呪い
毒を撒き散らしてしまう赤子の世話は困難を極めた。母たるシルラーナも迂闊に近付けずまた禁書を頼りに耐性を得ようとも努力したが、ある日乳母代理の二人が赤子のぐずりだしたタイミングで毒と腐食の力をまともに受け耐性があるにも関わらず半身が溶けた。
魔王の血を継いだ赤子の方が力が勝っていたという証拠でもあるが、喜ばしいと祝福する間もなく更にはその騒動で赤子を入れた揺り籠までもバランスを崩しかけ危うく大惨事となりかけた。
運良く腹を満たした魔王が遠方より帰り付き赤子を保護した事により赤子にこそ傷や重症を負わせずに済んだが、己の手で救う事すらままならないこの状況に耐えかねたシルラーナは魔王に詰め寄り恫喝するように訴えた。
「貴様!魔王だと言うならば何とかあの子の力を封じてみろ!!その程度もできずに何が魔王だと言うのだ!」
「これ以外に力を持たぬかもしれない赤子からこの力を取り上げればそれこそ勇者や他の捕食者たちに狙われた時に真っ先に死ぬぞ。それでも望むか?」
「はっ、この子が脅かされる敵など私やお前がどうにかすればいいんだ!今この時に泣く我が子を助けられずして何が母か!いいから!早く!早く、この子を助けろ!」
鬼気迫る表情を見せ、それでもなかなか動かない魔王に焦れたシルラーナは魔王の力によって宙に浮いたままとなって未だ泣きわめく哀れな我が子に駆け寄り腕を伸ばした。
毒と腐食の見えぬ圧がシルラーナの腕に絡み皮膚を浸食し先程犠牲になった乳母代理たちのようにとしていくその寸前、魔王が溜め息混じりに何かを呟き落とす。
彼女の耳には解せない、それは古い力ある言葉のようだった。
腕と赤子に近付かんとする顔を溶かそうとした力が見る間に消えて圧も消えていく。
今までその腕に抱いてきた子どもたちと同じように柔らかで温かい赤子独特のその体を包むようにして抱き上げ子の顔を覗いてあやし、声の調子をよくよく聞いて腹が空いてか機嫌の悪さかと泣いていた理由を探りながらゆっくりと踵を返し魔王へと顔を向ければ。
憮然とした表情をしながら魔王は口を開く。
「……俺の力で赤子の体にかけられるものはせいぜい微弱な呪いくらいだ。それ以上をすれば赤子の体が耐えきれず弾け飛ぶ」
「もっと早くにかけていれば」
「そんな事をすれば確実に死んでいた。幾ら血を継いでいるとはいえ所詮は赤子、俺の側にあるだけで肉体に影響を受けるというのに。毎度生まれると同時に庇護の膜を貼るのがどれだけ面倒な事か知らないだろう」
本当に心の底から悪態を吐くようにして言葉を紡げば刺々しい眼差しを彼女と泣き止みつつある娘へと向けて舌打ち、魔王は血や泥に塗れたその格好のまま、自室へと帰らんとしかけて一度足を止めた。
そして彼女を睨み見据え。
「俺を煩わせた罰にお前も呪ってやる。今宵、覚えておけ」
言い終えると同時に赤黒い煙を細く吐き出しそれは彼女の影へと向かっていくと床に落ち、やがて影と同化するように溶けて消えていった。
何かをされたと身構えるもその時には何にも起こらず、しかし脅すように意味深に言葉を残していった魔王を思い彼女は苦々しく表情を歪めながら新しく乳母がくるまで乳を我が子に与えてようやく母子としての時間を過ごし気持ちを落ち着け、我が子に名前を与える事も叶った。
その晩。夕食を終え、湯浴みも済み、魔王が残した言葉を考えて何が起こってもいいようにと傍らに護身用の剣すら携えていた彼女は静かに息を殺して夫の訪れを待っていた。
首を狩ってやるとすら感じる勇ましい姿であったが、カチリと時計の針がとある時刻を指し示すその瞬間。体に電撃が走るように衝撃を覚え、ぶるぶると足や体を震わせた後に控えていた部屋の隅から歩みを進め己の衣服などが連なる収納の前へと出向き、侍女に任せるでもなく一人でに着替えを進めていく。
ただ寝るだけの格好のそれではない。
こんな服を着た覚えはない。ましてこんな服がここにあった事すら知らなかった。そんなものを取り出し狼狽えながら肌に纏っていく。
生地は薄く滑らかであるのに光沢があり最高級のものと触れて直ぐに理解できるものであったが、彼女の趣味では決してない。透けて体の線どころか隠さなければならない部分すら露わにする破廉恥なドレスなど。
下に何も身に着けられず、拒んで床に落とすこともできずにその淡い紫色をした半透明のドレスを身に着けてしまえば長い裾を引きずりながら廊下へと進みふらふらとどこかへ向けて歩みは続く。
いや、わかっている。どこかではない。この歩みの先には魔王がいると理解していた。
護衛も侍女も不自然にいないのも予め魔王が人払いをしての事か。静まり返り不気味な程になった城内に己の立てる靴音のみ響き。
辱めが罰でも隣の魔王の私室に辿り着くのだろうと彼女はどこか楽観視していた。しかしそれも直ぐに潰えた。
魔王の私室を通り過ぎて尚足は止まる事などなかったのだ。不安が首をもたげ、どこに向かわされるのだろうかと考えが浮かび暫く歩かされ続けて気付けば玉座の間の扉を前に立ち尽くしている。
重厚できらびやかな大扉は、外の国のものや客人、それに様々な国から訪れる者たちを迎え謁見を果たす重要な場所。
時折、魔王の機嫌によっては殺戮の場ともなるがまさかここにあの男はいるのだろうかと考えが至り、その予感が的中している事を示すようにと扉に自然と手をつけ押し開く体と気配に漸く辱めだけではないと直感し生き残る術を探そうと頭が働き始めた。
人一人通れる隙間を開いて中へと身を滑らせれば高い位置にある玉座に魔王は鎮座していた。見下ろすその視線は冷たく、興味のないものを見る眼差しと同じだ。
如何に愛し合い子を幾人と作れど傀儡状態では彼の興味を唆る対象にはならないという事だろうか。ただならぬものを感じて顎を引き俯く彼女を魔王は見下ろしたままに唇を片方吊り上げる。
「裸同然でここまでやってきただけでもお前には効いただろうが、まさか俺が与える罰がその程度だとは思ってはいないだろうな?」
先程まで考えていた事をそのまま言い当てられたかのような口振りに思考を読まれたかと彼女は一瞬疑い動揺した。しかし気を取り直し唇を噛んで魔王を睨み返し答える。
「……悪辣な貴様の事だ。どうせしょうもない事を企んでいるに決まっている」
「気の強さもここまでくると愚かだな」
「貴様が言うか」
己の子を思う事の何が悪いと開き直り、魔王と真っ向から対立するつもりで叩き返すと見上げた魔王の目が眇められた。
「先ずはあれが受けた呪いがどのようなものか。その身を以て知るがいい」
魔王の右手がスッと上げられ、柔らかな布一枚纏っただけの身が強ばった。そして腹の深いところに激痛が走る。くの字に体を折り床に膝をついて両腕で腹を覆えばじくじくと蝕むようにその痛みは腹から広がり体全体を蝕む。
「あ゛、あぁっ」
「魔族の大半が腹か心臓に魔力を多く持つ。その道筋を俺の呪いが破壊して回っている。あれは赤子だ。痛めつけ過ぎれば簡単に死ぬ。故に、身代わりが必要だ。そうだろう?」
「それが、わたしかっ?」
「お前も三日が限度だろうな。今はもう立派に魔族として馴染んでいるように見えてもお前も元ヒト族だ。痛みには脆い。俺に許しを乞えば代わってやってもいいが」
「っ、わたしを、あまりみくびるなよ……ッ」
子どもを助けたのは昼間。それから今までこの痛みはどこにあったのか。誰が身代わりを果たしていたのか。答えは目の前にある。
こんな痛みを感じていながらも果たして素面でいたのか。それともまた妙な術を重ねてないものとしたのかは不明だが、冷酷で傲慢な仕打ちと言動をとりながらも間違いはない。
他に手はなかったとしてももう少し話をするなりやりようが彼女にもあった。焦って考えもなしに手を出し魔王の言葉通り子どもにこんな痛みを押し付ける事をしていただなど。下手をすれば毒と腐食依然の問題だ。
「私は、ッ、私は、あの子の、子どもたちの!母だ!魔王如きの呪いで、屈すると思うな!」
だが反省すべきところはあれど、それでも。痛みを堪えて叫ぶように答えて素直に従う事もなく足を奮い立たせ、再びその場に胸を張って立たなければと彼女は足掻いてみせた。
冷たく見放すような表情をしていた魔王も僅かに目を見張りそんな彼女を眺めた。
そして彼女が顔を歪めながらも仁王立ちしてみせると口許を歪め、笑う。
「ふ、ははは、ククッ、我が呪いを受けても意地でどうにかしたか。絶望して這いつくばると思ったが、それでこそだ」
「またおかしな気を起こすなよ。ただでさえ、気狂いの相手をするのは大変なんだ」
「気狂いはお前の方だ。子を産んだだけで何故そこまで子どもに執着できる。もう子育てなど飽きる程に経験しただろうが」
「……貴様には一生わからんさ。考えるだけ無駄だぞ」
この会話の間にも痛みは全身に行き渡り、遂には痛みを感じない箇所はなくなった。全身が鉛のように重く今にも倒れ血を吐きそうな程に具合が悪い。
けれど弱っている姿を今この男にだけは見せたくないという思いだけで立ち続けている。
それを知りながらも魔王は愉快そうに彼女を見るばかりで助けようともしない。
鬼畜め、と心の内に罵りつつも喋り続けている魔王の相手をしそのうちにこちらに来いと掲げていた右手をひらりと揺らされて高い位置にいる魔王の元までとされては痛む体を使われ流石に頬が引き攣った。
すると魔王は殊更に珍しく優しげな微笑みを浮かべて妻の腰を抱き己の膝へと誘った。
完全に獲物を甚振る獣の顔だ。
「……性悪が」
「何かいったか、我妻よ」
痛みに耐えぬく女をこのように弄ぶ神経がわからんと彼女が苦々しく呟いたのを受け、顎に手をやり真顔となる魔王に一際険しく表情を歪めては彼女は無言を貫いた。




