第三章一話
「どう? 痛くない?」
「いえ、大丈夫です。何の問題もありません、ええ」
その日の午後。昼食を終えた大西はヌイ宅にいた。前回来た時と何も変わっていない、アパートの狭い室内。ヌイはベッドに寝そべっていた。枕にしているのは、大西の膝だ。
「他人に耳かきするのなんて初めてだからね……違和感があったら、すぐに言ってほしい」
「わかっていますよ」
そう、彼はヌイに耳かきをしていた。手に握っているのは、木製の小さな耳かきだ。二本でよく見るものと違い梵天はついていない。
その先端をヌイの猫によく似た形状の耳に突っ込み、優しく動かしている。自分の耳とはまったく形状が違うせいか、大西は神妙な顔をして彼女の耳に顔を近づけながら作業をしていた。必然的に、彼がしゃべるたびに吐息がヌイの耳をくすぐる。膝枕をしているせいで顔が見えないことをいいことに、彼女はとても他人に見せられないようなとろけきった顔をしている。
「うん、しかし、これは……」
そろそろと手を動かし続ける大西。どうしてこんなことをしているかと言えば、ヌイに頼まれたからだ。彼女の種族には、親しい者同士で耳かきをしあうと言う習慣がある。彼女らの最大の武器である聴力、それをつかさどる耳を預け合うことで信頼と愛情をしめす、ということらしい。
とはいえ大西はそんな事情を知るはずもなく、少し照れながら提案してきたヌイに特に考えることもなく二つ返事で了承した次第だ。
「なかなか、難しい」
手先は器用な彼だが、デリケートな部位だけに最大限の注意を払う必要がある。眉間にしわを寄せつつ、そっと手を動かす。そのたびにヌイの細い肩が震えた。
「こんなものかな……」
しばらくそうした後、大西は彼女の耳にふっと息を吹きかけた。梵天がない以上、息で最後の仕上げをしようと考えたのだろう。
「うひゃあ!」
「あ、ごめん。つい」
「いえ、いいえ。もう一回、もう一回お願いします」
常にない食いつきようだったが、大西は微笑を浮かべながら「わかった」と言い━━
「オオニシ! 大変だ!」
乱暴にドアが開かれる音と、オルトリーヴァの大声によって動作が中断された。ヌイがぎゃあと叫びながら飛び起き、椅子でうたた寝をしていたスフレが床に転げ落ちる。大西だけが冷静に「どうしたの?」と立ち上がった。
「行き倒れ? というのか。よくわからんが、ヒトを拾ったぞ」
そう言いながら彼女は背中に背負ったモノを見せる。ソレは、ボロボロの服をまとった長い銀髪の少女だった。歳はヌイより二、三ほど下に見える。身体は完全に脱力し、憔悴しきった表情をしている。
「ひ、拾った場所に返してきなさい」
ヨロヨロと立ち上がりつつ、スフレが言い返した。室内と言うことで素顔だった彼女は慌ててテーブルからマスクを取り頭からかぶる。
「い、いやしかし、ヒトはお互い助け合って生きているのでは? ヒトの社会に混ざって生きると決めた以上、オルトリーヴァもそれに従わなければ」
「ケースバイケースだよ!」
深いため息をつきながらスフレがやれやれと首を振る。人口の多い王都では行き倒れなど決して珍しいものではない。それらを毎度毎度拾ってこられたりすれば、たまったものではないだろう。
「いえ、その考え方は好ましいものです。忘れないように」
しかしその言葉はヌイによって即座に否定された。名残惜しそうに耳のあたりを撫でているが、文句は言わない。困っている人を見つけて手を差し伸べたのだから、賞賛こそすれ個人的な理由で責めることはできないだろう。
「まあそれはさておき、様子はどんな感じかな」
大西と言えば、至極落ち着いた声でそう聞き、オルトリーヴァに近づいた。
「ああ、いけません。ベッドに寝かせましょう、とりあえず」
どういう状況でオルトリーヴァが少女を拾ったのかは知らないが、すくなくとも体調が良さげには見えない。かなり汚れた服装をしていたが、ヌイは躊躇することなくそう指示した。それに頷き、そっと少女の身体をベッドに降ろすオルトリーヴァ。
「うう……」
苦しげに少女が呻く。癖の強い銀色の長髪と、そして容姿に不釣り合いな大きな胸にかけられた金色の鈴のペンダントが揺れた。
「大丈夫ですか?」
「み、水を……」
「はいはい」
大西が手早く水差しからコップに水を注ぎ、持ってくる。ヌイによって体を起こされた少女は口元に添えられたコップに慌てて口をつけ、中身を飲み始める。急ぎ過ぎて咽た。水がシーツにこぼれてシミを作る。
「ご、めんなさい……」
掠れた声で謝罪する少女。
「いいんですよ。ゆっくり」
「あ、り、がと、う」
途切れ途切れにそう言いながら、また少女はコップに口をつけた。あっという間に飲み干し、二杯目三杯目と続けた。ふうふうを荒い息をつきながらコップを返すと、彼女の腹からかわいらしい音が鳴った。
「う」
思わず赤面し、お腹を押さえる少女にヌイは苦笑した。
「消化の良いものでも作りましょうか」
「消化が良いってどのレベルかな。おかゆの上澄み?」
勝手知ったる他人の家とばかりに壁の棚に置かれていた鍋を出す大西。狭いワンルームだから、わざわざ台所に行くような手間は無い。
「まてまて、ふむ」
少女に近づきにゅっと顔を突き出すスフレ。その異様な風体に少女が身を固くしたが、気にせず手袋に包まれた手でそっと少女の腕に触った。
「そんなに痩せてないな。慢性的な飢餓じゃあない。絶食数日というところか? まあお粥でいいんじゃない? 水多めでしっかり煮てれば大丈夫だと思う」
「オーケーオーケー、任せて」
オートミールの入った紙袋をひっぱり出す大西。慣れたものだ。
「それで、どういう状況でこのひとを?」
オルトリーヴァに顔を向け、ヌイが聞いた。彼女が食後の散歩に出かけたのが一時間ほど前の話だ。そう遠くへは行っていないはずだが、いったいどこで拾ってきたというのか。そう思いながら、一瞬少女の方へ視線を移す。彼女の纏っているのはボロボロだがそこそこ仕立ての良い服に見える。単なる浮浪者の類ではないだろう。
「歩いていて、見つけた。路地裏に倒れていたんだ。……たしか、十一番街とかいう言う場所だったか」
「案外近所ですね。しかし、路地裏ですか……」
ワケありの臭いがプンプンすると、ヌイは眉間にしわを寄せた。よく見れば、少女は靴すら履いていない。脚は傷だらけだ。それでいて肌は日焼けひとつない、キメの細かい柔らかそうなものだ。頬は若干やつれているものの深窓の令嬢といって差し支えのない容姿だった。
「厄介事だな、間違いなく」
スルリとヌイの真横に歩み寄ったスフレが囁くような小さな声で言った。
「賭けても良いぜ」
「でしょうねえ」
言われなくともそんなことはわかっている。ヌイは茶葉の塊を噛んだような渋い表情を浮かべた。
「とはいえ、見捨てるわけにも」
「面倒事が起きたらその時はそのときさ。とりあえず今はお腹いっぱいになってもらおう、空腹ほど辛いものはあんまりない」
「そうですね」
薪を手に近くを通りかかった大西の言葉に、ヌイは小さくため息をつき、微かな笑みを浮かべた。遠い目をしながら腹をさする。
「お腹が空いていると、ロクなことはありません。ええ」




