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第二章六話

 赤い月が追い立てられるようにして西の空へと沈んでいく。まだ東の稜線から顔を出したばかりの太陽は、黒いビロードのようだった空を早くも青く染めはじめていた。

 

「月が」


 大西と向かい合って拳を構えていたオルトリーヴァが、静かに呟く。二の戦いは、いまだに決着がついていなかった。双方土まみれで、大西の方は身体のあちこちに細かい傷が出来ている。しかし、致命傷は無い。

 

「この戦いは赤い月に捧げるものだ。月が出てない時に決着をつけたくない。オマエが構わないならば、いったん戦うのはやめよう」


 言葉とは裏腹に、彼女の声音は興奮の色があった。頬は紅をさしたように赤く、呼吸には疲労しているときの物とは明らかに異なる種類の荒さがあった。彼女自身は、どうやら戦い続けたいようだ。

 

「そろそろ休憩が必要そうなので、それは有難いですね」


 しかしそんな空気が読めないのが大西という男だ。彼はゆっくりと息を吐き、笑顔でそう答えた。こちらは顔色も表情も完全に普段通りで、激戦があったことなどおくびにも出さない様子だ。街の一般人が今の彼を目撃しても『どこかで派手に転んだのかな』くらいにしか思わないだろう。殺気や威圧感といったものが全くないのだ。

 

「そうか、わかった。月が出たら再開だ。それまでせいぜい休め」


 あからさまに不満のある様子でオルトリーヴァは言い捨てる。そして突然光に包まれたかと思うと、一瞬で龍の姿へと転じた。鼻先から尻尾の先端まで十メートル以上はありそうな巨大で真っ黒な有翼の怪物である。

 

「ありがとうございました」


 飛び立とうとした彼女に、大西が両足をピタリと揃えて一礼する。これは練習試合ばかりしていた彼の癖のような物だった。そういった習慣礼節とは無縁のオルトリーヴァは爬虫類めいた龍の顔でもはっきりわかるほど変な表情を浮かべて固まったが、ふいと振り上げていた翼を脱力させた。

 

『アリガトウゴザイマシタ』


 例の頭の中にだけ響くテレパシーめいた声で返答し、彼女は今度こそ大空へと飛び立つ。猛烈な土煙に巻かれて大西はますます汚い姿になった。

 

「コミュ力の高まりを感じる……」


 オルトリーヴァが空の向こうへと消えていくまで手を振ってから、彼はそう呟く。そして歩いて近くの岩陰まで行くと、ゆっくりと腰を下ろして背中を預けた。

 

「水さえあれば今日中は行けるかな。明日はキビシイかも……」


 腹をさすりながら、そんなことを言う。食料も水も、すべて攫われた時に捨ててしまっていた。当然どこかで調達する必要があるわけだが、水はともかく食料はまともに木も生えていないこんな高山ではとても望めないだろう。

 

「まあ、あと二日あれば倒せる。大丈夫か」


 とりあえず今は疲労回復を優先するべきだろう。微塵も不安を感じていない声でそう言うと、大西は目を閉じた。

 

『おい』


 しばらくして、大西はふいに声をかけられた。いつの間にか、ドラゴン状態のオルトリーヴァが目の前に立っている。太陽はだいぶ高くまで上り、あたりは完全に明るくなっていた。

 

『ハラが減っているだろう。食え』


 そう言って彼女は、足元に倒れたカモシカめいた獣の死体を巨大なカギ爪のついた脚で転がした。

 

「これ、僕にですか? それは嬉しいな、ありがとうございます」


 どうやら大西のために狩ってきてくれたらしい。最悪何も食べないまま戦い続けることを考えていたので、有難い限りだった。

 少し考え込んで、大西は立ち上がる。しばらくの間周囲をうろうろしていたが、やがて飛ばされていた自分のナイフを発見し、拾い上げた。刃を外套の裾で拭い、カモシカもどきのもとへと歩み寄る。

 

「ええと、まずイタダキマス、か」


 ふいにスフレの顔を思い出して、そう言う。そしてカモシカもどきの分厚い皮に刃を通した。

 驚くべき手際で大西は獣を分解していく。寄生虫や病原菌の多い内臓は避け、筋肉を切り分ける。ちょうどいいサイズに切り取ると、平気な顔をしてそれを食べた。

 

「うん」


 手を血まみれにしながら、頷く。野生動物の生食など危険極まりない行為だが、燃料が手に入らない以上仕方ない。空腹のまま戦い続ければ死ぬ確率は飛躍的に高まるので、こちらの方がリスクは少ないと判断したのだ。タチのわるい虫や菌で命を落としたら、その時はそのときだ。

 

『美味いか?』


「おいしいですよ」


 調味料なぞ一切使っていない野生動物の生肉なぞ美味い筈もないだろうに、大西はしごく真面目な声で答えた。嘘を言っている様子はない。

 

『ならいい』


 満足げに頷くオルトリーヴァ。人間形態であればドヤ顔をしていたに違いない声音だった。

 そこそこ時間をかけて、大西は完全に腹を満たした。とはいっても、体重は人間とそう変わらないであろう大きさの獣だ。肉はまだ結構な量残っている。

 

『終わりか? オルトリーヴァも食べていいか?』


「ええ、どうぞ。ごちそうさまです」


『うん』


 オルトリーヴァは頷き、そしてカモシカもどきにかぶりつく。巨大な口であっという間に骨も肉もいっしょくたに噛み砕き、嚥下する。巨大生物らしいワイルドな食事だった。

 

「よろしければ、どこか水場があれば教えて頂いても構いませんか?」


 水も飲みたいし、なにより血まみれの手を洗いたい。人間の血ではないものの、今の大西はカモシカもどきの血でひどくスプラッターな格好だ。

 

『かまわない。……だが、一つ言っておきたいことがある』


「なんでしょう?」


 要望を出すのは不味かったか、と大西が目を細める。ほんの先ほどまで、オルトリーヴァは大西によって顔面パンチだの腹パンだのを食らっていたのだ。普通ならば怒りや恨みを抱いていてもおかしくない。

 

『オルトリーヴァはヒトの言葉は得意ではない。もっと簡単で短い言葉で話せ、聞き取りにくい』


「はい」


 大したことではなかった。さすが強大な上級妖魔、少々の狼藉で心を乱すほどヤワではないらしい。実際、彼女の言葉遣いは多少荒っぽいものの、その声音は敵に向けるようなとげとげしいものではない。

 

『川は少し遠い。掴まれ』


 そう言ってオルトリーヴァはその極めて太い強靭な脚を差し出してきた。どうも飛んでいくつもりらしい。大西は笑顔で頷き、その大樹のような脚部にしがみついた。

 

「綺麗になった。ありがとう」


『そうか』


 氷河から溶け出す小さな川で手や口を濯いだ大西が、オルトリーヴァに一礼した。周囲には岩と氷河ばかりで、緑と言えば苔などの地衣類が少し岩にくっついているくらいの寂しい場所だ。とはいっても、この周辺はどこもこんなものだろう。

 

『オマエは、落ち着いているな。とお様の話では、ヒトは戦うときに怒ったりわめいたりすると言っていたが』


「それはヒトによる。僕は戦うのも怪我をするのも嫌いじゃない、それだけ」


『ヒトにもいろいろと種類があるのか』


「はい」


 このドラゴンは、どうやら会話好きらしい。大西の言葉を聞いて何やら考え込み、岩肌に腰を下ろした。太く長い尻尾がぶんぶんと振られている。

 

『戦うのが好きなのか?』


「いいえ。戦うのは好きではない」


『好きでも嫌いでもないのか』


「はい」


 大西も、彼女に合わせて丁度良い大きさの岩に座る。冷たい風が彼の頬をくすぐった。

 

『オルトリーヴァは戦うのは好きだ。オマエは何が好きだ?』


「旅」


『旅? あちこち出歩くのか。どういう場所へ行ったんだ』


 質問攻めである。もっとも、詰問しているような口調ではない。穏やかだが、楽しげなものだ。

 

「例えば」


 大西は一瞬目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、かつての旅で見た光景の数々だ。

 

「砂漠。砂しかない場所」


『さばく?』


 目をぎょろりと動かしておうむ返しするオルトリーヴァ。

 

『ここも石と雪しかない。それとは違うのか』


「違う。もっと細かいさらさらした砂だった。それに、とても暑かった」


『変なの。他には?』


「大きな町。ヒトがみっしり詰まっていた。僕が数えたのではないが、一千万人以上住んでいるとか」


『いっせんまん』


 人間を見たのが大西がはじめてなオルトリーヴァは想像もつかないような数を出されて目を白黒させる。適当なことを言っているのではないかと彼を睨んだが、大西はどこ吹く風である。実際、嘘は言っていない。東京だって人口は一千万人を超えているし、インドのデリーなどを訪問した経験もあった。

 

『凄い。楽しそうだ』


「楽しい。僕は違う世界から来たが、こちらの世界でもあちこちに行きたい」


『まれびとというヤツか。聞いたことがある』


 昨晩の戦いと同じように、会話もまた白熱していく。オルトリーヴァは彼の話を聞くのが楽しくて仕方がないようだった。

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