第二章五話
攫われてからしばらくの時間がたった。大西はやっと足を地面に降ろすことができていた。山間にある、平坦な盆地。周囲を峻嶮な山々にあこまれたこの場所は、さながら天然の闘技場のようだった。時刻は夜。欠けることのない真っ赤な満月が、東の空から地面を照らしていた。
「お初にお目にかかります、オオニシです。どうぞよろしく」
彼は、ごく自然な様子で目の前に立つ人物に一礼する。
「オルトリーヴァ」
ごく単調な声音で、答えが返ってくる。声を出したのは、鴉の濡れ羽色の長い髪をもち、大西より頭半分ほど背の高い美女だった。身長の割に平坦な体を、粗末な大きな布を雑に巻きつけただけの服装だ。ブラック・ドラゴン……オヴニルが言うには、彼女こそが大西の戦う相手らしい。
とうのオヴニルといえば、遠くの山の山頂に止まって羽を休めている。驚くべきことに、その隣にはやや小さい別のブラック・ドラゴンの姿もあった。このオルトリーヴァと名乗った彼女の両親、ということらしい。オヴニルの話が本当ならば、であるが。
ドラゴンの子供と戦うという話だったのに、目の前にいるのは人間の女性だ。ただ、普通の人間かと言えば、そうでもない。まず目に付くのは、頭部の小ぶりな角だ。こめかみのあたりから二本、小指の先ほどの角が生えている。そして臀部には、女性としてはかなり体格がいい方である彼女の身体と比べてもなお不釣り合いなほど長く、そして太い尻尾があった。もちろん、尻尾は鱗に覆われた爬虫類めいたものだ。
「しかし、驚きました。ドラゴンは、人の姿にもなれるのですね」
曖昧な笑みを浮かべてそう言う大西。状況から考えれば、彼女が偶然この場に紛れ込んだただの一般人でないことは明白である。つまりは、ドラゴンだ。目の前にいるのは、人のカタチをしたドラゴンだ。察しの悪い大西とて、それくらいの予想はできた。
「ヒトと戦うときは、ヒトのカタチをしている方が都合がいい。それだけのことだ」
ぶっきらぼうにオルトリーヴァが言い捨てる。少し低い、静かな声だった。
「そうなんですか?」
「知らない。オルトリーヴァは、戦うのは初めてだ。ヒトと戦うときはこうせよと、かあ様に言われたからこうしている」
「なるほど、ありがとうございます」
実際のところ、オルトリーヴァが人の姿をしているのは一部の龍種がもつ特殊な習慣からだった。この世界の人類は、人同士で争うよりも妖魔と戦う機会の方が圧倒的に多く、当然戦術もそれに特化したものが採用されている。
飛行や大質量かつハイパワーな肉体というアドバンテージを持っているドラゴンだったが、人間の使用する上級の対空魔法はそれらの長所を消し飛ばして余りある威力がある。それならば肉体改造の魔法を使って人の姿になり、被弾面積を減らしたうえで敏捷性を上げて殴るべし。これが古のドラゴンの生み出した対人戦術だった。
これは、あえて相手の土俵に立ったうえでこれを打倒することで自らの優位性を明らかにすると言う、精神的な側面もある戦い方だ。
「戦え、ということですが勝敗はどう決めるのでしょうね? 死ぬまで戦って、生きている方が勝ちですか」
「いや」
オルトリーヴァは静かに首を左右に振った。
「オマエが負けを認めれば、オルトリーヴァはそれでいい。だが、間違えて殺してしまうかもしれない。そのときは、お前が弱すぎただけだ。オルトリーヴァは謝らない」
「なるほど。僕の勝利条件も、同じでいいわけですね」
「そうだ」
分かりやすい勝利条件だった。とはいえ相手の実力は未知数。おそらく一筋縄で勝てる相手ではない。戦うのは初めてだと彼女は言ったし、その動作から特別な功夫感じないものの、ドラゴンという種族には功夫の差など容易に覆すほどの身体能力があるのは間違いないだろう。
とはいえ、ドラゴン形態で襲い掛かられるよりはよほどやりやすい。大西の積んだ鍛錬はあくまで対人用であり、空から襲い掛かってくる巨大な爬虫類だなどというファンタジックな存在を相手にするのは無茶がありすぎる。
「ご丁寧にありがとうございます」
「構わない。これで、準備は良いのか」
「はい」
静かに拳を構える大西。右手を頬の近くに寄せ、左手は軽く握って前へ。相変わらず、武器は無い。ナイフならあるが、使うならトドメの一撃だ。まさか軽く切りつけただけでひるんでくれる相手でもないだろう。頼りになるのは、自らの肉体だけだ。
「わかった。やろう」
言うなり、オルトリーヴァは地面を蹴って大西に肉薄した。見たことのないような、人間ではありえない凄まじい加速だ。ほとんど瞬間移動のような勢いで、大西の顔面に向かって拳が突き出される。
しかしそれを甘んじて受ける大西ではない。右手が拳を弾き飛ばし、それと同時に強烈な縦拳ストレートがオルトリーヴァの顔面に炸裂した。お手本のような攻防一体のカウンター。彼女はゴムボールのようにはね飛ばされた。
このストレート・パンチは、ただのパンチではない。フランキスカによって教授された、筋力増幅の魔法が込められた一撃だ。大西は短い間の修練で、この魔法を完全にモノにしていた。
「ッ!?」
驚きの表情を浮かべつつも、オルトリーヴァの対応はあくまで冷静だった。空中で体をひねって一回転。体勢を崩すことなく着地に成功する。一般人ならば頭がショットガンをブチ込まれた西瓜のように破裂するような一撃だったが、驚くべきことに傷一つついていない。人化しているとはいえ、その防御力はドラゴンの肉体の時と遜色ないレベルにあるのだろう。
「すごい。驚いた」
「僕も驚きました。ドラゴン、素晴らしい身体能力ですね」
「当たり前だ。ドラゴンは、ブラック・ドラゴンは、そういう生き物だ」
なんでもないようなことを言う口調だった。自慢をするような声音ではない。
オルトリーヴァはふっと笑い、その優れた筋力を持っていったん離れた距離を一瞬にして詰める。拳が突き出された。今度はジャブだ。隙は少ない。サイドステップで回避し、左手の指を突きだして彼女の喉を狙う。防御は無い。理想的な形で貫手が決まった。しかしオルトリーヴァの体は小揺るぎもしない。
「おお」
お返しとばかりに帰ってきた右ストレートを独特な円を描くようなステップで回避しつつ、大西は感嘆めいた声をあげる。
技術も何もない単純な動きだが、これほどまでに肉体のスペックが高いならむしろ合理的な戦い方だ。下手な小細工より、強力な単純攻撃の方が効果的なのだから。
ステップの動きを止めることなく、ストレートパンチで出来た隙にオルトリーヴァの懐へと潜り込む。最小限の動きで放たれたコンパクトな左フックが彼女の顎に撃ち込まれる。反撃が来るより早く、足を踏ん張りながら右アッパーを鳩尾へ。柔らかい腹肉を打ち抜く何とも言えない感覚。
「んんっ」
流れるような動きで一歩下がる。回避のための動きではない。左を軸足にした強烈な回転キックを放ったのだ。死神の鎌めいた動きでオルトリーヴァの後頭部へ蹴りが吸い込まれていった。
「ふむ……」
勿論これらの攻撃はすべて筋力増幅で強化した一撃だ。前に戦ったオークキング程度ならこの一連のコンボだけで死ぬだろう。それほどの攻撃だった。
しかしドラゴンの耐久能力はオークなどという下級妖魔とは比べ物にならない。急所に攻撃がクリーンヒットしたにもかかわらず、オルトリーヴァはケロリとした顔で反撃に出た。
「おう」
ジャブが二連続。拳が空を切る音が尋常ではない。おそらくこれ一発だけで大西の渾身のストレートパンチを遥かに凌駕する威力を持っているのだろう。当然これを正面から受ける大西ではない。一発は体をひねって回避し、もう一発は手首をつかんで軌道を逸らした。がら空きになった顔面に、貫手を打ち込む。狙いは眼球、目つぶしだ。
「ぐっ……」
さすがに目までは鍛えられまい。今までまともに防御も回避もしなかったオルトリーヴァだったが、これにはたまらず一歩退いて回避する。
それに合わせるようにして大西が一歩前に出る。二回目の目つぶし。腕でそれを弾こうとするオルトリーヴァだが、貫手はフェイントだった。握りを解き、突き出された彼女の腕を掴んで抑え、自分の方へと引っ張る。同時に足を彼女の股下に差し入れ、そのまま流れるように投げた。
掴んだままの腕を軸にして、オルトリーヴァは見事に一回転。背中を地面にしたたかに打ち付けた。
「うっ」
これだけで攻撃は終わりではない。大西はオルトリーヴァの腕をつかんで極めつつ、腰の鞘から小ぶりなナイフを抜き放ち彼女の眼孔に向けて突き入れようとした。先のオークキングと同じように仕留めようと言うのである。
「あっ」
ところがこの攻撃は上手くいかなかった。極めていたはずの腕が、その圧倒的な膂力によって強引に拘束を外し、大西の体そのものを容易く吹っ飛ばした。彼の身体は宙を舞い、十メートルを超える距離を転がる羽目になった。
「強いなあ」
即座に立ちあがり、構えなおす大西。ナイフは飛ばされた拍子に手から離れた。無くして惜しいものではないが、ただでさえ乏しい攻撃力がこれでなおひどいものになった。人のカタチをしているとはいえ、オーク程度と同じ戦法で倒そうと言うのがまず無理だったようだ。
「いや、オルトリーヴァは弱い。お前は強い。オルトリーヴァがヒトならば死んでいた」
「そうですね」
オルトリーヴァの声は、隠しきれない興奮の色があった。死の恐怖からくるコンバット・ハイなどではない。己の全力を出し切れる相手を見つけた、強者の興奮だ。その顔には、凄惨な笑みが浮かんでいる。
「でもあなたはドラゴンで、僕は人間です」
「そうだ。オルトリーヴァはヒトではない。だから勝つ」
言うなり、彼女は猛スピードで突っ込んできた。それに対し、大西は迎撃の構えを取る。戦いは、まだまだ終わりそうにない。




