りしめ話しかけてくれた。母は伯母に気づくと、何度も小さく頷きながら生気の失った目から涙を流した。それから伯母さんは父とオレに、なんでもっと早く教えてくれなかった、と悔しそうにくちびるを噛んで苦言を呈した。 ──母は若くして癌に侵された自分の姿を見られるのを嫌がり連絡することを最後の最後まで許さなかった──

 申し訳ありませんとオレは、顔にシワがみられるようになった伯母さんに頭を下げると、伯母さんも切長の目に涙をためて、オレにというよりも何かもっと大きなものに向かって訴えかけた。まだオレが小学生の頃、桃の果樹園で昇りはじめた太陽を見つめていたあのときと同じ清冽(せいれつ)なひとみで……


 ──お母さんは何かいっていたか?

 タカちゃんは何かいっていたか?

 なんもいわないでしょう

 ユウちゃんのお母さんはとってもえらいから

 なんも弱音を吐いたりしないんだ

 タカちゃんはむかしからそうだった

 でもなんでこんなことに

 まだ若いのに

 なんでこんなことに


 他の伯父や伯母たちが帰っても、二男のお嫁さんである伯母さんは帰らなかった。


 ──ワタシがお母さんをみているから

 ユウちゃんは早く晩ご飯を食べてらっしゃい

 お腹空いたでしょう


 すいません、お言葉に甘えて、と伯母さんにお礼をいって病室を出るとき、ふたたび伯母さんは都会の喧騒というよりも世界刻(せかいとき)から切り離された母の、小枝のような細い手をしっかりと両手で握りしめた。 ──もう伯母さんの顔には以前のような深淵な寂寥感は感じられなかった── その後、母と伯母さんがどんな話しをしたのかわからない。だけどオレはなんだか泣きそうになりながら久しぶりに、あの『世界の中心の樹』の詩を思い出した。

 《カミカゼトッコウタイ》の一員として若かくして戦死した伯父の魂が、蔵王連峰を望む果樹園の桃の樹に帰ってくるようだ、といった伯母さんの言葉とともに……






《終章》



 2月下旬のまるで天からの悲涙のような小雪が降る寒い日だった。市内の火葬場で母の火葬がおこなわれた。待合室で待っている間、《カミカゼトッコウタイ》の一員として戦死した二男のお嫁さんである伯母さんが話しかけてきた。小雪が降る窓外にときおり視線を移しながら、久しぶりにふたりでじっくりと話しをした。伯母さんはまず、はじめて聞く母との思い出を話しはじめた。

 

 ──ワタシが《カミカゼトッコウタイ》の一員として戦死したあのひととの短かった思い出を話したとき、タカちゃんは誠実な態度で真剣に聴いてくれました

 あのひとが文学が好きで作家になる夢をもっていて、ユウちゃんが小学生だった頃に渡したあの『世界の中心の樹』の詩集をね、タカちゃんに見てもらうと、やっぱりタカちゃんは真剣に読んでくれました

 そうしてね

 タカちゃんは、まだ幼かったユウちゃんがもう少し大きくなって漢字が読めるようになったら、この詩集を見せてあげてほしいとお願いしてきたの

 ユウちゃんがあのひとの生まれかわりだと、ワタシもタカちゃんも真剣に思っていたわけではなかったけれど、なぜかユウちゃんには同じような血が流れていると感じていたのかもしれません

 ワタシは子どもがいなかったから、ユウちゃんを自分の子どもように思っていました

 だからタカちゃんの提案にすぐに喜んで大賛成したのです

 どう? びっくりされましたか

 今まで黙っていてごめんなさい

 ふたりの秘密でしたからね


 もちろんオレはとても驚いた。あの《カミカゼトッコウタイ》の一員として戦死した二男の伯父が書いた詩集『世界の中心の樹』が、母の願いによって伯母からオレへと渡った真実を知らされて。

 オレはまだ自信をもって『世界の中心の樹』と出会えたわけではないけれど、いつの日にか必ず出会えるような気がしてきた。きっと母の死を乗りこえて……



 母の死から9年後に父も亡くなり、その2年後にシーと運命的に出会った。

 蔵王連峰を望む果樹園の桃の樹が、あるいは《カミカゼトッコウタイ》の一員として戦死した二男の伯父にとっての《世界の中心の樹》だったかもしれない。 ──まだ少女のような愛する妻の思い出がつまった──

 そしてオレとシーは、いつの日か《世界の中心の樹》に出会えると信じて生きていくつもりだ。

 ーオレは小説を書きながら、シーは元気に走りながらー

 亡くなった母の隠された願いでもあるのだから……





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