Prologue
都内の大きな病院の個室。
昼の暖かな日差しが広い病室を明るく照らしている。窓際にあるベッドの上の患者は身体を起こし、暖かな光が降り注ぐ窓の向こうを目を細めながら眺めていた。
長い白髪混じりの銀髪に、鮮やかな青い瞳。その瞳を縁取るまつ毛は細く長い。華奢な身体つきに色白な肌。全てが作り物のような繊細で麗しい彼女の姿が光に照らされている様子は、とても幻想的で簡単に言葉では表現できない美しさを感じさせている。
三十代後半から四十代前半と思われるその女性は実年齢よりも若く見え、アスファルトに健気に咲く一輪の花のような、力強くも儚い印象を与えていた。
窓の外に広がる景色を見つめながら小さく溜息をつくと、病室の扉が控えめにノックされた。
その音に反応したベッドの上の彼女は細めていた目を僅かに開き、ドアの方へと視線を向けた。
口元を緩めて優しく微笑みながら、ドアの向こうにいる来訪者へと声をかけた。
「どうぞ。開いてるから」
その言葉を聞いて、病室のドアがゆっくりと開く。
入ってきたのは医師でも看護婦でもなく、黒いパーカーにジーパンを履いた一人の少年だ。その手には小さな花束がある。
黒髪に青みがかった瞳が特徴的なその少年は、端整な顔立ちが台無しになってしまうかのような鋭い目つきで、ベッドの上の女性を見つめる。
彼女も彼女で怯える様子を一切見せずに、むしろその少年を愛でるかのような瞳で見つめ返す。
「久し振り。元気そうね、唯人」
唯人と呼ばれた目つきの悪い少年は、その鋭い目つきのまま不器用な笑みを浮かべた。
「──ああ、久し振り。そっちもなんともなさそうだな、母さん」
久し振りの母親との再会に各務原唯人は、今度こそ無邪気に顔を綻ばせた。
花瓶の花を取り替え、母親の身の回りの世話をてきぱきとこなす唯人。その様子にベッドの上の母親は思わず声をかけた。
「──ね、ねぇ、唯人。久し振りに会ったんだからゆっくりしたらどう? あなたの気持ちは嬉しいけど、そんなにせっせと動かなくても。お話もしたいし」
「え、ああ……そっか。悪い。ついいつもの流れで……で、何から話すかな」
ベッドの横にある椅子にようやく腰を下ろした唯人は、腕を組みながら話題になるようなことを頭の中から引っ張り出そうとする。
しかしこれといって話題になるようなものが出てこない。トラブルや問題が何もないのは良いことなのだが、言い換えれば淡白で単調な生活をただ送っているだけなので、そんな自分に僅かながらショックを受けてしまう。
そんな我が子を見かねたのか、くすっと小さく笑いながら母親が助け舟を出した。
「そんな調子で大丈夫なの? 四月から高校生でしょう?」
「それは大丈夫──って、あっ! 母さん見た? 俺の中学の卒業式。叔母さんがビデオ撮影してて、後で病院に見せに行くって言ってたけど──」
思い出したように興奮気味に話す唯人に、思わず笑いながら母親は頷く。そんな我が子の愛らしい様子に思わず表情が綻ぶ。
「見させてもらったわよ。感動した。ただもう少し背筋は伸ばしなさい。お母さん、そこが気になりました」
「うっ、返す言葉もない……善処します」
痛いところを突かれたとばかりに、唯人は引きつった表情を浮かべる。卒業式の後、叔母やその娘に言われたことを再度母親に言われることになるとは。普段から背筋を意識して生活しようと決めた瞬間だった。
「勉強の方は大丈夫なの? 一応定期テストの結果は楓から聞いているけども」
楓、というのは唯人の叔母──つまり彼の母親の妹のことだ。
唯人は現在、楓の家族のところに居候させてもらっている。腫れもの扱いされることもなく、逆に妹家族からはたいへん可愛がられており、その家の娘である菜月からは実の兄のように慕われ懐かれている。
「まあ、良いとは言えないけど悪くもないって感じかな。中の中。並の並だよ」
「そう。まあ私もお父さんも勉強はそこまで得意じゃなかったから、偉そうに何か言える立場じゃないけれど……留年はだめよ? 中退はもっとだめだからね?」
「分かってるってば。そこまで絶望的な成績じゃないから」
母親の心配に困ったように眉を八の字にして答える唯人。親として息子の成績を案じるのはおかしいことではない。だが久し振りの母親との会話で嫌いな勉強の話をこのまま続けたくはない。
なにか話題を変えようとした唯人は、母親の髪が少し乱れていることに気付く。
「──母さん、髪梳かそうか? 最近手入れしてないだろ」
息子の言葉を聞いて自身の髪に触れてみる。確かに最近櫛を入れていない。最後にしたのもいつだったか覚えていない。
愛する我が子の申し出にこくりと頷いた。
「うん。じゃあ、お願いしようかしら」
母親の返答に、任せろと唯人はゆっくりと腰を上げた。
身体を動かして背中を唯人へと向けた。唯人の手には彼女が長年使い続けていた見慣れた櫛が握られている。入院する際に妹の楓が置いていったものだ。
ゆっくりと唯人の手が母親の髪を梳かしていく。手入れしていなかったのが嘘かのように、彼女の長い銀髪は櫛に一切引っかかることなどなかった。静かに、そして丁寧に手入れをする息子に、母親は失笑する。
「……なんだよ、何か変か?」
笑い出した母親に唯人は不思議そうな声を上げる。それに対し、そうじゃないと彼女はかぶりを振った。
「少し前まではまともに髪を梳かせなかったのに、今は安心して任せられるようになったんだなぁって、成長を感じていたの。上手になったわね」
「一体いつの話をしてんだよ。小学生くらいの頃だろ、それ」
「そうだったかしら? それにしてもなんで急に上達して……あ、まさか彼女が出来たとか──」
「ちげーよ! 残念ながらまだ彼女いない歴イコール年齢だよ! 息子にこんな悲しいこと言わせんな」
母親の言葉を食い気味に遮った。
そんなやり取りに今度は二人して、全く同じタイミングで堪えきれずに吹き出した。広い病室に二人の笑い声が響く。
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、母親は後ろで髪を梳かしている唯人に呟くように声をかけた。
「──ごめんね、唯人」
そんな小さな声を唯人は聞き逃さなかった。
彼女の髪を梳かしていた手が、ピタリと止まる。
申し訳なさそうに、そして絞り出すような悲しい声色で彼女は続けた。
「私、あなたに何も出来てない……母親らしいことを何も……あなたにも、楓にも迷惑をかけて……本当に、本当にごめんなさい……!」
今にも泣き出しそうな声で謝罪の言葉を述べる。小刻みに震える母親の小さな肩に、唯人はただ──
「──大丈夫だよ、母さん」
ただそっと、手を置いた。
「母さんは何も出来てないなんてことないよ。一番大切なことを俺にしてくれた。そして今生きている。それだけで充分だよ」
「……一番、大切なこと……?」
潤んだ瞳で母親は唯人に問いかけた。
その視線を受けて唯人はニッと笑って答える。
「俺を生んでくれた。俺が今ここにこうしていれるのは、他の誰でもない母さんのお陰なんだぜ。本当にありがとう」
息子のそんな言葉に、今まで堪えていた涙が、抑えていた感情が一気に溢れ出した。堰き止めていた色々なものが、涙と感情と一緒に流れていく。
そのことを自覚する間もなく、息子の胸の中に飛び込み、子供のように泣きじゃくる。そんな母親の頭を唯人はただ優しく撫でる。
まるで立場が逆だな、と小さく笑ってしまう。
春の暖かな日差しが、二人の親子を優しく照らしている。
── ── ── ── ── ── ── ── ── ── ── ──
母親の涙も止まりようやく落ち着き始めていた。気が付けば時刻は午後の四時前。ここに来たのが昼の一時過ぎだったから、三時間弱も経っていた。
そろそろ帰らないと、叔母やその家族も心配する。唯人は椅子の側に置いておいた鞄を持ち、ベッドの上の母親に告げる。
「じゃあ、俺はもう行くよ」
「うん。わざわざ来てくれてありがとう」
泣いてすっきりしたのか、今日ここで顔を見た時より心なしか表情が晴れやかに見える。母親の心の支えになれたのなら本望だという思いを、唯人は自分の胸の中にしまう。
「──唯人」
母親に名前を呼ばれ振り返る。
彼女は振り返った我が子の目をしっかりと見つめ──
「今度は制服を着てきてね」
その言葉に小さく笑って、親指をグッと上に突き立てる。
病院を後にした唯人は空を見上げた。
三月下旬の夕方の空。太陽が沈みかけ、空が鮮やかなオレンジ色に染まっている。母親も窓越しにこの空を見ているのだろうか。とても綺麗な空だから教えてやろう、と空に向けてスマートフォンを向けたその時だった。
ひゅんと。
黒い人影が、スマートフォンのレンズ越しに右から左へと飛び去っていった。
しかし唯人はそんなことを気にも留めずにシャッターを押した。
撮影した夕空の写真を母親の携帯に送信し、唯人は歩き始めた。
空には真っ赤に輝きながら沈む夕日と、それを背に当たり前のように飛んでいくいくつもの人影。
その人影を見て声を上げる者などここにはいない。見えていないわけではない。見えている。しっかりと瞳にそれが映っている。しかし誰も何も言わない。当たり前だからだ。
空を飛ぶ人も、手から火を放つ人も、草木と会話をする人もこの世界では珍しくない。
何故ならここは魔術が当たり前の世界──
──日本なのだから。