第一章十八話
この村の中心部には、たった一軒の食堂がある。小さな村であるから規模こそそこまで大きくないものの、村で唯一の酒を出す店と題うこともあって飯時には繁盛しているのが常だった。
店は二階建てであり、一階は通常の店舗だ。二階はというと、店主一家の生活スペースと、そして村の有力者たちが集まって会議するためのそこそこに大きな長テーブルのある部屋があった。今、村に帰り着いた大西たち一行と村長、そして幾人かの村の有力者たちがその部屋に集まり、話し合いをしていた。
「参りましたね、それは……」
上座に座った村長が、手拭いで額に浮かんだ冷や汗をしきりに拭いながら言っていた。晩春であるから、気温はそこそこ高い。しかし窓は全開で、室内にはさわやかな夜風が吹き込んでおり、汗ばむほどの暑さではない。汗の原因は、もちろん一行が持ち帰ってきた情報であった。
潰した偵察隊は三つ。死んだオークは十匹である。それはいい。だが、ヌイが発見したオークたちの道から見て、敵のオークの数は十や二重ではなさそうだった。予想以上の数である。楽観的に考えていた村長は、これらを聞いて腰を抜かし、慌てて会議を招集したのだ。
「結局、どのくらいの量のオークがいるんだい」
前掛けをつけたまま椅子にどっかりと座るパン屋のおやじが、だみ声でそう聞いた。その表情は厳しい。村の存亡にかかわる事態だ。テーブルには料理が乗せられていたが、手を付ける様子はなかった。
「具体的な数まではわかりません。でも四、五十くらいは居るのではないでしょうか?」
兜を脱いだ素顔に神妙な表情を浮かべて、シャルロッテが答える。無論、本隊を確認したわけではないので確かなことは言えないが、しかし十体程度のグループであればあのような大きな道は作らないのだろう。
オークというのは本来、人の手の入っていない原野などでも平気で生きていていける連中だ。動き回るのに、人間のような道の整備を必要としない。ああいう道が出来るということは、統率のできた相当大きなグループが居ると考えたほうが自然なのだ。
「あなたがただけでの対処は無理と?」
パン屋が苦虫をかみつぶしたような顔になりながら聞き返した。彼とて村政に参加する有力者の一人だ。村の財政状況は把握している。貧農ばかりのこの村の金回りは悪く、大勢の冒険者を雇うような余裕はないのだ。でなければ、こんな状況でただの混成パーティーに依頼を出すようなことはしない。銀や金といった等級の冒険者で構成された超一流のパーティーの派遣を要請しているだろう。
「ええ。追加報酬が出ると言われても、わたしならば断わりますわ」
「そうかい……」
腕を組みながら黙り込むパン屋。続いて声を上げたのは、革のジャケットを着た老猟師だった。禿げ上がった頭頂部を撫でながら、村長の方を見る。
「村長、背に腹は代えられませんぞ。今から早馬で発てばなんとか明日中には近隣の冒険者ギルド支部に依頼を出せるかもしれない」
王都以外に冒険者ギルドが無いわけではない。実際、今回の依頼もこの村の近くにあるギルド支部を通して王都に送られたものだ。増援の依頼は急務である、というのがこの老猟師の考えのようだ。
「しかしですな、あまり金を使いすぎると、冬を越せなくなりますよ。嫌ですよ、私は。村の子供たちを身売りに出すよな真似は……」
「四の五の言っとる場合ですか! 全員死ぬよりはマシでしょう」
老猟師が机を強くたたいた。激しい音が部屋の中に響き渡る。スープをスプーンですくっていた大西が、衝撃で危く中身をこぼしかけた。
「オークはとんでもなく野蛮な連中だ。年寄りも子供も容赦なく殺し、女と見れば攫って犯す! あいつらの毒牙にかかるくらいならね、餓死した方がましですよ。死ぬにしても尊厳のある死に方がいい」
「俺も同感だ。あんな奴らを村に入れるなんざ怖気が走る。借金をしてでも冒険者を雇うべきだ。あんたらもそう思うだろう?」
同調するようにそんなことを言いだしたのはパン屋の親父だ。かれはシャルロッテやヌイを見ながら、厳しい声でそう聞く。オークは普段妖魔とはかかわらないような一般人にも悪名が知られているほど凶悪な生き物なのだ。自然対応は厳しいものになる。
「借金云々はそちらの判断ですが……ええ、オークが村になだれ込めば、それはもうひどいことになります。増援は、絶対に必要でしょう」
決断的にそう言い切ったヌイ。小さく息を吐き、首を左右にゆっくり振った。指でそっと頬の傷跡をなぞってから、もう一度深呼吸をする。
「たとえ村から疎開する、という話になってもです。村民全員で移動した場合、私たちだけでは護衛しきれませんから」
それは、この村に来たときも既に村長に伝えていた話だ。結局、オークの軍勢が一行の手におえないとなれば、防衛するにしても疎開をするにしても新しい冒険者を呼ぶ必要が出てくる。
「ならもう話は決まったようなもんだ。そうだろう、村長?」
「……仕方ないか。いいでしょうロジさん、お願いできますか」
村長は苦渋に歪んだ表情で首を静かに左右に振り、ペン立てに刺さっていた大きなペンを手に取る。そしてインク壺へペン先を突っ込み、手元の羊皮紙になにかを書き込んむと、今度は大きなハンコを押印した。息を吹きかけてインクを乾かすと、そっと老猟師に手渡した。
「ああ。任された」
「前金は……ええい、時間が惜しい。少ないですが、これで」
そう言ってポケットから取り出したのは、革袋のサイフだった。それをそのまま、老猟師に投げ渡した。村長とて、事態の緊急性は理解しているのだ。
「わかった。馬を借りるぞ、村長」
「もちろんです。最悪潰しても構いませんから、全速で」
手をひらひらと振りながら、老猟師は会議室を足早に出て行った。どたどたと荒々しく階段を駆け下りる音が響き渡る。
「……冒険者たちが間に合うとは限りません。保険の為にも、現有の戦力での防衛策を考えておきましょう。もちろん、貴方がたも手伝っていただけるのですよね?」
若干血走った目をシャルロッテの方に向ける村長。一行が受けた依頼は、あくまで偵察である。本来、村の防衛まで手伝う義理は無い。とはいえ、ここでシャルロッテたちが居なくなれば、村人たちは大変に困るだろう。ヌイとシャルロッテは、単騎でオーク複数を相手できる貴重な戦力なのだ。
村長のみならず、会議に参加している有力者の視線も一気に一向に集まった。自然、ヌイの手がぐっと強く握られる。シャルロッテは厳しい顔をして、天井を仰ぎ見た。食事に没頭している大西と、邪教の神像めいた威圧感を発しながら沈黙を続けているスフレは、まったく意に介した様子が無いようだった。
「……ええ、乗りかかった船です。妖魔の暴威から民を守ることこそ、騎士の本懐ですもの」
「まあ、実際のところ、私としても逃げる、という選択肢はありません。付き合いましょう」
きゅっと眉根を寄せた表情のシャルロッテにヌイが笑いかける。賊と妖魔という違いはあれど、彼女とて理不尽な暴力によって故郷を滅ぼされた身だ。助けを求められて、首を横に振るような真似はできなかった。
しかし、問題はお荷物二名である。表情を引き締め、大西のほうを見るヌイ。彼女は何かを言おうと口を開きかけたが、それより早く大西の言葉がそれを遮った。
「そういえば、こういうのを用意しておいたんですよ。有効利用できるといいんですけど」
そう言って持っていたスプーンを静かに置き、足元に置いてある大きな鞄に手を突っ込む。中から取り出したのは、小ぶりなスケッチブックだ。何枚かページをめくり、一枚を破り取ってテーブルの中央へ差し出す。
「帰ってくる途中でまとめておいたんです。精度はそこそこですね。今日行けた個所はほとんど誤差は無い筈。歩いてない場所については目測なので、だいぶ精度が低いんですが、参考にはなるでしょう」
それは、地図だった。先ほど手帳に描いていたものの清書である。荒い紙に木炭で描かれたそれは、短時間で作られたものの割には正確な筆致であり、地形の要所が一目でわかる作りになっていた。
パン屋が一番にそれを見て、感嘆の唸り声をあげる。村で生まれ育ち、この周辺を庭として生きてきた彼から見ても、その地図は極めて正確なものだった。距離、位置関係……すべてが記憶にあるものと一致している。これほどの物は、王室お抱えの測量士でもなかなか作れないだろう。
政治的にも軍事的にも経済的にもまったく価値のない場末の村のことだ。その周囲の地図など、せいぜい旅人向けの大雑把なものしかないし、それも道の周囲の情報以外は適当なものだ。正確な地図があれば、敵の進軍ルートや待ち伏せ箇所も予測できるし、戦術を考える際の情報共有にも役に立つ。大西の描いたそれは、なかなかに役立つ代物だった。
「凄いな、これは」
「でしょう? でも、これを教えてくれた方の作った地図ははもっと正確ですよ」
謙遜もせずに、大西は例の笑みを浮かべた。スケッチブックをしまい、鞄を膝に乗せる。
「僕から出せるのは、このくらいです。戦略も戦術も詳しくないので、これ以上ここに居ても役には立たないでしょう。目には自信があるので、見張り櫓にでも行こうかと思うのですが、よろしいでしょうか?」
軽やかに、なんの気負いもなくそう言い放つ大西。事実彼は用兵については完全な素人だし、オークやその他妖魔に関しても完全に無知だ。これ以上ここに居ても、出来ることない。なら、見張りの目を増やした方が、村の防衛には寄与できるだろう。適材適所だ。
「……わたしたちの仲間なのだし、一応、居たほうがいいのではないかしら」
そう言って止めたのは、シャルロッテだ。たしかに大西は素人ではあるが、素人の固定観念にとらわれない意見で煮詰まった議論に光明が見えることもあるし、そもそもこういった場で村人を先導するのも冒険者の仕事の一つだ。いまは役立たずでも、その場の空気を感じるだけでも新米にはいい経験になるだろう。そういう考えが、彼女に有った。
「個人的には見張りの方が役に立てるのではないかと。もちろん単なるいち意見です。シャルロッテさんの判断には全面的に従います。どうしましょう?」
「いえ、確かに見張りを増やすのも重要です。会議をしているうちに奇襲を受けたのでは、本末転倒です。ここは彼に行ってもらった方がいいのでは?」
彼に追従したのはヌイだった。実際、村の入り口に設けられた簡素な見張り櫓には、当番の村人が数名詰めているだけだ。単純に人を増やせば、敵を発見するのが早くなるかもしれない。昼間ならともかく、夜である。月明かりだけでは、どうしても遠くを見通すのは難しい。
「そうね……今はその方がいいか。申し訳ないけど、お願いするわ」
しばし逡巡した後、シャルロッテは首を縦に振った。そして表情を引き締め、ピシリと微動だにせず熟睡しているスフレを指差した。
「でも、行くならこれも連れて行って頂戴」