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bukimi

双眼鏡

作者: yuyu

   子供の頃から、双眼鏡に心惹かれていた。外の世界は思った以上に広い。自分で見る範囲では限界がある。自転車やバス、電車で遠くまで行く事は出来ても、その周りをすぐに見渡せるわけではない。


 若干、十歳にしてこの考えが常に頭の中を駆け巡っていた。友達も理解者がおらず、質問をぶつけても、ただ走り回ればいい、ただ自転車で行きたい所に行けばいいと、皆ロボットのように同じ言葉を繰り返し返答する始末。

 

  呆れを通り越して、自分自身がおかしいのかと考えるようになった。だが、そんな考えにいつも同意してくれる人がいた。

 

  父だ。

 

  いつもニコニコとした笑顔を浮かべ、母と喧嘩をした場面を見たことも無い。仕事は、普通のサラリーマンであり、年収も普通。特出した点としては、私の事を溺愛している事ぐらいか。

 

  私が外で転んだ時があった。膝がすりむけて血がじんわりと滲みはしたが、痛く無かったから、そのまま家に帰った。

 

  私の足を見るなり、父は真っ青な表情になり、すぐに救急車を呼んだ。駆け付けた隊員の人に、跪き懇願していた姿を今でも思い出す。

 

  あの頃は、十二歳であり来年からは中学生になる時期であった。その光景を見て、

 

  (ああ、過保護なのかな)

 

  と異様に冷めた思考で父の狼狽した姿を見続けていた。病院でも父のせいか、大げさに包帯かギブスかよく分からない物を付けさせられた。その日は、車に乗り家に帰り、父から寝かし付けられた。

 

  その後、私抜きで夜中に、二人で話し合いをしていた場面も、寝る振りをしてこっそりと見た。母は笑顔で励ましているようだが、父はこの世の終わりだと、嘆くような表情を一切崩すことは無かった。

 

  その父が、翌日自宅のマンションから飛び降りて亡くなった。自殺だった。

 

  原因は分からなかった。遺書がどこにも見付からない状態だったからだ。母はずっと泣いていた。私は、泣けなかった。

 

  父の事を、心の底から嫌悪していたからだ。

 

  五歳の頃からしきりに体を触られるようになった。始めは、何気ないスキンシップの一つであろう頭を撫でる行為。次は、腕や足を脂ぎった両手でしきりに触って、顔を近づけまじまじと見ていた。

 

  その度に、止めて欲しいと子供ながらに訴え続けてきた。母にも相談したが、聞く耳持たずであり、父の行為はどんどんエスカレートした。

 

  お風呂も始めは一緒に入っていたが、回数を増す毎に父の視線が私の顔以外にも、体の至る所に目移りしていることが分かった。理解はしたくなかったが、気分が悪くなり、以降は父と入浴は行わなかった。


 父は入浴を拒絶された時は、驚いた顔を見せたが、すぐに顔を綻ばせ快諾した。溺愛しているからだ。

 

  実際に叩かれた事は一度も無い。母からもだ。怒鳴られたりも無い。

 

  その父が突然自殺した。母はずっと泣いていた。私は気分が晴れ晴れした。これで、あの嫌な環境から抜け出せる。張本人がいなくなったからだ。

 

  けれど、父の代弁でもするかのように、次は母が必死に私の体や動向を観察しだした。

 

  中学生になる手前の私は、拒絶した。精一杯に抵抗した。何でこんな事を続ける。訳が分からない。もう止めてほしい。もううんざりだと。

 

  乱れた髪を両手で抑えながら、母はソファーに座ると、まるで取調室で自白を行うかのような雰囲気で話し出した。

 

  「由美ちゃんは、初めて注射された時の事事覚えてる?」

 

  注射?赤ちゃんの頃の予防接種か何かだろうか。もちろん、そんなに前の事は覚えていない。

 

  「そうだよね。覚えてないよね。由美ちゃんはね、注射刺された後も、一切泣かなかった。始めは、とても我慢強い子なんだって、思ってたんだけど」

 

  そうだったのか。それは初耳だ。私は自分で思っている以上に我慢出来るほうなのか?

   

 一瞬、母と眼が合う。母の眼には恐れしか残っていなかった。顔も青ざめている。

 

  「五歳の頃、公園のブランコで遊んでいたら、手が離れて頭から落ちたのよ。あの時は、本当に混乱したわ。病院に着いて、病室に駆け込んだら痛がる素振りも見せず、ずっとお父さんと話してたから」

 

  えっ?普通は頭から落ちれば、かなり痛がるんじゃ。

 

  「頭蓋骨にひびが入ってたの。お医者さんからも、何故こんなに痛みを感じないのか、異常だと気付いて、検査したらね」

 

  「無痛症と言われたの。痛みを全く感じない。感じる事が出来ないって。だから、毎日お子様の体の観察を続けて下さいって言われてたのよ」

 

  そうか。だから、父はあんなにも熱心に私の体を見たり、触って異常が無いか観察していたのか。

 

  「お母さんとお父さんはね、由美にはまだ、言わないようにしようと決めたの。ショックを受けるだろうし、毎日毎日、怪我に怯える日々を送らないといけない。流石に、一人で社会に出れるようになるまでには、話そうとしていたわ」

 

  母が突然立ち上がり、台所まで行く。やかんから蒸気が出ている。火を止めに行ったのだろう。

 

  母がいなくなり、考える余裕が出来た。正面にある古びた机に視線を移す。

 

  私は無痛症。未だに信じられないが何故かすんなりと受け入れる事が出来た。身体中の筋肉が弛緩するかのように気が抜けた。父に謝らなければ。しかし、どうやって。

 

  母が戻ってきた。座り直し、また両手を使い、慣れた動作で手話を行う。

 

  私は生まれた時から、耳が聞えなかった。手話は幼い頃から、幼稚園や家庭内で何度も勉強し、習得した。言葉はまだ上手く話せない。次に行く中学校も、耳の聞こえない人に対して理解のある学校に行く事にした。

 

  小学校では散々いじめられた。普通の小学校に入れられたのは、両親の淡い希望があったのかもしれない。

 

  もしかしたら、周りは受け入れてくれるのでは。もしかしたら、友達が出来て楽しく過ごせるのでは。

 

  それは大きな間違いだった。周りは耳が聞えないと知ると、すぐにいじめを始めた。机に落書き。聞こえないからと、わざと悪口を書いたメモを私に目掛けて投げつけてくる。

 

  優しい子もいたが、いじめのグループの対象になる事を恐れ、蜘蛛の子を散らすようにどんどん離れていった。

 

  孤独だった。ずっと孤独。音の聞こえない世界で何を生き甲斐にすればいいのだろう。

 

  教室の窓から見える風景を眺めるうちに、どこか遠くに行きたいと強く願うようになった。景色の良い場所を見渡し、満足感を得たい。耳が聞えないなら、目で様々な風景をとらえていきたい。

 

  だから、双眼鏡をねだった。遠くに行かなくとも、見渡す事が出来るからだ。父はすぐに高価な双眼鏡を買ってくれた。自分の部屋の窓から、双眼鏡を使い風景を観ていく事が日課になりつつあった。

 

  しかし、年を重ね、思春期に入るせいからか、父の観察に耐え切れず拒絶。必死に走って逃げて、転んで膝を擦りむいた。

 

  今思えば、あの出血はかなりの量ではなかっただろうか。歩く度に靴下まで血が流れ落ち、擦りむいた足は動かす事が出来ず、引きずるようにして帰った記憶が、今更ながら鮮明に脳裏に浮かぶ。

 

  手話を続ける母は、何度もごめんなさい。と伝えてきた。もっと早く伝えればこんな事にはならなかった。お父さんはあの時の怪我がとてもショックで、もう精神的にも追い詰められていた。だから、自殺した。

 

  手話は続く。母の表情は恐れから後悔へと変貌する。あなたを産んだ私が悪い。私も死んだら、由美ちゃんが可哀そうだから、一緒に死にましょうと。満面の笑みで伝えてくる。

 

  私は恐怖を感じて、すぐに立ち上がろうとする。しかし、母に片手を押さえられ、力ずくに引っ張られた。

 

  先程、台所に行った時に隠し持ったのであろう包丁が服の下から出てきた。左手で私の腕を押さえつけながら、右手で包丁を振りかざす。

 

  鈍く光る包丁の切っ先を眺めながら、これで父に謝りに行けるなと、自然に笑顔を浮かべる私がそこにはいた。

 

  頭を刺された瞬間も、痛みは感じなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] めちゃくちゃ怖かったです。 父が危ない人だと思わせて実は・・・。 物語のギミックも秀逸でした。 ままならなさ。 リアルなホラーでした。
[良い点] 本来物心ついたらすぐに気付きそうな特性。それに気づかなかった主人公の鈍さと、その特性がマッチしていました。 [気になる点] 主人公の性別が明かされるのが後半になってからであること。 視線…
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