月刊少女〈元カノ〉
別れてどれくらい経っただろうか。元カノから、今から原宿で会えないかと連絡が来た。なんでも原宿に用事があって誰かと遊びたい気分だったと言う。別れ際は険悪だったが、たまに飲みながら電話する友達程度の仲には戻っていた。がしかし、呼び出されるのは初めてで、なんとなく胸が詰まった。
ゲームのセーブデータは上書き保存をする主義だ。今までの人生でもそうしてきたと思う。しかし、あいつと別れて、いや、あいつと付き合う前に別れた彼女をきっかけに別ファイルに保存するようになった。
あいつと別れた後、俺は別ファイルに新しい自分、趣味、推しをどんどん見出して行き、あいつと付き合っていた頃とはかなり変わったであろう。
今、久しぶりにそのセーブファイルをローディングして、プレイするのだ。
付き合っていた頃も今みたいに寝不足で胸焼けをしていたな。昨日から課題に追われ、ろくに睡眠時間を取れていない上に夜食を食べ過ぎて気分が悪くあった。まるで古典的条件付けのような、ルーティンのような、朝からの胸焼けが虫の知らせであるかの如く、内臓を焦がす感覚に、ある種のスピリチュアルを感じざるを得ない。この熱傷があいつの存在を誘引させたと疑わなかった。
パソコンで開いていたファイルを閉じ、家電熱を中和させるためにつけていたエアコンを切り、洗面台に向かう。長らく放置していた男性ホルモンの塊である顎についた黒いサビをお湯に浸し、顔ごと洗面器に突っ込んで息を止め、今ある感覚を全て沈める。サビを刃で削り落とし、皮膚を傷つけ、自分がどれほど怠惰であったか実感する。
長く伸び切った前髪をお湯で濡らし、目にかからないように形を整え、ドライヤーで水気を奪い去る。
最低限の服を着て、最低限の荷物を持ち、外に出て、電車に乗り、目的である原宿まで、重い足を進める。途中、例のリンゴマークのついた時計が深呼吸しろと何度も訴えてくる。ああ、今、落ち着いていないのだと、整理しつつ、その警告を無視した。
『ついた』
『り』
『表参道改札の切符売り場付近にいるわ』
二分ほどであいつから連絡が来た。
『どこ? いなくね?』
一度、全体を見渡し、現在地を再び確認する。
『表参道改札だよ』
すぐ、LINE電話がかかり、俺はそれを瞬時に受け取り、耳に当てた。
「ちょ、どこいんの? もしかして別の世界線行った?」
「そんなポンポン世界線変えられたらいいな。早く異世界に行って最強の剣士になって女の子にちやほやされたいわ」
「お好きにどうぞ」
冷たく突き放される言葉に懐かしさを滲ませた。
「お好きにできないからこうして原宿まで来たんだよ」
「ちょっと、手挙げて」
「命だけは」
「脅迫じゃねーよ馬鹿」
あいつに言われたとおり、電話を持っていない左手を挙げ、意思表示する。
「いた」
その言葉で電話が切れ、あたりを見渡すと、ワイシャツの上にベスト、スラックスを履いたショートカットヘア、使い捨てマスクをつける女性が見慣れた歩き方でシトシトと寄ってくる。
「変わったな…」
自分でも驚く第一声だった。
「俺が探せって言われたら絶対気づかないや」
「カットモデルでさ、切ってきたんだよ」
好きだったしっとりとした甘い匂い、外巻きのブラウンのミディアムヘアがなくなり、底にあったのは美容室特有のツンとした鋭い香りと、ふっくらとした暗いマッシュがあった。
下心はあったのかと問われると、肯定するしかない。七割ほど、会いたくない。二割ほど、会いたい。一割、期待が残っていた。しかし、それらすべては明るいブラウンのミディアムと共に、正しい方向へと切り落とされていた。
口が裂けても似合っているとは言いたくない。だからと言って、もう、前のほうが良かったと強請れる関係でもなく、ただ呆然と現状を孕んだ熱と共に受け入れるのみ。
「カフェ行こう。私喉乾いちゃった」
ただ頷く。特に要望などなく、なんとなく来たから、合わせようと考えていたからだ。
恋心というのは、髪の毛、匂い、ファッションに寄って左右されるのだろうか? 仮に、その姿が第一印象だったとして、憧れがあっただろうか? いいや、当然ない。所詮、自分が持っていた感情は、性欲以外の誰でもなく、長い髪の毛と濃艶な服装にしか価値を見出していなかった。卑しくてたまらないな。そう思うのはローディングしたデータが悪かったのか? 仮に、現在のファイルでプレイしていたら…。仮に、そこに恋心、性欲が存在したとして、それを証明するには【消去抵抗】という言葉で感情をまるごと移転してしまう。
心理学に置いて、古典的条件づけによって強化された物事が唐突に消去することで、心理的抵抗が発生する。掻い摘んで言うならば、恋心が残っていなくても、関係が崩れるという事実を受け入れられず、好きでもないのに別れたくないと思う状態だ。
それにならないで済んだのはロードファイルを正しく選べたから、きっと間違っていたら、これからも間違い続けていただろう。それが自分にとって最善なのか、冷静に対処できたことなのか理解できないが、もったいないと感じているそれが、【消去抵抗】そのものだ。
劣等感と向き合い、あいつとも向き合うことで、あいつの歩く道をゆったりとついていった。
「なんか変わったことある?」
カフェで向かい合って座り、問いかけられた。それに対し、口をついて即答した。
「ある!」
メニューの最後のページにあるドリンクメニューを見て一瞬で頼むものを決めてから答える。
「初めて推しというもので沼った!」
「ほう。推しか…。ガチ恋?」
マスクを外したそいつの口元は、上唇で、下を隠した形で、まだ、好きだったそれの面影がある。
「ガチ恋だね。声優何だけどさ! 前まで、声優って言ったら、キャラを好きになって、中の人誰なんだろうって興味を持っていたけどさ、今回は先に推しを好きになっちゃって、それからキャラを追ってる感じ!」
「うわあ…。わかるわあ…」
「推しの布教していいですか?」
店員が近づいてきて、メニューの催促をする。
「ブレンドを」
「私はアイスで」
二人テンポよく注文をし、メニューの冊子を返す。
「布教していいですかって、駄目って言ってもするんでしょ? 私の友人は皆そうだ」
「俺はしない。なぜなら強引に推しを布教したら、推しに迷惑だろう!」
あいつは怪訝に、そして笑顔でかぶせる。
「そう言って三〇分後には絶対言うからな!」
「言うわけ無いだろ」
注文が届く前にあいつは携帯を確認し、ふと先人を切り出す。
「そういえばさ、前期は週四授業だったんだけど、後期週三になった」
「良かったやん」
早速大学の話しをするが、できれば今、現実的なことを語らいたくない。しかし、めったに自分から切り出さないあいつから振った話題だ、答えることにした。
「前まで月曜に三時間入れていたんだけど、全部切った。特に物流論はやりたくなかった」
「え? 前期取ってたの? 俺、前期後期共に取ってんだけど」
「成績悪くて切った。学部違う科目だし、問題ないかなって」
「まあ、後期面倒になったな。前期は課題だけだったけど、後期は同期型の授業だし」
頼んだものが届いたとき、軽く会釈し、コーヒーにクリームと砂糖を一つずつ入れて、あいつはアイスコーヒーにガムシロップを一つ入れた。
「面倒臭そう」
「うん。なんであの時間に起きなきゃいけないんだよ」
「ん? 待って、物流論って四限じゃなかったっけ?」
「月曜の夜に推しのラジオあるんだよ。五時に寝るじゃん、一四時半に叩き起こされるじゃん。そっから寝てラジオに備えるんだよ」
「いや、完全に昼夜逆転してんじゃん。それに推しの話もうしてるし、三〇分も待てないんかお前は」
「布教してないからセーフだろ。これは推しの話じゃなくて、俺の話だから!」
コーヒーを口と共に会話をすすめる。三〇分、あいつは別れてからの出来事を楽しそうに語る。その世界線には俺と言う人間は当然のように存在しない。聞く度、相槌を打つが、その都度、杭が打ち付けられているようにドクン、ドクンと鼓動がなる。そして左手が震えだしたと思い、リンゴの時計に深呼吸しろと言われる。黙ってろと言わんばかりにそれを伏せた。
あいつの話が終わり、しばらく沈黙が現れたとき、沈黙が耐えられなくなり、会話になる言葉を考えた。
「そう、煙草を半年前から吸うのやめたの」
「禁煙?」
「箱なくなったからやめたのよ。でね。たまに吸いたいなーって思うのよ。なんか、それって調べたけどニコチン中毒よりも、原始反射っていうものらしい」
あいつは氷だけになったグラスをかき混ぜる。
「なにそれ?」
「赤ちゃんのそれ。例えば、手の近くに来たものを握る把握反射、この場合は、口に近づいたものを咥える吸啜反射って呼ばれるものらしい。でね、タバコ吸いたいなーって思ったときに、割り箸噛むようにしたら、煙草吸わなくて良くなった」
「めっちゃコスパいいじゃん」
今日、あいつから連絡が来たとき、煙草が恋しくなった。不安になったとき、緊張したとき、苛ついたときにそれが起こる。今日は、なんでそんなことを思ったのだろうか。
「高いからな」
今日、そう思った理由は緊張と不安があった。異常なまでに喫煙欲求にマスクの中におしゃぶりでもして歩きたいと思ったほどだった。
「あー。帰って課題やらないとな…。特に経営工学」
その言葉を聴いて、吐き出すようにため息をついた。
「今はそれ聞きたくなかったわ。課題終わったら見せて」
「駄目に決まってんじゃん」
委細承知な返答に白々しくため息をついた。
「今日、私が出すつもりだけどさ、課題見せるならスタバとかでフラペチーノお願いするわ」
「うーん。致し方なし。スタバだな!」
「いや、見せねえからスタバも冗談だし!」
それから、お互いが思い出した話を振り合い、会話を重ね、時間が来た。
「あ、もうこんな時間か…」
時計を見ると一七時で、カフェに入ってからすでに一時間半経過していた。かなり話し込んでいて、温い雰囲気になり、鎮火するのが惜しかった。
「帰るか」
あいつの言葉に肯定の相槌を打つ。まだ話足りない。しかし、そう言って引き止める仲ではないのだ。あいつは伝票を掴む。
「ごちそうさまです」
「まあ、私が呼び出したからな」
会計を終え、店員に会釈した後、駅へと足を踏みしめる。
「乗り場どこ?」
「千代田線」
「送ってくよ」
そう言うと、控えめな否定をされた。
「話足りないんだ」
「まあ、いいけど…」
駅まで送るも、会話するわけではなく、ただ、隣を歩くだけ。特に何も感じることはなく、そういえば終わったんだと、過去の出来事は夢でも見ていたように霧がかかっている。もう二度と手を繋いで歩くことはない。俺はマスクの中で下唇を噛む。「煙草を吸いたい」という言葉が出てきそうだったが、先程、煙草を吸いたくなる要因を話してしまった。逃げ道を失ったと思いつつ、口を止めると、改札前であいつは小声で呟く。
「そういや、なんかいいたいことあったんだよな…」
「何?」
「何だっけ? 思い出したらLINEで言うわ」
別れの言葉を交え、自分が乗るはずだったJR改札に向かうが、ふと、原宿の座標と、寄りたい場所を思い出した。
「渋谷行こ」
歩いていける距離の渋谷に歩いて向かう。およそ二〇分かかる距離、その最中、何度かあいつから連絡が来た。
『今日はありがとう』
『こちらこそ』
『何言いたいか思い出したわ。貸してた漫画返して』
『忘れてた…』
もう一年半になるだろうか…。あいつと付き合う前から借りていた漫画が三冊あり本棚に眠っている。電話で何度も返して欲しいと言われていたのだが、今日、いきなり呼び出されたため、乖離していた。
次あったとき、忘れないように、あいつのLINEの名前を借りていた漫画のタイトルに擬えた。
【月刊少女〈元カノ〉】
頻繁に会話するわけでもない間柄、たまにLINEが来たら、返さなくてはと思うだろう。しかし、返したくない。返してしまうと、今の不安定で、絶妙に取っていたバランスが崩れてしまいそうだ。
きっと、彼女に合うとき、俺はきっと忘れたフリをするのだろうか…。しかし、今日、特に理由もなく呼び出された。そういった口実を作らなくてもまた会える機会を作れるだろう。
「そん時の俺に任せるか…」
思考を止め、今は目的地を定め、軽やかに足一歩踏み出した。
「楽しかったな。なんだかんだ」