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第一章五・五話

 こぢんまりとした、簡素な部屋をオイルランプの微かな明かりが照らしていた。壁は煉瓦で、床は石材。窓は大きなものが一つついているが、そこにはガラスは嵌まっておらず、代わりに堅牢そうな鎧戸がつけられていた。鎧戸は今は閉じられ、外の様子をうかがうことはできない。

 小さい部屋だが、物はそこそこ置かれている。木製の武骨なベッドに、机といすのセット。クローゼットに、小さいながらもかまどまで設置されている。しかし、そのどれもが埃をかぶっており、部屋の主が長く不在であったことをうかがわせる。

 

「ふう……」


 ヌイが深く息を吐きながら、身にまとっていた暑苦しいダークグレイの外套を脱いだ。外套の下は亜麻のシャツと革のズボンというよくある服装だったが、シャツの上にはハードレザーで出来た胸当てが装着されていた。

 その窮屈な胸当てもさっさと外し、その勢いでシャツまで脱いだ。色気のない下着に包まれた、大きいとまでは言えないが形の良い乳房がまろびでる。

 

「まったく」


 べたつく肌に眉を顰めるヌイ。ここしばらく沐浴すらできなかったため、不快極まりない状態なのだ。不潔さは冒険者の常とはいえ、女性であるヌイには少々辛いものがあった。下着もズボンもさっさと脱いで、部屋の隅に置いてある蔓植物で編まれたカゴに丁寧に畳んで入れておいた。

 ヌイの完全な裸体が露わになる。筋肉質だが、女性らしい柔らかさを失っていない、魅力的な肢体だった。しかし、その白い肌のあちこちには大小様々な傷跡が刻まれていた。

 それは切り傷であったり擦過傷であったり、種類は様々だった。それらの疵は、うら若き乙女の肌に刻まれているにはあまりに凄惨なもので、彼女のたどってきた人生の厳しさを無言のうちに物語っている。

 

「さて」


 事前に用意してあった湯の入ったバケツに目をやり、ヌイが頷く。中に入っている手拭いをぎゅっと絞り、顔から順番に拭き始めた。滑らかな肩からやわらかな胸へ。程よく引き締まった腹も、背中もだ。

 白かった手ぬぐいは、あっという間に汚れていく。本音を言えば浴場でしっかりと全身を洗いたいところなのだが、この傷だらけの身体を他者の目に触れさせたくないという思いがあり、公衆浴場に行くことはためらわれた。そして、ここは冒険者向けの安いアパートであり、個人用浴室だなどという贅沢な施設は無い。

 

「慣れたものとはいえ、嫌になるわ」


 腰から上まで拭き終わったところで、いったんバケツに手拭いを戻した。そして別の乾いた手ぬぐいで拭き直し、机の上に置く。汚れた手ぬぐいは、バケツの中で洗ってもう一度絞った。

 ベッドに腰掛けて、ブーツを脱いだ。しばらく履きっぱなしだった足は蒸れにむれ、痒いくらいだ。綺麗になった手拭いで、ごしごしと丹念に拭いていく。

 身体を吹いているのだから、嫌でもあちこちに刻まれた傷跡が目に入る。そのたびに、ヌイは憂鬱な気分になった。彼女はどんな小さな傷跡でも、それがついた時のことを覚えていた。賊に襲われた時の物もあるし、復讐を完遂せんがために行った修行中に付いた物もある。

 だが、そのどれもが今となっては無意味なものだ。復讐すべき相手は既に自分の知らない場所で死んだ。女性としての幸福など知るかとばかりに行った苛烈な修行も、完全に無駄だったというわけだ。残ったのは、この醜い傷跡のみ。まったく、道化のようだ。ヌイは笑おうとしたが、顔に現れたのは引き攣ったような奇妙な表情だけだった。

 

「はあ……」


 これから、自分はどう生きればいいのだろう。もはや復讐を成し遂げるすべはないし、だからといってまた死ににいくのも嫌だ。死に近づくという感覚は、ヌイが想像していたものよりはるかに恐ろしかった。

 しかし、今更普通の人生に戻るというのも不可能だ。こんな顔、こんな体では、嫁の貰い手を探すのは難しい。ヌイはそう考えていた。実際はそうでもないだろうが、彼女の疵に対するコンプレックスは根深いものであり、自然に思考もネガティヴになっていく。

 

「……」


 身を清め終え、寝間着の薄手のローブに着替えながら、ヌイはぼんやりと思考を続ける。だが、考えても考えても、結論などでることはない。どんどん嫌な方へと進んでいく想像を振り払うため、ぶんぶんと首を振った。

 

「オオニシ……」


 頭の中に浮かんできたのは、あのぼんやりとした異邦人の顔だった。不思議な男だと、ヌイは思う。ふわふわしてつかみどころがなく、何を考えているのかわからない。悩みなど無いという風な雰囲気だったが、その割に発言は物騒だった。

 ヘンなやつ、というのがヌイの第一印象だった。しかし、不快ではない。命を救われたから、ということだけではなかった。大西は、ヌイの思いを聞いても否定も肯定もしなかった。自殺なんてばからしいからやめろと一般論的な説教をすることもなく、それでいて同情や憐憫もしない。

 ただ、死ぬなら楽なやり方をした方がいいと、よくわからないアドバイスをしてきただけだ。それは、ヌイの自らの死という選択を尊重したからこそ出てきた言葉だろう。日帝でもなく行程でもなく、尊重。そう言う風な接し方には、妙な嬉しさを感じた。

 

「……」


 目を、クローゼットの方に向ける。そこには、ヌイの貯金が隠されていた。いつなんどき何があっても、とりあえず対応できるようにと、結構な額が入れられている。ヌイのほぼ全財産といっていい。武具と言うのはなかなかに高いものだが、あれをすべて使えば最低限の物が揃えられるだろう。

 そんなことをすれば、ほとんど無一文になってしまう。しかしそれでも、ヌイに躊躇するような気持ちは無かった。大西は、自分も飢えて死ぬかもしれないような環境で、躊躇なくヌイに数少ない水と食料を分け与えた。ならば、自分も返さねばならない。

 

「三日後、か……」


 それだけの短期間で武具を集めるというのは、なかなかに大変な作業だろう。高いものは買えないが、さりとて不良品を渡すわけにもいかないからだ。きっちり店を回り、吟味する必要がある。

 そう、人生なんて大それたことは考えられなくても、とりあえずこなさないといけない事は沢山あるのだ。今は、余計なことを考えている暇はない。ヌイはぎゅっと両目を閉じた。

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