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第一章二十五話

 赤い月が、地平線の向こうへ沈んでいく。東の空が、鮮やかに染まりはじめていた。夜が明ける。辺鄙な農村を舞台に行われた血の宴も、最後の時を迎えようとしていた。

 

「……おう、潮時みたいだな」


 杖に体重を預けながら、スフレが石のように重い声で言った。彼女の視線の先には、ふらふらと足元がおろそかになったトロルの姿があった。その足元には、大西が相変わらず張り付いている。彼は傷ひとつ負っておらず、ピンピンしていた。夜のあいだ、ずっとトロルにくっついて挑発を続け、なおかつすべての攻撃を回避しきったのである。

 

「ぬう」


 靴底を地面に擦るような奇妙な歩法で移動しながら、大西が唸る。彼の動きを追っていたはずのトロルはしかし、いつのまにかぴたりと動きを止め、空を見上げている。その目は、西の地平線のすれすれにある赤い月を見つめていた。

 一瞬、また足を蹴って気を引こうかと考えた大西だったが、すぐにそれを改める。トロルがすっかり大西に対する執着を失った様子で、静かに村の外の方へと歩き始めたからだ。

 

「あの月が出ている間が、連中の活動時間さ。いくら戦いに夢中になっていても、夜明けが来れば巣へ戻る。変な手出しをしなければね」


 覚束ない足取りで大西の横まで歩いてきたスフレが小さな声で囁いた。夜明けとともに、妖魔の闘争心はしぼんでいく。昼も活動するタイプの妖魔もそこそこ居るが、トロルはそうではないのだ。それに、いくら向きになっていたとはいえ一晩中まったく捉えられない相手を追い回していたため、流石に嫌気がさしていたということもある。

 

「とりあえずは僕の勝ち、という認識で大丈夫?」


「ま、今回はね。なんとかかんとか」


 スフレは疲労と眠気でショボショボする目を周囲に向けた。近隣の民家や倉庫はトロルが暴れたせいで軒並み倒壊し、ひどい有様になっている。トロルに続いてオークたちも水が引くように撤退しているのが、不幸中の幸いだった。

 

「辛勝もいいところだ。……やれやれ」


 肺の中身を全て出すような深いため息をつくスフレ。村中めちゃくちゃで、おそらくは死傷者も大勢出ているだろう。勝った、などと村人の前で発言すれば全力で否定されるに違いない。

 

「それでも、アガリとしては上々だよ。これ以上の成果を求められても、今の手札じゃ僕はどうもできない」


「ドライだねえ」


 マスクの下で、スフレが苦い笑みを浮かべた。確かに、大西の言葉は事実だ。本来トロルが襲来した時点で村の命運は潰えたも同然だった。ほとんど素手の大西と術式展開時間の問題で白兵戦中には強力な魔法が使用できないスフレのコンビで、トロルをずっと足止めし続けるなどというのは本来不可能に近いような所業なのだ。

 

「まあ、とりあえず峠は越えたみたいだ。いったん広場に戻って状況を整理しよう」


 そう言いながら、大西はスフレの前でしゃがみ込んだ。自分の背中で休め、ということだろう。先日から何度も繰り返された、慣れた動作。

 

「……疲れてるだろう? 大丈夫だ。まだ眠気覚ましの効果は残ってる、自分の足で歩けるさ」


 大西はトロルの相手をずっとしていたのだ。精神的にも肉体的にも多大に疲労しているに違いない。さすがにそんな彼に頼るのは、申し訳なかった。杖を握る手に力を籠め、身体をぴんと立たせる。


「こういうの、慣れてるんだ。前の旅では何度もドンパチに巻き込まれてたしね。だから大丈夫、まだ動ける。……まだ、仕事も残ってるし」


 最後は、とても聞き取りにくいような小さな声だった。スフレはあえてそれには反応せず、一瞬考え込む。たしかに大西の顔は血色もよく、表情からも疲労はうかがえなかった。あの凄まじい体さばきや体術といい、尋常ではない。本人が大丈夫というのなら、頼ってもいいのではないか。

 

「わかった、ありがとう」


 実際のところ、スフレも疲労困憊だった。トロルの相手をしていたのは大西だが、その戦いにちょっかいを出すオークを退治していたのはスフレだ。そのうえ、接近されれば自衛もしなくてはならない。身体能力は一般的な女児と大して変わらないスフレには、魔法があるとはいえ大変に難儀な仕事だった。今すぐ休みたいというのが正直な本音だ。

 大人しく彼の言葉に従い革鎧に包まれた背中に乗る。その軽い肢体を大西が両手で支え、滑らかな動作で立ち上がった。

 

「いや、僕もスフレが居てくれて本当に助かった。一人じゃどうしようもなかったよ、ありがとう」


「……お互い様だな。ふふん」


 大西の背中に身を預けながら、スフレが朗らかに笑った。

 それから、しばしの時間が経過した。太陽はすっかり地平線から顔をだし、あたりは明るくなっている。朗らかな陽光が、ズタボロになった廃墟同然の家々を無遠慮に照らしている。

 

「オオニシ、まさか無事とは……」


 広場の端で腰を下ろして休んでいた大西に、ヌイが話かけてきた。彼女の着ているダークグレイの外套は赤黒く染まっており、むっとするような鉄臭さと生臭さの混ざった悍ましい臭気を放っていた。かなりの量の返り血を浴びているようだ。

 

「ヌイ。ああ、怪我は無さそうだね。良かった」


 ひどい格好だが、しかしヌイには疲労の色こそ濃いものの、動きに淀みはなくどこかを庇っている様子もない。顔をほころばせながら、嬉しそうに言う大西。

 

「ええ。いくら数が多くとも、オーク相手に後れを取るようなことはありません」


 首をゆっくり左右に振るヌイ。その表情は勝利の喜びなど一切含まれていない、とても暗いものだ。オークの撃退こそ成功したものの、被害は甚大でありとても勝利とは言い難い状況だからだろう。

 広場の周りに立ち並んでいた家々は軒並みオークによって荒らされ、廃屋にしか見えないひどい有様になっている。迎撃した村人たちも多くが死傷し、そして戦闘の後片付けをしていた村人によれば、数少ない若い娘も大半が攫われてしまったらしい。

 

「オオニシこそ、よくもトロルを相手に朝まで……正直、私はあなたの実力を侮っていました。申し訳ありません」


 静かにヌイは頭を下げた。確かに、ヌイはこの依頼に取り掛かってからずっと大西を完全な素人として扱ってきた。戦いには極力参加させなかったし、意見も積極的に聞こうとはしなかった。トロルを相手に何時間も戦い続けられるような達人に対する態度としては、決して褒められたものではない。

 とはいえ、大西は自分で拳法は健康目的だなどと言っていたし、それに彼には達人特有の覇気や威圧感、風格のようなものが微塵もない人間であり、ヌイが誤認するのも仕方のないことだが。

 

「いや……僕も自分の実力はよくわからないんだよ。道場では認められていても、実戦では役に立たないなんていうのはよくある話だから」


 穏やかな目つきで大西が空を見上げる。実際、彼は試合ではかなり強い方だ。しかし、実戦で戦ったことなど、ほとんどないのだ。旅先で有事に巻き込まれたことはあっても、立ち向かうことなく逃走するのが常だった。自分が実戦でどの程度戦えるかは、大西自身も測り兼ねていた。

 

「でも、とりあえずああいった状況でも想定通りに体を動かせるのはわかった。これからは、もっと積極的に手伝えると思う」


「鍛錬だけで、あれほど。……凄まじいですね」


「師父が凄いんだ、技術は折り紙つきだよ」


 謙遜することはなく、それでいて誇るでもなく、当然だというような口調で大西は言い切った。このような悲惨な現場に居ても、彼は自然体のままだ。穏やかで、冷静。そしてちらりと、すぐ近くの地面で突っ伏したまま寝ているスフレを見た。

 

「スフレが居てくれて良かった。居なければ、勝てる見込みがなかったからね。なんとかして撤退する方針のまま動いてたと思う」


「……そうですね。あそこまで長時間、戦闘を継続できる魔法使いはそういません。火力は高くとも、すぐに魔力が尽きてお荷物になるのが普通です。これほどの魔法使い、私は初めて見ました」


 緒戦から夜明けまで、スフレはずっと最前線で杖を振り続けた。放った魔法の数は、三桁近いかもしれない。凡百の魔法使いならば、とっくにガス欠で倒れているだろう。大西の戦闘能力と、スフレの魔力。そのどちらも、ヌイは見誤っていたことになる。

 

「冒険者としては、そこそこ出来る方だと自惚れていたのですが……まったく、世界は広い」


 昏い表情をしながら、ヌイが深い深いため息を吐く。それはただ、自分の見る目のなさを自嘲しているだけ……というわけではないだろう。気だるげに周囲のがれきを眺める彼女は、今にも消えてしまいそうなほど儚い雰囲気を放っていた。

 

「それはそれとして。これから、どうするの?」


 忙しそうに瓦礫の片付けやけが人の治療を行う村人たちに目をやりながら、大西が聞く。敵は引いたとはいえ、状況は決して楽観視できるものではない。休息は重要とはいえ、いつまでもぼんやりしているほどの余裕はないだろう。


「村の奥……山の中腹あたりに、避難した人たちが野営地を作っています。そこでもう一度、対策会議を行う予定です。それで、私は貴方たちを呼びに来たのですよ」


「なるほど」


 大西が頷きながら、立ち上がる。そして地面に寝転がったスフレを優しく抱き上げ、歩き始めた。待っている人がいるのなら、急がねばらならない。村長やシャルロッテなどの姿は広場に来てから一度も目にしていないので、おそらくはそちらに居るのだろう。……生きているのなら。

 

「わかった、行こう」

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