第一章十九話
夜の農村。街灯なぞ当然あるはずもなく、月光ばかりが灯りの真っ暗な場所……と思いきや、広場にはいくつものかがり火が設置されており案外明るかった。
無論、緊急時ゆえの措置である。家々の門戸は固く閉ざされ、村中はシンと静まり返っていた。明るい道と異様な静寂が重なり合って、重石のような緊張感を醸し出している。
「んー。会議、出ちゃったの?」
マスクの中に首元から手を突っ込んで目を擦りながら、スフレが言った。相変わらず、彼女は大西の背中にロープで固定されている。最早定位置といっていいほどの落ち着きようだった。
「戦術にもオークの生態にも詳しくないし、土地勘もない。でも、目は良いんだ。役に立たない場所で時間を潰すよりは、役に立つ場所に居たほうがいいだろう?」
「まあ、合理的な判断ではある」
土がむき出しの道を音もなく歩きながら、大西はちらりと今さっき出てきた食堂の方を振り返った。二階建ての小さな建物は、窓からランプの灯りを漏れ出させながらさびしげに佇んでいる。
「とはいえあの状況でよく言い出せたものだ。雰囲気に流されて言いたいことを言えないのはよくない」
「そう?」
「そうだとも」
手袋に包まれた手で大西の頬をぺちぺちと優しくたたくスフレは、どこか嬉しそうな様子だった。しかし大西は、特に感慨もなさそうに首を振る。
「空気を読めない性格はメリットよりデメリットが多いよ。直せたら直してるんだけど」
「ネガティヴだなあ」
「ただの事実だよ。スフレの言うとおり、役に立つこともある。自分との付き合い方は、自分が一番よく知ってるからね」
「きみは時々わけのわからないことを言う」
口ではそう言いながらも、スフレはからからと楽しそうに笑った。くだらない話をしつつも、大西は足を進め続ける。狭い村だ。あっというまに、目的地までたどり着いた。
この村は、山に面した場所を除いて全周を低い土塁に囲まれている。王都の城壁に比べればあまりにもろい防備ではあるものの、一応の侵入者避けにはなっている。そういう壁があるから、当然村に出入りするための門は一か所しかない。その門の横には、高さ五メートルほどの古びた物見やぐらが建てられていた。大西の目的地は、ここである。
「あれまあ、冒険者さんじゃないですか」
門の前に衛兵めいた様子で立っていた若い男が、能天気な声を出した。小さい村だから、こういった仕事は若い男が持ち回りでやっている。王都の衛兵と違って普段着であり、武器がわりに持っている物も三つ又の穂先がついたフォークと呼ばれる農具である。
「こんばんは。手が空いたので、見張りのお手伝いでもと」
「ああ、それは助かります。……そちらも?」
怪訝な顔をして、門番が大西の肩を指差す。もちろんそこにあるのはペストマスクを思わせる真っ白いカラスマスクである。はたから見れば邪教の神官かなにかに見えるのだろう。基本的に、周囲からの評判はすこぶる悪い。
「そうです。魔法が使えるらしいので、いざとなればアウトレンジ攻撃を仕掛けられるんじゃないかと思って」
実際のところ、大西が知っているスフレの実際に使った魔法は念話しか知らないため、本当にそういうマネが出来るかは疑わしい部分がある。
とはいえ、逆に言えば口を使わず意思の疎通をするという普通ならありえない能力を行使したことも事実である。一概に彼女がホラを吹いていると断定するのもおかしい。それに、あのまま会議室に放置していても仕方ない訳であるし。
「はあ、魔法使いさんでしたか。へえ、初めて見ました」
門番の目つきが、幾分柔らかいものになる。魔法と言えば、ヌイたちも筋力を強化する魔法を使っていたらしいわけだが、あれも魔法使いの範疇に入るのだろうか。そんなことを考えながらも、大西は静かに物見やぐらを指差す。
「それで、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
「どうぞどうぞ。ここんところずっと警戒態勢で、みんな疲れてるんですよ。手伝ってくれるんなら有難い限りで」
そう答えたのは、門番ではなく物見やぐらの上の柵から身を乗り出した別の若者だった。どうやら下の話が耳に入ったらしい。
「ありがとうございます。それじゃ……」
門番に頭を下げ、物見やぐらのハシゴに足をかけて登り始めた。木製のその梯子は華奢な作りで、体重をかけるたびにギシギシと不安になるような音を立てる。大西は中肉中背とはいえ、背中に数十キロはある女性を背負っているのである。少々、重量オーバーなのかもしれない。
しかし大西はまったく気にした様子もなく、あっというまにハシゴを登りきった。衛兵が一人いる、狭い見張り台に出る。丸太を釘とロープで無理やり固定したような雑な作りの、天井のない六畳間といった風情の場所だ。明かりは一切灯されていない。月と星の光だけが光源だった。
「いやぁ、助かりますよ。一人だと寝ちまいそうで」
「一人で見張りを?」
「ええ。手が足りないんですよ。なんせこの村、人自体がすくないもんで。その中で若い男といやぁ、もう両手の指で数えられるくらいしか居ないわけだし」
肩をすくめながらそんなことを言う衛兵も、既に若いとは言えない年齢に見えた。髭面のせいで拭けて見えることを差っ引いても、大西よりは年上だろう。日本も異世界も、過疎化した田舎というのは珍しくないらしい。辺境とはいっても都会である王都まで数日で行ける立地なのだから、なおさらだ。
「なるほど。ま、無い物ねだりをしても仕方ないですし、とりあえず今日の所はお手伝いをば」
背中のロープを解いてスフレを下ろしながら、大西が周囲に目をやる。青と赤の二つの月に照らされた農地や草原や森が、うすぼんやりと浮かび上がっている。夜空には雲一つなく、星の煌めきは真っ黒なビロードに袋一杯のビーズをぶちまけたような有様だった。
星の一つ一つを目で追う。赤いもの、青いもの。輝いているもの、くすんでいるもの。どれ一つとして、同じものは無い。そしてその中に、大西の知っている星はひとつもなかった。星座を見つけることができない。
「まだ、行けていない所も多かったのに。とんでもなく遠くへ来たもんだなあ」
呟いたその声音は、決してしんみりした感慨深いものではなかった。むしろ、乾いた喜びを纏った、無邪気な言葉だった。残してきたものに一切の後悔を感じていないような、そんな声音だ。
「どうだい、きみ。こちらは好きになれそうか?」
「さあ━━」
自分の隣のちょこんと腰を下ろしたスフレの言葉に、大西は視線を彷徨わせた。
「━━どうだろうね」
それっきり、言葉は続かなかった。大西と衛兵は、油断なく視線を動かし続ける。物見やぐらとしては低めとはいえ、ある程度の高さがあるのでかなり遠くまで見通すことができる。監視できる範囲は広いが、地形や夜闇によって大半が隠されている。異常を見つけるには、目を皿にして探し続けなければならない。
一方のスフレといえば、いつも通りだ。いつの間にか、大西の背中にぴったりともたれかかり、小さな寝息を立てている。中身が褐色肌の美幼女とはいえ、完全に不気味なアルビノのカラスめいた異様な服装なので、甘酸っぱいような雰囲気は一切ない。どちらかといえば、ヤバい邪霊に取りつかれた哀れな青年と言った見た目である。
「……」
しばしの時間が過ぎた。いつの間にか、赤い月が中天に差し掛かろうとしている。血のように赤い、禍々しい色の月が。すっと、大西の目が細くなる。手を後ろに回し、スフレの肩を揺すった。
「何か居る。あっち」
「えっ」
反応したのはスフレではなく衛兵だ。慌てて立ち上がり、大西の指差す方向を見る。だが、すぐに首をかしげた。怪しいものは見えない。ただ、見慣れた夜の景色が広がっているだけだ。
「見えませんけど……?」
「んんっ……ちょっと待て。魔法で見てみよう」
スフレが伸びをしながら立ち上がり、背中に背負っていた杖をひっぱり出して握った。
「念には念を。さて相棒、久方ぶりの仕事だぞ。起動」
『準備完了』
彼女の謳うような声に続いたのは、男とも女ともつかない電子音声めいた奇妙な声だった。出所はというと、どうやら手の中の杖らしい。先端の宝珠に微かな紅い光が灯る。
『術式読込中……』
「この程度の魔法にオペレートは必要ないぞ。さて、遠見」
宝珠の光が数度またたいた。大西たちに見える効果は、ただそれだけだった。しかしいつの間にか目を閉じていたスフレには、劇的な効果が生じていたらしい。「おお」とか「これは……」などと、妙な声を上げている。
「アタリだ。オークの集団がこっち向かってるよ。物凄い量だ。夜間にこの距離で発見できるなんて、どういう視力してるんだきみは」
「すごい視力」
「ほ、本当に敵がきてるんですか」
ごく落ち着いた様子の二人とは反対に、衛兵の身体には一目でわかるほどの緊張が走った。拳をギュッと握り、スフレの方を見ている。
「来てるよ。こういう時は、どうするべきかな。規則ではどうなってる?」
「鐘です。半鐘を……」
泡を食った様子の衛兵が、どたどたと音を立てて物見台の隅に置かれていた青銅製の小さな鐘を持ち上げた。そしてそれを、木槌で狂ったように叩きはじめる。耳障りな、甲高い音が周囲に響き渡った。
「敵だぁぁぁ!!」




