夜通祀
岡山県砂賀町にある星観神社は、年に1回の本祭と呼ばれる祭りがある。
この祭りは、毎年6月30日に行われる星観神社最大の神事である。
旧暦での6月30日に主祭神である天津甕星命が天津国から降りて、『我は天津甕星命である。我を斎き奉れ。さもあれば、千代に八千代にその子孫、弥栄栄えることだろう』と告げ、以来祀られ続けている。
祭神として祀られているこの天津甕星命は、暗闇の時に来られたということで、祭は夜に行われることを通例としている。
夜通祀と呼ばれる祭りで、6月中を使って準備をする。
6月1日には祭りの準備を始めるための宮司の宣言があり、昔は藩主へと奏上していたらしいのだが、今は藩主役の町長へと行う。
なお、江戸時代までは宮司が常駐するような神社であったが、明治の廃仏毀釈、さらに神仏分離などにより、すっかりと寂れてしまった。
そのため、宮司がおらず無人となっている。
そこで、それ以後は星観神社すぐ横の砂賀寺の住職が兼務している。
6月1日にはもう一つ、神社の御祭神に祭の日取りを伝えるという伝達式と呼ばれる神事がある。
これも砂賀寺の住職が執り行う。
7日に、神社の氏子集による集会が開かれ、宮司からいつに祭りを開くという正式な宣告がある。
このときから、氏子らは祭りの準備を始めることになっている。
ちなみにであるが、本当は日付が決まっているためすでに準備は始めていたりする。
大きな動きになるのは23日だ。
この日から氏子と住職、及び本祭で催事に参列する人は潔斎業へと入る。
1週間の間、忌火と呼ばれる特別な火を使い、それで作った食事のみを食べる。
これ以外にもさまざまな事柄に制約をかけつつ、本祭の日を迎えることとなる。
潔斎業の間は砂賀寺の庫裏を居住場所として、外には潔斎業のための仲人と呼ばれる人らが常駐することとなる。
仲人は潔斎を妨げないように手伝う者のことだ。
そして本祭当日、庫裏から神社までは絹でできた特別な幕で覆われる。
すぐ横の敷地にあるため、その間だ。
祭りが始まるのは、30日の日没から、翌日の夜明けまで。
分刻みのスケジュールが組まれるために、気象予報士までもこの祭りのために雇われる。
今は手野気象の気象予報士がそれぞれ時間管理を行うことになっている。
昔はそのための奉行がわざわざ置かれるほどだった。
ちなみに、この日没、夜明けは、旧暦の時から変わらずに日を直接視認できない時を日没とし、直接視認できる時を夜明けと定めている。
しかし、直接太陽を見るわけにもいかないので、当時から、特定の場所に柱を立て、それにはっきりと影が見えなくなれば日没、見えるようになったら夜明けということにしていた。
祭りは、日没に庫裏から神社までを移動する。
このとき、神社の周りには目隠しが張られており、周囲から隔絶し、聖なる空間であることを明らかにしている。
移動の時には、仲人のうち男性2人が先導、女性2人が殿を務める。
このときだけは龕灯を使って道を照らす。
しかし、神社に着いたとき、宮司の合図で龕灯の火は消され、それから祭が終わるまでの間、一切の光はつけてはいけない。
この光は電気を用いたものも含まれ、神社の周囲では家々を含めて全くの暗闇となる。
神社の幕の中では、何をしているのかということについては、一切口にしてはいけない。
何をしているのかを言うと、その者に多大なる不幸が訪れると信じられているためである。
行うべきことについては、宮司や、以前の参列者が口伝によって伝え続けている。
また、このときのみ開けられる唐櫃が砂賀寺にはあり、その中に行うべき事柄が記されているという伝承がある。
これを知るのは、宮司と参列者のみである。
夜明けが来ると、奉行役の気象予報士が暁鶏と呼ばれる鬨の声を上げる。
この声を合図にして、仲人が龕灯へ再び火を点け、祭が終わったことを知らせる。
そして同じ順序で庫裏へと参列者を連れていく。
今度は先ほどと逆に男性が殿、女性が先導となる。
庫裏に着くと、茶会が開かれ、宮司は祭りが無事に終わったことを藩主、今は町長へと伝える。
これをもって、夜通祀は終了となり、また1年後の6月1日まで日常が戻ることとなっている。




