第一章一話
十万字程度の書き溜めが尽きるまでは毎日更新の予定です。よろしければお付き合いください
トンネルを超えると、そこは異世界だった。
「おう……」
眼前にみるみる近づいてくる大木の幹を目にして、車に乗った青年……那東大西は悲鳴を上げてブレーキ・ペダルを踏んだ。タイヤが地面を削り、土煙が上がる。ブレーキ・ペダルにはABSの作動するカタカタという震動が伝わっていた。凄まじい音をたてて車は減速し、大木へ激突する直前で停止した。それと同時に、エンジンが一瞬ガタンと異音を立てて止まってしまう。
目の前には、ヘッドライトに照らされた大木の太い幹が闇夜の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
「道、間違えたかな」
大西が首を左右に振りながら、シート・ベルトを外してドアをあけた。ゆっくりと息を吐きながら外へ出る。そこは、鬱蒼とした森の仲だった。彼は先ほどまで、人気のない山道を走っていたはずだった。山と言っても、杉や檜ばかり生えたどこにでもある山のはずだったのだが……。
「原生林……」
真っ暗な夜でも、まぶしいくらいに輝く車のライトのお陰で多少周囲を見渡すことができる。そこは、大人の男が両腕を広げても端に手が届かないほど直径が大きな広葉樹の老木が立ち並ぶ、どう見ても人の手の入っていない森の中だった。
困惑しながら、車の方を見る。真っ白な、味気のない商用の軽バンがそこにはあった。数日前からの、大西の相棒である。前後には黒色のナンバープレートがつけられていた。車体には、聞いたことのないような運送会社の社名がプリントされている。
だがその後ろには、そこにあるべき道路が無かった。そして、一瞬前に自分が出てきたはずのトンネルさえ無い。異常な事態だと、大西は小さな声で呟いた。いそいでポケットからスマートフォンを取り出す。
「そうだよなあ……」
液晶には、圏外と表示されている。こんな場所で携帯が使えるとは流石に思っていないので、すぐにあきらめてスマホをポケットに戻した。そこで、周囲がふっと明るくなった。月明かりのようだ。はて、今日は新月のはずだが……と空を仰いだ大西が見たのは、まばらに雲が飛ぶ夜空と、それに寄り添うように浮かぶ大小ふたつの月だった。
「あ、そういう……」
片方は小さく、赤く輝いている。もう片方は赤いのよりも倍以上大きく、青い光を放っていた。無論、それは見慣れた夜空とはかけ離れたモノだ。大西は口をへの字に結んでそれをしばらく眺めた後、目を擦ってからまた空を見上げた。
「狐か狸にでも化かされたかなあ」
軽口をたたきながらも、大西の顔に笑みは無い。もう一度周囲を見渡す。嫌になるくらい深い深い、夜の森だ。しかも、落ち着いてみると、得体のしれない獣の鳴き声らしきものが、いくつも遠くから聞こえてくる。やみくもに出歩けば死ぬ、そういう直感があった。
「まあ、いいか」
首を振りながら、車に戻る。とりあえず、日が昇るまではやみくもに動き回るわけにはいけない。
それからしばらくして、大西は日の出とともに目を覚ました。得体のしれない状況、さっぱり見覚えのない地形……普通なら、一睡もせずに夜を明かしていたかもしれない。だが、大西は冬のヒマラヤで遭難中でもぐっすり快眠できる男だった。自分の寝床で目を覚ますのとなんら変わらない、心地の良い目覚めだ。
「夢じゃない」
だが、それでも目の前の状況は、大西の精神にいささか以上の衝撃を与えたようだった。窓の外に広がっていたのは、例によって緑色の監獄めいた樹海である。ドアを開け、外に出た。夜気を残した涼やかな空気を、胸いっぱいに吸い込む。過剰なまでにさわやかな朝の空気。
だが、状況は芳しくない。どこをどう見回しても、道路らしきものは見えなかった。この軽バンのタイヤが作った轍さえ、森のコケに覆われた地面に唐突に出現しているのである。車がどこからともなく瞬間移動してきたようにしか見えない様子だ。
いや、見えないのではなく、その通りなのだろう。大西は、努めて冷静にそう決断をくだした。いくら非現実的だろうが、目の前の状況から想像すれば、そういう結論にならざるを得ない。現実逃避をしたところで、いいことは何もないのである。
「まいった、退職最速記録更新かな……こりゃ」
ため息を吐きながら、車体後部の貨室に目をやった。幸い、荷物はすべて配達しているので、会社以外に迷惑をかけることはないだろう。とはいえ、入社から数日でこの有様は、多少堪えるものがあるのも事実だった。
「うーん……」
結局、ここはどこなのだろうと大西は首をひねった。昨日見た月は、明らかに自分の知っているモノとは別物だった。つまり、ここは地球ではない可能性が高い。あるいは、幻覚の類かもしれないが……。
とはいえ、いくら考えても結論が出る問題ではない。頭を切り替え、周りの密林に目をやった。数十年単位で人の手が入っていなさそうな、古い森だ。ここで延々と待機し続けていても、救助は望めないだろう。死にたくないのなら、自分で動くほかない。
「うん」
そういって、大西は荷物を取り出すべく車の方に戻って行った。森でのサバイバルは初めての経験ではない。まあ、なんとかなるだろうと大西は気楽に考えていた。