第二章十話
「投降する。僕の負けだ」
目の前に顕現した巨大なドラゴンに対し、大西は慌てず騒がず両手を上げて見せた。ノータイム白旗である。
情けないことこの上ない行動なのだが、ドラゴンになられると勝ち目が消滅するのだから仕方ない。大西が強いのは、彼が収めている憲法そのものの技術的な蓄積と、旅先での練習試合で積み重ねられた豊富な試合経験によるものだ。ドラゴンと戦うための技術など、何一つ覚えていない。人間が相手であること前提の強さなのだ。
『駄目だ、オルトリーヴァはまだ勝ってない』
「百回やって百回僕が負ける勝負だけど」
『まだ一回目だぞ』
「そうだね」
彼女は勝ちを認めるつもりがないようで、ひどく恐ろしげな咆哮を上げてからそんなことを言い放った。口から吐き出す呼気には火の粉が混ざっている。どうやら興奮しているようだ。
「ちょっと待ってね」
逃げようにも、背中を見せれば即死は免れない。ならば立ち向かう方がましだ。胸ポケットから手帳を取り出し遠くへ投げ捨てた。腕は構えず、むしろ力を抜く。
「どうぞ」
再びの咆哮が、返答だった。びりびりと体が痺れるような大音量。ただの一般人なら、それだけで腰を抜かして動けなくなるような恐ろしげな叫びだった。
しかしそれでひるむ大西ではない。猛烈な速度で突っ込んできたオルトリーヴァをサイドステップで躱す。サイドステップとはいっても、巨大な化物が相手だ。一回の跳躍距離はとんでもなく長い。何とか回避はできたが、すれすれだった。
「おおー……」
衝突していれば命が消し飛んでいたであろう突撃に対し、大西はあくまで呑気にそんなことを言った。口調は呑気だが、動きは素早い。一瞬で体勢を立て直し、身体をオルトリーヴァの方へと向ける。
彼女はと言えば、突進の勢いのまま翼を広げて離陸し、最新鋭戦闘機でも実現が難しそうなとんでもない急ターンをして再びこちらへ向かってきた。
「わ」
翼をばさばさと羽ばたかせつつ、彼女は炎球を吐き出す。飛び武器まであるのかと感心しつつ、大急ぎでその場から飛びのいた。先ほどまでオオニシが居た場所で炎球が炸裂し、熱波と炎を四方にまき散らす。
「勝ち目、無いな」
高威力の飛び武器まで持った飛行生物にどう立ち向かえと言うのか。フル武装の戦闘ヘリコプターのようなものだ。倒すに必要なのは拳法などではなく、ミサイルや機関砲といった近代対空兵器だろう。
「おおっと」
更なる突進を仕掛けてきたオルトリーヴァ。炎球の回避で体勢が崩れていた大西は、なんとか身を避けるだけで精いっぱいだった。
完全に体勢が崩れた大西に、オルトリーヴァが強靭な爪で大地を抉って急制動をかけ追撃する。太い尻尾による薙ぎ払いだ。
「ふうッ」
地面に伏せてやり過ごす。尻尾が背中に掠る感触と猛烈な風圧。それらが霧散するより早くバネ人形のように跳ね起き、全力の回し蹴りを脚の関節に見舞う。
「なるほどな?」
まるで巨大な鉄塊を蹴ったような感覚だった。ダメージが通るような雰囲気ではない。本当に人間相手ならばドラゴン形態よりもヒト形態のほうが有利なのか。この世界の戦士はどうなってるんだという疑問が、大西の脳裏に浮かぶ。
とはいえ、ドラゴン退治ともなれば普通は稀代の名剣や戦略級の威力の魔法を使って挑むするのが普通なのだ。幼龍相手とはいえ徒手空拳でどうにかなるはずもない。
『捕まえた』
「わお」
その隙に大西は捕捉されてしまった。鋭い小さな歯がノコギリのように整然と並んだ彼女の巨大なアギトで胴体に横から噛みつかれる。歯があちこちに刺さり、食い込む。
とはいえ、そのまま噛み砕かれることなくぶんと遠くへ放り投げられたので、オルトリーヴァとしては甘噛みくらいの気持ちだろう。これで決めるつもりだったのなら、そのまま力を込めれば大西の身体はバラバラになっていただろうからだ。受け身を取ってダメージを殺し、なんとか立ち上がる。
「駄目っぽい」
全身血まみれ唾液まみれのひどい状況だと言うのに、大西はあくまで冷静だった。冷静だったが、勝機はまるで見つけられていなかった。打撃主体の攻撃は、質量差のある相手には通用しにくいのだ。おそらくアフリカゾウより重いであろうドラゴンを殴ったところで、大したダメージが無いのは分かりきっている。
「徹しで? いや、あんなに遠くまでは打撃を浸透させられないし」
ボソボソと喋ったところで、解決策は見つからない。向かってきたオルトリーヴァを避けようとするが、投げ飛ばされたダメージが残っているのか足が上手く動かない。もしかしたら、骨の一本や二本くらいは折れているのかもしれない。
目の前に迫ってくる強烈な龍のキック。回避は不能、ガードするほかない。鋭い爪の先端からなんとか体を逃がしつつ、両手で受け止める。
「うっ」
ゴルフクラブのフルスイングを受けたボールのように大西は派手に吹っ飛んだ。岩塊に衝突、粉砕してやっと止まる。
「凄い、生きてる」
あちこちの骨が折れ、血と埃にまみれた状態で地面に横たわる大西だったが、死んではいなかった。フランキスカから教わった、簡単な防御魔法のお陰だった。肉体そのものに作用する筋力増幅の亜種のような魔法だったが、これがなければさしもの大西も即死していただろう。
翼が羽ばたく音が聞こえる。そちらに目を向けると、こちらに向かって降下してくるオルトリーヴァの姿があった。彼女は大西のすぐ前に着地する。彼は立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かず途中で力尽きて地面に転がる。
『んふふふ、形勢逆転だ。やっぱりオオニシは、翼をもつ相手にはなれていないんだな』
「やー、ドラゴンなんて日本で見たことないもんで」
至極嬉しそうな声が頭の中で響き、大西は笑みを浮かべた。苦笑と言うには、妙に毒の薄い笑みだ。オルトリーヴァがふいと大西の方へと首を伸ばし、お互いの呼気が当たるほど近くまで顔を寄せた。
『とお様に昔聞いた。ヒトは好きあった相手と唇を合わせるとかなんとか。キスといったか? それをやりたいが、いいか』
「このサイズ差だと、キスというよりほとんど捕食では」
『あ、あ、確かに』
言われてみればその通りである。そも、この状態のオルトリーヴァには唇が存在しない。彼女はいそいで人間に戻ると、大西に抱き着いた。
「んふ、んふふふ、キスするぞ、いいな」
「……はい」
砲を紅潮させ、見たことのないような笑みを浮かべたオルトリーヴァに馬乗りになられた大西は、最早抵抗するすべを持たなかった。身体が十全に動くのならば、即座に身体を入れ替えて殴り飛ばし、反撃に転じることもできるだろう。実際、そうしようとした大西だったが、腕一本で容易に押さえつけられてしまった。こうなればもう頷くほかない。
オルトリーヴァが満面の笑顔で大西にキスする。キスと言うよりはそれこそ捕食に近いような、稚拙で乱暴なものだった。数秒そうしていた彼女は口を話、今度は血まみれになっている大西の身体にキスの雨を降らせた。
「勝った、勝ったぞ、うふふふふふふっ!」
そう言い放つと同時に彼女は光に包まれ、再び龍に転じた。その巨大な脚で大西を掴んで空に舞い上がる。凄まじい急上昇。気圧の急激な変化に大西は血反吐を吐いた。オルトリーヴァは気にせず、脚を放す。大西、急降下。
『やったぞーッ!』
地面に墜落する寸前で、そのボロ雑巾のようになった大西の身体を乱暴にキャッチし、オルトリーヴァは歓喜の声を上げる。そのまま大西を掴んでいない方の足だけで、器用に着地した。
『おい、オルトリーヴァの勝ちだぞ! 頼みがある、聞け』
「なに?」
地面に雑に転がされた大西が、掠れた声で答える。最早半死半生である。
『オルトリーヴァのつがいになれ、オオニシ。オマエと戦うのはこんなにも気持ちがいい!』
「つがい……? ううん、その前にその、僕からも頼みがあるんだけど」
『なんだ、何でも言え! かなえてやる』
ふんふんと鼻息荒く答えるオルトリーヴァに、大西は遠くに転がっている時分の手帳を指差して見せた。
「こんなこともあろうかと、遺書を書いておいたんだ。ラウツ岳山頂のあたりで仲間がキャンプを張ってるはずだから、そこまでアレを届けてほしい」
そろそろ僕、死にそうだからね。そう言って笑ってから、大西は気絶した。
『あ、あ、あ、あ、あわわっ、やりすぎたっ! ごめん! 死ぬなーッ!』
人間形態になり、大急ぎで大西に駆け寄って体をゆするオルトリーヴァ。しかし彼はうんともすんとも言わない。真っ赤だったオルトリーヴァの顔色が真っ青になった。
「ど、どうしよう、とお様なら……いや、とお様はオオニシが嫌いみたいだったし」
当たり前だが、オルトリーヴァに人間の手当ての心得など無い。このまま放置しておけば彼の命が危ないと言うことは、冷静さを取り戻してみれば簡単にわかることだった。
「そうだ、ラウツ岳とか言ってたな、ヒトならヒトの身体のこともわかるはず……」
そう言うと彼女は、龍の身体に戻って大西を掴み、そのまま飛び去った。




