表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/98

第一章四話

 夜が更けていく。赤い月も青い月も、その光は天幕のような枝葉に遮られて地表まで届くことは無い。だから、月の位置で時刻を知ることはできない。

 何時間たっただろうか。ヌイは、何度目になるかわからない寝返りを打った。狭い軽バンの助手席だから、窮屈極まりない。寝返りを打つのも一苦労だ。結局、ヌイはあれから一睡もしていない。

 

「駄目だ……これじゃ、オオニシさんに迷惑をかけてしまう」


 ごくごく小さな声で、ヌイはそう呟いた。寝られないのは、いつものことだ。彼女は、かなり寝つきの悪い方だ。なかなか寝られないし、寝てもすぐ目覚めてしまう。ヌイの種族は寝るのが早いのが普通なのだが、彼女はいつもこんな調子だった。そして、だからと言って寝不足にならないというわけでもない。

 

「駄目だ、だめだ、やっぱり……」


 両目をぎゅっと閉じた。その両端には、涙が見える。ぐっと歯を食いしばって、それから力を緩めて湿った息を吐いた。寝ようとすると、いろいろと黒いものが頭の中で大きくなってしまう。それは不安だったり、怒りだったりする。行き場のないネガティヴな感情が、彼女を縛っていた。

 しらずに、指が頬の傷をなぞっていた。これがつけられた時の痛みを、恐怖を、彼女は忘れられずにいた。そして、この傷と同時に、彼女は家族も失っていた。古傷が痛むたびに、連動して亡き家族のことも思い出してしまうのだ。その苦しみが、ヌイをがんじがらめにしていた。

 

「あの」


「ッ!?」


 突然声をかけられて、ヌイが飛び起きた。いつの間にか、ヌイの隣には、大西が立っていた。猫めいて闇のなかでもよく見えるヌイの目は、彼が先ほどと変わらない穏やかな表情をしているのがわかった。

 

「ごめん、驚かせたみたいで」


「い、いえ、私の修行不足です」


 ヌイが慌てて首を振った。普通なら、こんなに近くまで接近されても気付かないなんて、ありえないことだ。

 

「その……苦しそうだったから、つい」


「すいません、目障りでしたか……?」


 さきほどからずっとモゾモゾしていたわけだから、大西が寝る邪魔をしてしまったのではないかと、ヌイが表情を曇らせた。だが、大西は首を横に振って、車のすぐ横に腰を下ろした。湿った苔が、じわりとズボンを湿らせる。

 

「なんというか、こう……。話しかけておいてなんだけど、なにを言っていいのかわからない。ごめん」


「……」


 静かな声音でいう大西を、ヌイが無言で見つめる。頭の中では、さすがにこれだけ妙な態度を取っていれば、なにかしら感づかれてもしかたないだろうと、今更に考えていた。

 

「ただこう、なんというか、一人で根を詰めるのはよくない。絶対に、ろくなことが無い。僕にも、話を聞くことくらいは、出来るよ。カウンセラーはやったことがないけれど」


 穏やかな、しかし不思議と特段優しそうでもない平坦な声で、大西が語る。彼の目は、星ひとつ見ることのできない、緑のベールに覆われた空に向けられていた。

 

「もちろん、君が話したくないなら話す必要なんてない。話たってどうしようのないようなことだってあるし。ただ、僕には話を聞く程度のことしかできないから、こういう風な提案をしているだけだ」


「変な言い方ですね……」


 自分にだいぶ気を使ってくれていることはわかるが、しかしあまり気分の良い提案ともいえなかった。自分の心の中に土足で足を踏み入れてほしくないという気持ちがあった。

 

「じゃあとりあえず、てっとり早く安眠する方法をいくつか教えるという手もある。睡眠不足は不味いよ、実際」


「……まあ、そうですが」


 大西の言いたいことは、ヌイにもわかる。ヌイが注意力散漫になって何かしらミスをした場合、大西は死んでしまう可能性が高いのだ。できるだけ、そのリスクは減らしておきたいに違いない。

 

「なんにせよ、選択は君に任せる。関わらないでほしいなら、さっさと退散しよう。眠れないと言うなら、よく眠れるような方法を教えるのもいい。これは多少自信がある。たぶん今日一日くらいなら、どうとでもなる強力なヤツだ」


 彼の言葉に、ヌイはしばし考え込む。穏やかなこの青年について、ヌイは全く何も知らない。信頼して、心の中身をぶちまけることなど、できない。そう思った。だが……。

 

「……私にも、愚痴を言いたい日くらいあります。すみませんが、お付き合いいただいても?」


「もちろん」


 結局、ヌイはその提案を受けることにした。それは大西の静かな口調に絆されてしまったのかもしれないし、ヌイ自身の心が誰かに寄りかからないと耐えられないくらいに疲れ切っていたせいかもしれない。ヌイ自身にも、自分がなぜそんな選択をしたのか、わからないくらいだった。

 

「私は、ここから遠く離れた西方の国で生まれました。雨があまり降らず、実りの少ない荒れた場所です」


 語りはじめたヌイに、大西は何も言わず、空を見続けている。

 

「雨を追いかけて、羊を連れ歩く。そういう生活です。貧しいし、ひとところに落ち着くこともできないし、正直、いい暮らしではありませんでした。でも、父も母も優しかったし、沢山兄弟もいた。そこそこ、満足していました」


 すっと、大西の視線がヌイに向かう。そのガラス玉のように静かでなにも浮かんでいない瞳を見て、ヌイが自嘲するように笑った。

 

「このまま、私は大きくなって、結婚して、静かに老いていくのだと、そう思っていました。四季以外の変化のない、味気ない生活だけど。まあ、こんなものだと、納得してたんです。でもね、びっくりするくらい簡単に、ぶち壊されました」


「盗賊とか」


「そう、まあ、そのようなものです」


 小さな白い手で、ヌイは自らの頬の傷跡を触った。

 

「みんな殺されました。あんなに強かった父さんも、優しかった母さんも、小さかった弟も。みんなみんな。生き残ったのは、私だけです。運が良かったんですよ。こんな顔にされましたけどね」


 忌々しそうに、傷跡を爪で弾いた。鈍い痛みが、じわりと頬に広がる。熱いような、冷たいような。頭の中が痺れたような感覚がして、ヌイは目を閉じた。

 

「賊は何人かいましたけど、顔を覚えているのは一人だけです。だから私は、そいつだけでもいい、絶対に殺してやると、そう思いました」


「復讐。復讐か……」


 大西の声は、どこか自らに問いかけるような響きがあった。だが、ヌイにはそんなことを感じとれるだけの心の余裕はなかった。感極まったように立ち上がって、車外に出る。

 

「そう復讐を! そのために私は、自分を鍛えて鍛えて鍛え上げた。弓も剣も! 辛くて痛かったけど、いくらでも我慢が出来た。あのときに比べれば、遊びのようなものだったから」


 うろうろと落ち着きのない様子でヌイは歩き回っていた。座ったまま、大西は静かにその様子を見ている。

 

「記憶だけを頼りに、あの男を私は追い続けて……やっとこの国で、見つけた。見つけたんですよ」


「……何を」


「墓を! 病気だったって。妻と、小さな子供に看取られて。惜しまれながら死んだって……そんなの、おかしい。絶対におかしい。みんな悲鳴を上げて、苦しんで死んだのに、あいつは穏やかに死ねるなんて、そんなことあっていいはずがない……!」


 大西は、黙るしかなかった。彼女に掛けるべき言葉など、出てくるはずもない。ただ、静かに立ち上がり、ヌイの外套に包まれた肩に両手を添えて、ゆっくりと地面に座らせた。そして自分も、その前に座り込む。ヌイは目の両端に涙をため、顔を紅潮させている。

 

「あいつを惨たらしく殺すためだけに、ここまで生きてきたのに。私は、私は……もう生きている意味なんか、ないんじゃないかって。みんなの所に、行った方が……」


「ヌイ」


 凪いだ海のような声で、ヌイの慟哭めいた声を止める大西。

 

「だからって、餓死はやめた方がいい。あれは大変にしんどい」


「い、いや、確かにつらかったですが」


 予想外の言葉に、ヌイが困惑する。ヌイがこんな樹海をふらふら彷徨っていたわけは、実際大西の言うとおり餓死するためだ。食料もなく危険な妖魔がうろつく森を徘徊すれば、嫌でも死ぬことができる。要するに、自分で自分を殺す勇気がなかったのだ。だから、こんな消極的な死に方を選んだ。

 

「死にたいなら、死ねばいいと思う。自分の死に場所を自分で決めるのも、人間の尊厳の一つだ。ただ、もうちょっとこう、楽な死に方の方がいいんじゃないかな」


 軽率に命を粗末にするなと説教でもされるのだろうかと、ぼんやり考えていたヌイとしては、大西の発言は完全に不意打ちであった。混乱のあまり、意識が正気に戻る。眉根に皺をよせ、あの、とかその、とか、もごもごとしてしまっていた。

 

「人間ってやつは案外丈夫にできてるんだよ。えいっと、こう、一気にやらなきゃ、苦しい上に死ねなくなる。結局失敗する位なら、いっそ生きたほうが楽なんじゃないかと。いやほんと」


「うっ……」


 その言葉に、ヌイが呻く。実際、目の前に水を出されて、つい受け取ってしまうくらいには、ヌイも自分の選択を後悔していた。脱水で吐きそうなくらい気持ちが悪かったし、お腹も減りすぎて、目の前の木の根っこですら食べたくなったほどだった。

 その結果が、これだ。水を受け取り、食料を受け取った。温かいスープを口にしたときは、生きてて良かった、なんて思ってしまった。それがあまりにも情けなくて、涙が出た。

 

「死ぬのはいつでも出来るけど、生き返るのは無理だし……無理だよね?」


「え、ええ、そりゃあ、そうでしょう」


 異世界だしもしや、と一瞬気になった大西だったが、ヌイの引き気味の返事に、満足げに頷いた。

 

「まあ、そんなわけで。死んで後悔するのと生きて後悔するのじゃ、リカバリーがきく分生きてた方が若干マシだと思うし。さくっと死ねる用意ができるまでは、生きてた方がいいんじゃないかと僕は思う」


「……ええ、そうですね。正直、もうこりごりです」


 苦笑するヌイ。ちょっとあきれたような感じだが、それでも、大西が初めて見たヌイの笑顔だった。

 

「良い調子だよ。そう、笑ってた方がいい。落ち込んでいるより、何倍も可愛く見えるよ」


「もう、からかわないでください。私のようなキズモノをカワイイだなんて」


 ちょっと拗ねたように言うヌイ。その指は、そっと自らの傷跡をなぞっていた。キズモノとはようするに、そのままの意味だろう。

 

「別に、そういうつもりはないんだけども。……それに、その傷なら、たぶん化粧である程度ごまかせると思う。気になるならね」


「えっ」


 本気で驚いた様子で、ヌイが大西を見た。大西は、何かを思い出すように目を彷徨わせ、続ける。

 

「化粧品持ってきてるわけじゃなし、確実なことは言えないけど、品さえそろえれば多分。昔ね、そっちの勉強もしてたんだ」


「ほ、本当なんですか」


「うん。気になるなら、なんとかしてみよう。でも時間はいるよ、こっちの化粧品について調べなきゃ、話にならないし……」


 男の癖に何故化粧が出来るんだ、などと言いかけたヌイだったが、口をつぐんで頷いた。こちらの世界では、男が化粧に関わることはまずなかった。まして化粧の勉強をしている男など、常識の埒外だ。とはいえ、大西がうそを言っている様子はない。

 

「ま、今はそれどころじゃないしね。まずは街へ行くことだけを考えよう」


「……ええ、そうですね。……すいません、お手数をおかけしました」


 既に、かなり夜が更けていることに気付いたヌイが小さく頭を下げた。

 

「気にしなくていいよ、僕の悪い癖だ」


 そう言って、大西は車から離れていく。もともと座っていた位置に戻るつもりだろう。その背中を見送りながらヌイは少し考え、そしてこういった。

 

「おやすみなさい、大西さん」


「……さんはいらないよ。ああ、おやすみ」


 振り返った大西の表情は、どこか嬉しそうな笑顔だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ