第三章十五話
お待たせしました、次回から通常通り投稿できると思います。
「ここですか」
王都の郊外。人気の一切ないうらびれた裏路地の一角で、ヌイがそう言った。彼女の前には、古びた井戸がある。
「ええ」
地味な服装のハリエットがうなずき、井戸を覗き込む。かなり深い井戸だが、底には水らしきものが見当たらない。
「エーカー家の緊急用脱出経路……そのうちの一つよ」
貴族の邸宅となれば、有事の時に利用する秘密の脱出経路の一つや二つはあるのが普通だ。今回はその隠し通路を逆に使い、大西たちの襲撃で大騒ぎになっているであろうエーカー邸に潜入するという作戦だった。この手の避難路は限られたものしか知らないだろうから、馬鹿正直に裏口から入っていくよりはまだ安全だろう。
「一つということは別のもあるのか」
「まあ……」
「ふうん。きみが逃げ出すのに使ったのは、ここかい?」
顎を撫でつつ、スフレが問う。ハリエットは面食らった様子でスフレの不気味なマスク面に目を向け、一瞬ためらってから答えた。
「違うわ」
「そうかい。ふむ」
なんにせよ、ハリエットがこのルートを知っている以上シェリルも同様だと考えるのが自然だ。警備の手薄な場所を狙ったはずが逆に十全な状態で迎撃されるという可能性も十分にある。少なくともスフレ自身がシェリルなら、ここに罠を張っておくだろう。
潜入ミッションといっても、戦闘に発展する可能性は高い。ハリエットは戦力としては役に立たないだろうから、頼れるのは自分とヌイだけだ。果たして、上手くいくだろうか。今になって心の中に沸き始めた不安を首を振って払いつつ、スフレは言う。
「それじゃあ、行こうか。さっさと終わらせて、帰って寝よう」
ロープを使って枯れ井戸の中に降りると、底には外からは見えないように巧妙に隠された地下通路があった。レンガと木材で補強しただけの、そのうち崩落しそうな貧相なトンネルだ。当然、明かりなどあるわけもなく内部は真っ暗だった。
「光輝」
スフレが小さな声でそう呟くと、彼女の持っている長杖の先端に小さな光球が灯った。そこから放たれる蛍光灯を思わせる白々しい光は、明かりにするには十分な光度を持っている。
「カンテラは必要ない、ということかしら。便利ね」
「片手が塞がっちゃあ、不便だからね」
もちろん予備の照明器具は用意しているが、特に問題が起こらない限りはこの魔法の光だけで十分だ。火を使うカンテラは戦闘になれば危険だし、マジック・アイテムの一種である魔力灯は高価なため持っていない。このやり方ならば戦闘になってもそのまま魔法が使えるし、スフレの技量ならば攻撃魔法を使いつつ光輝の術式を維持することも容易だ。
「便利だし合理的なのもわかるけど、あまり趣のあるものではないわね」
「カンテラ一つを頼りに狭っ苦しいダンジョンを探索ってぇのもそりゃあ風情があるだろうがね、自分が当事者ならこれ一択さ」
肩をすくめるスフレ。軽口が言えるくらいに余裕があるというのは有難いとハリエットの方を見たが、その顔色はお世辞にもいい者とは言えなかった。自由な右手をマスクの中に差し入れ、頬を掻く。
「それで、どうします? 隊列は。明かりを持っている人が先頭のほうがいろいろと都合がいいでしょうが……」
「まあ、一本道ならそうそう奇襲もされないだろうがね。万一と言うこともある。ヌイ、キミが先頭に立ってくれ。銀ピカが真ん中で、殿がボクだ」
「銀ピカって」
「ご不満かい?」
「いいえ?」
よろしいとばかりに、スフレが頷いた。
「明かりに関しては心配しなくてもいい。こいつはある程度操作できるからね」
そういってスフレが杖を振ると、光球は遺志を持った生き物のように周囲を飛び回った。
「これなら問題は無さそうですね。では、その案で」
実際、このメンバーで近接戦闘が行えるのはヌイだけだ。とうぜん、弓はエルトワール邸に置いてきたため、武装はサーベルとナイフくらいの身軽な姿だ。
とはいえ、ヌイも大西やオルトリーヴァと違って近接戦がそこまで強いわけではない。もちろん、彼女も熟練の冒険者だ。そこらのごろつきや一般兵士などなら複数相手でもかるくひねるくらいは容易だろう。しかし彼女の持ち味は、状況に応じて遠近を切り替える柔軟性だ。このような狭い場所では、その長所はとてもではないが生かせない。
とはいえ、そうはいっても背に腹は代えられない。リスクがあることを理解していても、なお前に進む勇気をもっていることも冒険者の重要な資質の一つだ。ヌイは腹を決め、サーベルを腰の鞘から抜いて一歩踏み出した。
「……」
長い、真っ暗なトンネルの中を進んでいく。小さなはずの足音が、壁に響いて妙にうるさく感じた。空気は冷たく、微かな風があった。いつ攻撃を受けてもいいいよう、全神経を動員して警戒をしておく。前からこっそり矢でも射掛けられたらとても回避などできない。即座に叩き落とす必要がある。
「そろそろよ」
しばらくたったころ、ハリエットが囁くような声で言った。わざと光量を絞った光輝ではまだ奥まで見通すことはできないが、確かにヌイの鼻は新鮮な空気の臭いを感じとっていた。
「明かりを消してください」
敵がいるとすれば、そろそろ出くわしてもおかしくない。明かりを持っている以上、敵からはこちらの姿は丸見えだ。一本道とはいえ見ず知らずの場所を明かり無しで歩くのは難しいだろうと考えての行動だが、そろそろ潮時だろう。
スフレが頷き、軽く杖を振った。それまで一行を先導するかのように前を浮遊していた光球がスイッチを切ったように消える。周囲は真っ暗になった。目が慣れても、自分の手すらぼんやりとしかわからないくらいの暗闇だ。
「……行きましょう」
片手で壁面に触れつつ、また進み始める。少しして、ヌイの耳が自分たち以外の人間の息遣いを捉えた。背中に冷たいものが走る。息を潜めながらすぐ後ろのハリエットの身体に触れて合図をし、そっと曲がり角から少しだけ顔を出して様子を窺う。
「……」
敵だ。鎖帷子姿の衛兵と目があった。壁には小さなカンテラがかけられており、そこだけ明るかった。反射的に飛び出し、猛烈な速度で衛兵に肉薄する。
「マジかッ!」
慌てたのはヌイだけではない。シェリルから直々にここを警備するよう命じられていた衛兵二人は、反射的に得物を抜いてヌイを迎撃する。ショートソードで袈裟懸けに振りぬかれたサーベルを弾くと、猛烈な火花が散って薄暗い周囲を照らし出した。
「ちぃっ!」
飛燕めいた動きでサーベルを戻しつつ、素早いステップで一歩退いて反撃の突きを躱す。こんどはもう一人の衛兵が大ぶりなダガーを構えて飛び出してきた。狭く身動きのとりにくい場所だが、その動きは滑らかであり壁や相方にぶつかるようなことはしなかった。
「ぐっ」
ダガーの一閃は鋭かった。サーベルで弾くのが精いっぱいだ。しかし、それだけできれば十分だった。必要な時間は稼ぎ終えた。
「伏せろ!」
スフレの声に、ヌイは即座に従った。直後に「氷弾!」という声と魔法光が瞬き、拳大の氷の塊がいくつも衛兵二人を襲った。殺さないよう手加減しているとはいえ、その威力は必要十分。男たちは揃って「ぎゃっ」っと短い悲鳴を上げて昏倒する羽目になった。
「よーしよし、急ぐぞ!」
無傷で勝てたのは暁紅だが、大きな音を出してしまった。のんびりしている余裕はない。スフレは衛兵たちがの背後にある簡素な梯子を指差して叫んだ。




