第三章六話
ハリエットは歯を食いしばりながら、天井を見上げた。堅牢な石造りの牢獄の、古びた天井。震える手を握りしめ、余計なことを考えないように頭を真っ白にする。
この牢に収監されてからそれなりの時間が立っていた。尋問や拷問などはされてはいない。その理由はハリエットも理解していた。そんなことをわざわざする必要など微塵もないからだ。妹にとってただただ邪魔な存在であろう自分は、遠からず殺されるのだろう。そう考えていた。
「ぐっ……」
漏れそうになる嗚咽を噛み殺す。溢れ出しかけた涙を袖で乱暴に拭いた。なぜ殺されなければならないのか。悪いことなど一つもしていないのに。なぜ。頭の中では、そんな言葉がグルグルしていた。
息を吐いて心を落ち着かせつつ、周囲を見回した。石を積んで作られた強固な壁。太い鉄棒で出来た鉄格子。窓は無く、光源は天井につりさげられたカンテラの小さな灯りのみ。鉄格子の扉を両手でゆすってみたが、頑丈な錠前のついたそれは当然のことながらびくともしない。
「ダメ……」
打つ手なし。脱出は不可能だ。そんなとっくの昔に理解していた事実を再確認して、彼女はか細い声を出した。
「死にたくない」
もう一度鉄格子をゆすった。びくともしない。
「死にたくない!」
何度も鉄格子を揺する。ガシャガシャと耳障りな音が響き渡った。当たり前だが、開かない。
「出してぇ……」
足から力が抜けてハリエットはその場にへたり込む。目からとめどなく涙があふれた。最早、それを拭うほどの気力すらなかった。
「おい、静かにしろ!」
大きな音を聞き咎めた若い金髪兵士が厳しい声を上げた。牢の前に悠々とした足取りで近寄り、鼻を鳴らす。
「へっ、気持ちのいい眺めだぜ。貴族の御令嬢サマが汚らしい牢屋に入ってんのはさ」
嘲笑めいた表情を口元に張り付け、兵士は吐き捨てた。そして好色そうな目つきで、ハリエットの豊かな乳房をねめつける。
「マワされないだけ有難いと思えよ。ああくそ、もったいねえぜ、こんな別嬪━━」
そこまで言ったところで、突然その男の首元に筋肉質な腕が巻きつき万力のように締め付けた。動脈を圧迫され、状況を理解する時間もなく意識を手放す男。そのまま、地面にずり落ちた。
「はあッ!?」
思わず妙な声を上げるハリエット。そこに居たのは。パンツ一丁の大西だった。ほとんど瞬間移動めいた速度で兵士に肉薄し、これを一瞬にして無力化したこの練達の武芸者は、状況に全くそぐわない平和な笑みを浮かべて一礼して見せた。
「どうも。すみません、見苦しい格好で」
「な、な、な……」
あまりのことに声が出ないハリエットを気にすることなく、大西は完全に気絶した兵士の身体を探った。牢の鍵を持っていないかと考えたのだ。しかし目的の物は見つからない。しかたなく、手首に巻きつけていた針金をほどいた。こんなこともあろうかと脱走後ちょろまかした物だ。
「えーっと、よーしよし。シンプル、グッド」
その先端をまげて錠前に差し込み、同じく用意しておいたマチ針をパンツから抜いて鍵穴を弄る。数秒後、いとも簡単に鍵は開いた。マチ針をもう一度パンツに刺し、針先に保護用の木片をくっ付けてから大西はもう一度ハリエットの方を見た。
「逃げたくないようなら、申し訳ないんですが……一緒に脱走していただけませんか?」
何か言おうとしたハリエットだったが言葉が見つからず、結局無言でコクコクと頷いた。「ありがとうございます」と大西は微笑み、彼女の腕をつかんで立たせる。
「すみません、ちょっとだけお待ちを。流石にこの格好は目立つので」
そう言いつつテキパキと気絶した兵士を脱がせ始める大西。運のいいことに、男の体格は大西とほぼ同じだった。防具である鎖帷子を外し、その下の麻のシャツと革のズボンを奪った。着替える大西の姿をチラチラと窺いつつ、ハリエットがか細い声を出す。
「そ、その傷は……大丈夫なの……?」
大西の細身だが筋肉質な肉体には、目を覆いたくなるほど無残な跡が大量に残っていた。彼が先ほどまでどういった目に遭っていたのかは想像に難くない。これも自分がまきこんでしまったせいだと思うと、彼女は身体から力が抜けそうになった。
「四捨五入すれば無傷といっていいレベルですよ」
丈夫そうなベルトの剣帯からショートソードを外してから自らの腰に巻きつつ、頷いて見せる大西。
「戦闘動作に影響はありません。心配しなくとも大丈夫です」
「そういうことではなくて」
ズレた返答に首を振るハリエットだったが、今はそんな問答をしている時間は無いことを思い出す。深い深呼吸をして気持ちを切り替えた。
「とりあえず、余裕が出来たら手当てするわ。幸い、わたくしは治癒魔法が使えるの」
「治癒魔法。なるほど」
聞きなれない言葉だが語感からどういった代物なのかは容易に想像がつく。それは助かると大西は笑った。
「さて、行きましょう。僕におぶさってください」
そういってしゃがみ込む大西に、ハリエットは困惑の表情を浮かべた。
「えっ……おんぶで脱出を?」
「その方が合理的だと思います。僕はこの手の状況に慣れていますが、ハリエットさんはおそらく慣れていないでしょう。……もしかして、慣れてますか?」
立ち上がりかけながら少し申し訳なさそうに聞く大西に、ハリエットは首を左右にブンブン振った。そんなものに慣れている方がどうかしている。
「オーケー。大丈夫です。全部任せてください。さあ早く」
「わ、わかったわ」
なんにせよ、ここから一人で脱出は不可能だ。命が惜しければこの男に従うほかない。そっと肩に手をかけ、身体を預ける。胸元に当たる背中の硬く熱い感触に、おもわず心臓がドキリとした。
「重く……ないわよね」
「大丈夫です。それより、激しく動く機会が多くなると思うので、振り落とされないよう気を付けてください」
言うなり、大西は返事も効かずに走り出した。自らの全力疾走よりもはるかに速いその速度に早速落ちそうになったハリエットは慌てて背中に張り付く。視界の端に、倒れ込んだ何人かの兵士の姿が映った。どうやら事前に見張りを制圧していたらしい。悠長に話していたというのに騒ぎが起きないはずだ。
あっという間にガラガラの牢屋を脱出、ドアの先は薄暗い廊下だった。素早く、だが足音ひとつ立てずに疾走する大西。すると、曲がり角で兵士数人の一段と遭遇した。
「なっ……」
いやに物々しい雰囲気の兵士たちがどよめく。大西の知りえない話ではあるが、彼らは上からの命令でハリエットの処刑を執行しに来た部隊だった。まさか脱走されるとは思ってもみなかった兵士たちは、対応が遅れる。
「グワーッ!」
その隙に、腰に長剣を佩いた一番偉そうな男の顎に大西のつま先が叩き込まれる。湿った鈍い音と共に男の身体が空中に舞った。流れるような動きで流れた足を素早く地面につけ、ステップを踏むようにこちらに軸足を移す。サブウエポンとして剣の鞘に装着していたナイフを抜こうとしていた別の男の鳩尾につま先をブチこんだ。鎖帷子では打撃は防ぎきれない。口から血を流しながらもんどりを打つ男。
「だ━━」
脱走だ。そう叫ぼうとした最後の一人に強烈な頭突きを見舞う大西。ぶつけられた鼻を抑えながらたたらを踏むその女兵士に、大西は更に蹴りを打ち込んだ。男性兵士と違い鉄板で出来た胸甲をつけていたものの、それがへこむほどの強烈な威力だ。湿った息を吐き出しつつ倒れ込む女。追撃とばかりに、顔面を思いっきり踏みつけた。後頭部を石の敷かれた床にぶつけ女は昏倒した。
多少なりとも経験を積んだ兵士三人が全滅するまでにかかった時間は十秒に満たなかった。それを誇ることもなく、大西は何事もなかったかのように走りだす。背中のハリエットは「ひぇぇ」と情けない声を上げることしかできなかった。




