第一章二話
薄暗い森を、大西が歩いている。雑然と乱立する木々は中身をくりぬけば一軒家に改造できそうなほど大きい。まるで空を支える柱のようだった。そしてその空といえば、大量の枝と葉のせいで、ろくに見ることもできなかった。ところどころの隙間から差し込む木漏れ日が、唯一の光源だった。
そんな様子だから、下草は光を嫌うシダなどが時折生えているくらいで、寂しいものだ。その代りに目立つのが苔で、木の根っこから地面まで所狭しと密集して生えている。スニーカーの底でその苔を踏みしめると、まるで高級じゅうたんのようにふかふかしていた。
「ふーむ」
そんな植生を観察しながら、大西が肩に引っかけた手提げ袋の位置を直した。丈夫そうな厚い布で出来た、買い物袋としてよく利用されているタイプのものだ。中にはいろいろと重いものが入っているようで、大きく膨れている。
だがそんな重い荷物を気にすることもなく、大西は周囲の監察に注力している。見覚えのある植物を、既に彼はいくつか発見していた。ここが異世界だとするならば、地球と同じ種類の植物が生えているのは、おかしいのではないだろうか。
「いや」
そんなことを今考えても、答えは出ないし腹も膨れない。ゆっくりと首をふり、歩を進めていく。
「うん?」
そこでふと、視界の端に何かを見つけて立ち止まった。目を向けると、遠くに何かが居た。ダークグレイの塊だ。能力に覆われた樹海において、それはあまり目立つものではなかったが、それにライトブラウンの何かがついていたため、気が付くことができた。
進行方向を変える。近づくにつれ、ソレの全容が見えてきた。ダークグレイのものは、ぶかぶかのフード付き外套だ。そしてライトブラウンは、髪の毛。人間だった。人間が、巨大な木の幹に背中を預け、うなだれている。
その鮮やかな色の髪の間から、猫めいた奇妙な耳が飛び出しているのを見て大西の表情が一瞬困惑一色になったが、すぐに友好的な笑みで覆い隠した。
「すいません、大丈夫ですか?」
「……ええ」
獣じみた耳がぴくりと動いた。一瞬の間をおいて、力なくうなだれていた頭がゆっくりと持ち上がる。黄緑色の瞳が、大西を捉えた。みずみずしい大輪の花を思わせる、華やかで美しい年若い少女の顔。だがその右の頬には、その可憐な容姿には似つかわしくない大きな傷跡がある。何か鋭利なもので強引に引き裂かれたような、いびつで痛々しい古傷だった。
「あんまり、大丈夫には見えませんが。ほんとうに大丈夫です?」
耳は本物らしい。どういうアレだろうかと頭を悩ませつつも、大西の表情はかわらず柔らかい笑みを浮かべたままだ。
「水とか食料とかなら、少しはお力になれますが」
両手をパーにして頭の上まであげ、女性の眼前までやってきた大西がゆっくりとしゃがんだ。目線を合わせるためだ。だが、それに気付いた女性は、自らの傷のある頬に手を当て、顔をそらしてしまう。どうやら、見られたくないようだった。大西もすぐにそれに思い至り、目を逸らす。
しばらくの間、沈黙があった。湿気を多分に含んだ優しくも重い風がふわりと二人の間を吹き抜け、下草や木々の葉がさわさわと鳴る。遠くで、怪鳥の鳴き声が響いていた。
「……すみません、いただきます」
やがて、女性がそう答えた。何故だか大西には、その言語が日本語に聞こえた。だが、耳に入った単語と口の動きが合わない。そして、向こうにも大西の日本語は、通じているようだった。
「じゃあ、とりあえず水ですかね」
試に、英語でそう言った。女性が頷く。通じているようだ。大西は表情を変えず手提げ袋を下ろして地面に置いて、それを開いた。中には二リットルいりのミネラルウォーターのペットボトルを始め、いくつかの飲み物のボトルや食べ物が入っていた。その中から麦茶の五百ミリリットル・ボトルを取出し、パキンと微かな音を立ててキャップを開ける。
コンビニで売っているスナックパン以外は、すべて長期間の保存ができる品物ばかりだ。単なる荷物の配達業者が持っているにしては、過剰なまでに用意がいい。遭難を見越したようなチョイスだ。
「自分で持てますか」
ボトルを受け取るべく差し出された手が震えているのを見て、大西がそう聞く。女性は頷いたが、その表情は衰弱しきっていた。いまだに逸らしたままの目の視界の端でそれを見た大西は、静かに首を振る。
「こぼすわけにはいかないので、すみません」
ボトルを、その乾ききった唇のすぐ前に差し出す。女性は諦めたように、それに口をつけた。ボトルを軽く持ち上げると、水を飲み始めた。そうとう、喉が渇いていたのだろう。すぐに飲む速度はペースアップしていく。そんな調子だから、ボトルのお茶が三割ほど減ったところで気管に入り、激しくせき込み始めた。
「無理しちゃだめですよ。ゆっくり確実に」
ボトルの中身がまけないように即座にそれをひっこめた大西が、努めて優しい口調でそう言う。女性はしばらく咳き込んでいたが、やがて荒い息を吐く程度までおさまってきた。
「はい、息を吸って―、吐いて。もう一回すって、はいてー。今度は深く」
慣れた調子だった。あっというまに息を整えさせると、またお茶のボトルを差し出した。今度はゆっくり、慎重に女性はのどを潤していく。たっぷり五分以上をかけて、やっと五百ミリリットルを飲み干した。
「もうちょっといりますかね」
「……すみません」
脱水状態の人間が、その程度の水で足りるわけがない。表情を歪めながら頷く女性に、大西はお気になさらずと軽い調子で袋から大きな水のペットボトルをひっぱり出して、開封した。両手で慎重にそれを持ち、口へ差し出す。
しばしの間、給水は続いた。女性は一心不乱に水を飲み続ける。やがて満足したのか、顎を軽く上げた。すぐにボトルを引っ込める大西。
「お腹も減ってますよね、その感じじゃあ。どれくらい、ご飯は食べてないんですか」
「三日ほど、です……」
「三日か。うーん、食べるにしても、ゆっくりやらなきゃお腹がびっくりしちゃいそうですねえ」
大西が眉根を寄せた。保存食の類は長持ちこそするが、消化がいいとは言えない。いきなり空腹の人間がそんなものを食べれば、逆に体調を崩してしまうだろう。
「近くに、休める場所があります。そこまで行きましょう。ちょっとした荷物も残してあるし……」
そう言いながら、大西が手提げ袋からビニールに包まれた赤い小さな玉を取り出した。イチゴの絵が印刷されたビニール包装を破ってポケットにしまいながら、中身を女性の口に押し込んだ。
「とりあえず、飴ちゃんで我慢してくださいな。砂糖だから大丈夫だと思うけど、一応噛み砕かないようにね」
突然のことなので女性は驚き、一瞬口の中身を吐きだそうとした。だが、それが糖分の塊だということに気付き、吐き出すのはやめる。
「歩けますか……ああ、無理しないでください。動くと気持ちが悪くなるでしょう?」
立ち上がろうとした瞬間顔色を悪くする女性を、大西が手で止めた。そして彼女に背中を向け、膝をつく。おんぶする、ということだろう。大西をどこまで信用していいものか判断がつかず、女性は一瞬躊躇した。
だが、身体に抵抗するような力はのこされていない。大西の目的が不埒なものなら、何をやっても逃げ切れないだろう。すぐにあきらめて、ふらふらとしながら彼の背中に体を預けた。
「どこか行くなら……弓も、弓も持って行ってください」
微かな声で、そんな要求をする。その声に大西があたりを見回すと、彼女が座っていた場所のすぐ近くに弓が置かれていた。女性の身長の半分より少し長い程度の、比較的短い弓だ。弦もしっかり張られている。
そこまで見て気付いたが、女性は腰に帯剣していた。細身の鞘が、大西の身体に当たっている。少し反りがある、サーベルと呼ばれるタイプの剣だ。ぶかぶかの外套のせいで、武装していることに気付かなかったのである。
「いいですよ、あれですね」
気にせず、大西は頷いた。
しばらくの時間が経過した。大西たちは、車の放置してある場所まで戻ってきていた。女性は今、中くらいまで倒した助手席のシートに身を預け、右手に水の入った紙コップ、そして左手には棒状の菓子パンを持っていた。菓子パンは、半分ほどがかじられてなくなっている。
「……そういえば、名乗っていませんでしたね。私はヌイ。オルド氏族、ナシュの子のヌイです」
水分補給のお陰で若干元気を取り戻したのか、張りのある声で自己紹介を始める女性。彼女は今、外套のフードを目深にかぶっているためその表情も、ついでにチャーミングなネコミミも見ることができない。
「僕は那東大西です。でも、タイセイよりはオオニシと呼ばれる方が好きなので、できればそちらで呼んでください」
「オオニシ? ……ええ、わかりました」
変わった名前だとヌイは思ったが、声には出さない。代わりに、フードの頭頂部の近くがかすかに動いた。
「ありがとうございます」
「……それと、私に敬語は必要ありません。畏まるのは得意ですが、畏まられるのは好きになれません」
「……そう。わかった」
当人がそう言うなら、と大西が口調を改めた。そんな彼は今、小さな五徳に大ぶりな金属カップをのせ、中身を温めている。落ちていた石で、小ぶりで簡素な窯をつくり、そこでたき火をしているのだ。ちなみに、五徳もカップもヌイの持ち物である。
無論、このような多湿な森の中にマキになりそうな枯れ木はほとんどない。どれもこれも湿っているため、乾燥させないと燃えないのだ。仕方なく、大西は車のダッシュボードに大量に入っていた割り箸を燃やしていた。これは大西の私物ではなく、前任者が弁当を食うために入れておいたものだ。
「……」
割り箸は、かなりの速度で燃えて灰になっていく。火力は高いが、燃料はあっという間に消耗してしまうのだ。新たな割り箸を突っ込みながら、大西はひそかにヌイの方を窺った。
この少女は、いったいなぜあのような場所で行き倒れていたのだろうか。猟師にしては、武器が物々しすぎる。弓はともかく、剣など必要ない筈だ。せいぜい、藪を切り拓くためのナタや手斧があればいい。彼女のそれは、どう見ても狩猟などではなく戦闘を前提にした装備に見える。そんな兵士だか傭兵だかわからないような人間が、たった一人で森の中で遭難しているというのは、いったいどういうシチュエーションなのだろうか。
「よし」
あまり深く考えても仕方ない。そう思いながら思考を断ち切り、湯気の上がり始めたカップの中の湯を見る。おそらく、温度は十分だろう。ハンカチを使って熱くなったカップの持ち手を握り、横に用意しておいたカップスープに注ぐ。
これまた前任者がダッシュボードに入れてあったプラスチックのスプーンをカップの中に突っ込んで立ち上がる。
「熱いから、気を付けて」
湯気の立ちあがるそれを物珍しそうな目で見た後、ヌイは残り少ないスティックパンをほおばり、空いた手で受け取った。
「温かいものは、たぶんこれが最初で最後だからね」
お湯を用意することが出来ないせいだ。ヌイは頷くのを見て。息を軽く吐く大西。そして近くの大木まで歩いていき、そっと腰を下ろしてもたれかかった。さて、これからどうしようと、ぼんやりとした無気力な瞳で空を見上げる。
「……」
ふと、耳に嗚咽の声が聞こえてきた。ちらりとヌイの方を窺う。ヌイは、涙をぽろぽろ流しながら、スープのカップを掴んでいた。その泣き方は、とても命が助かった喜びから来るものではなかった。どちらかと言えば、後悔とか、自己嫌悪だとか、そう言うものが近いかもしれない。
(わからないな……)
声にならない声で、大西がそう呟いた。そして、感情の読めない目を空に戻す。深緑のベールのお陰で、空の色はわからなかった。ぼんやりと、手をジャケットのポケットに突っ込む。