第三章二十三話
拳で肉を抉る音が響いた。とはいっても、明らかに筋力も踏み込みもなっていない未熟な拳打だ。情けなくも聞こえるようなモノではあるが、しかし当事者にそれを笑うだけの心の余裕はなかった。
「こ……のっ!」
打たれた腹を抑えつつ数歩後退したハリエットが息も絶え絶えに吐き捨てた。その整っていたはずの顔は、疲労と殴られた時の疵でひどく歪んでいた。
「ふっ、五歳も年下にいいようにやられて、情けなくないの?」
血の混じった唾を床に吐き出してから、シェリルが言う。そうはいっても彼女の顔もひどいものだ。それもこれも、十数分以上続く殴り合いのせいだ。淑女にまったくふさわしくない泥沼染みた戦いを、彼女たちは続けていた。
「……」
歯ぎしりの音が聞こえる。出所はスイフトだ。彼は凄まじい表情をしながら、娘たちの拳の応酬を観戦している。小さく息を吐いて、また吸い、そして今度は最後まで吐き出してから、大西の方を見た。
「なぜこんなことをする必要がある?」
「不満って、溜めこむより吐き出した方がすっきりするらしいじゃないですか」
そう言う大西の目は、シェリルを油断なく見張っていた。彼女が逃亡を図れば即座に対応をする姿勢だ。自分が拘束を解いたのだから、それが原因で逃げられるわけにはいかない。
「それはそうだが」
スイフトは目を逸らした。
「……いや、そうだ。確かに、兄弟だなど言っても、あの二人は数えるほどしか顔を合わせていない。だからこそ、不満が積み上がって行ったのかもしれない。しっかり話し合わせておけば、こんなことには」
「さあ」
状況にふさわしくない気楽な声で言う大西。
「何にせよ、今はこうなってます。それ以上でもそれ以下でもありません」
「他人事だな」
「自分のことだって、こんな感じです。僕は」
「そうか」
短く答える彼の声は、どこか湿って聞こえた。
「今、連絡が着ました。フランキスカ大公閣下の部隊が屋敷を制圧したそうです」
「早いな。クソ、嫌な手合いに借りを作ってしまった」
壁に開いた大穴から室内に入ってきたヌイの報告に、スイフトが首を振る。
当初、直接的な支援はできないと言っていたフランキスカだったが、それはあくまでエーカー家の実権がシェリルによって奪われていたからだ。正式な家督の継承者であるスイフトが救出された今、彼の要請という体があれば事態に介入することができる。いくらなんでも数人であの大きな屋敷を制圧するのは不可能であるから、エルトワール部隊の突入は当初から予定されていた。当然、スイフトにもそれは伝えてある。
「今、あの皆殺しの野蛮人どもがわたしの屋敷を荒らしているのか。考えたくもない」
大きく首を振るスイフト。実際、エルトワール戦士たちはそこらの冒険者の方がまだ温厚だと断言できるほど血の気が荒く論理感に欠けた連中だ。彼の懸念は決して杞憂ではない。
「……それと、一つお聞きしてもよろしいでしょうか、閣下」
「なんだ」
「その……」
一瞬目を逸らしてから、ヌイは意を決したように続ける。
「彼女……シェリル様はこれから、どうなるのでしょうか」
なんといっても、クーデターだ。幼いとはいえ首謀者であるシェリルがただで済むとはとても思えない。下手をすれば打ち首だ。自分がかかわった以上、ヌイとしては幼い少女がそのような目に遭うというのは耐えがたい。
「それを君が知る必要はないだろう。エーカー家の事情だ、恩人とはいえ外部の人間にそれを知らせてやる義理がどこにある?」
「義理はありませんが、どうしても聞く必要のある質問なので」
「なに?」
思った以上にはっきりとした口調の反論に、スイフトは眉を跳ね上げた。
「スイフト様、あなたの直接の子供はハリエット様とシェリル様だけでしょう」
「そうだが」
「ということは、シェリル様が廃嫡になった場合、自動的に継承権はハリエット様に移るはず」
「何が言いたい」
不機嫌そうな声でヌイを睨みつけるスイフト。しかしヌイは涼しい顔で答えた。
「それでは、困るのです。なんといっても、ハリエット様が我々に提示した今回の件の報酬は、自身が今後我々の冒険に協力することでしたから。お貴族さまの跡継ぎなどになられたりすれば、そういうわけにもいかなくなるでしょう」
「何? 協力、そういったのか? ハリエットが」
「ええ」
怒りの表情から一転、迷ったような表情でスイフトがいまだに妹と殴り合っているハリエットの方を窺う。
「つまりは、キミたちの仲間になって、冒険に同行すると。そういうことか?」
「その通りです。金子の持ち合わせがない以上、技能で払うと。彼女は治癒魔法の使い手でしょう? 我々としては是非に欲しい人材です。なにしろ、頻繁に怪我をする男が一人いるので」
最後の言葉はあからさまに大西を見つつのものだ。すでに塞がっているとはいえ、ウォーカーとの戦闘で無数の切創を負った彼は、全身血まみれのひどい状態になっていた。致命傷を負っている様子は無いのである程度安心はしているヌイだが、そうはいっても見ていて気持ちのいいものではない。早くやるべきことを終わらせ、手当てしてやりたいところだ。
「そういう話になっていたのか。そうか……」
どこか納得したような表情で、スイフトが呟く。何かしら思う所があったのか、その顔からは幾分険が消えていた。
「……ならば、やはり君にシェリルの今後を伝える必要はないな。だが、ハリエットの件については、考えておく。本人の意見も聞いてな。すこしだけ待て」
そこまでスイフトが言ったところで、室内に景気のいい音が響き渡った。何事かと音の出所を見ると、そこには拳を振りぬいたハリエットと床に横たわるシェリルの姿があった。
「ふ、ふふふ。やったわ、やったわよ。ふふふ……」
幼女を殴り倒したとはおもえない達成感と痣と血にまみれた笑顔でそんなことを呆然と呟くハリエットには、話しかけがたいほどの凄味があった。
「はいはい、お疲れ様です」
しかしそんなことを一切気にしないのが大西という人間だった。にっこり笑ってそういい、獣めいたうめき声を上げながら床に転がるシェリルのもとに歩み寄り、先ほどと同じ紐で手足を拘束しなおす。
「どうでした?」
「気持ちよかったわ、とてもね」
荒い息をつきながらそんなことを言い放つハリエット。そしてそのまま、膝から崩れ落ちた。即座に大西が駆け寄り、倒れる前に体を支える。そしてずるずると床に体をおろし、膝を枕にして寝かせた。
「それはよかった。体動かすとすっきりするって人は多いですしね」
そういいつつ、腰の巾着からひっぱり出したハンカチで血まみれになった顔を拭う。爪か何かが当たって出血したのだろう。見た目は大怪我に見えるが、傷自体は小さかった。
「……なんというか、はい。どうやら、一件落着のようですね?」
そんな彼女らを見て再び顔色を失っているスイフトに向けて、ヌイは同情交じりの口調でそう言うのだった。




