第二章三話
森林限界などとうに超え、周囲にあるのは岩と雪ばかり。雪化粧をした峰々と真っ青な空のコントラストは見る者に畏怖すら感じさせるほど荘厳だった。ここはヴィレシー山脈。エスタルの天井とも呼ばれる王国屈指の山岳地帯だ。
「久しぶりの本格的な登山だけど、やっぱりいいね」
白い息を吐きながら、大西が笑う。初夏といってもここは標高二千五百メートルを優に超える高地だ。当然、気温は冷たく大西たちはまるで冬のような装備になっている。
先の山村で一夜を明かした後、大西たちは装備を整え更に山奥へと進んでいた。これは、飛行型妖魔の目撃された場所が村の更に北部だったためだ。それに、山がちなこの土地では低所ではあまりにも見晴らしが悪い。出来るだけ山頂近くに居なくては、見張りもままならないのだ。
「オオニシは、こういう高い山に登るのは初めてではないのですか?」
いつもの薄手の外套の上から更に毛皮の分厚いコートを重ね着してもこもこになったヌイが、大西の方を見ながら聞く。その顔色は大変に悪かった。村を発って既に数日、高度障害……いわゆる高山病を発症したヌイは、これでもだいぶマシになっているとはいえいまだに調子が悪いようだ。
「うん、前の旅ではいろいろ登ったよ。楽しかったなあ」
対する大西はいつにもまして調子が良さそうだった。顔色もすこぶるいい。彼は旅の間にたくさんの山を越えている。これくらいの高度ならば、すぐに適応することができる。
「そ、そうですか。私はこんなに高い場所、初めてで……どうも慣れません」
フードの下で猫めいた耳をぴこぴこさせながら、ヌイがあたりを見回す。既にこのあたりは人類の勢力圏外だ。当然まともな登山道などあるはずがない。比較的安全なルートを選んでいるとはいえ、足場は悪く転倒すればかなりの距離を転がり落ちることになるだろう。猫の特性をもった種族とはいえ、平野部出身の彼女としては不安を感じずにはいられなかった。
「そっか。そろそろ休んだ方がいいかな?」
「いえ、先ほど休憩したばかりですし……」
数十分前にも休憩を取っているのだ。あまり頻繁には休んでいられない。できれば今日中に最終目標地点であるとある山の山頂に到着し、キャンプを張りたい。
「こういう場所で無理すると、簡単に死んじゃうから。食料もたっぷりあるし、ゆっくり行こう」
気楽な笑みを浮かべながら、大西は背中に背負った大きな背嚢を岩肌の平らになっている場所に置いた。そして、いくつかの紐や布を使ってまるで赤ん坊か何かのように抱いていたスフレもついでにその辺に転がしておく。凄まじい大荷物だ。調子の悪いヌイの分まで荷物を運んでいるのだから、その負担は相当大きいだろうが、彼に堪えた様子はない。
「すいません……」
「必要な休憩だよ。休むことに限らず、必要だと感じたことは何でもパーティーで共有すべきだ。僕も要望があったら言うから、ヌイにもそうしてほしい」
「ええ、ええ……確かにその通りですね。身う……いえ、仲間内で変な遠慮をするほうが、むしろよろしくないでしょうし」
少しだけ血色のよくなった頬を隠すようにフードを目深にかぶりなおしながら、ヌイが言う。途中で言い直したのは、降ろされて目が覚めたらしいスフレが欠伸をしながら身を起こしているのを見てしまったからだ。
「いやぁ、悪いねえ」
妙な空気を察したのか、呆けた声で謝りつつスフレは肩を動かす。既に大西によって寝ながら運搬されるのは成れているが、それでも体中が凝ってしまうのは避けられない。動かすたびに、ポキポキと景気の良いおとが聞こえる。
「あたたた……」
「まるでおばあさんですね」
その年寄り臭い動作に思わず苦笑を浮かべてしまうヌイ。もちろん、冗談だ。ヌイは彼女の素顔を見たことはないが、声の雰囲気からスフレはまだ若いほうだと考えていた。
「まあ……」
「えっ」
だから、そんな微妙な態度を取られるとは思わずその不気味なマスクをまじまじと見てしまう。鉱山特有のギラギラした陽光を反射して輝く純白のその姿は、既に一か月を超える付き合いのはずのヌイをも一瞬背筋が凍るような迫力があった。
「いや、なんでもないとも。歳はヒミツさ、キミよりも若いかもしれないし、年上かもしれない。ミステリアスだろう?」
仮面の上からでも、皮肉げな笑みを浮かべていることがわかるような声音だった。彼女は肩をすくめ、丸いレンズを遠くへ向ける。
鋭い形状の真っ白な山々が、どこまでも続いている。空気は冷たく清浄だ。雲一つない空は、海のように深い青色をしていた。
「それはさておき、目的地とやらはあとどのくらいで着くのかな? さすがにこうも移動続きだと辛いよ」
小さく息を吐きながらスフレがぼやく。実際王都を出発して既にかなりの日数が経過している。そしてそのほとんどが野宿で夜を越しているのだ。いい加減に腰を落ち着けて休みたいところだ。
「もうちょっとだよ。あそこだ」
大西が指差した先には、周囲の山よりも少しだけ高い、いびつな形状の山があった。頂上のまわりが台地のようになった、台形の山だ。
「まだ結構あるなあ……えっ、あそこにテント立ててしばらく滞在するのかい? 大丈夫なのかな」
「大丈夫だと思うよ。あの山よりだいぶ高い場所に滞在したこともあるけど、案外平気だったし……ただ、気温が低いから雪崩には注意しなくちゃいけないだろうね」
のんびりとした声で大西が言う。その表情は常と変らぬ穏やかなものだ。
「あそこなら周りの山より多少高いから見晴らしもいいし、地形的にテントも立てやすい。見張りにはぴったりの立地……という話だ。村の人によればね」
大西たちがギルドから受けた依頼は、謎の飛行妖魔の調査だ。とりあえず怪しげな妖魔が居ないかしばらくこの地に滞在して探索し、発見できなければ一定期間が経過すれば帰ってきて良いことになっている。
一か月以上にわたる長期間の依頼だが、そのぶん実入りは大変に良い。こんな僻地の危険な場所で長期滞在したい冒険者などあまりいないからだ。ランクの高い冒険者は辺境で上級妖魔を狙ってハントすることも多いが、あくまで調査が目的のこの依頼は、それらの討伐依頼とは毛色が全く異なる。
「まあ、気候も気温も穏やかですし、トラブルが無ければ滞在自体は問題ないでしょうね」
倦んだような視線を山頂に向けながらヌイが呟く。そしてフードを脱ぎ、大きく伸びをした。ネコミミがピンと姿勢よく立つ。
「とはいえ、それはトラブルが無ければの話です。一から十まで話を信じるわけではありませんが、例の妖魔が本当にドラゴンなら、見つかった瞬間全滅の危機もありますよ」
「さぁてね。ドラゴンったってピンキリだから……。でも、村長が見たって言う相手が黒いのは気になるな。ウロコが黒いタイプのワイバーンならいいが、ブラック・ドラゴンだったりすれば厄介だぞ」
岩の上にちょこんと座った状態で足をぶらぶらさせるスフレ。
「なんたってブラック・ドラゴンはかの九源魔の一頭、龍祖ヴェルアダムが直接生み出した第一世代の妖魔だ。もともとの種族としてのスペックからして極めて高いし、歳を食って力をため込んでいる奴も多い。敵には回したくない相手だね」
「この間の巨人よりも?」
「当然。トロルなんぞ巨人の中じゃ低級も低級の存在だよ。ブラック・ドラゴンと肩を並べようと思うなら、ティターンくらい連れてこなきゃ」
「なるほど? ……妖魔も複雑だなあ」
九源魔だのなんだの、耳に覚えのない単語のこともある。時間のある時に、いろいろ詳しく聞いておいた方がいいかなと、大西はメモ帳を取り出していくつか書き込んでおいた。
「とにかく、ブラック・ドラゴンが出てきた時は討伐なんて無理だから、なんとかして逃げ延びるほかないね。なんてったって魔法耐性がめちゃくちゃ高い。詠唱時間の長い特大の魔法じゃなきゃ決定打にならないよ。即席で打てる対空魔法じゃあ牽制にもなりやしない」
「その言い方……戦ったことがあるのですか? ブラック・ドラゴンと」
「何度かは……仕留めたことは一度たりともないけどね? 向こうからすればちょいとちょっかいを出してやる、くらいの感覚だったみたいだし」
「めったに人類の前に姿を現さないことで有名なブラック・ドラゴンと複数回戦った経験があるんですか……」
胡散臭いものを見る目でヌイがスフレを睨む。とはいえ、その声音は決して嘘をついているものではない。底知れない相手だと、彼女の眉間に皺が寄った。
「ボクとしてはあまり話したくないようなコトを、みんなの安全のために敢えて話しているんだ。細かいことは気にしないでもらえると嬉しいね」
「それは、その通りですね。もともと、冒険者同士の深い詮索はタブーですし。私やオオニシに害のない限りは、詮索はやめておきましょう」
「ありがたいね。気が向いたら、そのうちポロっと話すかもしれない。期待せずに待っていてくれ」
もうこの手のやり取りも、今まで何回もあったことだ。ヌイとしても根掘り葉掘り聞いたところで何も答えないことはわかっているし、スフレが悪い人間ではないことも知っている。だからこそ、いまさら深く聞くような真似はしない。
「ところで」
至極落ち着いた声で、どこか遠くを見ていた大西が言った。
「あれが飛行型妖魔ってやつじゃないかな。こっちへ向かってるっぽいし」
彼が指差す先には、雲一つない真っ青な空があった。一瞬何を言っているのかわからなかったスフレだったが、すぐに大西がとんでもなく視力が良かったことを思い出す。
「起動!」
『起動完了』
すぐさま岩から飛び降り、背中の長杖を抜く。先端の宝珠に光が灯った。それと同時に懐から陶器の小瓶を取出し、コルク栓を口を使って抜き、吐いて捨てる。小瓶の中身を一気に煽ると、苦しげな声を上げた。いつもの眠気覚ましだ。
遠見の魔法を使って、大西が指差していたほうに目を凝らす。
「げえ、不味いぜ、ブラック・ドラゴンだ。逃げるぞ!」
スフレは、慌てて弓に矢を番えようとしていたヌイを制止した。まともにやって勝てる相手ではない。ブラック・ドラゴンは遥か上空から急降下し、こちらに向けて猛スピードで接近してきていた。あっという間に、魔法など使わなくても目視できる距離まで近づいた。
「これじゃあ、山頂まではいけないな……」
遠目でもわかる夜闇のように真っ黒な鱗に覆われた巨体。分厚い皮膜によってつくられたバカでかい翼。四本の角が生えた恐ろしげな顔。神話やファンタジー・ゲームの中でしかお目にかかれないような超常的な怪物がそこに居た。
にもかかわらず、大西の口から出たのはそんな気楽な言葉だった。相変わらずの徒手空拳、魔法なども使えない大西に、空を飛ぶドラゴンに有効な攻撃手段は一切ないのにかかわらずだ。
「城壁結界!」
トロルのときもこんなんだったなと苦笑しながら、スフレが魔法を発動した。自慢していた対空魔法ではない。即席で放てる魔法では、ドラゴンには傷一つつけられないことはわかっていたからだ。だからこそ、選んだのは防御魔法だった。
新幹線を優に凌駕する速度で降下してきたブラック・ドラゴンの鼻先に、魔力で形成された半透明の光り輝く障壁が出現した。城壁にすら匹敵する強度を持つ、スフレの習得している中ではトップクラスの守りの魔法。
「オォォォォォォォン!!」
ドラゴンは叫ぶなり、翼を跳ね上げて一瞬で体勢を変える。頭を下に向けていたのが入れ替わり、反対に突き出されたのは強靭な脚。そこに生えた分厚いギロチンの刃のような爪が、強固なはずの結界を容易に切り裂く。
「効いてないじゃないか役立たずぅ!」
すくなくとも数秒くらいは持つのではないかと考えていたスフレは涙目になりつつ叫ぶ。こうなればどうしようもない。次の呪文を装填しようと杖を振り上げたが、それより早くブラック・ドラゴンは山肌に着地していた。
「わあああッ!」
衝撃で岩が崩れる。吹っ飛ばされそうになったヌイを大西が無言で突き飛ばし、代わりに自分が飛ばされた。
「ヌイの方━━」
「浮遊!」
何か言ったようだが、物凄い速度で落下していく大西の言葉はそれ以上聞き取れなかった。自分はいいからヌイを助けてやってほしい、ということだろう。その意図をくみ取ったスフレは、バランスを崩して転げ落ちそうになっていたヌイを魔法で体を浮かせ助けた。もちろん、視線はドラゴンから逸らしていない。
「くっ……!」
ブラック・ドラゴンはスフレと、そして間抜けな格好で空に浮かぶヌイをその爬虫類特有の無機質な目で一瞥するなり、興味もなさそうに再び飛び立つ。小屋くらいの大きさの巨体とは思えぬ俊敏さだった。
「狙いは大西? ……そういうことかッ!」
叫ぶすふれだったがもう遅い。ドラゴンはまだ落下途中だった大西に追いつくと、器用に脚でキャッチした。
「おおう」
腹の部分をバカみたいに大きな脚でぐっと握られて変な声を上げる大西。そんな彼を気にすることもなく、ドラゴンは翼を羽ばたかせて加速した。現れた時と同じように、一瞬にして飛び去って行く。
「くそ……」
その後ろ姿に杖を向けるスフレだったが、まさか大西ごと魔法で吹っ飛ばすわけにもいかない。彼女に出来ることは、ただ見送ることだけだった。




