1 誓い ⑧
主の寝室の手前で侍女のひとりに、アイオールが呼んでいると声をかけられた。
何でも、久しぶりにタイスン夫人ことお袋が、揚げ菓子を作ってくれたので一緒に食べたい、お茶に付き合ってくれということらしかった。
『揚げ菓子』は、俺が初めて睡蓮宮へ来た時に、レーンの方から直接もらったあのお菓子だ。
黒糖を使ったレーンでは一般的なお菓子だそうで、かの方に教わった厨に古くからいる者と、お袋は作れる。
子供の頃の、俺とアイオールの一番の好物だ。
そういえば俺たちが喧嘩した時、仲直りのきっかけにとレーンの方が作らせ、勧めて下さったことが何度かあった。懐かしい。
(まったく……お袋のやつ。俺たちは、声変わり前の子供じゃねえんだぞ)
胸で悪態をつくが、恥ずかしい反面なんとなく嬉しく、同時にひどく申し訳なくも思った。
俺たちがどこかぎくしゃくしているのを、お袋に気取らせてしまったのだろう。
寝室の扉を開けてみると、お茶の用意はすっかり出来ていた。
黒糖独特の甘いにおいが、油のにおいと混じって室内にただよっている。
少し疲れたような感じに安楽椅子へ身を預け、アイオールが待っていた。
「やあ。懐かしいだろう、この揚げ菓子。小さい頃によく作ってもらったじゃないか。お前と競争するみたいに食べて、後ですごい胸焼けがして困ったこともあったなあ」
「……ああ」
妙に饒舌なアイオールに少し戸惑いながら、お茶の用意が調ったテーブルにつく。
「とにかくまずは食べようよ。マーノへもお茶を入れてやっておくれ」
アイオールに勧められるまま、俺は、中央の皿から小山状に積み上げられた菓子をひとつ、取る。
自分の皿に乗せ、カップに注がれたお茶へ牛乳だけを入れる。
この菓子はかなり甘いので、これを食べる時はいつも俺は、お茶へ牛乳しか入れない。
取り上げ、かじる。
かっちりとした独特の食感。黒糖の香りが鼻に抜ける。
不意に胸が詰まった。
これをよく食べていた、幼い日のことが急に思い出された。
俺たちは甲高い声を上げながら、次々と菓子へ手を伸ばす。
相手よりたくさん食べてやろうとして喉に詰めそうになり、咳き込みながら慌ててお茶で菓子を流し込む。
それを、寝椅子でくつろぎながらほほ笑ましそうに見ていらっしゃったレーンの方。
あんまり慌てて食べてしまったら、お菓子のレクラと響き合えませんよ、という、かの方独特のたしなめる言葉。
(戻れないんだ……)
改めて思い、涙ぐみたくなる。
あの優しい方、あの幸せな子供たちはもうどこにもいない。
かの方は眠りの国のかなたへ逝かれて久しく、あの幸せな子供たちは今、表沙汰に出来ない形で傷を負わされた王子、主を守れなかった無能の護衛官としてここに座っている。
「マーノ」
声をかけられ、はっとして顔を上げる。
アイオールが、少し困ったような顔でこちらを見ていた。
目をしばたたいてややうつむき、言う。
「昨夜は……すまなかった」
謝られるとは思っていなかったので、かなり俺は驚いた。
「あんなことを言われてもお前は困る、役目としてもひとりの人間としても。仮にもし立場が逆で、お前が私に殺してくれと頼んだのだとしても、私はきっとお前を手にかけることなど出来なかっただろう。ひょっとするとそこまで見越して、私はあんなことを言ったのかもしれない。あの時の気持ちとして、生きていたくなかったのは本当だったけど、お前に頼むのは間違っていたし卑怯だった。申し訳ない、許してくれ」
「アイオール……」
俺は茫然と主の名を呼んだ。
恥ずかしそうに目をそらし、アイオールは言う。
「実はさっき、セイイール兄さまに泣きながら諭されたんだ」
先程のセイイールの赤い目を思い出す。
「お前に出来ないと言われてから、私は改めて考え始めた。苦しいとか辛いとか生きていたくないとか、そういう自分の感情だけじゃなく、そもそも何故こんな目に合わされたのか、私を傷めつける目的はなんなのか、順を追って考えていった。私を殺して得をする者などいないが、チョロチョロされると目障りだ、くらいの悪意を持つ者なら少なからずいるだろう。そのうちの何者かがおそらく、殺さない程度に私を傷めつけたかったのだろうな。私がこのまま自分の傷に囚われて自滅すれば、彼らはきっと喜ぶ。でもそんなのは業腹だ。たとえ彼らの鼻を明かす為だけであったとしても、私が生き続けてやる意味はある、と……」
俺は、俺には絶対思いつかない凄絶な生きる意味に、絶句した。
「そこまで考えた時、兄さまがお見舞いにいらしたんだ。聡明なあの方に、私の仮説の信憑性がどのくらいか確認したかったんだ。事が事だけに、あの方ははっきりと肯定なさらなかったが……否定もなさらなかった。だけど、私の話を一通り聞いた後、あの方はお泣きになったんだ。驚いたよ、あの方がお泣きになったのなど、私は初めて見たから」
微苦笑しながらアイオールは言った。
幼い頃から落ち着き払った、常に人より一歩も二歩も先読みをしているセイイールだ、彼に涙は似合わない。
俺だって、泣いている彼は上手く想像出来ない。
「そんな哀しいことを言わないでくれ、兄さまはそうおっしゃった。お前の敵の鼻を明かす為じゃなく、お前を愛しいと、大切だと思う者の為に生きてくれ……そうおっしゃったんだ」
柔らかくアイオールはほほ笑む。
苦笑の影が少し残る、照れたようなほほ笑みだった。
「……はっとしたよ。今まで自分の痛みに手いっぱいで、私を支えてくれている人、大切に思ってくれている人のことまで考えが至らなかった」
アイオールは思い出したように揚げ菓子を取り、かじった。
「ああ……旨いな。黒糖の香りがいい、懐かしいなあ。こういうのを作ってくれる者が身近にいてくれて、私は本当に幸せ者だよ」
俺は椅子から立ち上がり、安楽椅子の前に片膝を突いた。
何事かと、アイオールは目を見張る。
「アイオール・デュ・ラクレイノ殿下。私マイノール・タイスンは王命により、あなたの護衛官を務めさせていただくことになりました。以後私はあなたに従い、陽に影にあなたをお守りすることをここに誓います」
「どうした?それは『就任の誓いの挨拶』でお前が言った口上だろう?」
不思議そうに問う主へ、俺は顔を上げて視線を合わせる。
「実は俺は、近いうちに暇をもらうべきだと考えていた」
アイオールはぎょっとしたように再び目を見張る。
「護衛官の任務は何だ?いついかなる時も主の安全と命を守ることだろう?だけど俺は就任早々、その任務をしくじった。俺がその場にいたとかいなかったとかは、言い訳にもならない」
「マーノ……」
「陛下からどんなお沙汰が下るのかはわからないが、俺は銀の襟章に相応しくない。誰よりも俺自身がそう思う。だから、仮に免職にならなかったとしても暇をもらうべきだ、と」
俺はひとつ、ため息をついた。
「だけどそれは逃げなのかもしれない。今の話を聞いてそう思うようになった。……アイオール・デュ・ラクレイノ殿下。私は誓いを全う出来ませんでした。罷免されて当然だと思います。でも……もし。もし、もう一度誓い直させていただけるのならば。あなたのお父君が罷免のお沙汰を下さない限り、私の知力・体力・精神力のすべてを傾け、あなたをお守りすることを誓います。あなたを殺せという命令以外なら、たとえお前の命を差し出せという命令であっても、あなたに従うことをここに誓います」
誓いの口上以上の誓いを込め、俺はそう言って頭を下げる。
アイオールはしばらく逡巡していたが、やや困ったように、でもごく真面目に、応えた。
「お立ちなさい。その誓いを忘れず、務めに精進するように」
誓いを受けた主の紋切りの返事だ。
俺は静かに立ち上がり、改めて、主になった王子を見た。
小柄で華奢で、それでいて見かけ以上に芯の強い、俺の主は深い息をひとつついた。
「重い誓いだな。後悔しないか?」
「人を守るって仕事は本来、このくらい重い仕事なんだ。就任した時は、あまりちゃんとわかっていなかったけどな」
俺の返事に主は目を潤ませ、しかし明るい笑みを浮かべた。
「お茶の続きだ、タイスン護衛官」