第一章 試験場へ 1
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──九ヶ月後。
暖房の効いた部屋で、布団に顔まですっぽりと隠れながら気持ち良さそうな寝息を立てる少年。
そんな彼の心地よい睡眠を、けたたましい目覚まし時計の音が邪魔をする。
ジリリリリ、と聞き慣れた音を発する目覚まし時計のスイッチを布団の中から出した手で探り当てる。音を止めて三秒後、ベッドの上でもぞもぞと動きながら各務原唯人は身体を起こした。
時刻は朝の七時。いつも通りの起床時間だ。
カーテンを開け外の天気を確認する。窓越しからでも分かる寒そうな空気に、高いところで光り輝く大きな太陽、そして適度に白い雲が漂う青い空──言われずとも分かる。晴れだ。
「よく晴れたな。幸先が良い」
十二月の末日。今日は唯人や特定の人にとっては大事な日だ。
世間では大晦日で朝から慌ただしい家庭もあるだろうが、唯人にはそれ以外にもう一つとても大事なことがある。
二階にある自分の部屋を出て、一階にあるリビングの扉を開ける。そこには黒い髪をポニーテールにしたエプロン姿の女性が朝ご飯の支度をしていた。鼻歌までして、今日はかなり機嫌がいいようだ。
リビングにやって来た唯人に気付いて、その女性はにこやかな笑みを浮かべた。
「あら、唯人くん。おはよう。今日も早いわね。試験はお昼過ぎからでしょ? もう少しゆっくりしたら?」
「楓さん、おはよう。そうなんだけど、いつも通りじゃないと調子が狂うっつーか、この時間に起きるのに慣れてて」
そう言いながらポットに水を注ぎお湯を沸かす準備をする。唯人の日課である毎朝のコーヒーのためだ。
楓と呼ばれた女性は唯人の言葉に、大きく溜息をつき天井を仰いだ。
「唯人くんはこんなにしっかりしてるのにうちの子は……来年には中学三年生なのに。いつものように寝坊するし……」
「まあ休みの日くらいいいんじゃ……康文さんは、今日も仕事か」
この家には唯人を含め四人が暮らしているが、テーブルの上にあるのは三人分の朝食だ。
台所の流し台を見ると食べ終わった食器が置いてある。この滝上家の大黒柱である滝上康文が朝食を済ませ、もう会社に向かったのだろう。
大晦日までお疲れ様です、と唯人は心の中で労いの言葉をかける。
「唯人くん、そうやってあの子を甘やかしちゃだめよ? あの子、すぐ調子に乗るんだから」
「……え。俺、そんなに菜月のこと甘やかしてる……?」
楓の突然の発言に唯人はピタリと固まった。
目を合わせると彼女はきょとんとした表情を浮かべている。信じられないものを見たかのように。
菜月というのは康文と楓の間に生まれた、現在中学二年生の娘のことだ。唯人とは血が繋がっていないが「ゆい兄」と呼んで慕ってくれている。唯人もまた彼女を実の妹のように思っており、近所では仲の良い兄妹としてそこそこ有名になっている。
のだが──
「唯人くんもしかして……自覚なし……?」
戦慄したような表情になった楓に、唯人も驚愕する。
そこまで彼女を甘やかしていた記憶が唯人にはない。よく一緒に買い物に行ったり、二人で近所まで遊びに行ったりはするが、それは甘やかしている内には入らないだろう。兄妹で出かけること自体は全然おかしくないはずだ。
割と厳しくしていたはずなのにおかしいなぁ、と下の子の面倒を見る大変さを十六歳にして早くも痛感する。
「とりあえず菜月を起こしてくるわね」
楓がエプロンを外して階段を上がろうとするのを唯人は止めた。
「楓さん、俺が起こしてくるよ。洗い物とかまだ色々やることあるだろ」
「でも……唯人くん、菜月に甘々だし……」
「大丈夫だから、今回は任せてくれ! ちゃんときびしーく、兄として心を鬼にしていくから、任せろ!」
自信に満ち溢れた表情でグッと親指を突き立てる唯人に、楓は小さく微笑んだ。
「分かったわ。じゃあ、お願いね。お湯沸いたらコーヒー淹れておくわね。ええと、お砂糖は──」
「無しでいいよ。コーヒーよろしく」
そう言って唯人は二階にある自分の隣の部屋、義理の妹的存在である菜月の部屋へと向かう。
部屋の壁はそこまで厚くないため、大きな音は割と隣の部屋まで聞こえてくるはずだ。自分の部屋の目覚まし時計の音でも起きないとは──。
さすが滝上家の眠り姫、滝上菜月といったところか。
そんなくだらない感想を浮かべながら「なつきのへや」というドアプレートが掛かった部屋の扉をノックする。
「菜月ー、起きろー。朝だぞー。おーい」
数回ノックをしながら呼びかけても応答がない。相当深い眠りに入っているようだ、これはかなり手強い。
だが唯人としてもここで引くわけにはいかない。ここで引いたらまた甘やかしていると思われてしまう。入るぞ、と一言かけてから部屋の扉を開けた。
予想していた通り、ベッドの上には布団にくるまっている何かがいる。何か──そう、眠り姫・滝上菜月だ。
ベッドに近付き容赦なく彼女を覆う布団を引き剥がす。布団の中の彼女を見て、唯人は思わず言葉を失くしてしまった。
年頃の可愛い妹分がお腹を丸出しにして、ヨダレを垂らしながら気持ち良さそうに眠っている。無防備かつあられもないその姿に、深く重い溜息をつくしかなかった。
だが彼の仕事はこれで終わりではない。彼女を起こすという最大の難関が待ち受けている。
学校がある日だと遅刻する、という危機感が彼女を突き動かしてくれるのだが、生憎と今日は休日だ。彼女を突き動かす原動力がない。だからこそ心を鬼にして臨む必要がある。
とりあえず服が捲れ上がって丸出しのお腹を隠し、口の端から垂れるヨダレをティッシュで拭う。これで起こす準備は整った。
「菜月、起きろ。楓さんの美味しいご飯が冷めるぞー」
軽く揺すりながら呼びかけても起きる気配がない。もうお腹いっぱいだよー、と幸せそうな寝言まで呟いている。
これは苦しい戦いになりそうだな、と今度は強く揺する。これはさすがに効いたのか、菜月の表情が変わりうっすらと瞼が持ち上がる。
「……ゆいにぃ……?」
「お。そうだぞ、ゆい兄だ。早く起きろ」
寝起きのか細い声で名前を呼ばれて唯人は返事をする。
案外早く起きてくれそうだと安堵した唯人だったが、ベッドの上でもぞもぞと動きながら菜月は引き剥がされた布団を被り直す。
「……あと五時間」
聞き間違いを疑ってしまう二度寝の宣言を残しながら。
「……は……はあ!?」
さすがにこれには唯人も反応が遅れた。
再び身体を覆い隠した菜月から、布団を奪い取りながら思わず叫ぶ。
「ちょっと待て、お前さっき何て言った? 五時間? 普通そこは五分だろ! 二度寝で五時間とか前代未聞すぎるわ!」
「やぁーだぁー、まだ寝るの〜。寝る子は育つんだからぁ〜!」
布団を被りたい菜月と、その布団を引き剥がそうとする唯人の一進一退の攻防が始まった。
力では圧倒的に唯人の方が上だが、菜月の睡眠欲が凄まじい。一向に布団を離そうとしない。少しでも気を抜いたら布団を奪い取られ、五時間というとんでもない時間の二度寝を許してしまうことになる。
この勝負は負けるわけにいかない。
起こし職人・唯人と眠り姫・菜月の死闘は五分続き、結果は起こし職人・唯人が勝利を掴んだ。決め手は唯人の「明日なんか買ってやるから」だ。
こんな甘い誘惑に負けてしまう妹分を情けなく思う。将来この子が悪い男に引っかからないかひどく心配だ。
だが単純な手に引っかかってくれるのはやりやすいし、何よりやはり愛しく思えてしまう。これが甘やかしですかそうですか、十分ほど前に楓に言われたことを思い出す。
どれだけだらしなくて、どれだけ情けなくても、最終的には可愛さに屈してしまう。世の親バカが何故生まれるのか、唯人はこの時理解した。
「ゆいにぃ〜……おはよ〜……」
布団で首から下を覆いながら寝起きの挨拶をする菜月。まだ上手く頭が回ってないのか、ぐわんぐわんと頭が大きく揺れている。倒れたらこのまま寝てしまいそうなくらいだ。
胸の辺りまである艶やかな黒髪に、二重のぱっちりとした大きな瞳、明るくて人懐っこい無邪気な笑顔と性格。唯人が妹のように可愛がっている滝上菜月は、近所でも可愛らしいと評判だ。
実際のところ、唯人も身内としての贔屓目なしに見ても菜月は可愛いと思う。家の中ではぐうたらでだらしないが、そんなの外でしか知り合わない人たちは分からない。身内でなければうっかり好きになってしまいそうなくらいよく出来た女の子だ。
そんな寝起きの彼女の頭をぽんぽんと軽く撫でてから、唯人は立ち上がった。
「ほら、立て。朝ご飯出来てんだぞ」
「……んー……あっ。ゆい兄……今日、試験だっけ……?」
ようやく頭の方も覚醒してきたのか、上目遣いで菜月が問いかけてくる。その質問に唯人が頷くと、菜月は唯人の服の裾をきゅっと掴んだ。
「試験いつ終わるの? 早く帰ってこれる? 年末の歌番組、ゆい兄と一緒に観れる?」
駄々っ子のように掴んだ裾をぐいぐいと引っ張られる。そんな仕草さえも愛らしくて、これは意地にでもすぐに帰らなきゃいけないな、という気にさえさせてくる。
駄々っ子と化した菜月をなだめるため、唯人は目線が彼女と合うくらいにまで屈み、不器用な笑顔を浮かべながら答える。
「大丈夫だ。試験終わったらすぐ帰るし、ギリギリ放送には間に合うはずだから。それに俺の好きなアーティストも出るからな。絶対一緒に観ようぜ」
「うんっ! 約束っ!」
満面の笑みで立てた小指を向けてくる。
以前家に遊びに来た菜月の友達が「菜月ちゃん、モテモテなんですよー」と言っていたが、その理由を今はっきりと理解した。
こんな眩しい笑顔をこの子は誰にでも向けることができるのだ。今までクラスメートの一人という認識をしていたにしても、この笑顔を見たら恋愛対象にすぐに変わってしまう。
十四歳にして同年代の男たちを虜にする技を身につけてしまった妹分に、唯人は複雑な心境を抱きながら、自分の小指を菜月の小指に絡める。
「ゆーびきーりげーんまんっ、ゆーびきった!」
せめてこの精神的な幼さを残したまま、高校生にならないようにと切に願う唯人だった。