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第一章二十四話

 何かが弾けるような、重く乾いた音がした。危機的状況であっても目を閉じず、トロルに目を向け続けていたヌイは、何か大きなものが飛んできてトロルの畳のようなサイズの顔にベタリと張り付いたのを目撃した。

 

「なっ」


 それは、人間だった。無骨で簡素な革鎧に包まれた、中肉中背の地味な男。大西だ。

 

「ナイスコントロール」


 大西は、至極落ち着いた様子だった。彼をここまで送り出したのは、スフレだ。彼女はトロルからやや離れた場所で杖を構えていた。マスクの下の顔は冷や汗でベタベタになっている。

 

「無茶しやがって! 無茶させやがって!」


 衝撃波を生み出す魔法を大西の背部へ打ち込み、カタパルトめいて吹っ飛ばす。そういう手段を取ったのだ。トロルの凶行を一撃で止める魔法は術式を展開する時間がないと言ったスフレに、大西が自分をトロルへ打ち込んでくれと頼んだのだ。ほかに手段がなかったとはいえ、とんでもない無茶だった。

 

「おお」


 ちらりと下を見て、大西が能天気な声を上げた。この村で一番高い建造物である物見やぐらよりこの巨人は身長が高いから、当然地上まではかなり遠い。まして、まともな足場があるわけでもなく両手両足で無理やりトロルの顔面に張り付いているだけなので、少し気を抜けば一瞬でまっさかさまだろう。

 そして、トロルとて生物。大仏のように微動だにしない、というわけではない。むしろこの唐突に現れた邪魔者を排除しようと、激しく首を振った。

 猛烈な遠心力が体にかかり、大西はあえなく吹っ飛ばされた。しかし、十分な時間は稼げた。目的は果たしたのだから、いつまでもあんな危険な場所に居続ける必要はない。トロルから離れられるのは願ったりかなったりだ。

  

「ふむ」


 すらりと、鎧のベルトに固定されていた鞘からナイフを抜き放つ。戦闘用ではない、小ぶりな刀身のものだ。自由落下しつつも、大西の目はいまだにトロルの顔に向けられたままだ。滑らかに腕を振る。ナイフが夜気を切り裂きながら飛んだ。その小さな小さな刃は、吸い込まれるようにしてトロルの濁った瞳に命中する。音と言うよりは最早衝撃波のように感じる凄まじい絶叫が、トロルの口から放たれた。

 

強風(ウィンド・ブレス)!」


 杖を高々と掲げつつ、スフレが叫んだ。地上から凄まじい勢いで吹き上がってきた上昇気流が、大西の落下スピードを殺す。そのまま、彼は乾いた土をまき上げながら地面を転がり、そしてバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。

 

「完璧! いやぁすごいねスフレ」


 へらへらと笑いながら大西はスフレに手を振ったが、スフレの方はそれどころではない。冷や汗をだらだらと垂らしながら、先ほどのトロルの絶叫にも負けないような声量で叫んだ。

 

「もう二度とやらないぞこんな滅茶苦茶な真似ッ!」


「ごめんねー?」


 スフレに頭を下げつつも、凄まじい勢いで丁度立ち上がったところだったヌイに走り寄る大西。片目を潰されたトロルは顔を抑えてもだえ苦しんでいる。この隙を逃さない手は無い。

 

「逃げよう。勝ち目はなさそうだよ、全滅するくらいなら僕らだけでも生き残った方がいい」


 そういって、ヌイに手を差し出す。態度も声音も軽薄だったが、しかしその言葉は決して軽く流していいような内容ではなかった。村人を見捨てようと、そういう提案なのだ。

 

「ッ!」


 ヌイが、大西にも聞こえるような音で歯ぎしりをした。そして息を呑み、ふっと肩の力を抜く。

 

「……私は残ります。オオニシは逃げてください。スフレと一緒なら、逃げ切れるでしょう」


「ヌイは逃げない?」


「ええ。私は絶対に、無辜の人々を見捨てることなどできません」


 ぎらぎらとした目つきで、ヌイは巨人を睨みつけつつ転倒した拍子に矢筒からこぼれた矢の一本を拾った。

 実際、大西の言うとおりだった。トロルに勝つことができるなど、ヌイとしても微塵も思っていなかった。近いうちにトロルはヌイを殺し、シャルロッテを殺し、そして逃げる村人たちを殺して回るだろう。時間など、対して稼げるわけでもなし。村人の全滅は避けられない可能性が高かった。

 ならば、自分たちだけでも生き延びたほうがマシだ。そういう割り切った考えは確かに合理的で、感情的に否定することなどヌイにはできなかった。だが、ここで逃げることだけは、どうしてもできない。それは幼い日の惨劇に対するトラウマが原因の一つだったし、もとより一度は捨てた命だという捨て鉢な気分のせいでもあった。

 

「なるほど、わかった」


 大西はしかし、そんなヌイにやわらかい笑みを向けた。いつもと全く変わらない、呑気で穏やかな、戦場にはまったく似つかわしくない笑みを。

 

「なら、手伝うよ。善処してみよう」


 ふいと、ヌイに背を向ける大西。その視線の先には、やっと痛みの治まってきたらしいトロルが居た。潰れた片目から血を流しつつも、トロルはぎらりと大西を睨みつけた。両者の視線がぶつかり合う。

 

「スフレは逃げてね」


「友達置いて逃げる馬鹿が居るかこのばか野郎っ!」


 近くまで走り寄ってきていたスフレが罵声を飛ばしたのと同時に、大西は弾かれたように駆け出した。呆然とした目でその背中を見送るヌイ。逃げようだなどと言う後ろ向きな提案をした男が、一瞬で前言を撤回して鉄火場に突っ込んでいくなど、だれが予想できようか。

 

「そう? ありがとう」


 ふわりと笑って、大西は地面を蹴った。例の瞬間移動めいた歩法だ。さして離れてもいなかったトロルとの距離は、一瞬で詰まる。

 トロルが重苦しく耳障りな雄たけびを上げた。巨樹のような足で踏ん張り、巨人からすればはるかに小さいこの男を叩き潰そうと腕を振り上げる。大西は、構えもしなかった。徒手空拳でこのようなデカブツ相手にまともなダメージが与えられるはずもない。攻撃をするつもりなど、全くないのだ。

 

「……」


 ぶおんと空気を震わせながら、腕が凄まじい速度で振り下ろされた。人間一人分より大きな手が地面を叩き、地響きがあたり一面に波紋のように広がる。

 それを間一髪で回避していた大西は、地震のような震動にもよろけることなく無造作に歩を進め一瞬にしてトロルの股下をくぐって真後ろに回った。そして無造作に巨人の踵を蹴る。老樹の樹皮のような皮膚に覆われたその踵は巌めいて硬く、なんの手ごたえも感じられない。

 

「ふーむ」


 だが、大西の顔に不安や焦りなど一切浮かんでいなかった。もとよりまともに戦うつもりなど無いのだ。蹴ったのはあくまで挑発のためだ。実際、トロルはさらに怒り狂い、凄まじいスピードで大西に向かって踵で蹴り返す。

 ひらりと、風で舞い上がった布切れのような動きでそれをギリギリで回避しつつ、逆の足に回し蹴りを食らわせる。トロルは蹴られた方の足を軸にコマのように体を回し、百八十度振り返った。目視せずに大西を捉えるのは難しいと判断したのだろう。

 

「ほいきた」


 それに反応できない大西ではない。トロルの回転にあわせ、彼もステップでふいと立ち位置を変え、トロルが振り返り終えたと同時にまたも真後ろに回っていた。そしてまたもトロルの足にキック。

 

「な、なにやってるんですか、あの人は……ッ!」


 それを見ていたヌイが柳眉を跳ね上げながら言った。軽く触れただけで常人なら全身が潰れて即死するほどのサイズとパワーの差がある巨人を相手に、足元をチョロチョロ走り回るなどというような行為は、まともな神経ではとてもできない。

 まして大西は、魔法の衝撃波で空を飛び、トロルの顔面に衝突するというとんでもないアクションをやった後なのだ。当たり前だが自動車にはね飛ばされ壁にぶつかったくらいの衝撃を身体に受けているはずであり、無傷なほうがおかしい。打撲や骨折などといった怪我をしていると考える方が自然だ。

 

「無茶すぎる……止めさせないと」


 ちょうど近隣のオークをあらかた片付け終えたシャルロッテが、重厚な兜に包まれた肩を震わせる。大西の回避はどれもこれも文字通りの間一髪で、見ている方がひやひやするような避け方だった。そのどれもが、一撃でも命中すれば血煙になるような攻撃なのだ。

 

「邪魔をするんじゃない!」


 しかし、そんな彼女をスフレは薄汚れた白衣を翻しながら杖を横に振って制止する。純白の鴉マスクの目の部分にはめ込まれたクリスタル・レンズが月光を反射してギラリと輝く。

 

「下手に手を出して大西の集中を削ぐ方が危ないんだ、こういうのは。余計な手出しはボクが許さないぞ」


 その中性的な声に、今にも駆け出そうとしていたシャルロッテの身体が止まった。

 

「今ボクたちがやるべきことは、トロルの足止めと村民を襲うオークの対処だ。ここはボクと大西に任せたまえ。きみたちは自分がやるべき仕事をしろ」


 大西が至近距離で挑発しつつ回避を続けて千日手に持ち込むという腹積もりであることは、スフレとしても理解していた。勝てない相手には負けないように立ち回る、ということだ。

 自らも妖魔の一種に分類されるダークエルフであるスフレには、トロルにも巨人種としてのプライドがあることを知っていた。強力な魔法と強靭な武具で武装した強力な冒険者相手ならまだしも、自分にまともなダメージすら与えられない徒手空拳の大西を殺すことなく冷静に無視するなど、とてもできないだろう。しばらくはあれで遅滞させることができるはずだ。

 

「……行きましょう」


 いつの間にか弓の構えを解いていたヌイが、静かにシャルロッテに告げた。大西は、さきほどまでのヌイよりもよほど手際よくトロルの足止めをしているのだ。そしてその大西に村人を見捨てることはできないと啖呵を切った以上、こんなところでぼんやりしている暇はない。オーク集団はとっくに村の中心部に突入しているのだ。今すぐにでも助けに行かねばならない。

 

「クッ、わかった。頼むわよ」


 ふいとシャルロッテが踵を返して走り出した。無言でヌイがその背中に続く。

 スフレは杖を構えながら、短く息を吐いた。敵はトロルだけではない。大西の邪魔をするオークは、スフレが排除する必要があるのだ。

 

「夜はまだ長い。まったく……」

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